彼氏じゃない
穂を付けたばかりの稲が並ぶ田園風景を眺めながら車は進んで行く。
ひまわり畑で起きたパニック症状のようなものは落ち着き、今は平常心と言ってもいいほど心の中は穏やかだ。
車も人もほとんど居ない田舎道のドライブはオルゴールのゆっくり回って音を奏でるシリンダーを見ているかのように心が落ち着く。
山と田畑だらけの緑が豊かな景色を眺めながら車に乗って30分ほどで豊道村の道の駅に到着した。
車を降りる前に私はノートに挟んでおいた早苗さん宛の手紙を取り出し、高橋所長に見せる。
「手紙を出すんですね、分かりました、後で切手を買いましょう」
ノートと巾着袋を手に持ち、私と高橋所長はまずレストランへ向かい、早めの昼食を取る事にした。
道の駅のレストランの中は明るい木目を基調としたデザインで、壁面はすべてガラス張りになっていて外の景色を眺めて食事出来るようになっている。
大きなお店では無いが、外との一体感を感じることができ、開放感に満ちていた。
「あら、高橋さん?」
お店の奥からお盆を持った女性店員が声を掛けてくると、厨房に繋がる暖簾から割烹着を着た男性調理師も顔を出した。
「おぉ、高橋さんだ」
高橋所長はこんにちは、と頭を下げて挨拶する。
「今日は休み?可愛い彼女連れて来たのね」
女性店員の言葉に私は手元に目線を落とした。
高橋所長は先ほどと同じように彼女は利用者さんです、と返す。
案内された席に腰掛け一息付くと、私は気になっていた事をノートに書き始めた。
『高橋所長はここの出身ではないと聞いたのですが、なんでそんなに有名なんですか?』
「有名ではないですよ、此処へはたまに買い物に来ますし、それと、この村の方達が気さくなだけです」
そう言うと眼鏡を外し、ハンカチで拭いた。
続けて彼は、出身は東京だが主に施設に寝泊まりしていて週に1、2日ほど代官山にある自身のマンションに帰っているのだとか。
家賃が勿体無いと感じるが、ずっと職場に居るのも気が休まらないからこの生活になってしまったのだそうだ。
「皆さんが僕の事を知ってくれているのは施設が建設された時に地元の新聞に載ったからだと思います、あとは従業員のご家族とかだったりね」
おしぼりを広げて顔を拭こうとして、あ、と手を止め、「危ない、おっさん臭いところ見せるところでした」そう言っておしぼりを綺麗に畳んでテーブルに置き、眼鏡をかけた。
それを見た私は口に手を当ててクスクスと笑ってしまう。彼の《《素》》の部分を見たのは初めてかもしれない。
しばらくすると注文した料理が運ばれ、私はオススメされたジビエカレーを、高橋所長は一口大にカットされた鹿肉ステーキ定食がテーブルに置かれた。
手首に付けていたヘアゴムで髪の毛を1つに束ね、私達は手を合わせて目の前の食事に手を付けた。
ジビエカレーも鹿肉ステーキも臭みは無く、とても美味しかった。私と高橋所長は笑顔で美味しい事を確かめ合う。
外はよく晴れ、ガラス張りの壁面からは山の斜面と思われる岩肌や風に揺れる木々の様子が見えている。
まるでガラスが一枚の巨大なスクリーンになっていて、そこから癒し系の動画を流しているみたいに壮大で現実離れしていた。
ファミレスしか行った事のない私はこんなに静かで落ち着いた外食は初めてかもしれない。なんだか大人になった気分をカレーと共に味わっていた。
———昼食後、お土産を買うために私達は直売所とスーパーが一緒になっている建物の方へと向かう。
直売所に着くとお土産屋さんの棚に置かれた“雷鳥の里”を手に取る。
サクッと軽い食感で、香ばしさがある和風のウエハースみたいなこのお菓子が私は気に入っている。
ひなちゃん達も気に入ってくれるといいな。
「あれ、高橋さん?」
