継承
セントアイビスの中枢、カースルアイビスのシアントルエン城の西側回廊に位置する如何にも古びた宮殿、通称峰の小宮殿はシアントルエン城建築前から存在している建物だ。
この宮殿は城郭が形成される以前までは領主の住まう宮殿として機能していたとされ、その造形は見る者に歴史を感じさせる。
2階層で構築され、一階部は大きな吹き抜けのあるエントランスがあり、両脇に2階へと続く階段が設置されている。
そして2階廊下部の直下には大きな二枚扉があり、その奥はかつての領内政治の中心であった、議場が配置さえれていた。
2階部は主に領主の生活の場であったことから複数の部屋があり、その中でも一際大きな部屋は領主の寝室であったが、現在では貴賓室として整備され、数多くの調度品で飾られている。
セントアイビス伯爵領でも最古の建築物であるのは、周知の事実であるが、シアントルエン城は完成した頃からは、その役目を取って代わられ、今日では年に数回あるかないかの儀式・祭典に供されるのみであるのは、少し寂しく、勿体なくも感じる。
そんな小宮殿であったが、今日は年数回の中、いや、過去数十年の中でも最も意義のある儀式が行われている。
伯爵位の継承並びに叙爵の儀だ。
かつての議場は儀式を挙行するために改装されたおり、一見教会のようなレイアウトになっている。
部屋最奥は周囲より数段高く基礎上げがなされ、その中央には玉座とも言える大きく、そして古びた木製の椅子があった。
そして、その椅子の前にズラッと木製の長椅子が並べられており、その最前列中央に今回の儀式の主役であるジャスパー・アンドリュース・アッシュベリーが腰かけており、彼を挟むように彼の母親のイザベルと弟のニコルソンと言った伯爵家が。
同じく最前列左翼側には伯爵領を構成する貴族たる三子爵のボッシュ卿、ヒュー卿、アーネルス卿、また爵位保有者ではないが、カースルアイビスに多大な影響力を持つ五大貴族であると同時に伯爵領五長職就いている侍従長ウィンランド卿、財務長官ゼフ卿、総参謀監ボスコ―卿、司法長官クリスウッド卿、内務長官フレイムス卿が。
そしての右翼側にはアッシュベリー家と親交のある融和派諸侯たちが着席しており、その後列以降は伯爵領内の各貴族や聖職者、そのまた後列には平民であるが、地元出身の有力商人や伯爵軍の幹部たちが着席していた。
このように大勢の賓客たちが一堂に会した中で、儀式は挙行されていたのだった。
「偉大なる我らが父、あるいは母が仰いました。【汝、強く力を望むのならば、自らを困難へ投じよ。さすれば道は拓かれん】」
抑揚のない声で、説教をするのはセントアイビス伯領教区に属する聖職者の長である司祭ジョシュア・ファーガソンだ。
先述の通りだが、この継承・叙爵の儀には神の下僕たる聖職者の立会が必要であり、継承・叙爵される者は神に対して聖職者を介して神に宣誓しなければならない。
その宣誓がこの儀式の一番重要な事項であるが、そこにいくつまで聖職者からの長い説法を受けなければならない。
このような面倒な儀式はいつの世になっても変わらずだ。
ファーガソン司祭の説法が開始されてから、しばらく経過しており、先程彼が言ったフレーズはもう間もなく、説法が終わると同時にジャスパーの宣誓が始まることを意味していた。
それまで、長ったるい説法に飽き飽きし、欠伸をかみ殺していた参列者も、ようやく終わりが見えたと感じ取り、背筋を整え始める。
「...して、此度我らが神と我らが皇帝陛下より、セントアイビス伯爵位を継承並びに叙爵される者、ジャスパー・アンドリュース・アッシュベリー、...さあ、こちらへ。」
司祭が言うと、ジャスパーはゆっくりと席から立ち上がり、祭壇へと赴く。
参列者一同は静かに彼の背中を見詰め、見送る。
ジャスパーは祭壇に上がると、祭壇中央の玉座の前にゆっくりと跪き、深く頭を垂れる。
そこに司祭がゆったりとした足取りで近づくと、玉座上に安置されていた宝冠を手に取った。
その宝冠は初代セントアイビス伯爵が受け継いできた宝冠であり、伯爵位に就いた者だけが身に付けることができる代物だ。
帝国の数ある貴族の宝冠と比較すれば、質素な造りではあるものの、長い歴史を持つセントアイビス伯ならではの形容できぬ威厳が封じ込められているように感じられる。
そんな宝冠が今まさに、司祭によってジャスパーの頭に被されようとしており、参列者はその証人として、見届けようとしていた。
