異変
練習試合の翌日。
今年初めてのセミが鳴き始めた。早く生まれすぎた慌てん坊のセミで、一匹だけ申し訳なさそうに山の静寂さを破っている。とはいえ江清中学校は山の中腹に位置しているので、これからの季節は山全体がセミのライブ会場となるのは間違いない。
今日の一年一組の授業の様子は、いつもと違う違和感にクラスの生徒も先生も戸惑っていた。十年に一度のピエロと評された樋川舜也が、授業中一言も横槍を入れないのだ。クラスの生徒から期待の視線を送られても心ここにあらずで、難しい顔をしてノートを睨みつけている。社会を担当している浜中先生はいつもの茶々や的確な質問が一切出ない状況を不気味に感じ、今日は自分からネタを振ってみることした。
「カナダ人の食事は、他の欧米よりも魚料理が多いらしい。なんでかわかるか?」
クラス全体を見渡しながら、さり気なく舜也に視線を送った。舜也は相変わらずノートの睨めっこしている。ウホン、と浜中先生は咳払いした。
「それはな、カナダ人の好きな食べものが、さカナダからだ」
「先生」
舜也が顔を上げた。浜中先生の顔が思わずニヤリとする。
「なんだ?」
「真面目に授業してください」
「あ、はい、すいません」
浜中先生は黒板に向き直り、チョークで書き始めた。クスクスとした声を背中で聞きながら、浜中先生は何かがおかしい、という思いを募らせる。
授業終了後、浜中先生はどこか消化不良の様子で職員室へ戻り、他の先生に感想を告げた。
「樋川の様子が変?」
今日はまだ一組での理科の授業をしていない九間先生が顔を上げた。
「あれ以上変になったらもう運動場に放牧するしかないですよ」
「いやそうじゃなくて、いつもと打って変わってビックリするぐらい大人しいんですよ。熱でもあるのかな」
「昨日の練習試合では体調が悪いようには見えませんでしたけど」
横から現国担当の小谷先生が話に乗ってくる。
「もしかして、テストで悪ふざけするなって釘を刺したのが相当効いているんじゃないですか? もうすぐ期末テストだし」
「それぐらいでヘコむようならむしろ助かるんですけどね。ともあれ大人しくなる分にはいいじゃないですか。授業も円滑に進められたんでしょう?」
「いや~それがチョッカイないとなんか寂しいんですよ。調子が狂うというか…」
「期待してどうするんですか」
九間先生と浜中先生の間で、小谷先生が立ち上がった。
「私、次一組ですからそれとなく様子を見てきますよ」
現国の時間。
引き続き舜也は教室内に座っているだけで授業に全く関心を寄せていなかった。小谷先生はサクサクと授業を進めながらも確かにどこか物足りない。本当に体調が悪いのか、あるいは恋の悩みかも、と思って折りに触れて舜也を見ていると、板書とは関係ないところで舜也がシャーペンを持ち、ノートに走り書きしているところを見つけた。気になってそうっと舜也の席に近づいていく。
「こら、授業に集中しなさい」
小谷先生は舜也が熱心に書き込んでいたノートを取り上げる。中を見ると、バスケットのコート半面を上から見た構図で、人の動きがいろいろ描かれていた。
「ああ、堪忍や! ごめんさい、謝りますから返してください」
舜也が両手を合わせて頭を下げた。小谷先生が渋々ノートを返す。
「これ一回きりよ。次に取り上げたときは職員室まで持って行きますからね」
「はい、すいません」
舜也はノートを手に取ると、しばらく眺めてから机の中に戻した。結局その後ノートを取り出すことはなかったものの、相変わらず授業は呆けた様子で大人しい。頭の中でバスケットのことを考えているのが傍から見ても丸わかりだ。
授業の終わるチャイムが鳴ると、舜也はノートを取り出して一目散に広宣の席へ駆け寄った。
「オッキー! 見てくれ! 対駒池戦の新しい戦法を三つ考えてん!」
「勝った。俺は四つ。先にそっち見せてよ」
ノートを見て意見を交わす二人を見ながら、小谷先生はため息をついて苦笑した。