胸の内
トカゲ、だろうか、いや、ツチノコ?
翔さんの右腕に彫られた落書きのようなタトゥーを見ていると彼は私の視線に気づき、該当のタトゥーを指差し、コレ?と聞く。
「これはドラゴンだよ、かっこいいでしょ?」
「え、それ空想上のきめぇ生物かと思ってた」
カナちゃんがそう言うと翔さんは芸術が分からないんだね、と嘆いた。
翔さん曰く昔、彫り師見習いの家に寝泊まりさせてもらった際に練習台になったのだとか。
「体で払うって言ったんだけど、ノンケだから男とはやれない断られて、だから皮膚を差し出したの」
食事中に聞くような内容では無く、私は目を上に向けてふーんといった顔をした。
それを見た翔さんはフォークでパスタを突きながらくくく、と笑っている。
彼の体にはたくさんタトゥーが彫られているが、全てカラフルな落書きのような物ばかりで、色褪せたり描き途中と思われる中途半端なものもある。
その見習い彫師は今でも活躍しているのだろうか、と気になってしまった。
翔さんの左側に座って食事をしていたカナちゃんは、代償がでけぇな、と呟く。
「カナちゃんは手の甲に“スマホ充電”って彫ればいいと思うよ」
翔さんは、カナちゃんが良く“スマホの電池がヤバい”と口癖のように言っている事を揶揄った。
「そんな小学生の忘れ物対策みたいなタトゥー彫るか」
翔さんを睨みながらツッコミを入れるカナちゃん。
早口なカナちゃんのツッコミが面白くて私は2人の会話を聞きながら笑っていると、向かいの席に座るいちごちゃんと目が合ってしまった。
はっとしたが表情を崩さないように自然に視線を外し、コップに手を伸ばしてお水を飲んだ。
食堂ではいちごちゃんが向かいの席に座っているというのもあり、最近よく目が合う。
その目付きは好意的な物とは言えず、思わず逸らしたくなる視線だ。
彼女の大好きな高橋所長と一緒に居るところを何度か見られているので嫌われてしまうのは無理ないけど。
とは言っても話しかけられたり、意地悪をされる訳でもないからあまり気に留めないようにしている、の、だが、今、私の目の前にはフリフリのロリータ服を着た彼女が立っている。
私は緊張で体がゆっくりと硬くなっていくのを感じた。
「ねぇ、ちょっと」
長いテーブルを挟んでいちごちゃんは仁王立ちで私に話しかけてきた。
「今私の事見て笑ったでしょ?」
その言葉に私は立ち上がって首を横に振る。
「嘘つくなっ!いつも私の事笑ってんるでしょ!この性悪女!」
彼女の大きな声に私はビックリして体が反応してしまい、周りにいたスタッフも異様な空気に気付き、彼女を宥めに集まってきた。
いきなりみんなの前で怒鳴られた私は恥ずかしさで俯いてしまう。
「うっせーな、誰もお前の事なんか見てねぇよ」
翔さんを間に挟んだ隣の席でカナちゃんがそう言うと、いちごちゃんは彼女を睨んだ。
「あんたに話してないわよ!下品な女!私に話しかけないで頂戴!」
「まぁまぁ、いちごちゃん、落ち着いて一回座ろうよ」
女性スタッフが数人で彼女をその場から離そうとするがいちごちゃんは動こうとしなかった。
「んだぁ?このヒステリック女が!」
カナちゃんが立ち上がってそう言うと、そのやり取りを真ん中で見ていた翔さんは両手を口に当ててきゃー、と裏声を出しながら笑った。
いちごちゃんはカナちゃんの言葉で一気に険しさが増し、カナちゃんに近づくのを見て私は慌てて手を広げて2人の間に入った。
カナちゃんを巻き込みたくない、その想いで私はいちごちゃんに誠意を示すため彼女の目を真っ直ぐ見た。姿勢を正して体の前で手を合わせ、深々と彼女に頭を下げる。
すると下げていた後頭部に突然水が掛かった。
その冷たさに私はひゃっと息を吸い込み、悲鳴をあげそうになる。
水と共に切り花がパラパラと落ちてきて、いちごちゃんは花瓶の水を掛けてきた事を悟った。
その様子を見ていた翔さんは低い声でおい、と言うとカナちゃんはそれを掻き消すかのように大きな声を出す。
「おめぇふざけん」
「伊集院さん!」
カナちゃんが言い終わる前に彼女より大きな声が食堂に響いた。
