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蝶の記憶  作者: 高階 桂
9/22

9 酒宴

 警察軍義勇兵の腕章をつけた少女‥‥せいぜい十二、三だろう‥‥の案内で、歩いて宿舎に向かう。

 すでに日はとっぷりと暮れていた。だが、真っ暗だと思われた市街地は、あきれるくらいに明るかった。街路の両側に、数多くの街灯が設置されていたからだ。もっとも、街灯といっても王都の目抜き通りにあるような青銅製の瀟洒なものではなく、家々の外壁や粗雑な仕上げの丸太でしかない柱の上で、ガラスに囲われた炎が踊っているに過ぎなかったが。

「灯油ランプです。原油精製の副産物で、使いきれないほど作られますから。もっとも、設置されているのは市街の中心部だけですけど」

 はにかむように、少女が説明してくれる。

 彼女によれば、藩王国政府はわれわれ『第二連隊レスペラ派遣群』のために、二軒の民家を借り上げたそうだ。搭乗員と整備班の下士官はその民家を宿舎とし、残る兵士たちは係留場に急遽建てられた小屋に泊まることになる。

 わたしが家を接収された人たちのことを気遣うと、案内の少女はくすくすと笑った。なにしろこの山の中である。街に宿屋の類があるとは思えないし、隣町の親戚や友人のところに厄介になる、というわけにも行くまい。

「大丈夫です。セレスタ様が、お部屋を提供して下さいましたから」

「藩王陛下の妹君のセレスタ王女が?」

「はい」

 少女によれば、フザロック以外の前藩王の子供‥‥長女のセレスタ王女と次男のヤラム王子はそれぞれ市街からかなり離れた場所に広い邸宅を持っているのだという。家を借り上げられた二家族は、いずれもがセレスタの招きに応じ、その邸宅に泊まっているのだそうだ。

「みなさん大喜びでしたわ。セレスタ様のお屋敷に泊めていただけるから」

「ふうん。人気があるのね、セレスタ様は」

 どうもこの娘は口が軽いらしい。‥‥というより、十二、三歳で明るい性格の少女で、口の堅い人物はこの世に存在しないかもしれないが。わたしは情報収集のつもりで色々と訊いてみた。

「市民はみんなセレスタ様が大好きですわ。お美しくて、おやさしくて。聡明で」

「ご病気なんでしょ?」

「いえ、お体がすこし弱いだけですわ。ほとんどお屋敷にこもりっきりですが、臥せっているわけではありません」

「ヤラム王子は人気ある?」

「‥‥ええ。ありますよ」

 少女がそう答えるまでに、わずかな間が生じた。‥‥ということは、セレスタほどの人気者ではないようだ。‥‥わたしはちょっと嬉しくなった。

「フザロック陛下の奥方はもう亡くなられたのよね。セレスタ王女の夫も亡くなっている。ヤラム王子の奥方はご健在よね」

「はい」

「あと王族は‥‥フザロック陛下のご息女システィハルナ王女と、セレスタ王女のご子息サリュシオン王子と‥‥ヤラム王子にお子様は?」

「三人いらっしゃいます。可愛い双子の女の子。まだ三つですわ。それと、去年生まれたばかりの男の子」

「ふうん。システィハルナ王女は? やっぱり人気者かしら」

「はい。みんなに好かれていますわ」

 少女の声に、誇らしげな色があった。まあ、当然か。あれほどの美少女で気さくな性格の王女となれば、同性からも人気は出るだろう。

「サリュシオン王子はどうなの?」

「サリュシオン王子殿下も、好かれていますわ。特に、若い女性のあいだでは」

 今度はくすくすと笑いながら、少女。

「その笑い方を見る限り、あなたの好みじゃないようね」

「大きな声じゃ言えないけど‥‥」

 少女が急にわたしに身を寄せ、耳にそっとささやいた。

「王子はマザコンだって、みんな言ってますわ」

 ‥‥なるほど。

 わたしは妙に納得した。市民の敬愛を集めるほどの美貌の持ち主、セレスタ王女の一人息子で、しかももう父親が死んでいるとなれば、マザコンでもおかしくはない。もっとも、サンヌに言わせれば、人類男性の三分の一はマザコンだそうだが。サンヌ学説によれば、もう三分の一は同性愛者で、残る三分の一はロリコンだとのこと。理想的な結婚生活とは、若いうちにロリコンの男と結婚し、しかる後にマザコンの年下男と再婚することだそうだ。‥‥いやはや。

