雨の中
雨音とは違う重い音が幾重にも重なり空気を揺らす。
これはどうやら足音のようで、それもかなりの人数であることは明らかだ。
それもそのはずで、金属同士の擦れ当たる音や馬の嘶きは良く知る者によれば明らかに軍隊のそれである。
軍勢と思われる長蛇の列は激しい雨に打たれる中、幅の狭い山道を進んでおり、その者たちは双頭の獅子が咆哮する様を誂えた深紅の旗を掲げているのが伺えた。
これは神聖帝国皇帝の御旗である。
またもう一方では青地に狼と月を誂えた旗も散見されたが、この旗は帝国内ではだれでもその名を口にする大貴族、グレーブズ辺境伯家のものだ。
一見、皇帝陛下の軍と辺境伯軍が共に行軍しているかのように見えるが、おかしなことに将兵の装備服装はいずれも同じ物であった。
これは一体どういうことなのか。
その答えは軍勢の先頭を進む二人の男の会話の中にあった。
「うむ、この山道からはカースルアイビスの街が良く見えるな。」
漆黒の騎馬に跨り、金色の甲冑に身を包んだ男が、物見遊山のように言った。
年齢は三〇後半といったところか、精悍な顔付に加え、長く生え揃えた茶髪を軽く結っている様はとても印象に残る。
「はい、この山道は街道が整備される以前まではカースルアイビスに通ずる唯一の道であったとか。現在では一部の物好きが通るのみであり、巡回の警吏はたまに麓までやってくる程度らしいですな。」
茶髪の男の隣に馬を並べた男がそう答えると、茶髪の男は小馬鹿にするように鼻で笑った。
「杜撰なものよ。よく今まで家が滅びなかったものだ。まあ、そのおかげで我らはこうやって軍を奴らの都まで進められているのだがな。」
「しかし、恐れながら閣下。此度の行動は些かやり過ぎだったのでは? いくら帝都内の正統派貴族の過半数の支持を得ながらと言えど、皇帝陛下に対して上奏もせず、アッシュベリーの跡取りを捕らえるなど...」
茶髪の男は自らを閣下と呼ぶ男を鋭い目つきで一瞥する。
その表情は先程の柔和な印象はなく、見るもの全てが恐れるような冷酷なものだった。
「...キンケイド、お前と言う男はつくづく小心で情けない。常日頃から私の傍にいておきながら何を学んできたというのだ。いい加減うんざりするぞ。」
「っ! ...申し訳ございません。」
これに対してキンケイドと呼ばれた男は委縮するように頭を下げる。
まるで条件反射だ。
「...ふん、まあ良い。お前は何も考えず、私の言うことに黙って従えばいい。それに...」
茶髪の男はそう言いながら、自身の後方に視線をやった。
「我らには皇帝陛下の名代様が付いている。正義は我が方にあるのだ。」
彼の視線の先には騎乗で静かに雨に打たれる一人の人物の姿があった。
この人物、相応の立場にある者であるらしく、豪奢な雨衣で全身を包んでおり、足元に僅かに除く履物は、特注なのか、凝った装飾がなされている。
その人物は茶髪の男の声に反応したのか、傍に控えていた従者に何かを静かに呟くと、従者は恭しく頭を下げ、馬の手綱を引いて、茶髪の男の下へと近づいた。
「グレーブズ辺境伯」
人物が声を掛けると、茶髪の男、もといグレーブズ辺境伯はさっと馬から降り、その場に跪いた。
「これはこれは姫殿下、いかがされましたか?ああ、カースルアイビスはもう目と鼻の先にございます故、鬱陶しい雨天の中ではございますが、もう暫しご辛抱頂きとうございます。」
グレーブズは顔を伏したまま、一気に喋る。
まるで姫殿下と呼んだ人物の返答を拒むが如く。
そんなどこか人を小馬鹿にするような態度のグレーブズに、騎乗の人物は従者に再び小声で指示を出すと、馬から降りる動作をした。
その人物を介助するように、従者が足元に踏み台を下ろし、さらには手を差し出した。
そっと軽やかに地面に足を付けたその人物はツカツカとグレーブズの眼前まで歩み寄る。
そして自身の前跪き、頭を垂れるグレーブズに対して口を開いた。
「顔を上げよ、グレーブズ。」
「はっ」
言われた通り、グレーブズはゆっくりと顔を上げる。
そしてゆっくり見上げると、そこには雨衣に身を包んだ人物が仁王立ちしていた。
「グレーブズよ、妾はその【姫殿下】という呼び方が嫌いだ。即刻やめよ。次にその呼び方をすれば許さぬ。」
「...はは、仰せのままに。」
「それとだ、グレーブズ。再確認だ。アッシュベリーの跡取りと、その郎党共は本当に我が帝国に対する反逆の兆しがあるのだな?」
