過去と未来
東京の下町でひっそりと暮らす父娘が居た。
数年前に母親が病気で亡くなった事をきっかけに心を患い、働けなくなった父親とそれを支える娘。
父親は心の隙間を埋めるかのようにギャンブルにのめり込むようになり、次第に娘が稼いだ生活費をギャンブルに注ぎ込みはじめ、そしてしまいには闇金に手を出してしまう。
やがて強面の男達が毎日のように借金の取り立てで家に来るようになり、土足で室内を荒らしていった。
その度に娘は押入れの天井裏へ隠れた。
父親には何があっても絶対に出てくるなと言われていた為、父親が罵声を浴びせられても殴られていても助けには行けず、耳を塞ぎ体を丸くして耐えるしかなかった。
そんな娘には密かな野望があった。
頑張ってお金を貯めて父親と一緒に遠くへ逃げるのだと、この生活から絶対に脱却して暖かい南の島でのんびり暮らす事を目標に娘は一生懸命働いた。
ある日、借金取り達の上司の様な立場のスーツを着た男がやって来て、
「お前が金を返さないからわざわざ来て貰った」
といつも来る男の1人が言った。
娘はいつものように天井裏へ隠れたが、普段と違う張り詰めた雰囲気に心臓がドクンドクンと鈍く鳴り響いた。
彼らの脅しの手段の一つだと分かっていたがそれでも不安が広がり、太ももからお腹の辺りに気持ち悪い感覚が這り、早く帰ってと願うばかりだった。
ボソボソ聞こえる会話に耳を傾けると上司の様な男はの命を簡単に奪えるモノを持って来たと言う内容の話が聞こえると、父親の甲高く、蚊の鳴くような細い悲鳴を聞いた娘は思わず天井裏から出てしまう。
「やめて!お願いします殺さないで下さい」
父親を庇うため身を挺して前に出ると、部屋の中が静まり返り男達は驚いた顔で娘を見た。
「お前、娘がいたのか、よく今まで隠してこれたな」
そう言うとスーツの男は娘の顎に手を当て上に向かせると顔を覗き込んだ。
娘はとても整った顔立ちをしており、はっきりとした目鼻立ちだが優しい印象が伺え、ハの字に下がった眉毛が何処か儚げな雰囲気を醸し出し白く透き通った肌はまるで大理石の彫刻で作られた偽物かのように美しかった。
父親は震える声を振り絞る。
「やめてくれ、頼む、娘だけは…」
「うるせぇ」
男は小さいながら低く響く声でそう言うと威圧された父親は何も言えなくなる。
娘は怖くて目を合わせられず震えながら涙を流ていた。
それを見た男は鼻で笑い
「いいだろう、父親は殺さないでおこう、代わりにお前が借金のカタだ」
そう言うと男は娘の腕を掴み立ち上がらせた。
この男に逆らってはいけない、本能でそう感じた娘は抵抗する事なく、パジャマ姿で裸足のまま連れて行かれる。
何度か振り向いて父親の姿を確認するが、父親は瞬きを忘れてしまったかのように呆然と固まっているだけだった。
スーツ姿の男と一緒に車の後部座席に乗り込み車が発進すると、もうこの家には帰って来れないのだという思いが駆け巡り、窓に張り付いて遠のいていく我が家を目で追っていると娘は悲しくて胸が潰れそうになり涙が溢れた。
「この女ならVIP仕様にすれば稼げそうですね」
助手席に乗っていた男が振り向きながら言った。
娘の隣に座っていた男は何も言わず体を大きく広げて座っており、娘がちらりと男の方を見るとスーツの内側に黒く光るモノが見え、緊張と恐怖で張り詰めていた娘の体は更に硬直してしまう。
どこに連れて行かれるのかも分からず体を小さくして震え、溢れる涙を必死で拭う、静かな車内で娘の啜り泣く声だけが響いていた。
しばらくして娘を乗せた車は立派な門構えの屋敷に到着した。
屋敷の中には男ばかりが数人居て、みんなスーツを着た男のことを「若」と呼んでた。
娘は“若”と呼ばれる男に屋敷の奥の方にあるひと部屋に連れて行かれ、ソファに座わらされると男はテーブルを挟んで向かいに座り、タバコに火を付けると口を開いた。
