過去と未来
東京の下町でひっそりと暮らす父娘が居た。
数年前に母親が病気で亡くなった事をきっかけに心を患い、働けなくなった父親とそれを支える娘。
父親は心の隙間を埋めるようにギャンブルを繰り返し、お金を注ぎ込んだ挙句闇金に手を出してしまう。
強面の男達が毎日のように借金の取り立てで家に来るようになり、土足で家の中を荒らされる日々。
娘は男達が来る度に押入れの天井裏へ隠れた。父親に何があっても絶対に出てくるなと言われていた為、父親が罵声を浴びせられても殴られていても助けには行かず、体を丸くして耳を塞ぎ、彼らが帰るのを祈る事しか出来なかった。
ある日、仕立ての良いスーツを着た男が娘の家にやって来て「今日はお前の命日になるかもな」と、いつも来る男の1人が笑いながら言った。
娘はいつものように天井裏へ隠れたが、普段と違う張り詰めた空気に心臓がドクンドクンと鈍い脈を打ち始める。
彼らの脅しの手段の一つだと分かっていたがそれでも不安が広がって太ももからお腹の辺りに気持ち悪い感覚が這った。
ボソボソ聞こえる会話に耳を傾けるとスーツ男はの命を簡単に奪えるモノを持って来たと言う内容の話が聞こえ、父親の甲高く、蚊の鳴くような細い悲鳴を聞いた娘は思わず天井裏から出てしまう。
「やめて!お願いします殺さないで下さい」
娘は父親を庇うため身を挺して前に出ると部屋の中は静まり返り、男達は驚いた顔で娘を見た。
「お前、娘がいたのか、よく今まで隠してこれたな」そう言うと男は娘の顎に手を当て上に向かせると顔を覗き込んだ。
娘は目鼻立ちのはっきりとした整った顔立ちをしていて何処か儚げな雰囲気を漂わせている。涙で濡れた大きな瞳はガラス玉のように美しく、白く透き通った肌はまるで大理石の彫刻で作られた偽物のようだった。
父親は震える声を振り絞る。
「やめてくれ、頼む、娘だけは…」
「うるせぇ」
男は小さいながらも低く響く声でそう言うと威圧された父親は何も言えなくなる。
娘は男の気迫に圧倒され、震えながら涙を流していると男は鼻で笑い「いいだろう、父親は殺さないでおこう、代わりにお前が借金のカタだ」そう言って男は娘の腕を掴み立ち上がらせる。
この男に逆らってはいけない、本能でそう感じた娘は抵抗する事なく、裸足のまま連れて行かれた。
何度か振り向いて父親の姿を確認するが、父親は一点を見つめ呆然と固まっているだけだった。
男と一緒に車の後部座席に乗り込み車が発進すると、もうこの家には帰って来れないのだと悟った娘は、窓に張り付いて遠のいていく我が家を目に焼き付けた。
「この女ならVIP仕様にすれば稼げそうですね」助手席に乗っていた男が振り向きながら言った。
娘の隣に座っていた男は何も言わず体を大きく広げて座っており、娘がちらりと男の方を見るとスーツの内側に黒く光るモノが見え、緊張で張り詰めていた娘の体は更に硬直してしまう。
何をされるのか、何処に連れて行かれるのかも分からず体を小さくして震え、溢れる涙を必死で拭う。静かな車内で娘の啜り泣く声だけが響いていた。
しばらくして娘を乗せた車は立派な門構えの屋敷に到着する。
屋敷の中には男ばかりが数人居て、みんなスーツを着た男のことを「若」と呼んでた。
娘は“若”と呼ばれる男に屋敷の奥の方にあるひと部屋に連れて行かれ、ソファに座わらされると男はテーブルを挟んで向かいに座りタバコに火を付けると口を開いた。
「お前、名前は?」
娘は震える声で「仁海です」と答えると、男はタバコを吹かしながら言った。
「お前、風俗で働くのと俺とここで暮らすのどっちがいい?」
質問の意図がすぐに理解できず娘が戸惑っていると男が続ける。
「店で色んなおっさん相手にするのと俺だけの相手するのどっちがいいかって聞いてんだよ」
そう迫られた娘は恐る恐る男の顔を見た。
ギョロリと釣り上がった大きな目は凶暴さと危うさを孕んでおり、黒目は色素が薄く灰色をしていて首や手の甲まで入った刺青がより娘を怯えさせた。
娘はすぐに視線を外し消え入りそうな声で
「貴方と…暮らします」と、答えた。
—————
男は自己中心的で短気、暴力で人を支配するような人間だった。みんながこの男に怯え、男の父親さえ気を使う素振りを見せた事がある。
