医療研修生の不可解なインターン
あらすじ
私、保志聖奈は看護師になるべくかお医者さんとして働くべきか真剣に悩んでいた。高校最後の年、私は医療の専門学校に受験を行い見事合格。将来医療従事者として出来るだけ沢山の命を助けたい思いから進学。
私の成績は良く。普段から学校へと通っていたおかげで出席日数は足りていた。なので後は専門学校へと教科書を揃えて行くだけになった。
そんなおり、コロナ渦といった世界を一変させてしまった出来事が発生する。私は推薦枠だったのでコロナが発生する前に合格の通知が家へと送られて来た。という訳だった。
【医療研修生の不可解なインターン】
私、保志聖奈。2020年睦月時点で医療福祉専門学校の推薦枠を学校側から貰い受ける。
私が通っている高校は都内でも平均値が高い事で有名な進学校。
私は最初から医療従事者の道を目指していたからこそ選らんだ学校だった。
面接の時の志望動機が選べる専門学校が此処なら多いと思ったからだ。
実際に面接の時に「我が校を志望した動機を教えて貰えませんか?」と聞かれたら素直に答えた。中学校の進路指導の先生に聞いたから大丈夫だと信じてはっきりと答えた。
その時の面接官が「愚直で宜しい」と褒め(?)て貰えた。
中学校の時も推薦を貰って 面接に行っている私だった。
そのまま私は合格。高校生活はあっという間だった。
高校の先生方は私が最初から医療福祉専門学校を目指しているのを知っていたから、私が三年生になる頃には受けられる専門校をかなりの数へと増やしてくれた。
お医者さんか看護師か迷っていたけど。私は先生方の好意を最大限生かして医療福祉専門学校を目指して勉学へと励んだ。
高校生活途中で各地の専門学校が開催する体育祭や文化祭を訪問。
学校の見学会にも何度も足を運び、色んな人から話しを聞いた。
小学生の頃から行っていたので中学生になる頃には私は専門学校では顔馴染みになっていたし通っている生徒さん達が私へと良くしてくれた。
この行為事態 六歳の頃からだから専門学校の教員や生徒さんは私へと色々なアドバイスをいただけた。裁縫を頑張るとか算数や数学を良く理解するとか色んな事を教えてくれた。
最初こそ親同伴で専門学校へと通っていた私だったけど、生徒や先生方が私が良く通うというのを認知された頃から私を学校へと手を引いて連れていったくれた。
お父さんもお母さんも先生方の顔を覚えて私を安心して預けるようになり生徒さん達に可愛がられるようになり、生徒さん達に連れて帰って来るようになり、在校生が新入生を紹介と自身が卒業しても良いように新たに入って来る生徒さんを両親へと紹介したくれ続けてくれた。なので、高校の進路指導は先生は私の名前を出したら逆に自分がビックリした。と私へと笑って教えてくれた。
「我が校へと進学したい生徒さんですか?」と専門学校の先生
「ええ。是非とも。と本人の強い要望です」と進路指導の先生
「もしよろしければお名前をお伺いしても?」と専門学校の先生
「保志聖奈です」と高校の先生
「その子なら小さい時から良く存じ上げておりますよ」と専門学校の先生
「ええ?!」と高校の先生。といった具合に。と笑って言われました。
だから、私が推薦枠で面接に行った時も我が家に居る感覚で行われたし、「一応、他の受験生と同じようにお聞きしておきましょうか?」なんて私の時だけ。何か雰囲気が違っていた。と同じ推薦枠で来ていた他校先に言われたくらいだし。
…で、無事 合格。後にコロナ渦。
とても新入生を受け入れる状態じゃないし
未知の病原菌って事で、私達の入学は一年延期。
専門学校から合格者に課題を出されたけど。
私が小さい頃から行っていた事ばかりだから。手慣れていた私だった。
翌年。病原菌も次第に分かって来たし。私はいても立ってもいられない状態で忙しいのを承知で学校へと連絡。
学校も何とか対応・応対も出来るようになってリモート授業を行っていた。私は人より一足も先に進んでいたから、私に出来る事を学校に志願。
お部屋の消毒・掃除、洗濯、私に出来る事は雑用だとしても率先して行った。
人手不足している中の申し出だしのでインターンという形で病院も受け入れた。大学病院にも私は足を運ぶ。此処も何度も足しげく通った場所なので顔馴染みのお医者さんや看護師ばかりだった。