「お前、名前は?」
娘は震える声で仁海ですと答えると、男はタバコを吹かしながら言った。
「お前、風俗で働くのと俺とここで暮らすのどっちがいい?」
質問の意図がすぐに理解できず娘が戸惑っていると男が続ける。
「店で色んなおっさん相手にするのと俺だけの相手するのどっちがいいかって聞いてんだよ」
そう迫られた娘は恐る恐る男の顔を見た。
ギョロリと大きく釣り上がった目は鋭さと危うさを孕んでおり、色素の薄い黒目は灰色をしているのが印象的で首や手の甲まで入った刺青がより娘を怯えさせた。
娘はすぐに視線を外し消え入りそうな声で
「貴方と…暮らします」と答えた。
ーーーーー
男は自己中心的で短気、暴力で人を支配するような人間だった。
みんながこの男に怯え、男の父親さえ気を使う素振りを見せた事もある。
そんな男との生活が始まり、最初は外出の度に娘も同伴していたのだが他の男に色目を使った、男にジロジロ見られて嬉しそうな顔をした、などと難癖をつけては娘に手を挙げ、外出禁止にするなど束縛するようになる。
娘にとって自分が初めての男だと知ると男は更に娘に執着するようになり監視の目を強め、その一方でなぜ笑わないのかとか冷めた態度が気に入らないなど、自分の思い通りにならないと殴ることもあった。
娘は男を刺激しないように屋敷にいてもほとんどの時間を男の部屋で過ごしていた。
それでも暴力が無くなることはなく、暴力を振るわれる度に娘の心は擦り減っていき、自分がすごく惨めな人間になった気分になる。
自尊心は削られ感情を持たない操り人形の様になっていく気がしていた。
そしてそんな男には意外な一面があった。
暴力を振るった後に必ず娘にプレゼントを買って来るのだ。
何か一言添えるわけでもなく、寝ている娘の枕元や箪笥の上などに紙袋が置かれていて、中身はハイブランドの洋服やアクセサリーなどが入っている。
娘には分かっていた。
男は愛に飢えているのだという事が。
暴力を振るったりプレゼントをしたりするのは娘の愛が欲しいからだと知っている。
だが、娘が男を愛する事などあり得ない話で、力尽くでも物品でも娘の心が動く事はなかった。
娘が男に対する感情は嫌悪でも憎悪でも無く、ただただ拒否しか無いのだ。
ある日、男が深夜に血まみれになって帰って来た事があった。
返り血と自身の怪我による出血で全身ボロボロだった。
娘はその姿が恐ろしくてたじろいでいると
「少しは心配する素振りでも見せたらどうなんだ!」
と怒鳴られ、殴られてしまう。
娘はいつものように無抵抗に男にされるがまま、目を閉じて痛みに耐え、嵐が過ぎるのを待つしかなかった。
数日後、枕元にまたプレゼントの紙袋が置いてあり袋の中を覗くと指輪と婚姻届が入っていた。
娘は血の気が引き、思わずそれを足元に投げ捨ててしまう。
その日の夜、男は帰って来るなり娘の元に行き婚姻届は書いたかと聞いた。
娘が返事に困っていると男は絆創膏だらけの顔をしかめ、娘に詰め寄る。
「ペンが、無くて、ちゃんと書けるペンが…」
娘は咄嗟に嘘をついた。
その後、男の目の前で男の用意したペンで婚姻届に記入すると男は満足そうに婚姻届を部下に渡し、娘の左薬指に指輪をはめた。
娘はどんな表情をしたら良いのか分からず、その様子をただぼんやりと見つめていた。
無表情な表向きとは裏腹に心の中は泣き叫びたい程の絶望感が広がり奈落の底に突き落とされた気分だった。
好きでもない男と法律上夫婦になり、戸籍と苗字だけでなく自分の全てが男に渡ったような気がしたからだ。
ーーある日、娘に転機が訪れる。
警察が数人、屋敷を訪れ男を逮捕しに来たのだ。