私がお菓子の箱を手に取って見ていると高橋所長を呼ぶ声が聞こえ、声のした方へ顔を向けるとエプロンを着た女性店員がこちらに歩み寄って来る。
「珍しいわね、今日はお休みなの?綺麗な彼女連れて来たのね」
女性がそう言うと高橋所長は彼女は利用者さんです、とまたもや同じ返事をする。
まるでデジャブだ。
「恋人同士なのかと思ったわ、美男美女でお似合いなんですもの」
その言葉に高橋所長は、はははと笑って受け流し、私は視線を落として包み紙に描かれた雷鳥のイラストを見てやり過ごした。
「あ、そうだ、切手買いたいんですけどありましたっけ?」
高橋所長がそう言うと女性店員はレジにある、と言って私達は会計に向かった。
「すみません、僕がネームプレート付けていればこんなに誤解されなかったかもしれない」
会計を済ませ、ご当地キーホルダーのゆるキャラを見ていると高橋所長は小声で謝ってきて、私は首を横に振る。
「今日はプライベートな気でいて」と彼は呟く。
私はとりあえずニコリと笑顔を作って気にしてませんよ、とアピールした。
ずっとここに居る訳ではないし、知り合いがいる訳でもないので誤解があってもさほど気にならない、と言うのが本音だ。
それに、私は外出申請して良かったと思っている。
施設で閉ざされた空間で過ごすと現実味が無くなり浮世離れした気分になるが、こうして色んな人が行き交う商業施設に足を運ぶと世の中が動いている事を実感し、現実に戻ったように感じる。
早く以前の自分に戻って生活したい、勉強したい、そんな向上心に似た感情が湧き上がってくるのだ。
買い物を終えて休憩用のベンチや自販機などが置いてあるエントランスを歩いていると、またもや高橋くん、と声を掛けられる。
「久しぶりだね、今日は休みかい?」
話しかけて来たのは眼鏡をかけた白髪の高齢男性だった。
「中村さん、ご無沙汰しております」
高橋所長は今まで話しかけて来た人達とは違い、この中村さんという男性が誰なのかハッキリと分かっているようだった。
「デートかい?」
中村さんに聞かれ、高橋所長はお決まりのパターンで施設の利用者です、と私を紹介する。
「後藤さん、こちらは中村さん、この村の駐在さんです」
高橋所長の言葉に中村さんに目を向けると、着ていた服が水色のシャツに紺のスラックスで、“お巡りさん”っぽい事に気がついた。
この方があの一軒家のような交番にいる警察官なのか、と以前見た家屋を思い出す。
私はペコリとお辞儀すると、中村さんもどうも、と言って頭を下げる。
物腰が柔らかく、紳士的な印象だ。
「何か困った事があったら言ってくださいね、って私より高橋くんの方が頼りになるかもしれないけど」
「中村さんはこの村の事何でも知ってますから、僕は頼りにしてますよ」
高橋所長はそう言うと、その流れで2人は雑談を始めた。
私は手持ちぶたさから高橋所長の後ろでキョロキョロと道の駅を見渡していると、少し離れたところに赤いポストを見つける。
高橋所長の袖をツンツンと引っ張り、ポストを指差した。
「あ、お手紙ですね、分かりました」
彼が待ってくれているお土産を入れた袋の中から手紙だけを取り出し雑談している2人に背を向けてポストに向かうと、綺麗な子だね、と言う中村さんの声が聞こえ、私はその場にいなくて良かったと思ってしまった。
容姿の事を褒められても毎回どう反応していいのかよく分からないし、声の出し方を忘れてしまった私は以前よりもコミュニケーションを取るのが下手になっているので人を避けてしまっている。良くないと分かってはいるし、こんな反応しか出来ない自分が嫌になる。
ほぼ無意識にため息を吐きながらポストに手紙を入れると、投函口の鉄の擦れる音がして手紙が中に落ちていった。