六歳の頃から私に出来る範囲を受けおって行っていたから、看護長も私の顔と名前は頭の中で一致しているので直ぐに私の名前が出て来るし、私が出来る事や範囲を百も承知だった。だから日々、私へと指示は直ぐに飛んで来る。
他の子もインターンに来たけど。教える時間すら惜しいので資格者は戦場の如く殺気立ってお仕事に当たっていた。というか「邪魔くさいから帰って」という言葉がぶっつけられる。
私は私が教えられる範囲でその人の出来る範囲を模索しながらインターン行いながら壱人づつ丁寧に根気強く教えて行った。
何度、同じ事を同じ人に聞かれた事か。今の切羽詰まった状況の中。心にゆとりを持って教える事は非常に困難だろう。そんな毎日だった。
そんなある日。近場の病院にインターンとして入った日の事。
私の小学校近くに在った駄菓子屋さんのお婆ちゃんが運び込まれた。
私が看護長に聞くと(コロナ)陽性で容態が悪いとの事
私が医療福祉を目指しているのを良く知っている人で飴やら何やら小さいけど。良くオマケして貰っていた。
私はそのお婆ちゃんの娘さんと仲良くさせて貰っていて、今でも連絡を取りあっているので、看護長に許可を貰って直ぐに連絡行った。
取り敢えず、その日はECMOを取り付ける準備に取り掛かり。
私はお医者さんや看護師さんを着替えさせたり、部屋の消毒や掃除等。何時も通り雑用をこなしていた。
次の日、駄菓子屋のお婆ちゃんの娘さんが到着。
看護長には許可をいただいているので娘さんを出来るだけ近くへと案内して上げた。
二重窓から自身の母親が危篤状態を眺めるしかない娘さん。
「ごめんなさい。他の人へと移してしまう恐れがありますのでこれ以上は近付かないでください」と私が言ったら娘さんは「保志さんが謝る事ではないわ。母を宜しくお願い致します」と涙を溢しながら頭を下げられた。
私は心がズキズキして来た。今までは知らない‘誰か’だったけど。
勿論。‘救いたい’‘助けたい’想いでこの仕事を選らんだし。
人が死ぬ事は辛かった。でも親しい人。“知らない誰か”でもやっぱり心は痛かった、辛かった。こんなにも親しい人だと病状で伏せている姿がこんなにもズキズキすんるなんて思いもしなかった。
危篤状態のお婆ちゃんの姿。娘さんは亡くなる覚悟を持たなければならない。私が少しずつ教えていたインターン生が使えるようになって来たので看護長へと相談を持ち掛ける。
「そう。あの人もあの娘さんも小さい時からの知り合いなのね。」と病院間を良く行き来していた私を知っている看護長が納得したように言った。「分かったわ。心のケアも私達の仕事だし
貴女に頼めるかしら。この仕事に就く以上。今みたいに親しい人が時として運ばれて来る何て事は良くある事だから。」と私の将来的な経験を考慮してくれた看護長だった。
そのお婆ちゃんを受け入れ、私は他の入っている所へと報告。
事情を分かってくれたみたいで、お婆ちゃんの件を乗り越えられないならこの仕事はきついだろう。という見解を出してくれたみたいだった。
それからは病院で自分が出来る事を行いながらお婆ちゃんとその娘さんの世話を行った。同じ専門学校仲間は私の話しをちゃんと親身に聞いてくれて「そうか。こういう仕事しているとこういうもあるんだな、いや ありえるんだな」と皆が自分へと置き換えてくれた。
私達に出来る範囲なんて限られているから、私はお婆ちゃんの居る病棟へと足しげく通った、娘さんも色んな神社にお参りしたり御守りを溢れんばかりに購入して見守ってくれた。
そんなインターンの日々が続き、娘さんが私へと語ってくれた。
「お母さんが少し具合が悪かったの、私はコロナだったら嫌だから、お母さんにはなるべく寝て貰って私が色んな所へと問い合わせしたの。漸く診査してくれる所を見付けて病院へと明日、行こうね。って話していた時に私は病院へと行く準備を整えていた時にお母さんが急に倒れて、救急車を呼んだの。職場や色んな人へと連絡したりしてから、此処へと来たの。もっと速く救急車で病院へと連れて行っていれば良かった」とすごく悔やんでいた。