逮捕状を読み上げた刑事が、何人も被害者を出し重傷を負わせた繁華街での乱闘騒ぎの首謀者、実刑は免れないと言うと、男は無言で刑事を睨みつけた。
ピーンと空気が張り詰め静まり返る室内で、娘は助けを求めるチャンスを掴めずにいた。
何か言いたげに刑事を見つめる娘を見て男は
「5年で出てくる、嫁らしくここで待ってろよ、絶対どこも行くな」
怒りが滲んで血走った目を娘に向けてそう言うと、娘はその剣幕に何も言う事が出来ず、無言で頷いた。
男が連れて行かれ、怯える相手が居なくなった娘に平穏な時間が訪れる。
しかし、男が部下達に娘を見張るよう指示した為、相変わらず屋敷への出入りは自由にさせて貰えず、縛られた窮屈な生活は続いていた。
この屋敷に来た日から娘は何度も何度も此処から逃げ出す事を考えていた。
それは男が逮捕されてからでも変わらず、習慣のように頭の中で逃げるシュミレーションをしている。
妄想するだけでも心の救いになっていたからだ。
でも捕まった時のことを考えると怖くて実行はずっと出来ずにいた。
そんな怯えてばかりの娘だったがあるきっかけで屋敷からの脱出を決意する事になる。
それは自身の身体の変化に気付づき、このままここには居られないと再認識したからだ。
脱出方法はとてもシンプルなものだ。
まず、風呂に行くふりをして風呂場の窓から外に出る、それからの塀を越えて表通りに出る。
それだけの事。
後は捕まらないようにひたすら遠くへ逃げるだけ、知人とは接触せず、偽名を使って誰とも親しくならぬよう生きて行けばきっと見つからない、きっと上手くいく、娘はそう自分に言い聞かせた。
娘はまず男の部屋の金庫に手を付けた。
何度か開けているのを見たことがあるので開錠番号は把握済みだ。
金庫の中には高級な装飾品と共に束ねられたお札が無造作に置かれており、その中から札束を二束手に取り、扉を閉めた。
それだけの作業で娘の手は震えてしまい動揺してしまう。
札束を着替え用のパジャマの中に隠し、部屋を出て風呂場へと向かう。
途中、何人かとすれ違いったがみんな無言で会釈して通り過ぎるだけだった。
「大丈夫、大丈夫…」
娘は自分に言い聞かせ何食わぬ顔で浴室に入り、鍵をかける。
隠した札束と履いていたスリッパを着ている服の中に移動させ、少しでも音を掻き消すためにシャワーを出し放にした状態で浴槽の淵に足を掛け、風呂場の窓から外に出た。
なるべく音を立てぬよう、そっと。
外に敷き詰められている砂利の感覚がつま先に当たり娘は慎重に体重を掛ける。
裸足でゆっくり砂利の上を歩き、塀のすぐ手前に植えてある木まで辿り着いた。
木は塀と共に家を囲うように植えてあり、コンクリート製の塀の補助のような役割をしていて上部で枝分かれし、生い茂った葉が出るのも入るのも拒むような造りになっている。
娘は塀の上部の装飾用の穴に手を入れて腕に精一杯の力を込めて体を持ち上げた。
でもそれは容易な事では無く、娘は苦戦した。
それでも声も音も出せないため唇を噛み締め、必死で上体を持ち上げた。
何とか上半身を塀の上まで持って行くことができ、あとは足を掛けて反対側に降りるだけ。
娘のつま先がアスファルトに触れると、ほっと安堵のため息が出た。
でもまだまだ安心をしてはいけない。
塀を蹴った時に出来た擦り傷だらけの足にスリッパを履かせ、小走りで大通りに向かう。
大通りでタクシーに乗り込み、車が走り出すと娘はまた浅いため息をついた。
心臓の鼓動は激しく鳴り響いていたがひとつクリアする毎に安堵が胸に広がり嬉しさが込み上げてくる一方で、まだ安心してはいけないと自分に言い聞かせ、緊張感を保つようにしていた。
タクシーに乗ってまず向かった場所は娘の生家だった。
狭い路地に入り、平屋の古い家屋が立ち並ぶ中に娘の家がある。