ずっしりとした重みがジャスパーの頭を包んだ。
宝冠自体が重みを持っていることは当たり前だったが、質量的な重み以外の重圧を、ジャスパーはひしひしと感じ取った。
思わず目を瞑る、同時に目頭がカッと熱くなる。
様々な思いや感情がぐちゃぐちゃなってジャスパーの心を駆けめぐった。
これが父上やそのまた先代たちが感じていた重圧なのか。
いや、まだ俺は宝冠を被っただけだ。
身分だけが伯爵なだけのただの若造だ。
まだこれは始まりに過ぎないのだ。
感極まったジャスパーであったが、司祭が軽く咳払いする。
「では、ジャスパー様。神と皆の前で宣誓を。」
その言葉に我に返ったジャスパーはスッと立ち上がると、参列者の方へ向き返る。
そしてゆっくりと深呼吸した。
「我、ジャスパー・アンドリュース・アッシュベリーはセントアイビス伯爵位を継承、叙爵された者として、我らが偉大なる神と皆に誓う。我はセントアイビス伯爵としての責務を遂行すること、爵位の名誉を守ること、そして我らが神と皇帝陛下の忠実なる僕として己が生命を賭することを宣誓する。」
些か、早口ではあったが、慣習となっているセリフを一言一句違わず発したジャスパーはふうっと一息ついた。
それと同時に、侍従長のウィンランド卿が勢いよく、席から立ち上がった。
「我らがセントアイビス伯爵、万歳!ジャスパー・アッシュベリー万歳!!」
その声を受けた参列者は同じく席を立ち、帯刀している者は剣を掲げながらウィンランド卿の言葉に続いた。
これは貴族が叙される時は必ず行われる慣習であるので、皆慣れたように万歳、万歳と声を上げた。
一同の声は小宮殿の外まで漏れるほどで、先代伯が逝去した暗い気分を一層するかの如く、鳴り響いたのだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
空はすっかり暗くなり、一日中降り続いていた雨の勢いは落ち着いてきているように思えた。
カースルアイビスでの儀式は無事に終了し、市街の暗く厳粛な空気は一転して明るく陽気な祝典ムードとなっていた。
つい数刻前までは通りは閑散としていたはずだったが、それが嘘かのように市民たちが酒を喰らい、ご馳走を食べ、バカ騒ぎに興じていたのだ。
喪が明けたと言ってよいのだろう。
これは帝国内では古来からある風習の一つであり、新領主誕生の際には新領主側から市民に対していくらかの金銭と食事等が施されるのだ。
小遣いをもらい、タダ飯とタダ酒にあり付いた市民たちは、口々に領主様万歳と叫び、騒ぎ立てた。
実際はどこまで忠誠心があるかは不明だが、この時ばかりは全市民の支持を受けることができたのは言うまでもない。
そんな市井のムードはシアントルエン城内の祝賀会場にも確実に伝わっていた。
祝賀会場となっているのはシアントルエン城一階部にあるエリザの間という大広間だ。
この広間の由来は3代伯爵妃エリザ・リード・ブルック・アッシュベリーに因んだもので、何故彼女の名が付いたかは所説あるが判然とはしていない。
特筆すべき点はない、整然とした大広間ではあるが、3代以降の伯爵たちは皆ここで叙爵の祝典を開催してきたことから、そう言った意味合いでは由緒正しい歴史ある広間である。
そんな広間では既に宮廷料理人たちが腕を振るい拵えた、数々の料理が持ち運ばれ、人々はその味に舌鼓を打ちつつ、談笑にふけっている。
その会話の内容は様々であり、物騒な話から他愛のない噂話、あるいは下級貴族が人脈作りに奔走する様子等あった。
そんな様子を新伯爵となったジャスパーは静かに見つめていた。
この祝賀の主役は彼であることは間違いないのだが、彼は借りてきた猫のように重い腰を椅子に預け、一向に動こうとしなかった。
来賓たちが挨拶のために自らの下に訪れた際には笑顔を浮かべ、応対しているのだが、来賓が去った後は途端に表情が無くなっている。
この祝典が気に入らないわけでは無い。
むしろ、このように大勢の人物が祝ってくれたことに大きく感謝しているし、自身が伯爵位に就けたことも誇りに思っている。
しかし、そんな彼の心の片隅には深い不安が巣くっていた。
それが何かは彼自身も分かっていなかったが言い知れぬ何かが彼の心を掴んで離さないのだ。
そんな彼の手元には地元名産のワインが注がれた杯があったが、彼は乾杯の際に一口、口を付けただけで、それ以降はただワインを揺らし、もてあそぶのみだった。