失ったもの
穏やかな波音が聞こえる。
よく晴れた青空の下、長靴を履いて浜辺を歩いていると砂の上に青い物体が落ちているのを見つけた。
それはぷっくりと膨らんだ餃子のような形をしていて透き通った半球体の中身には何もなく、向こう側が透けて見えている。
青く透明なその個体はガラス細工みたいに綺麗だった。
「杏奈、それ触っちゃだめだよ」
見惚れていると理恵さんの声がして私は顔を上げる。
「これはカツオノエボシっていうクラゲでね、綺麗だけど毒があるから触らないでね」
彼女はそう言いながらガーデニングスコップで穴を掘ってそれを埋めた。
「うおーすげー!エイリアンみたいな魚が打ち上がってるー!」
少し離れたところで子供の声がし、理恵さんは行こう、と言って手を差し出すと私の手を優しく握った。
台風の後の浜辺には珍しい生き物などが打ち上げられる事があり、幼い私はよく他の子供達と一緒に探検と称して遊びに行っていた。漂流物を素手で触るのは禁止で、みんな木の棒を片手にまだ乾き切っていない砂浜の上を歩くのだ。
好奇心を掻き立てられ知識も得られるこの遊びが私は大好きだった。
「そろそろ帰ろっか」
理恵さんがそう言うとみんな“山と海とこどもの家”のある方向に向かって歩き出した。幼い私は置いていかれないように必死にみんなの背中に着いて行く。
「おかえりなさい」
家に着くと早苗さんがおやつの用意をして待っていた。
「杏奈、ほっぺに砂がついてるよ」
早苗さんが私の頬を撫でるとふわりと柔らかな匂いがした。柔軟剤と早苗さんの優しく温かい香り、私は心が安らぐこの匂いが大好きだ。
みんなが笑顔で私を見ている、温かくて眩しい────────
────目尻から耳に向かって水滴が伝うのを感じた私は目を覚ました。懐かしい夢を見て涙を流していたようだ。
目を開けると真っ白な天井と点滴スタンドにかけられた輸液バッグが目に付き、そして早苗さんが居た。
「杏奈」
私と目が合うと早苗さんは優しく微笑んだ。
その姿を見て私もへらっと渾身の笑顔を作る。
「もうっこんな時にまで笑顔を見せなくてもいいのよ」
そう言って私を抱き寄せると、私は早苗さんにしがみ付いて胸の中で涙を流した。
「怖かったね、辛かったね、もう大丈夫よ」
私の頭を撫でながらもう大丈夫だから、と繰り返す早苗さんに私は何度もうなずいた。
早苗さんは私を心から安心させてくれる人だ、心が温かさで満たされていく。
—————
「傷はどう?痛い所はない?」
早苗さんにそう聞かれ、私は首に巻かれた包帯に触れて確かめるとアザだらけの腕がパジャマから露出した。暗い中走って色んなところにぶつかったからきっとアザは腕だけではないのだろう。
傷口が少しヒリヒリするが他は特に痛いところも無く体に異常は無さそうだった。
大丈夫だよ
そう言おうと口を軽く開いた瞬間、思考が停止する。
声が出ない。
出ないというか喋り方が、声の出し方が分からない。
あーあーと声を出そうと何度か口を開いたが何の音も発する事が出来ない、あの時感じていた首の圧迫感のようなものは今はもう無いはずなのに。
包帯が巻かれた首に手を当てたまま、思考と共に体も固まってしまった。
声が出ない、どうしよう…。
私の様子を見ていた早苗さんはポンポンと背中を叩く。
「無理しなくていいのよ、ちょっと待ってね」そう言うとベッドテーブルを設置し、メモ帳とペンを取り出した。
『来てくれてありがとう どこも痛くないよ 心配かけてごめんね』
私が紙に書くと早苗さんは安心した表情を見せ、良かった、と呟いた。
「いいのよ、顔が見たかったからちょうど良かったわ、杏奈が目を覚ましたら呼んでほしいって看護師さんに言われてるんだけど、呼んでもいい?」
私が頷くと早苗さんは椅子から立ち上がり看護師さんを探しに病室を出た。ナースコールがあるのに直接呼びに行くところが早苗さんらしい。
病室で1人になった私は窓の外に目を向ける。
景観からして此処は西南医科大学附属病院では無さそうだった。
室内の時計を見ると11時を指している、結構寝てしまったようだ。
私は右手で自分の左腕をぎゅっと掴む。
…何だかそわそわして、落ち着かない。
あちこちキョロキョロと見渡し、忙しなく目を動かしているとすーっと病室の扉が横にスライドして開いた。
ビクッと体が反応するとそれにつられて早苗さんもびっくりする。
「わっ、ごめんびっくりさせちゃったわね」
早苗さんの姿を見て安心した私はまるで今まで息を止めていたかのようにはぁぁ、と長い息を吐いた。
そんな私の様子を見た早苗さんはベッドサイドに来ると諭すように話し始めた。
「杏奈、退院したら一緒に島に帰ろっか」
その言葉に私はすぐにでも返事をしたかった、うん、帰りたいと。
でも今帰ってもまた此処戻って来れるだろうか、夢半ばで終わってしまわないだろうか、そんな風に考えてしまい首を縦に振る事が出来なかった。
俯き考え込んでいると誰かが扉をノックする音が聞こえ、私は顔を上げる。