そんな男との生活が始まり、最初は外出の度に娘も同伴していたのだが他の男に色目を使った、男にジロジロ見られて嬉しそうな顔をした、などと難癖をつけては娘に手を挙げるようになった。
娘にとって自分が初めての男だと知ると、男は更に娘に執着するようになり外出禁止にするなど束縛を強めていく。
その一方でなぜ笑わないのかとか冷めた態度が気に入らないなど、自分の思い通りにならないと手を上げる事もあり、娘は男を刺激しないようにほとんどの時間を男の部屋で過ごしていた。
暴力を振るわれるたびに娘の心は擦り減っていき、心がどんどん萎縮していった。男との生活はまるで時限爆弾と暮らしているかのようで常に緊張状態にあったからだ。
そんな男には意外な一面があった。
暴力を振るった後に必ず娘にプレゼントを買って来るのだ。
何か一言添えるわけでもなく、寝ている娘の枕元や箪笥の上などに紙袋が置かれていて、中身はハイブランドの洋服やアクセサリーなどが入っている。
娘には分かっていた。
男は愛に飢えているのだという事が。
暴力を振るったりプレゼントをしたりするのは娘の愛が欲しいからだと知っている。だが、娘が男を愛する事などあり得ない話で、力尽くでも物品でも娘の心が動く事はない。
娘が男に対する感情は嫌悪でも憎悪でも無く、ただただ拒否しか無いのだ。
そんなある日、男が深夜に血まみれになって帰って来た事があった。返り血と自身の怪我による出血で全身ボロボロだった。
興奮状態で鼻息を荒らす男の姿が恐ろしくてたじろいでいると「少しは心配する素振りでも見せたらどうなんだ!」と怒鳴られ、殴られてしまう。
娘はいつものように無抵抗に男にされるがまま、目を閉じて嵐が過ぎるのを待つしかなかった。
数日後、枕元にまたプレゼントの紙袋が置いてあり中身を見た娘は血の気が引き、思わずそれを手から落としてしまう。
袋の中には婚姻届と指輪が入っており、足元に落ちた贈り物は袋口を滑るように床に広がった。
その日の夜、男は帰って来るなり娘の元に行き婚姻届は書いたかと聞いた。娘が返事に困っていると男は絆創膏だらけの顔をしかめ、娘に詰め寄る。
「ペンが、無くて、ちゃんと書けるペンが…」と娘は咄嗟にそう嘘を吐いて誤魔化した。
その後、男の目の前で男の用意したペンで婚姻届に記入すると男は満足そうに婚姻届を部下に渡し、娘の左薬指に指輪をはめた。
男の部下達が周りを取り囲い、祝福の拍手の轟音が鳴り響いている。
娘はどんな表情をしたら良いのか分からず、その様子をただぼんやりと見ていた。無表情な表向きとは裏腹に心の中は泣き叫びたい程の絶望感が広がり奈落の底に突き落とされた気分だった。
好きでもない男と法律上夫婦になり、戸籍と苗字だけでなく自分の全てが男に渡ったような気がしたからだ。
——ある日、娘に転機が訪れる。
警察が数人、屋敷を訪れ男を逮捕しに来たのだ。
逮捕状を読み上げた刑事が、「何人も被害者を出し重傷を負わせた繁華街での乱闘騒ぎの首謀者、実刑は免れない」と言うと、男は無言で刑事を睨みつけた。
ピーンと空気が張り詰め、静まり返る室内で娘は助けを求めるチャンスを掴めずにいた。
何か言いたげに刑事を見つめる娘を見て男は「5年で出てくる、嫁らしくここで待ってろよ、絶対何処にも行くなよ」怒りが滲んで血走った目を娘に向けてそう言うと、娘はその剣幕に何も言う事が出来ず、無言で頷いた。
男が連れて行かれ、怯える相手が居なくなった娘に平穏な時間が訪れる。
しかし、男が部下達に娘を見張るよう指示した為、相変わらず屋敷への出入りは自由にさせて貰えず、縛られた窮屈な生活は続いていた。
この屋敷に来た日から娘は何度も何度も此処から逃げ出す事を考えていた。
それは男が逮捕されてからでも変わらず、習慣のように頭の中で逃げるシュミレーションをしている。妄想するだけでも心の救いになっていたからだ。
脱出方法はとてもシンプルなもので、まず、風呂に行くふりをして風呂場の窓から外に出る、それからの塀を越えて表通りに出る、それだけの事。
後は捕まらないようにひたすら遠くへ逃げるだけ。
でも捕まった時のことを考えると怖くて実行は出来ずにいた。
そんな怯えてばかりの娘だったがある事がきっかけで、脱出を決意する——。




