暗闇での攻防
陽は傾き、雲を赤く染めながら山の奥に隠れ始めた。
空の色が少しづつくすんでいき、夜が近づく。
「もう、車の運転なんて何年振りかしら、ヒヤヒヤしながらハンドル握ったわ」
車の運転しながら早苗さんが言った。
故郷の島から私が滞在している長野の施設までは船と新幹線と電車を乗り継いで、最後はレンタカーを運転して辿り着いたそうだ。
「来てくれてありがとう」
私がそう言うと彼女は一人旅みたいで楽しかったわよ、と笑顔を見せた。
私は早苗さんが運転する軽自動車の助手席に乗り、その後方には高橋の運転する車が後を着けて来ている。
お祭りが終わったら早苗さんは帰り、私は高橋の車に乗って施設に戻る、という予定になっているが早苗さんは高橋の目を盗んでそのまま私を連れ帰る事を計画している。
そんな計画も何もかも高橋に見透かされていそうで正直私は気乗りしない。
「高橋さん、だっけ?」
早苗さんが高橋の名を出すと、私はサイドミラーで後方を走る高橋の車に目を向けた。
「背が高くてスマートで素敵な人ね、優しそうだし」
「…そうだね」
「それとすっごい杏奈の事を目で追ってたわね」
「…」
「上から下までジロジロと舐め回すように見てたわよ、あの人目にベロが付いてるわよ」
早苗さんのその言葉に私は思わずぷっと吹き出してしまう。
「やっと笑ったわね」
早苗さんはそう言いながら一緒に笑う。
「杏奈は、あの人の事怖いの?」
早苗さんの言葉に私は視線を落としゆっくりと笑顔を引き攣らせていく。
「顔色伺ってたみたいだし、話したく無いなら話さなくてもいいけど、私はあの人から杏奈を引き離すからね」
「…うん」
小声で返事をすると、早苗さんは何処か安心したように微笑み、息をついた。
私達の乗った車は下り坂ばかりの道を降って行き目的地まで向かう。
お祭り会場には駐車場が無く、車は道の駅に停めて会場まで歩いて行く予定なのだが、道の駅に着くと駐車場には目一杯車が停まっていた。
早苗さんと高橋の運転する車は警備員の案内で道の駅の裏にある砂利が敷き詰められた広場に車を移動させる。
車を停めて降りると、高橋もリモコンで車にロックをかけながら私達の元に歩み寄って来た。
「車、停められてよかったですね」
高橋は笑顔でそう言いながら近づいて来る。
彼は白いTシャツに九分丈で細身の黒いパンツとスニーカーを履き、カジュアルでシンプルな私服姿だった。
「花火が近くで見れる場所まで行きましょうか」
そう言って高橋は私の隣に並ぶと早苗さんも反対側に来て、私は2人に挟まれた状態で歩いた。
高橋と早苗さんは雑談を始めたが、間に挟まれた私はその輪に入る事はしなかった。
2人の思惑を知っているから、何だか気まずくて上手く返せる自信が無かったからだ。
しばらく歩くと、醤油やソースの焦げた美味しそうな匂いが鼻に届き、2人はそれに反応する。
周りもお祭り会場に向かって歩いて行く人が徐々に増えていき、浴衣を着た人や子供のはしゃぐ声などで、賑やかさが増してく。
空は暗くなり、視界も暗く物の輪郭がボヤけはじめた。
川沿いの道を歩いていると、黒光りする水の上に何やらポツンと浮かんでいるのが見えた。
それは蝋燭を灯した小さな四角い灯籠で、ゆらゆらと揺れながらゆっくりと川を流れている。
私達は灯籠を見るために石で出来たゴツゴツした堤防の階段を降りて川に近づいた。
やがてポツポツと灯籠が増えていき、不規則な列を成してゆらゆらと揺れて流れて来る。
オレンジかかった蝋燭の灯りが真っ黒な川の水面に反射し、幻想的でとても美しく、私は見惚れてしまった。
和紙で作られた灯籠の表面にはそれぞれ異なった絵や字が書いてあり、個性を主張した灯籠は単体で見ると可愛らしく見える。
「まぁ素敵ねぇ」
早苗さんはそう言うとスマホを取り出し、他の観覧客の合間を縫ってその様子を録画し始めた。
灯籠流しは死者の魂を弔う為に行われている。私は手を合わせ、心の中で翔さんと母の事を想った。
周りにいた大衆からわぁと歓声が上がり、閉じていた目を開くと目の前には大きな花火が広がっていた。
丸く大きな赤色の閃光が開いた後、どおぉぉーんと地響きのような大きな音が鳴り、びっくりした私は思わず隣にいた高橋の腕を掴む。