娘は呼び鈴を押し、小さな声で「お父さん」と呼ぶと中からドタドタと拙い足取りで走ってくる音が聞こえてきた。
疑いながら引き戸を開けた父親の顔は次第に驚きと困惑の表情になっていく。
「ひ、仁海…」
目の前に居る娘の姿が信じられない様子で父親は娘の名前を呼んだ。
「お父さん」
娘がそう言うと、父親は涙を流しゆっくりとしゃがみ込んだ。
「お父さん時間がないの、よく聞いて、荷物を最小限にまとめて今すぐ遠くに行って欲しいの」
正座して丸くなっている父親に札束を1束渡すと、父親はただ、すまない、すまないとすすり泣く事しか出来なかった。
娘は丸くなった父親の背中を抱きしめてゆっくり語りかけた。
「お父さんは優しい人よ、いい思い出がたくさんあるもの私はお父さんの子で良かったと思ってる、だからお父さんには幸せになって欲しいの」
それを聞いた父親は、自分の情けなさを感じ嗚咽するのだった。
「今タクシーをもう一台呼んだから急いで、すぐ遠くに逃げて」
そう言うと足早に待たせていたタクシーに乗り込み車が走り出す。
久しぶりの親子の再会は呆気なく終わってしまい、もうこの先父親に会う事はないだろう、そう思うと大粒の涙が溢れポロポロとスカートの上に落ちていくのだった。
まだ気を抜けないのに涙が溢れてくるので、心を落ち着かせるため娘は震える息で深呼吸を繰り返す。
駅に着くと娘は顔を拭き、新幹線の切符売り場に向かう。
沢山の人が行き交う駅で人混みの中に男の手下が居るのではないかという感覚に陥り娘は動揺を隠せず、呼吸が荒くなっていく。
乗り継ぎ無しで行ける駅を選び震える手で新大阪駅着の切符を受け取り発車ベルの鳴る新幹線に乗り込む、と同時にドアが閉まった。
車体が動き出すと娘はまた安堵のため息を付いた。
車内の乗客は多くなく自由席は沢山空いていたのだが、座席に座る事はせずドアに近い連結部分に立ったりトイレに篭ったりしながら過ごした。
そして新大阪駅に着くと今度は博多駅を選び、娘は南の方へと向かった。
東京から離れていくのを肌で感じ、恐怖や切迫感などの感情が少しづつ和らいでいった。
新幹線が終点の鹿児島中央駅に着くと今度は電車に乗り換え、人の少ない田舎の方へと向かう。
乗客が次第に少なくなって行き、娘はボックス席に座り目を閉じた。
どのくらい眠っていたのか分からないが娘が意識を取り戻した時は何かに追われる夢を見ていて飛び起きるように目を覚ました。
額に汗をかき、心臓は激しく脈打っている。
駅で停車すると娘はその場から逃げるように電車を降り、外に出て呼吸を整えた。
少し落ち着きを取り戻した娘は顔を上げると、目の前に田んぼが広がっており、民家は疎らで通りの向こうには海と漁船が見える。
周りの景色を見た娘は東京からうんと離れたんだ、もう大丈夫、と自己暗示の様に自分に言い聞かせた。
鈍く、体を振動させるかの様に脈打つ心臓に手を当て周りを見渡していると商店街の案内看板が目に留まり、娘はゆっくりと歩き出した。
ーーーーー
10分ほど歩き、着いたのは少し寂れた商店街だった。
まずは靴を買い、ボロボロになったスリッパは処分をお願いすると、靴屋さんのおばあさんは私もやったことあるよ、と言って笑いながら受け取ってくれた。
その後洋服店で下着やワンピースなどを購入。
着ていた服は処分してもらい新たに購入した薄紫色のゆったりとしたワンピースに着替える。
まだ真新しいブラウスとスカートの処分を頼んだため、少し不思議そうな顔をされてしまった。
最後に薬局で歯ブラシなどの衛生用品を一通り揃え、レジ横に置いてあった梅干しのおにぎりと炭酸水を買って娘は商店街を後にする。
娘は特に目的はないが、何となく海の方へ向かって歩き出した。
車通りは多くなく、道行く人もほとんど居ない。