声がした方を見ると、出入り口付近に高橋所長が立っている。水を打ったかのように静まり返る食堂。
高橋所長の顔は明らかに怒っていた。
彼は私の方へ歩み寄ると、髪からポタポタと垂れる水滴をハンカチで拭き、大丈夫ですか?と声を掛ける。
「伊集院さん、以前言ったはずです、特定の方を攻撃するのは良くないと」
怒っている高橋所長が珍しいのかスタッフ達は手を止めて彼の事を見ている。
「違うの、私が先に意地悪されたの、みんなで私の事笑ってたの!」
いちごちゃんは必死に取り繕うが、眉間に皺を寄せた高橋所長は鼻で大きく息を吐き、呆れている様子だった。
「もう後藤さんを攻撃しないと約束したじゃないですか、約束を守れないならこの施設から出てってもらいます」
毅然とした態度で簡潔にそう言うと、彼は私の肩を手を回して行きましょう、と言って食堂を後にする。
その様子を見ていた翔さんはまたもや両手を口に当ててきゃーと裏声を出し、カナちゃんは彼の後頭部を叩いて、やめろ、と制止する。
私達が食堂を出るといちごちゃんの泣き叫ぶ声が後方から飛んできた。
…とんでもない修羅場になってしまった。
3階へ向かうエレベーターの中「すみません、大きな声を出してしまって」高橋所長はしょんぼりしたようにそう言うと、私は首を横に振る。
「僕がいけないんです、彼女を甘やかし過ぎた、日頃からきちんと注意していればこんな事にはならなかったのに」
後藤さんを巻き込んで申し訳ない、と高橋所長の重なる謝罪に私は手と首を横に振り恐縮してしまう。
エレベーターを降り、オレンジ色の夕陽が斜めに差し込む窓が並ぶ廊下に立ち、私は高橋所長の手の平を借りて指で自分の気持ちを書いていく。
『私は平気 みんな守ってくれたからうれしい』
一文字一文字彼は口に出して読んでいる。
もちろんみんなの前でいちごちゃんにお水を掛けられた事はショックだし、恥ずかしかった。
彼女にそうまでさせてしまった自分が愚かだったのではないかと思ってしまいそうになる。
でも高橋所長だけでは無くカナちゃんや翔さんも私の味方になって助けてくれた事が今は素直に嬉しいのだ。
短い文章を書き終えて高橋所長を見ると彼は優しく微笑んでいた。
「後藤さん、僕はあなたのような真っ直ぐで凛とした人に出会えて本当に嬉しいです」
そう言いながら私の頬に優しく触れ、濡れた髪の毛をそっと耳に掛けた。
彼の伸ばした手に私はぎゅっと目を瞑る。
彼の手からは香水のような何処か甘く、深く、大人な香りがしている。
「後藤さんがここを出たら、会いに行ってもいいですか?」
唐突な問いに私は眉毛を上げて彼を見る。
「…後藤さん、本当は僕の気持ちに気付いてますよね?」
その言葉に一瞬で体がブワッと熱くなるのを感じた。
実は、気付いている、高橋所長が私に対する態度は特別なものだと。
それに対して高橋所長も気付いているのだと思うと焦りのような感情が湧き上がり体温を上昇させた。
今まで、私は彼に比べたら色んな意味でまだまだ子供だし、学生だし、いっぱい勉強しなきゃだし、と、彼の気持ちを直視出来ず理由を並べてあまり考えないように蓋をしてきた。
その蓋を開けられて心の内を覗かれた私は顔を真っ赤にして目を泳がせてしまう。
夕陽に照らされ、暖色の光に満ちた静かな室内で高橋所長はじっとこちらを見ている。
洞察力が鋭い彼には全てを見透かされているかのようだ。
私はその視線が痛くてソワソワする事しか出来ない。
「向き合って欲しいです、僕と」
その言葉に彼からは逃げられないと悟った私は定まらなかった目線をそっと彼に向けた。
いつもの笑顔は無く、真剣な顔をしている。
「会いに行っていいですか?」
胸がぎゅっと締め付けられるのを感じて、私は思わず頷く。
すると彼は安心したように息を吐いて、いつもの優しい顔に戻った。
高橋所長は私の顎に手を添えると私は彼の顔を見上げた。
夕陽を映した眼鏡の奥にあるその目は私の唇を捉えている。
彼の顔がゆっくりと近づけてくる———。