 宿舎は臨時飛行船係留場に程近い、路地の突き当たりにあった。このあたりも一応市街中心部らしく、街灯のおかげでかなり明るい。ごくありきたりだが、結構新しそうに見える民家だった。一階に二部屋と広めの台所、二階に小さ目の部屋が四つ。離れにトイレと風呂場。案内の少女によれば、整備班の下士官用に借り上げた家はすぐ近くで、ここよりも若干狭いという。わたしは少女にいつか機会があったら甘いものでも奢ると約束してやった。‥‥初めての土地では、わずかな人脈でも役立つことが往々にしてあるものだ。それに、どこの土地でもおしゃべりな明るい性格の少女というのは、かなりの情報通であることが多い。

「お帰り、大尉」

 台所では、サンヌがちょうどお茶の支度をしているところであった。

「ティリング少尉は?」

「上で休息中」

 サンヌが、ティースプーンで天井を指す。

 わたしはサンヌが蓋を締めたばかりの茶葉の缶を取り上げると、中身の匂いを嗅いだ。次いで指先を突っ込み、ほんの少しだけ茶葉をはさみ、舌の上に載せてみる。

「上物じゃない」

「待遇は悪くないよ」

 ポットから湯気の立つ液体をカップに注ぎ入れながら、サンヌが説明する。

「生活必需品は、ほとんど揃ってる。この家の住人が使っていたものだろうけどね。寝具、食器、タオルに石鹸、当座の食糧。砂糖も。食事に関しては、一日三回運んできてくれるってさ。近所の腕自慢の主婦が交代で作るらしい」

「ありがとう」

 わたしはサンヌからカップを受け取った。

「ま、遠慮なくやりましょうや」

 その言葉どおり、サンヌが砂糖壷から呆れるくらいの量の薄茶色の粒を、自分のカップ放り込んだ。

「たまには甘いのもどうだい?」

 サンヌが砂糖壷をこちらに押しやったが、わたしは首を振った。少女時代、ちょっと体重がつき過ぎたことがあり、その時に砂糖抜きのお茶を試して以来、プレーンで飲むのが習慣と化している。‥‥いや、習慣というよりも一種の強迫観念かも知れない。わずかな量の砂糖で太るはずはないのだから。

「で、どうだった?」

 わたしは、会議の様子やフザロックの印象をかなり端折って話した。サンヌのことは心底信用しているが、下士官に伝えるべきではない情報は伏せておく。

「だいたい予想通りだね」

 サンヌがお代わりを注いだ。

「問題は、システィハルナ王女ね」

 わたしはカップを置くと、顎を掻いた。

「どうして? あんたの口ぶりじゃ、いい子なんだろう? 腕もいいし」

「たしかにシスティハルナはいい子だと‥‥思う。でも、今後も飛行船に乗り込むでしょう」

「なるほど。言われてみりゃそうだね」

 事の次第を理解したサンヌが苦笑した。

「共同戦闘行動中にもし王女様がおっんだりしたら、警察軍は責任をすべてあたしたちになすりつけかねないというわけか」

「その通り」

 わたしは嘆息をお茶とともに飲み下した。


 フィーニア・クロイが宿舎を訪ねてきたのは、夕食後になった。

 わたしはとりあえずティリング少尉とサンヌを紹介した。フィーニアが、土産だと言って抱えてきたワインの瓶を、二人に押し付ける。

「一応、特産品だから。飛行船運賃を上乗せしても利益の出る、レスペラの事実上唯一の産物よ。味は保証するわ」

「では、遠慮なくいただきます、クロイ少佐殿」

 どうやらフィーニアがわたしと二人きりになりたいらしいと見て取ったサンヌが‥‥やはり勘は鋭い‥‥、瓶を受け取るとティリング少尉を引っ張るようにして二階にあがって行った。

「わたしたちはこれ」

 フィーニアが、もう一本瓶を引っ張り出した。こちらは、小ぶりなブランデーの瓶だ。

「お酒の趣味は変わってないでしょ?」

「まあ、ね」

 わたしは曖昧に答えた。士官学校の寮にいた頃よりも、酒量は明らかに減っている。

 もともと、わたしに飲酒の習慣はなかった。酒の味を覚えさせたのは、実はフィーニアである。寮で彼女の晩酌に付き合わされたのが、そのきっかけであった。

 フィーニアが、ふたつのグラスにブランデーを注ぐ。その慎重な手付きは、寮で同室だった頃と変わらないことに、わたしは気付いて微笑んだ。ただし、使っているのは右手ではなく、左手である。

「こんなもんだっけ」

 フィーニアが、わたしのグラスにだけ水を注ぎ足した。彼女のグラスは、ストレートのままだ。‥‥同室時代と変わらない。

 わたしは灯油ランプを片手に、台所の戸棚を探ってつまみになりそうな干し肉やチーズを引っ張り出した。夕食直後で腹は減っていないが、フィーニアは食べながら飲むのが好きだったことを思い出したのだ。

