精神科医のいる森の家
電源が切られた自動ドアの間に立っていたのは白衣を着た男性だった。
私と目が合っても動かずただじっとこちらを見ている。
その表情は何処か驚いているように見えたので、後ろを振り返ってみたが何もなく、私の事を見ているのだと思いペコリと軽く頭を下げると彼は、はっとしたように表情を動かした。
「あ、所長、ここに居たんですか、探したのよ〜」
牧内さんが奥の方から出て来ると、私の元に駆け寄り後藤杏奈さんお連れしました、と言って紹介した。
すると表情を取り戻した彼は笑顔を見せる。
「すみません、こんなにしっかりとした方の入所は久しぶりなのでちょっとびっくりしてしまいました」
そう言うと牧内さんはあらあら、と言って口に手を当てくすくす笑う。
「よくお越し下さいました後藤さん、施設のご案内をします、こちらへどうぞ」
所長がそう言うと牧内さんは預かるわね、と言って紙袋を私の手から取っていった。
「ここでは初めての人は所長が案内する伝統なのよ」
そう言われた私は施設の入り口に立っている所長のいる方へと歩み寄る。
彼の眼鏡の奥から逸らす気の無さそうな視線を感じ取った私は目が合わいように目線を下に落として施設内に入った。
高橋所長は白衣の中にシワのない綺麗なワイシャツにネクタイをきちんと締めていて短髪で前髪を7:3に分けてセットし、襟足やもみあげは刈り上げてスッキリと清潔な印象だ。
自動ドアを潜って室内に入るとまず開放感のある高い天井に目を奪われる。
白を基調とした内装は外観と調和させた洋風なデザインになっており、柱や室内を囲うように取り付けられた幅木にも彫刻で細かな装飾がされている。
その美しさに私は思わず見惚れてしまう。
玄関に入ってすぐ左側の壁には扉があり、その横は受付のような窓口になっている。
反対側には下駄箱が設備され、私はキャンパス地のスニーカーからスリッパに履き替えた。
「改めまして、当施設の施設長をしている高橋洸平です」
彼は首から下げているネームプレートを持ち上げると名前の前に“医師”と書いてある。
私は手を体の前で揃えてお辞儀をすると「ふふ、後藤さんは真面目な方のようですね、こちらへどうぞ」所長はそう言うと玄関と室内を隔てる壁に設置された小さな機械にネームプレートを当てるとピッと鳴って自動ドアが開いた。
中はカタログで見た“憩の場”になっており、入って直ぐに正面の大きく開かれた窓が目に留まった。
クローゼットの扉のように蛇腹状に開かれ、室内と外の境を無くしているかのようだった。
室内には数人の入所者がゆったりとしたベージュのルームウェアを着て1人掛け用のソファに座ってお茶を飲んだり本を読んだりしながら寛いでいる。
入り口と並行して造られた給湯室のカウンターは壁から出っ張る形で設計されており、その上にはケースに入ったコップと卓上ウォーターサーバー、多種類のティーバッグとクッキーなどのお菓子が置いてある。
「ここはみなさんが利用する憩の場です、読書したりお喋りしたり、自由に使って下さいね」
高橋所長はそう言うとテラスの方に向かって歩き出したので私は後を着いて行く。
人工木で作られた広いテラスにもテーブルと椅子、ソファなどが配置されており、外に出る時は靴に履き替える必要があった。
「名前の書いてない靴は共有の物です、どうぞ」
大きなクロックスサンダルを足元置くと、私はスリッパを脱いでそれに履き替えた。
「ここは中庭です、好きに出入りして構いません」
所長の後を追うようにサンダルをパカパカ鳴らせながら3段ほどの階段を降りて芝生の上を歩く。
施設を取り囲う塀の下に造られた花壇には鮮やかな草花や色とりどりの薔薇が植えてある。
テラスの階段と繋がるように敷き詰められた石畳のアプローチの先には真っ白な八角形の洋風東屋があった。
そして更に私を見入らせたのが庭園から覗く山脈だった。青くてゴツゴツした山が横一列に広がっていて、自然の壮大さが感じ取れ、地球に住んでいるんだ、と漠然とした感情が胸に広がる。