「失礼しまーす」
元気な声と共に部屋に入って来たのはナースワゴンを押した若い看護師さんと早苗さんと同年代と思われるベテランの女性医師だった。
「今回、後藤さんを担当させて頂く耳鼻咽喉科の岩波です」
「受け持ち看護師の下平です、お体の状態を見させて下さいね」
2人はそう紹介すると看護師さんは私の体に体温計などをテキパキと装着し始め、そうしている間にも担当医の岩波先生は話を続ける。
首の傷は深い物ではなく今後の日常生活に問題は無い事、傷跡が残ることを懸念して縫合はせず、小さな止血テープを並べて貼り傷口を塞いでいる事、今している点滴は感染、化膿予防のための抗生物質である事などが説明された。
そして看護師さんは包帯を替えますね、と言って巻かれた包帯と直接傷口に当てていたガーゼを取ると、ガーゼに薄っすら赤い血と黄色いシミが着いてるのが見えた。
傷口を自分で見る事は出来ないがその様子を見ていた早苗さんは表情を変える事はなくとも太ももの上で重ねていた手がぎゅっと丸まったのを私は見逃さなかった。
その姿を見て申し訳ない気持ちと何処か恥ずかしさ似た気持ちが込み上げて来る。
傷口を見た岩波先生はうん、いいですねと言うと看護師さんは新しいガーゼと包帯を巻いていく。
「杏奈さん、喋れる?」
岩波先生が何かを察したように私に声を掛ける。私が首を横に振ると、それは…と少し間を置いた。
きっと精神的な問題、そう言われるのだろう。
「傷口が開きそうで怖いから喋れないのね、きちんと塞がれば喋れるようになると思いますよ」
柔らかな声質とシワの寄った目尻がマスク越しでも彼女が微笑んでいると分かった。
処置と説明が終わると、岩波先生は最後に私の目を見て話し始めた。
「杏奈さん、いろんな意見があると思うけど、私個人的にあなたはすごく勇敢だと思ってるのよ。人に暴力を振うのはやろうと思えば出来るけど、自分を傷つけるのは容易ではないと思うの、あなたに勇気がなかったら今頃心も体ももっと深く傷ついていたはずよ」
そう言う医師の傍らで看護師さんはうんうんと頷きながら聞いている。
「だから自己防衛に成功したと考えて良いと思いますよ」
——その言葉に私は心がすっと軽くなるのを感じた。
咄嗟の配慮や私の気持ちを汲んだ的確な言葉選び、こんな人間になりたいという尊敬の念が胸に広がっていく。
早苗さんは2人にお礼を言い、私も頭を下げて退室するのを見届けると急いでペンを手に取りメモ帳に気持ちを書いた。
『私、いわなみ先生のようなお医者さんになりたい ここにのこる いしゃになりたい』
それを見た早苗さんは少し困ったような顔をしながら私の手を握る。
「分かったわ、杏奈ならなれるよ立派なお医者さんに、でも気が変わって帰りたくなったらいつでも言ってね」
握った手に力を込めながらそう言うと私も彼女の目を見て頷いた。
私の理想とする医師像は一人一人の気持ちに寄り添いその人の痛みを身体的にも心理的にも和らげてあげられる、そんな医者だ。
岩波先生との出会いでそれを再認識し、心からそうなりたいと思えた。
自分の中に医者への夢がまだ根強く残っている事に希望と喜びさえ感じる。
声が出なくなる程の恐怖を経験したが、こうして前向きな気持ちになれるのだから夢とはすごい力を持っているものなんだな、
……なんて、
そう思っていたはずなのに夜が近づくにつれて次第に気持ちが不安定になっていく。
ふと頭が空になると昨夜の記憶が蘇って来る。
匂い、音、暗闇。身動き出来なくなるほど強く押さえ付けられた時の恐怖。捕まらないように必死で走った時の全身が騒ぐような感覚。
思い出さないように他の事を考えたりするが隙を見ては記憶が蘇り、あの時の感情がぶり返すと呼吸を荒らくし、ぎゅっと目を瞑った。
「嫌だ!」と叫びたくなる衝動に駆られる度に強く腕を握ったりつねったりして心を落ち着かせていた。
私があの場でガラス片を手にしていなかったらどうなっていたのだろうか、彼らは動画を撮って何がしたかったのだろうか、…考えたくもない、気持ち悪い、吐きそうになる。
…声も出ないままだったらどうしよう、以前の生活に戻れるのだろうか。
医者になりたいとは言うもののまた大学に戻って復学は出来るのだろうか。
きっと、難しいだろうな、
考え出すと芋づる式で不安が掘り出され終わらなくなる。他の事に気を向けようとしても集中出来ず、ネガティブな事ばかりが頭を占領していく。
今の私はとても私らしくないと自分でも分かっている。
というか、以前の私ってどんなんだったっけ?
どんな思考回路で物事を考えて、苦難をどう乗り越えてた?
喋る事だけじゃ無く自分自身も失ったみたいだ。
お風呂の栓を抜いたみたいに感情がぐるぐると暗闇へ吸い込まれ、負へと堕ちていく。
やはり早苗さんが言うように島に帰った方がいいのかな。
横になりながらボーと考えていると徐々に瞼が重くなり目を閉じた。