すると、足元で何か黒い物体が動き、私はびっくりして後退りすると黒い野良猫がポストの裏から出て来た。
日陰になっている場所で涼んでたのだろう。
猫はなかなか鋭い目付きをしており野生で生きて来た逞しさが滲み出ている。
私が近くにいても動じないところを見ると人間慣れはしているみたいだけど。
痩せ細った体をぐーんと伸ばすと猫はゆっくりと歩き出し、道の駅に横付けする形で停めてある軽トラに近づいて行く。
軽トラの助手席には猟銃と思われるライフルの銃口が窓にもたれ掛かっていて、私は顔を横にして軽トラの荷台の下を覗き込むとしゃがんだ体勢の踵の上がった長靴が見えた。
猫の後を追うように軽トラに近づき反対側を覗くと、そこには以前工芸品店で見た“山の男”が居た。彼は魚肉ソーセージを小さく千切って猫に食べさせている。
長靴には跳ねた泥が乾いて所々ベージュになっており、その泥は黒のカーゴパンツにも点々と模様を描いている。
肘まで捲った薄手のデニムシャツからは筋肉質な腕が伸びていて、大きな体で魚肉ソーセージをちびちび千切る姿は何とも言えないギャップがあった。
そして髭とお団子頭も健在だ。
彼は私に気付きチラッとこちらを見たが、直ぐに視線を外した。
私は猫を驚かさないようにそっと近づき、彼の前にしゃがみ、背中を丸めて魚肉ソーセージに食らいつく猫を見つめた。
以前見た時は気付かなかったが、“山の男”の右頬には7、8㎝ほどの切り傷のような傷跡があった。
赤みはなく古い物と思われるが縫合の跡もあったので深かった事が伺える。
彼は猫を撫でていたので私も手を伸ばしてみる。
「触んな」
低く、冷たい声で言い放たれ私は途中で手を止める。
「野良だから何持ってるか分かんねぇぞ」
私の方を見る事なく突き放すようにそう言いながら彼は猫を撫で続けている。
しょんぼりしていると少し離れた所で、あれ、後藤さん?と私を探す高橋所長の声が聞こえた。
「ほら、彼氏が探してるぞ、早く行ってやれよ、《《お飾りちゃん》》」
山の男はそう言うと目だけを上に向けて私を見た。
彼の目は色素が薄く、10円玉のような茶色をしている。
“お飾りちゃん”
そのキーワードが嫌味だという事を理解した私はポカンと開いてしまった口を閉じ、立ち上がってその場を離れた。
ほぼ初対面の人に何故そんな事を言われなくちゃいけないのか、意味が分からない、そもそも彼氏じゃないし、っっっもどかしい。
私が高橋所長の視界に入ると彼は「良かった、何処に行ってたんですか?」と心配そうに声を掛けた。
何だかノートを取り出すのが面倒くさかったので私は彼の手を取って指で“ねこ”と書く。
すると彼はふふふと笑い、体を揺らす。
「すみません、くすぐったくて、猫を見てたんですね」
可愛かったですか、と聞かれ私はコクコクと頷いた。
「そろそろ施設に戻りましょうか」
その言葉に私が頷くと、私達は駐車している車まで一緒に歩いて行く。
車に乗り込み、高橋所長がボタンを押すと静かにエンジンが掛かった。
炎天下のアスファルトの上に停めていた車内はかなり高温になっていてシートも熱くなっていたが、直ぐに涼しい風が出て車内を冷やしていく。
車は動き出し、駐車場から大通りに続く出入り口へと向かう。その途中、道の駅に横付けされた軽トラの前を通った。それは先ほどの“山の男”の車だ。
彼は軽トラの荷台に体を寄り掛からせ、ビーフジャーキーを齧りながら何処か挑発的とも取れるような睨みを効かせた目で私達を見ていた。
そして彼が手に持っていたジャーキーの袋を良く見ると“Natural Petfood 100%deer”と書かれている。
食べても問題ないとは思うが、分かってて食べているのだろうか。