ガードレールも無いような歩道をしばらく歩き10分ほどで堤防に辿り着いた。
階段を登り、頂上に着くと娘は段差を利用して座り海を眺めた。
風が強く、波と同調しているかの様に押したり引いたりしながら忙しく吹き荒れている。
袋が飛ばされない様に注意しながら先ほど購入したおにぎりを取り出した。
ここ2日ほど新幹線の車内販売で購入した飴しか口にしておらず、ちゃんとした食事をしていなかった為、久しぶりのご飯だ。
おにぎりを食べ始めたが、口に入るとまるで砂でも噛んでいるかのように咀嚼が重くなった。
おにぎりは好きだし空腹なはずなのに何故か胃が受け付けない。
炭酸水で流し込もうと口を付けた瞬間「あの、すみません」と男の声が背後で聞こえ、娘はびっくりしてその場から立ち上がる。
声をかけて来たのは作業着姿の若い男だった。
娘はカバンを抱えて身構える。
「すみませんいきなりを声かけて、観光ですか?」
話す男の後ろでは同じ作業服を着た男が2人居て、少し離れた場所からやり取りを見ているようだった。
先ほど歩いている時に通った建設現場の作業員だろうと分かっていたのだが、彼らが怖くて仕方なかった。
「すごくお綺麗だから女優さんかと…」
「ご、ごめんなさい先を急ぐのでごめんなさい」
そう言うと娘はその場から走り出した。
しばらく走ったり歩いたりしながら進んでいくと、娘は息が苦しくなり近くにあったベンチに腰掛けた。
空腹のせいなのか、あまり走っていないのに息が上がり眩暈がし吐き気に襲われ、炭酸水を慌てて飲むと息を整え、鳴り響く心臓を落ち着かせる。
ふと、ベンチの横の看板に目をやるとそこには〝島々巡り〟と書いてあり、離島に関する案内板のようだった。
色んな離島の特徴や観光名所、公共施設に関する情報が書いてあり、娘が目を留めたのは〝舞島〟という島だった。
人口は300人程で民宿が一件、小売店が一件と書いてあり診療所は一件と書いてあるがその上からマジックで線が引いてある。
昔はあったが今は無くなってしまったのだろうと推測した。
娘はこの舞島に行くことにした。
小型のフェリーに乗って30分程で目的の島に到着した。
島全体が大きな山の様になっており、その麓に道路や民家などの集落がある。
フェリーを降りてデッキを歩いていると小学生くらいの子供が数人、遊んでいるのが見えた。
シュノーケルを着けて海の中を覗いたり、小さな水槽に生き物を入れて観察したりしていて、その傍には保護者らしき女性が見守っている。
娘は何気なく浜辺を歩き始めた。
しばらく進むと、人も建造物も視界に入らない場所で足を止めた。
すぐ後ろには緑が生い茂る山があり、目の前には水平線が海と空を隔てている。
心なしか、本土で見た海より水が澄んでいて風も穏やかに感じる。
娘は輝く水面を見て深い溜め息をついた。
やっと安心出来る場所に辿り着いた、そう感じたのだ。
そして砂浜に座りカバンの中から薬局で買ったある物を取り出した。
先ほどから何度も確認しては元に戻すを繰り返している、それは陽性反応を示している妊娠検査薬だった。
先の事を考えると不安で仕方ない、けれども何度も検査薬を見てしまうのは自分の体の中に小さな命が宿っているという不思議な気持ちと複雑ながらも喜びに似た気持ちがあるからだ。
子供の父親なんてどうでもいい、この子は私の子、この子があの屋敷から逃げ出す勇気をくれたんだもの、娘はそう思い堕胎する考えは無かった。
安心できる地に辿り着き、開放感と安堵で心の余裕が出来た娘の胸には愛おしさが広がりそっとお腹を撫でた。
お腹の子の事は絶対にあの男に知られたくないと思っていた娘は離れた地でひっそりと産む事を念頭に入れていた。
出産は命懸けで容易い事ではないと知っているが、この子の将来を守る為にも病院へ行くのは躊躇われるのだ。