すぐにパッと手を離したが、彼は私の腰に手を回して体を引き寄せた。
「立っていると危ないからここに座って見よっか」
「…はい」
突き放したい気持ちを抑え、大人しく言う事を聞いて彼の隣に座る。
早苗さんは私たちに背を向けた状態でひゃーすごいと言いながら花火をスマホに納めている。
ある程度写真を撮り終えると満足した早苗さんは「屋台行きましょ」と言い出した。
「せっかくなんだから美味しいもの食べながら花火見ましょうよ、私と杏奈で買って来るから先生はここで待ってて下さる?」
スマホをバッグに仕舞いながらそう言うと、早苗さんは私に立つよう手招きする。
「いえ、手が塞がるだろうし、僕も行きますよ」
高橋は立ち上がり、はい、と言って私に向けて手を差し出した。
「あら、どうも」
早苗さんが横からその手を掴むと、
「はは、足元が不安定ですからね」
高橋はそう笑って早苗さんの手を引っ張り、歩き出した。
堤防の近くの橋の上には屋台がずらりと並んでいて、浴衣を着た中学生のグループや家族連れ、若いカップルなど、沢山の人で賑わっている。
人にぶつからないように歩くが、上手く流れに乗らないと先を行く早苗さんと逸れてしまいそうになる。
この人混みと喧騒の中でなら、もしかしたら高橋の目を掻い潜って逃げ出す事が出来るかもしれない。そんな淡い期待が込み上げてきたが、失敗した時の報復が怖くて実践する事は命懸けのように感じてしまう。
早苗さんの後に着いて歩いていると高橋は不意に私の手を握り「逸れないように、ね」と言って横に並ぶ。
…高橋から逃げる勇気は、私には無い。
改めてそう思った。
混雑した人混みの中で屋台の商品を買う列に並び、カキ氷やたこ焼き、鈴カステラなどを買って私達は先ほどの堤防に戻って花火を見た。
間近で色とりどりの花火が上がり、その後に内臓をも揺るがすような大きな音が鳴る、たまに風に乗って煤が降って来るほど打ち上げ場所との距離は近く、その迫力を全身で浴びていた。
3人で並んで花火を見ていると早苗さんはあれ、と言ってお腹をさすりだした。
「やだわ、カキ氷食べたからかしら、お腹痛くなってきた」
早苗さんはお手洗いに行くと言うと、高橋はお供すると言って入り込む。
「後藤さんは男性に良く声を掛けられるし、夜中に女性2人じゃ危険ですからね」
「あらやだ、私なら大丈夫なのに〜」
早苗さんが言うと高橋は、はははと棒読みのような笑い方をした。
早苗さんは高橋に背を向け、私の方を見るとため息を吐いている。高橋を撒きたいのになかなか上手くいかないから不満そうだ。
「ここで待ってますね」
道の駅に着くと、5人ほどのトイレ利用の順番待ちの列が出来ており、私と早苗さんはその列に並んだ。
高橋はトイレの出入り口が視界に入るベンチに座っている。
早苗さんは、はーいと言って笑顔で手を振りながらも高橋に背を向けると顔が真顔になる。
「私が居るのに堂々と杏奈に触るわね、あの人、変に肝が座っているわ」
早苗さんは高橋に対して不信感を抱き始めたようだ。
「早苗さん、今日はありがとうね、来てくれて本当はすごく嬉しかったよ、…それと、やっぱり私は帰れないから早苗さんだけで帰ってほしい」
私がそう言うと彼女は眉間に皺を寄せて、何で?といった顔をして私を見る。
「何言ってんの?私は諦めないわよ、あんなストーカーみたいな奴から杏奈を離さなきゃ、この後あいつと2人きりになんかさせないわよ」
「でも、所長は、」
私は高橋の観察眼の鋭さや、善良なフリをして人を操るのに長けている事をそれとなく彼女に伝えようとしたが、トイレの順番が来ると早苗さんはそそくさと歩き出してしまい私は口を閉じてしまった。
トイレの中に入ると早苗さんは個室には入らず、通路の突き当たりにある腰窓に近づいて行く。
「早苗さん、トイレ空いたよ?」
私が声を掛けると彼女は大丈夫、出ないからと言って窓を開けた。
窓の外はすぐ目の前に柵で区切られた小川があり、足元には1メートル程の幅の通路がある。
それを見た早苗さんはよし、と言うと用具入れを開けてバケツを取り出て窓の下に置いた。
「早苗さん?」
「ほら、行くわよ、此処から出るのよ」




