故郷
3月の早朝はまだ少し肌寒く、私は着ているカーディガンの袖を引っ張り手を隠した。
海を背にして建っている島で唯一の郵便局には職員がまだ出勤しておらず、カーテンで目隠しされたガラス戸を覗き込んだが何も見えない。
郵便局の前を行ったり来たりして落ち着きなく歩き回っていると、建物の裏口から配達員のおじさんが郵便物の入った箱を持って出て来た。
「お待たせ、やっと来たよ」
そう言って箱をバイクの荷台に乗せると一通の封筒を私に差し出した。
私は袖から手を出しA4サイズ程の封筒を受け取り、宛名を確認する。
それは間違いなく私宛の物であり、送り主は待ちに待った大学からだ。
一気に体温が上がり胸が高鳴る。
ここ数日間、期待と不安でずっとソワソワしながら過ごして何をしても身が入らず気が気でなかったが、これでやっとはっきりする。
フラップの隙間に指を入れて開封し、深く息を吸い込む。
険しい顔で書類に目を通していた私の表情がみるみる変わっていくのを見て、おじさんは何か言いたげな顔をしていたが、私は深く一礼してその場から走り去った。
早く伝えたい、その一心だった。
封筒を落とさないように両手でしっかりと抱え、水平線を突っ切るように海沿いの道路を走る。
やがて朝日が昇り、辺りを明るく照らしていき、海面の光が弾けて増殖するようにキラキラと輝きだした。
「早苗さん、合格したよ!」
家に着き、玄関扉を勢い良く開けると私は室内に向けてそう声を張り上げた。
すると、杏奈ーっと大きな声で私の名前を呼びながら早苗さんが走って出て来る。
早苗さんは私を抱きしめ、2人できゃっきゃっ言いながらその場で跳ねていると、2階から眠たそうな顔をした子供達が降りてきた。
階段は壁面に沿って玄関と向かえ合わせになっており、1人降りて来る度に
「杏奈ちゃん、大学合格したの?」
と聞かれ私はそれに答えていく。
そしておめでとうの言葉にありがとうを返していった。
「今夜はお祝いよ!」
早苗さんが言うとみんな朝からはしゃぎ出し、まだ入所して間もない子はそのノリについていけず引いているのを見て私は少し申し訳ない気持ちになった。
この家には私を含めると9人の子供が暮らしており、私以外はショートステイでこの家に来ていて血の繋がりも何も無い赤の他人だ。
入所期間はバラバラで、夏休み等の長期休みを利用して来る子もいればそうじゃない子もいる。
みんなそれぞれ事情があってこの小さな島にやって来た子達だ。
イジメや家庭の問題、犯罪に巻き込まれたり犯罪まがいの事をしたり…住んでいた環境から抜け出す必要のある子達がここには集まっている。
心に深く傷を負い、この家に来た当初は誰とも目を合わさず口もきかなかった子も居たが、美しい海と壮大な緑に囲まれた大自然の中でゆっくりと過ぎてく時間を感じ、同じような境遇の仲間達と過ごすうちに次第に心を取り戻すのだ。
最初はヘルメット無しで原付バイクに乗ったり、トラックの荷台に平然と人が乗っている島の光景に驚き、家族のように話しかけてくる島民に戸惑う事しか出来なかった子が次第に受け答え出来るようになっていく姿を見ると私も嬉しくなる。
私の場合は特殊でショートステイでは無く親と死別して身寄りがいなかった為、4歳の時に早苗さんに引き取られ、彼女は私のお義母さんになった。
この短期入所生活援助施設〝山と海とこどもの家〟を運営しているのが早苗さんで、みんなの母親的な存在だ。
早苗さんは明るくて元気で常にエネルギーに満ちた太陽みたいな人、世話焼きだが過干渉はせず相手が心を開き歩み寄って来るのをどんと待ち構えている、そんな人。
早苗さんの旦那さんは20年前に海難事故で亡くなっており、お嫁に行った娘が2人居て島内に住んでいる。
日が暮れると家の中はお祝いの準備で賑わい始めた。
早苗さんが大量の唐揚げを作っており、私はその後ろで手伝いをする、いつもの光景なのだが杏奈ちゃんは座ってなよ、と言われ居間に座らされてしまう。
「杏奈おめでとうー!」
玄関が開く音とほぼ同時に声が聞こえた。
