姫野香澄
男の子って、みんなバカだ。
それが、姫野香澄にとって今まで十二年間生きてきて断言できる一つの真理だった。
周りと比べてちょっとお金持ちの家に生まれた私は、小さい頃からお母さんに言われるままピアノとバレエを習い、どっちも県内で賞を取るぐらいのレベルとなった。小学校に上がってから塾通いも始めたおかげで成績も上位から落ちたことがなく、外見だってまあ整ってる。そんな私は、男の子からすれば高嶺の花に見えるらしくて、小学校の頃からよく告白も受けた。もちろん一度もOKを出したことなんてない。
だってみんな子供なんだもん。
私に好かれようとする男子は、決まって優しく振る舞い、カッコつけて、冗談を飛ばしてくる。それに対してあたしが「ありがとう」とか「すごいね」とか「面白い」って言っただけでほとんどの男子はそのあと一時間ぐらい有頂天になる。
こっちが思わず笑ってしまうほど、押しなべて単純だ。
でも私にとって、アピールしてくる同世代の男子は幼稚園児ぐらいにしか思えない。休憩時間、わざわざ私の机の傍に来て大声で体育のドッチボールで活躍した自慢をする男子や、消しゴムを落としただけで駆け寄って拾ってくれる男子とか、アプローチをかけてくるのにもいろいろなタイプがいるけど、いくらドッチボールで活躍したからといっても、私はそれ以上の舞台である県内で有数のピアノコンクールで演奏を披露してるし、どれほど優しくしてくれるといっても、誕生日プレゼントで親戚から小学生には分不相応な高価すぎるカチューシャを貰えたりから、どうしても低いレベルに見えてしまう。
そんな経験がある私だから、合うとすればたぶん年上にならざるをえない。
想い人なら一応いる。
私の従兄弟にあたる十七歳になる人で、全国でも上位に名を連ねるバイオリニストだ。彼の演奏を聞くと心の棘が溶かされてしまう心地になるから不思議。優しくて、礼儀正しくて、ちょっと体は細いけど顔もイケメン。残念ながらモテモテで、すでに彼女もいるらしいけど、それでも小学五年生の家庭科の時間で従兄弟同士なら結婚できると聞いたときは少しテンション上がったな。そんな人を理想の男性として見ているからどうしても同世代の男の子は恋愛対象に見えない。見てる分には、動物園の檻の中で騒ぐ動物みたいで割と楽しいんだけど。
大林先生から二次方程式を教えてもらい、丁寧にお礼を述べて職員室を後にする。ちょうど職員会議が始まる時間となったので、職員室の前は人気のない静けさに包まれた。窓越しに中庭の女子用テニスコートを見ると、足跡一つない綺麗な土が太陽の光を受けて輝いている。
この前トンボをかけたままの状態だ。ちょっとでいいから打ちたいな。
中学入学を機にバレエをやめ、新しく始めた軟式テニスは未経験ながらも入部してからずっと楽しい日々が送れている。私はどうやら、団体競技より個人競技のほうが好みみたい。
明後日の部活動開始を心待ちにしつつ家に帰ろうと歩き出したとき、ふと校舎の隙間から遠くに誰かの姿が見えた。あそこは北校舎の裏。拷問坂と呼ばれる勾配のきつい坂道だ。距離が離れすぎているので誰かまではわからないけど、学校指定と思われるハーフパンツとTシャツを着ている男子生徒がいる。野球部か誰かが一人で自主練習しているのかなと思った矢先、その自主練している人物は突然坂の途中でうずくまり、その場に膝をついて座り込んだ。
「あ」と思わず声が漏れる。
怪我でもしたんだろうか。しばらく見ていても一向に立ち上がる気配がない。どうしよう。先生に言ったほうがいいかな。いや、先生方は職員会議中だし、そもそも部活動禁止の中で自主練しているんだろうから絶対怒られる。少し迷った末に、姫野香澄は足早に歩き出した。