生まれて初めて見るものばかりに私は子供のように目を輝かせ、口を開けて見渡していた。
「啓太くん」
高橋所長が誰かを呼ぶと、牧内さんと同じ黒のポロシャツに黒のパンツを履いた若い男性が立ち上がって近づいてきた。彼のネームプレートを見ると“看護師 牧内啓太”と書いてある。
牧内さんが車での移動中に息子と一緒に働いていると言っていたので、この人が牧内さんの息子さんだという事が直ぐに分かった。高橋所長の紹介で私達はぺこぺことお互い頭を下げて挨拶を交わす。
「よろしくお願いします」
まだ20代前半と思われる若い牧内さんはニコッと笑うと八重歯が覗き、細い目は少し吊り上がって屈託のない笑顔で母親譲りの社交性の高さが垣間見れた。
そして、先ほどから視界の端でチラチラ見えて気になってしまう入所者が居る。
その人は牧内啓太さんが先ほどまで話し掛けていた男性なのだが、パジャマのボタンを全開にして仰向けで芝生の上に寝ているのだ。
「あの方は櫻井さんです、日焼けが趣味で天気のいい日はずっと日光浴をしているんですよ」
高橋所長がそう言うと、牧内啓太さんは櫻井さんに近づき、ほどほどにしないと痛くなるよ、と言って諭していた。櫻井さんはそれをずっと無視し続けている。
牧内さん以外にも施設のスタッフが何人か居て入所者のケアや掃除などを行っている。高橋所長曰く黒のポロシャツは看護師さんで、水色のポロシャツにベージュのエプロンをしているのはその他の助手さんなのだそうだ。高橋所長は一人一人に私の紹介をしながら案内を進めていく。
「室内もご案内したいので行きましょうか」
高橋所長と室内に戻りスリッパに履き替えていると、ガムを噛みながらスマホをいじっている若い女性と目が合った。片膝を立てて体を斜めに傾けながらソファーに座っていて黒のインナーカラーを覗かせたピンク色の鮮やかな髪色をしている。
私がペコリとお辞儀すると、彼女は目を逸らし、何事も無かったかのようにスマホをいじり続けている。
「ここのご利用者さんは不器用で人見知りの方が多いんです、気にしないで下さいね」
高橋所長は本人に聞こえないように私の耳元でそう囁き、近づく彼の顔に私は少し身構えてしまう。
足元に視線を落としていると小さな小瓶が転がって足に当たり、私はそれを拾い上げる。
「あ〜ごめんなさい」
そう言いながら薬の瓶や箱が入ったケースを抱えた白衣姿の女性が駆け寄り、私は小瓶を彼女に渡すと高橋所長は「良いところに来た」と言って女性を紹介した。
「彼女は薬剤師の唐田さんです、唐田さん、こちら本日から入所された後藤杏奈さんです」
「唐田です、よろしくお願いします」
マスクのワイヤー部分を直しながら唐田さんは頭を下げる。彼女はロブほどの長さの髪を一つに束ね、ボストンタイプの黒縁眼鏡を掛けていて表情はよく見えなかったが、おっとりとした印象を受けた。
その後も高橋所長の施設案内は続き、2階の食堂を回っていると誰かを呼ぶ女性の声が聞こえた。
「こうへーい」
食堂前の通路でスリッパをパタパタ鳴らしながら走って来たのはフリフリのロリータ服を着た若い女性だった。片手にはウサギのぬいぐるみを持っている。
「洸平、探したんだよ?3階に居ないから何処かなって」
甘えた喋り方で高橋所長に話しかけるのを見て“こうへい”は所長の名前だったという事を思い出した。
黒髪のボリュームのある無造作なショートヘアにロリータ服を着た彼女はとても目立っている。
「伊集院さん、今日も元気ですね」
高橋所長がそう言うと、彼女は「いちごちゃんって呼んでよ〜」と駄々をこねる子供のように白衣の袖を引っ張った。
そんな“いちごちゃん”は私と目が合うと一気に表情が変わり、敵意を剥き出しでこちらを睨む。
つり上がった眉毛と目には迫力があり、私はその気迫に負けそうになったが、にこりと笑うと舌打ちをされてしまった。
「誰この女?超目障りなんだけど、どっか行ってよ」
さっきとは別人のような声に私は顔を引き攣らせて驚く。