しばらくすると、波と木々の揺れる音の中に人の会話が聞こえ、娘は身構えた。
足音からしてこちらに向かって来る。
草を掻き分けて出て来たのは先ほど海で遊んでいた子供達だった。
みんな娘を見るなり「こんにちは」と思春期の子供に見られる無愛想な挨拶をした。
保護者らしき女性もおり、屈託のない笑顔で娘に挨拶をし、娘の持っていた旅行鞄を見て観光ですか?と聞くと娘は頷いた。
「あらー今ね、民宿が改装中でお休みなのよ」
それを聞いた娘は残念そうにそうですか、と言うと女性は娘に提案をした。
「良かったらうちに来ない?一部屋空いてるわよ」
ーーー
子供達と一緒に歩いて家に向かう途中、女性はいろんな話を娘にした。
女性は早苗という名前で子供達は全員が自分の子では無く、ショートステイで他県からこの島に来た子供達だという事、そして彼女は民間の短期入所生活援助施設の寮母である事や、旬のおいしい魚の事などを教えてくれた。
「体調は大丈夫?」
不意に体調の事を聞かれた娘がえっ、と驚いたような表情をしていると、
「ごめんなさいね、さっき妊娠検査薬が見えたから」
娘は返事に困り口篭ると、早苗は笑って
「いいのよ無理に答えなくて、でも、辛くなったら言ってね」
そう言うと娘の持っていたカバンを手から奪い1番背の高い男の子にその鞄を託した。
しばらく歩くと大きな家に着いた。
玄関横に〝山と海とこどもの家〟と木彫りの看板が掛けてあり、そこは施設というより3世帯程住めそうは大きな民家といった印象だった。
そして、この家で娘と早苗と子供達との共同生活が始まった。
ーーーーーー
娘は度々、悪夢にうなされる事があった。
大きな音に怯えたり、男の人に話しかけられると露骨に嫌な顔をしたり、海を眺めて涙を流したりと早苗は娘が何か抱えている事は分かっていたが詮索はしなかった。
妊娠が判明してから半年程が経ち、お腹も目立つ様になって来た頃、いつもの様に2人で子供達の洗濯物を畳んでいると娘が唐突に話し始める。
「この子の出生届は出したくないんです」
早苗が目を丸くしてそう、と言うと娘はこれまでの事を話し始めた。
早苗は娘の過去の話をただ静かに聞いていると、子供達が帰ってくる音が聞こえ、娘の震える手を握り勝手口から家の外に連れ出した。
子供達と一緒に帰ってきた高校生の実子に後の事を頼むと早苗は娘の側に寄り添った。
2人は勝手口の階段に座り、早苗は涙ながらに語る娘の話に耳を傾ける。
一頻り話し終えると、早苗は娘に話してくれた事に対してのお礼と今後の事について提案をした。
出産に関しては島のおばあさん達の力を借りれば病院は行かなくても大丈夫だという事。
出生届なんて出さなくても子供は育つ、それからもし子供の戸籍が必要になった時には私と養子縁組をすればいいという事。
「こんな辺鄙な島まで探しに来ないわよ、今は舞島のみんながあなたの味方よ?警察にだって渡さないわ」
早苗はそう励ますと最後に
「今までよく1人でここまで頑張って来れたわね、もう大丈夫よ」
その言葉を聞いて娘は子供の様に泣き、人に甘えられる幸せを感じた。
それから3ヶ月後、娘はこの島でお産婆さんをしていたという高齢女性の力を借りて元気な女の子を出産する。
お産の手助けをお願いするにあたって、“暴力を振るう悪い旦那から逃げて来た”という説明をしていた。
娘は赤ちゃんを腕に抱き、改めてその存在を愛おしいと思った。
小さくて柔らかくて弱々しくて、愛おしい。
赤ちゃんは杏奈と名付け、娘に笑顔が増え始める。
娘は早苗の手伝いをしたり、工場で魚介類の加工の手伝いをしたりと、穏やかでで充実した日々を送っていた。
だが、子供がもうすぐ4歳になろうかという時、娘の様子が少しづつおかしくなっていく。