靴を履き替え、坂の始まりまで来ると、男子生徒はすでに回復して練習を再開しているところだった。両足を揃えてジャンプしながら坂を上っていく。しかし十メートルも進まないうちに失速して、両膝に手をつき屈みこんだ。姫野からは後ろ姿しか見えないが、ひとまず胸を撫で下ろした。動けたということは大事に至る怪我じゃなかったんだ。それでも痛みをこらえて俯いているように見えるので、一応「あの」と声を掛けてみた。男子生徒が反応して振り向く。
「あれ、なにしてんの?」
ついさっき職員室であった背の低い男の子だった。姫野が勉強を教えてもらっている間ずっと運動していたらしく、胸元が汗で湿っている。
「職員室から出て帰ろうとしたら、あなたが倒れこんでいる姿が見えて…大丈夫?」
「ああ。右足が吊っただけや」
舜也が坂下に向かって歩き出す。右足を引きずり、顔を苦痛に歪めながら三歩歩いたところで「あかんわ」と言ってその場で尻餅をついた。
「保健の先生呼んでこようか?」
「いや、頼むからそれはやめてくれ。怒られる。悪いけど俺のカバンから冷却スプレー出してこっちに投げてくれへん?」
肩目をつぶって痛みを堪える舜也に言われ、姫野は近くのカバンに近づいた。カバンの上にはカッターシャツとズボンがぞんざいに置かれている。姫野は少しドキドキしながらカッターシャツをどけると、カバンの中からスポーツ用の冷却スプレーを取り出して坂道を上っていき、道の真ん中で座り込んでいる舜也に手渡した。
「ありがと。投げてくれてよかったのに」
言いながら、舜也は右足のふくらはぎ全体にスプレーを吹きかけた。近くで見ると、額にも汗が浮かんでいるのがわかる。一体どんな練習をしていたんだろう?
「ほんとに保健の先生呼ばなくていいの?」
「ええねん。ろくに準備運動しなかった俺の自業自得や。しばらく休んでればすぐ動けるようになるやろ。ちぇ、今日はここまでやな」
舜也が残念そうに言うのを姫野は見下ろしがら聞いていた。
「ね、あなた何部?」
「俺はバスケ部や。自分、テニス部やろ?」
「どうして知ってるの?」
「友達から三大美人についてちょっと聞いとってな。さっき大林先生が姫野って呼んでたからわかってん。名前は姫野…心乃やった?」
「四組の子と混ざってる。私は姫野香澄」
「あ、すまん」
「三大美人っていうのやめてくれない? すごい肩身狭くなるんだから。他の女の子だって可愛い人いるでしょ」
「ええやん別に。実際、可愛いやんから」
目を見据えながら笑う舜也に、姫野はドキッとした。頭で考えるよりも先に口が話題を逸らせる。
「明日もやるの? 自主練習?」
「おう、当然! 八月の終わりに市内大会があってな。そこでどうしても負かしたいチームがあんねん。一日だって無駄にできひん」
「そ。じゃ明日は倒れないでね」
「ん、そうするわ」
姫野が別れを言って帰ろうとすると、舜也がもう一度「ありがとな」とお礼を言った。坂を下りきったところで姫野が気になって振り返ると、舜也は横の木に手をかけながら立ち上がろうとしている。姫野は歩くスピードを緩めずその場を後にした。
なんでだろう、なんか、胸がドキドキする。
姫野香澄は学校から帰りながら冷静に考えた。
面と向かって可愛いと言われた。こんなことは、今まで案外少なかったように思う。可愛いと言われるのも、三大美人ともてはやされるのも、男子からしてみれば照れくさかったのかだいたい噂として耳に入ってくることが多かった。なにより今心に浮かぶのは痛そうに顔を歪めながら座り込む自分よりも背の低いあの男子の姿だ。これまで大多数の男子は私に対して意地を張ってカッコつけようとしてきた。今みたいな状況のときも、あえて辛そうな顔は見せずに余裕ぶるのが常だった。
姫野は無意識のうちに胸に手を当てて、鼓動を鎮めようとする。
同年代の男子が弱いところを見せる場面って、初めて見たかも。