早苗さんの2人の娘で私のお義姉さんにあたる、香さんと理恵さんがケーキやフルーツを持って駆け付けてくれた。
「もう島中が杏奈の話題で持ちきりだよ、この島で初めての医大生が誕生したって」
「夢に一歩近づいたね、おめでとう!」
香さんと理恵さんは2人とも早苗さんに似て元気で明るい人柄で、良く私達の様子を見に来てくれるのだが3人が揃うととても賑やかだ。
誰かしらずっと喋っていて、その会話が常に脱線し笑ったり怒ったり悩んだりと忙しいのだ。
香さんと理恵さんが加わった事で家の中が一層明るくなり賑やかさが増していく。
気の知れたメンバーが揃いみんなでご馳走を食べる、まるでお正月が来たかのようで私はワクワクした。
ーー楽しい会食が終わり、少し落ち着いた頃、みんなそれぞれテレビを見たりゲームをしたりお喋りしたりと各々で過ごしていた。
そんな中、早苗さんが居間のドア越しから私に小さく手招きするのが見えた。
「杏奈、ちょっとおいで」
私は早苗さんの方に駆け寄るとそのまま一緒に外に出て、庭の松の木の下で立ち止まった。
街灯が無いため辺りは暗く、月明かりだけが私たちを照らしている。
外は静かで波の音だけが聞こえ、家の中の音が遠くに感じた。
「杏奈、あんたは本を良く読むし賢い子だとは思っていたけど、それだけじゃない、本当に努力家だよ。頑張ったね。」
早苗さんに改めて褒められ、私は少し照れてしまった。
「親バカに聞こえるかもしれないけど、あんたはすごく美人よ。それは武器にもなるし、障害にもなる、都会に行けば色んな人がいて…」
早苗さんは言いたい事を上手くまとめられないようで話の途中でため息をついた。
早苗さんの心配や不安な気持ちがひしひしと伝わってくる。
「こんな脅しみたいな事言ってもしょうがないわよね、杏奈は賢いし強いからきっと大丈夫!やって行けるわ!」
「うん、私は大丈夫だよ、不安よりも楽しみな気持ちの方が強いもの」
彼女を安心させる言葉を探したが、気の利いた言葉が何も浮かばなかった。
「でもね杏奈、無理だけはしないでね。医者なんていつなっても良いんだから辛くなったらいつでも帰って来てもいいからね」
「ありがとう早苗さん、本当にありがとう」
私がそう言うと早苗さんは泣きそうな顔を隠すかのように手に持っていた紙袋に視線を落とした。
「そうそう、プレゼント用意したのよ、大学行ったら必要でしょ」
受け取った紙袋の中を覗くとそこにはリボンの付いたノートパソコンが入っていた。
私は予想していなかったプレゼントに肩をすくめてしまう。
「こんな高価なもの受け取れないよ…」
私が困惑していると早苗さんは笑いながら
「何言ってんの、今時の大学生はパソコン持ってないと、ほら受け取って」
私はプレゼントを受け取ったが嬉しいという気持ちよりも申し訳ないという気持ちの方が強かった。
私が医者を目指しているのはこの島に医者がいないからだ。
みんな体調を崩すと本土か隣の島まで行かなければならない、急を要する際にはとてももどかしい想いをしている。
助かるかもしれない命を高齢だからなどという理由で見送らなければならない、そんな場面に何度か遭遇した事がある。
子供ながらにそれが悲しくて仕方なかった。
その悲しみと自分の無力さに対する悔しさが私の医者になりたいという気持ちを高みに押し上げた。
何年かかるか分からないが、この島に病院を作る、それが私の夢だ。
私は他の子供達と違って親からの継続的な支援はない。
あるのは実母が残した僅かな貯金だけで、そのお金と自治体の補助金で本土の高校まで通う事が出来た。
本来なら孤児院に行くところを早苗さんが引き取ってくれ、何も持っていない私に島の人達は洋服や靴、筆記用具などを寄付してくれて、現にさっきまで噂を聞きつけた島の人達がリュックやスーツケースを使って欲しい、と持って来ている。
他人の私を気に掛けてくれる心優しい島民と早苗さんに私は恩返しがしたいのだ。
「私、絶対にお医者さんになって帰ってくるよ、だってこの島が私の家だもの」
改めて自分の決意を口にし、目標を果たすと早苗さんに約束をした。