再び何かに怯え始め、悪夢を見ては「あの男が出てくる」と言って取り乱し、夜中に泣き出す事が増えたのだ。
その度に早苗は娘の話を聞き、大丈夫、大丈夫と言う事しか出来なかった。
娘は一生あの男に怯えて暮らすのではないかと考え、未来に希望を見出せずにいた。
自分が居なければ子供にも危険が及ばないのに、と言う事もあり、早苗は娘の精神状態が心配で仕方なかった。
そんな心配が的中する事態が起きてしまう。
娘は4歳の子を置いて崖から身を投げたのだ。
幸せは長く続かなかった。
その出来事は島民に衝撃と悲しみを与え、娘を憐れむと共に子供の事も憐れんだ。
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これは私の母の話である。
なぜ私が知っているかと言うと、15の時に早苗さんに聞いたからだ。
母は生前、私が年頃になって自分のルーツを聞いて来たら隠さずに話して欲しいと早苗さんにお願いしていた。
自分で話しなさい、と母に言っても困った様に微笑むだけだったそうだ。
〝暴力旦那から逃げて来てこの島で自殺した人〟という噂しか知らなかった私は母は弱い人間だとずっと勘違いしていた事に気付いた。
確かに母は可哀想な人間ではあるし、死ぬ以外の選択肢もあったのではないかとも思う。
しかし母の行動は私を守る為にした、命を賭けた自己犠牲とも言える。
そして、母にあれだけ執着していた父親が塀の向こうで母の死亡届を目にした際にはきっと穏やかでは無かっただろうなと想像できる。
母を亡くした4歳の私は“死”というものをある程度理解していた。
でも幼い私は母が居なくなった事が受け入れられず、何処かに居るのではないかと思い本土に行く度に大人の顔を見上ては母を探した。
その度に傷つき失望をし次第に探す事をしなくなった。
そして早苗さんの養子になり早苗さんは私を自分の子供のように接してくれて、香さんや理恵さんも妹の様に可愛がってくれた。
幾度となく私を本当のお母さんだと思って良いのよと言われ、口ではうん、わかったと言いながらも何処かリミッターの様なものを解除出来ずにいた。
私にとって早苗さんは早苗さんなのだ。
甘えたくても抱きつくことが出来ず、思春期のモヤモヤした気持ちを抱えた時も吐き出せず自分の中で何とか消化してやり過ごして来た。
それは、私の家でもあるこの“山と海とこどもの家”で一緒に過ごす子供達の存在があるからかも知れない。
悲惨な経験をして心を閉ざした子供達と過ごす中で自分の悩みがとてもちっぽけに感じて、こんな事で騒ぎ立てて良いのだろうかと思えてしまうのだ。
ここに母が居たら違っていたのだろうか、そんな風に考える事は幾度となくあった。
しかし、悩みというのは誰かに相談しても結局は自分の気の持ちようや考え方次第で解決して行くものだと思うようになり、私はますます人に甘える事をしなくなっていった。
学校で親しい友達が出来ても醜態を晒したり感情をぶつけたりする事はなかった。
私の事を謎めいてるやら頭のいい人間は怒りなどの負の感情が無いんだ、などと良く分からない理論を聞かされる事もあった。
無いと言うよりはコントロールしていると言う方が正しいように思う。
そして私自身、それで良いと思っている。
私という人間は母親や早苗さん達、島の人々の献身で生かされている。
甘えや弱みを晒す事はするべきでは無いと思っている節があり、医者を目指すにあたりこの考え方は利点だと思う様になった。
私の思考を誰かに話した事はないが、人によっては否定される考え方かもしれない。
それでも私は前を向かなくてはならない、何故ならこれから新しい生活が始まるからだ。
私は大丈夫、きっと上手くやっていける。
強く生きるんだ、母の分まで。