主人公になれなかった僕
自分は特別な人間では無いということを、人は成長するにあたって思い知る。小さい頃、人は誰しもが主人公であることを疑わない。何もかもが自分中心で動いていて、世界は自分のものだと思い込む。僕もそうだったに違いない。もう大人になりすぎて、小さい頃の記憶を思い出そうにも思い出せない。小さい頃の記憶だけじゃない。昨日の晩ご飯も、今朝の朝ごはんだって思い出せない。妻の顔も、娘の顔も何もかも忘れてしまったのだ。そもそも僕には家族がいただろうか。そんなことをぼやっと考えていると、白い服を身に纏った若い女が近づいてくる。
「かずおさん、ごはんですよ〜」
やたらベタっとした話し方の女は僕の目の前にガチャンッと音を立てておぼんを置いた。おぼんには器が三つ。女は三つに入っていたどろっとした得体の知れない液体を一つの器にまとめ始める。僕はそれをじっとみているだけだった。まるで工作をする少女のように女はスプーンでカチャカチャと混ぜる。
「はい、どぉぞぉ」
そういうと女は僕にスプーンを咥えさせた。生暖かいヌルッとした液体が僕の口に入ってくる。抵抗しようにも女は次々に口へ液体を流し込むのだ。僕はだんだんそれがなんだか、辛くて、苦しくて、悲しくて。たまらなくなった。女の手を払ってもその作業は続く。
「ンバッワッ」
やめろと言いたかっただけだった。やっと息がまともにできた事に安堵した。吐き出した液体は首元までヌットリとへばりついた。気持ちが悪い。はやくこれをどうにかしたいのに、体はうまく動かない。僕は一体どうしてしまったのだろう。僕は一体何者なんだろう。なにもわからない僕は、なにも思い出せないまま、主人公になれないまま。