「...はい、誠にございまする。セントアイビス伯爵ことダニエル・アッシュベリーは過日、帝都内で発生しました異教徒共の反乱運動を扇動した嫌疑があり、これには裏で東の蛮族、サーサイト人が関与しているとの報告もあがっております。またこれらの捜査の結果から判断しましても奴らは黒であります。それに加え、奴らは我らが示した是正通告に対し何の反応もしておりません。死人に口なしとはよく言ったものでありますが、これが動かぬ証拠でありましょう。」
「通告に対して返答がないのは、アッシュベリー伯が逝去し、それどころではなかったから、ではないのか。」
「で、あれば相応の理由を付け、返答すればよいだけのことです。やましいことが無ければ、堂々としていればよいのです。それに我らは通告に十分な期限を設けました。潔白であれば、その期間内で十分準備できた筈であります。」
「...其方がそこまで言うのならば。しかし、未だに信じられぬ。あのダニエルが裏切るとは。」
「全くでございます。融和派の急先鋒で我ら正統派と争う中だったとは言え、惜しい人物を亡くしたものです。これも全て我らが帝国、そして神に仇なす蛮族、異教徒共のせいでありますな。」
「...うむ、そうだな。」
雨脚はさらに激しくなっているようだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
カースルアイビスの中心はその城壁都市の小高い丘となっているシアントルエン城である。
シアントルエン城は伯爵家の居城であり、そして伯爵領の政治の中枢でもある。
この城の中心に放射状に街路が整備されており、その道には一つずつ名称が定めらていた。
その街路の中でも一際大きく、そして整備されている通りの名がオールドジョージ通りであり、この名の由来はセントアイビスの始祖であるジョージ・ブライト・アッシュベリ―に因んだものであるのはいうまでもない。
そんな目貫通りである筈のこの街路には普段大勢の人で溢れているのだが、今日に限っては人手が少ない。
いや、少ないどころか、全くいないと言っても良かった。
雨天という理由もあったが、通りに面した店舗さえ人出を拒むように全て扉を閉ざしてしまっていた。
当然である。
何しろ今日は、セントアイビス伯爵ダニエル・アッシュベリー逝去に係る、その嫡男ジャスパー・アンドリュース・アッシュベリーの伯爵位継承の儀が執り行われる日だからであった。
神聖帝国内における貴族の爵位相続に関する法律は慣習法であり、法典等に明記されているものではなく、原則的には長子相続だ。
また、爵位の生前譲位は許されておらず、現保持者が死去した場合、その直系男子かつ長子に相続がなされる。
仮に、もし直系男子が存在せず女子のみの場合、これは長子相続の原則に則り、長女に譲位されるが、この長女が他家に嫁いでいた場合はその長子に相続される。
つまり、継承者が女子だった場合はその女子が一生嫁がない場合以外、他家に爵位が流出し失ってしまうと言うことになり、婿養子を入れて婚姻させてもその婿の血筋に移譲されてしまう。
ちなみにこれは帝位に関しても基本的に同様であるが、他国等と戦時の場合においては例外も認められる。
この相続に関する慣習法は帝国成立以来一度も改定等はなされず、これまで幾多の貴族が誕生しては消えていった。
アッシュベリー家に関しても幾度も断絶の危機があったが、奇跡的に継続されてきたのは神の恩恵かもしれない。
そんな継承の儀が執り行われる日は本来であれば目出度い日であるが、上記にも述べた通り、爵位継承は現保有者の死が起因し、まだ喪も明け切らない翌日以降数日以内に挙行されることが慣例だ。
これらの理由から街全体が静まり帰っており、今後賑やかさを取り戻すのは少し後日となる。
これも帝国の慣習の一つで、継承の儀を終え、爵位継承の承認を皇帝から宣下を受け、その後に司祭以上の神官職位を保有する者の立会の下、神と臣下臣民の眼前で叙爵の儀を執り行ってから晴れて、爵位を継承したことを宣言できる。
それらを経てから、やっと喪が明け、お祝いムードに移行する。
このように爵位の継承は様々な手続きを踏んでから行われるものであるが、ここ近年ではかなり簡略化されつつあり、皇帝からの爵位宣下はよほどの理由が無い限り、ほぼで即時即決で下され、早馬でその公文書が齎される。
暗黙の了解とでも言ったところである。
これがある為、継承の儀と叙爵の儀は同時に行われることが可能になったことは現在ではごく一般的になっており、このような簡略化が為されたのは、爵領の政治・行政を円滑にまたは支障をきたすことなく履行させるためだと考えられている。