「あら、いちごちゃん、所長見つけたのね良かったわね」
牧内さんが階段から姿を現すと、後は任せて、とジェスチャーをして私の肩に手を置き、体を180度回転させて方向転換した。
「ここからは私が案内するわね」
そう言うと牧内さんと私は高橋所長といちごちゃんを背中を向けて3階の女性棟へ向かった。
「さっきの子は伊集院春華って言う名前なんだけどみんなに“いちごちゃん”って呼ばせているの」
どうやら“いちごちゃん”は所長の事が大好きらしく、今日は甘えたい日なのだとか。
「他の女の子が所長の近くにいると短気起こすから、あの子にはちょっと気を付けてね」
それを聞いた私はまるで西森さんと美貴先輩みたいだな、と思ってしまった。
「所長ったらモテるのに自覚してないから罪な人よねぇ」
牧内さん曰く、所長は女性は勿論のこと、男性からも支持を得ていてみんなの人気者なのだとか。
清潔感のある身なりに、鼻筋の通った整った顔、30代半ばと言っていたがそれ以上に落ち着いた雰囲気が大人の余裕を醸し出していて女性にモテるのだろう、と私は推測した。
「はい、ここが後藤さんのお部屋よ」
牧内さんの足が止まり、私は部屋の方を見ると“後藤杏奈”と書かれたドアプレートが掛かっていた。
白い木製のドアに付いたゴールドのドアノブに手を掛けて開けると、そこには20畳程の広い空間が広がっていて、白を基調としながらピンクとゴールドで華やかさを演出したロココ風なインテリアで“女の子の憧れの部屋”と言った感じだ。
広いベットにソファとテーブル、勉強が出来そうな机と鏡の付いたドレッサーも設備されている。
その“夢のお部屋”を見た私はまたもや口を開けて見入ってしまった。
「お風呂とトイレはここにあるから使ってね、それから…」と、牧内さんは設備や施設のルールについて説明を一通り終えると部屋を後にした。
私は深くお辞儀して彼女を見送り、扉を閉める。
ふぅと息を吐きベッドに腰掛け、ぽふっと背中からベッドに飛び込んだ。想像以上に布団が柔らかく、上半身が埋もれそうになる。
私はぼんやりと島の事を思い出していた。
私が生まれ育った“山と海とこどもの家”もこんな自然豊かな環境の中で他人同士が一緒に生活する施設だが、まさか自分が利用者になる日が来るとは、何とも考え深い。
そして今日、出会った利用者の女の子達は皆んな手首に切り傷があった事を回想していた。
ピンクの髪の毛の子もいちごちゃんにも。
傷は手首だけでは無いのかもしれない。
正直、今の私には彼女達の自傷したくなる気持ちが少し分かる。
辛く、思い出したく無い記憶が頭を占領したり、心が不安定になった時、自分を傷付けて体が痛む事でそれを誤魔化せるし、“傷つけてしまった”という胸のドキドキが心のモヤモヤを打ち消してくれるからだ。
他人を傷付けている訳では無いから悪い事と認識していないし、それでいいと私は思っている。
自分を保つのに必要な事、だよね?
…なんて、こんな考えは歪んでいるのかも。
バッと飛び起き、私はベットの横に付いている窓を開けて外の空気を吸い込んだ。
上にスライドして開けるタイプの小さな窓が4つ並んでいて、その一つはベッドの横だった為、私は膝立ちする形でベッドに登り、窓に両肘を掛けて外を眺める。
そこからは中庭から見た光景が広がっていて先ほどより高所に居る分、より遠くまで景色を見渡せる。
陽が傾き始め、山々の影を長く引き延ばしている。
話し声が聞こえて下の方を見ると中庭で過ごす人達が見えて、その中に高橋所長といちごちゃんが居た。
高橋所長は私に気付くと手を振る。すると横に居たいちごちゃんがすかさず両手で所長の頬を挟み、タコのようなってしまった彼の顔をぐりんっと自分に向かせるとその勢いで所長はよろめき、眼鏡がズレて落ちそうになった。
それを見て私は思わず、ふふ、っと笑ってしまう。
ふわっと風が吹き、髪の毛がなびいた。
部屋の中が新鮮な空気で満たされていく。
私はここでの生活に対する不安はいつの間にか消えていた。