私は隣に立って身を寄せるしか出来なかった。掛ける言葉が見付からなかった。私は泣いている娘さんの背中を擦りながら掛けてあげる言葉を一生懸命探していた。
その時、お婆ちゃんに気力が戻って来るような気配がした。
血色も良く、指が動き、少しずつ時間を掛けてだけど。
お婆ちゃんは意識を取り戻し始めた。
私は看護師やらお医者さんやらを至急 呼んだ。
駆け付けて来た看護師・お医者さんらはお婆ちゃんの容態を確認。
「今までありがとうね」とお婆ちゃんは私達に言葉を掛けてくれた。
戻った意識もやっぱり一時期なものでお婆ちゃんはそのまま意識を失った。私も娘さんも‘ああ。今の言葉が最後なんだな’とその時、理解した。
それから、看護長から呼び掛けられ「保志さん。あの人だけど」と言葉を掛けられた私は頷いた。「分かってます」と答えた。「そう。最後まで、貴女が納得するまで、ちゃんと付き添いなさい」と看護長は私へと掛けてくれた。
その不可解な出来事が起こってからはお婆ちゃんは意識を取り戻す事はなく。そのまま帰らぬ人だろう。頭の片隅を横切る。娘さんもあの時、病室でなんとなくそんな気がしていたみたいだから。静かに泣いていた
覚悟が決まったのか?。腹を括った娘さんは私へと相談してお婆ちゃんの家族へと死期が近い事を告げ回るよう私へと泣き腫れた顔で言って来た。
私がお婆ちゃんの容態を逐一報告する事を約束すると、娘さんは病院を出て行った。私の事を孫のように可愛がってくれた駄菓子屋のお婆ちゃん。
そんな私に看取られるならお婆ちゃんも逝ける。
そう言って出来るだけ親族を集める為に娘さんは奔走した。
それから短い時間だけど。お婆ちゃんの親族がちょくちょく病室を訪れるようになった。
コロナ対策で全員は無理だと私が伝える。と小さい時から私を知っている親族の皆さんは理解してくれて、時間をずらしてくれた。
親族の皆さんがお婆ちゃんに一通り面会し終えて
娘さんがもう一度 お婆ちゃんの所へと戻って来た。
「皆さん。貴女に謝ってました」と私が伝えた。
「良いの。冷酷で冷徹に映ったんでしょう」と首を振る。
「取り敢えず、皆さん濃厚接触者なんで二週間は自宅で待機お願い致します」と私と言った。
「うん。分かってる。分かってて 皆。お母さんの為に集まったんだね」と娘さんは二重窓の前で届かない手を窓の前へとかざした。
「良かったね。お母さん」とポロポロ。「お母さんは皆の中で生き続けてくれるよ。これからも、私達 家族が続く限り」と娘さんは最後になるだろう。そんな別れを惜しんでいた。
私は医院室へと娘さんを案内した。
医院室には看護長と医院長先生が顔を揃えていた。
「今まで母を延命させていただき。本当にありがとうございます。母も親族の皆に会えた事だから悔いはないはずです。助かるかもしれない次の人の為に母が使っていたベッドを空けて貰ってもかまいません」と娘さんは長い長いお辞儀を終えから言った。
「そうですか。分かりました」と医院長先生
「保志さん。貴女。葬儀はどうするの?。出る。って言うなら私達は良いわ。貴女のおかげで少しずつ医院のシフトが回るようになって来たから貴女が抜けた穴くらいなら何とか埋め合わせてみせるわ」と看護長
「そうですね。頑張ってくれていましたからね。それくらいは何とかしてみせましょう」と医院長先生も静かに頷いた。
「そうね。貴女なら親族も納得してくれるでしょう。私と貴女とで母を送りましょう」と娘さんが言ってくれた。
そのまま、色んな手続きを行って、役所へと死亡届けを出し
コロナ渦で変わった葬儀を執り行い。リモートで待機していた親族も参加。前以て言っていたから全員リモート参加。
娘さんは努めて母親が焼かれ白骨に変わり果てても気丈に振るまっていた。これからこの仕事を続けている限りこんな出来事は日常茶飯事になってしまうだろう。
それでも私の中にある人を助けたい、救いたい。
その‘おもい’は変わる事がなかった。
この物語の最後に私は駄菓子屋のお婆ちゃんが「今までありがとうね」と言ってくれた時の姿をはっきりと思い出せる。
全身がコロナにおかされていたはずなのに、お婆ちゃんは何故、あの時、容態が良くなり戻って来れて、言える事が出来たのか私は不思議でならなかった。
これで私のインターンの物語を締め括ろうとおもいます。
終わり