森の中で交わした約束
しばらく車を運転していた高橋所長は、さっきの男性は、と話し始める。
「道の駅で軽トラックの横に居た男性なのですが、3年ほど前にこの村に移住して来た方なんです」
高橋所長曰く、豊道村に来る前は自衛隊の狙撃班に所属していたらしく、他の猟師達の間では新入りなのに腕が立つと話題になったそうだ。
歳は高橋所長より少し若いそうだが、正直、高橋所長の方が若く見える。
「でも何故か僕にだけ敵意のある目を向けてくるんですよ、話した事も関わった事もないんだけど」
高橋所長のその言葉には身に覚えがある、何故なら私も特定の同性から嫌われる体質だからだ。そして、私が言われた“お飾りちゃん”という嫌味は高橋所長への当て付けだという事が分かった。
「だから、さっきの目線は僕に向けられた物なので、後藤さんは気にしないで下さいね」
彼のその言葉に私は頷いた。
車はカーブだらけの坂道を登って行き、舗装された道路から逸れて草木の生い茂る木のトンネルゾーンへと入る。
すると徐々に速度が落ちてピタっと車が止まった。
高橋所長はシフトをパーキングに入れてハンドルから手を離し、腕時計を確認する。
「予定より少し早いので、ちょっとだけここでお話ししませんか?」
私は高橋所長に顔を向けて、え?といった顔をすると、彼は何処か照れたように微笑んだ。
「ここの道好きなんです、ちょっとファンタジー感があって」
高橋所長のその言葉には私も共感した。この道はおとぎ話に出て来るワンシーンを切り取ったかのように非現実感があって私も好きだ。
「後藤さん、今日はとても楽しかったです、ありがとうございました」
彼の言葉に私は、はっとしお金の入った巾着袋を取り出した。
今日の費用、お土産代や昼食代は全て高橋所長が出しているのだ。
お会計の時に自分の巾着袋を出すが彼がさっと割って間に入るので自分では何も支払っておらず、お会計中に押し退け合ってお支払いを奪い合うのも良くないと思い後で精算しようと金額を覚えていたのだ。
巾着袋を取り出す私を見て、高橋所長は上半身を傾けて肘をハンドルに乗せ、うーん、と言って考える仕草を見せた。
「今日の費用は僕が個人的に出したかったのでそれはしまって下さい」
高橋所長はそう言うと私は首を横に振った、そんなのは申し訳ない。
「今日はデートだったって思いたいんです、ダメですか?」
その言葉にどんな顔をしたら良いか分からず、私は手元を見た。
「それと、代わりと言っては何ですが、今度は僕に付き合ってほしいです、18日に村の麓で開催される灯籠流しのお祭りに一緒に行きませんか?」
高橋所長の提案に、以前牧内さんが言っていたお祭りの事だとすぐに分かった。
夜の外出は正直不安がある。きっと人も多いだろうし、ひまわり畑ので起きたような事態にならないか心配もある。
でも、高橋所長が一緒ならまたうまく対応してくれるかもしれない。お祭りにも行ってみたいし。
私は少し考えた後、顔を上げて高橋所長を見た。
そして、コクリと頷く。
「良かった」
嬉しそうに笑顔でそう言うと彼は腕を伸ばし、私の頭を撫でた。私は肩を上げて少し身構える。
すると、頭の上に乗っていた彼の手はゆっくりと下がり私の頬を撫でた。
彼は優しく微笑みながら私の顔を見ていて、大きくてしっとりと温かい手は、ハンドルを握っていたせいか革製品の匂いがした。
そして唇の横で手が止まる。
彼の目線は少し下に向いていて私の唇を見ているようだった。
私は彼の手と顔を交互に見て戸惑っていると、「後藤さんはまたに子供のような表情をしますね」と言って笑った。
カナちゃんにも言われたが、私には男性に対する免疫がない。それは自分でも自覚している。
でも、恋人でもない人に触れられるのは普通ではないという事は分かっている。
恋人同士なら触られても違和感を感じないのだろうか、そもそもその感覚すら私には分からないが。
「髪の毛が唇にくっ付いてますよ」
そう言って頬から手をすっと離し、髪を外側に流した。
手を戻した後も、まるで私の事を観察しているかのようにじっとこちらを見ている高橋所長。
沈黙の中、葉の影で薄暗くなった車内で男性と2人きり、目を合わせる事も出来ず私はただキョロキョロと周りを見ていた。
やはり高橋所長と一緒にいると調子が狂う。
早く帰りたい。
「…じゃあ、そろそろ帰りましょうか」
心の声でも聞こえたかのように彼がそう言うと、私はふぅ、と詰まっていた息を吐き出した。
さっきの沈黙は一体何だったのだろうか。
男の人ってよく分からない。
車は再び動きだし、施設へと向かう。敷地内に入り車が停まると、私は麦わら帽子を手に車を降り、高橋所長はその他の荷物をさも当たり前のように持ってくれている。
駐車場を歩いて施設へ戻る途中、建物の入口付近にバイクが数台整列して並んでいた。
赤や黒、緑などデザインはバラバラで、車体が高く、ゴツゴツしたタイヤを履いている。
山奥の洋館のような施設に置かれたミスマッチなバイクを珍しく思い見ていると、高橋所長はオフロードバイクだと教えてくれた。
「従業員の男の子達の趣味で、これで山道を下っているそうなんです」
高橋所長曰く、舗装されていないデコボコした獣道でも走れるのだとか。
確かに、またに複数のバイクが一斉に音を鳴らして遠のく音を何度か聞いている。
それはまだ暗い早朝だったりするのだが、音の正体はこれだったのか、とまじまじと見た。
「あれ、しまった」
高橋所長はネームプレートを手に持ち、何度か出入り口を開錠する機械にネームプレートを当てているが音が鳴らず、怒られるなぁ、と呟いている。
すると彼はその小さな機械をパカっと開けて何やらピピっと打ち込み始めた。
彼の手元を見ると、機械の中は小さなボタンがたくさん付いた計算機みたいになっていて、ネームプレートに書かれた数字を打ち込んでいる。
「高温の車内に置いたからカードの磁気が狂っちゃったようです、ちょっと待って下さいね」
そう言って30桁ほどの長い数字を打ち込むと、ピー長い開錠音が鳴って自動ドアが開いた。
先日、ネームプレートを紛失した女性従業員も事務のおばさんの事を言っていたが、高橋所長も怒られる事があるのか、と少し可笑しくなってしまった。
玄関に入り、靴からスリッパに履き替えると所長はまた機械にピピっと数字を打ち込む。
ピーと鳴って自動ドアが開き一歩中に踏み込もうとした時、中庭の洋風東屋の中でお茶を飲んでいたいちごちゃんと目が合ってしまった。
彼女は目を見開いて私の事を見ている。
私は呪いを掛けられたかのように身体が硬くなり、ぎこちなく歩き始めた。
どうしよう、高橋所長と一緒に居る所を彼女に見られてしまった。高橋所長はいちごちゃん気づいておらず私と並んで歩き、エレベーターに一緒に乗る。
エレベーターの戸がしまう瞬間まで彼女の目は大きく開いたまま私を見ていた。
まるで蛇に睨まれた蛙の気分だ。