「まずは、再会を祝して乾杯ね」

 フィーニアが、グラスを掲げる。

「戦場での再会というのが引っかかるけどね」

 わたしもグラスを掲げた。

「まずは言い訳させてもらうわ」

 ぐいっとひと飲みしたフィーニアが、言う。

「システィハルナ王女のことでしょ?」

「そう。飛行船に乗って出撃していることは内緒だったのよ。空賊側を、不用意に刺激しないためにね」

「まあ、そういうことなら、理解できるけど」

「びっくりしたでしょ? おそらく、昔のわたしと同じくらいの腕前じゃないかしら」

 寂しげに、フィーニアが笑う。

 わたしたちは、しばらくのあいだ近況を交換しながらグラスを傾けた。酔いが静かに回るうちに、わたしは時計の針が七年ほど巻戻っていったように感じ始めた。次々と、七年前のフィーニアのことを思い出す。ブランデーを慎重に注ぐ手付き、干し肉を下品に噛み千切る食べ方、受けない冗談を言った後で照れ隠しのためにうなだれる仕草、五分に一回くらいの頻度で行われる、前髪いじり‥‥。脇腹を掻く仕草まで、七年前とそっくりだった。‥‥右手をいっさい使っていないことを除けば。

 直接会った以上、訊かないわけにはいかなかった。わたしは、意を決してグラスをぐっと空けると、口を開いた。

「‥‥で、その後右手はどう?」

「動かないよ、相変わらず」

 フィーニアが、右腕を顔の前にかざした。表情がわずかに強張り、力を込めたのだと知れる。しかし、指先はわずかに震えただけだった。

「四年‥‥かな」

「そうね。今度の夏で、丸四年ね」

 その時のことは、送られてきた長文の手紙を何度も読み返したので、まるでその場に居合わせたかのように、わたしの頭の中では鮮やかに映像として記憶されていた。

 レスペラ警察軍では領土巡回と称し、定期的に保有する飛行船で訓練を兼ねた哨戒飛行を行っていた。艇長クロイ中尉以下三名の部下が乗り込んだその日の飛行は天候にも恵まれ、順調に進んだ。四時間を越える哨戒を済ませた艇は無事にレスペラ上空へと帰還し、係留場へと高度を下げていった。いつもと変らぬ任務は、何事もなく終わろうとしていた。

 原因は、いまだもって不明である。おそらく、中古の発動機に問題が生じたに違いない。

 突然、発動機が火を噴いた。ガソリンに引火し、爆発する。

 フィーニアは、たまたま発動機から一番遠いところにいた。ゴンドラから身を乗り出し、双眼鏡で係留場の目視点検を行おうとした矢先だった。背中に熱さと痛みを感じた次の瞬間、その身体は宙に放り出されていた。

 結果的に、ゴンドラから落下したことが、彼女の命を救った。火は予備のガソリンと灯油に引火し、ゴンドラはすぐに炎に包まれたからだ。のちに黒焦げとなった乗員の死体を検分した医師は、三人とも空中で焼死したと判定した。

 フィーニアは落ちた。幸いなことに、落下したのは樹林の上であった。密集した葉群としなやかな小枝が、衝撃を吸収する。ばきばきと枝を折りながらフィーニアは木々のあいだを落ちてゆき、最終的に密生する下生えに抱き止められた。

 診察した医者は叫んだ。神のご加護だと。

 骨は一本も折れていなかった。無数の浅い切り傷と、重度の打撲。背中の火傷は、革の飛行服のおかげでごく軽いもので済んだ。若く健康な女性ならば、いずれもすぐに回復する負傷だ。

 だが、回復不可能な部分もあった。フィーニアは医者に訴えた。右手が動かない、と。

 肘から先の感覚が、失われていた。医者は診察を繰り返したが、対処法はなかった。おそらく、神経を傷めたのだろう。

 フィーニアは打撲の治癒に専念しながら、右手を回復させる努力を続けた。だが、感覚はさして戻らなかった。血流は問題ないし、力を込めればわずかに筋肉が動かせるようにはなった。だが、手首を動かしたり、指先に細かい動きをさせたりすることは無理だった。事実上、利き腕であった右手の肘から先は、失われたも同然だった。

 打撲から回復したフィーニアは、軍務に復帰した。だが、片腕の女に飛行船操舵手や艇長は勤まらない。フィーニア・クロイ中尉は調査の結果事故に関する責任は不問とされ、フザロック藩王の温情で大尉に昇進したが、飛行任務からは外された。

 わたしはフィーニアの手紙を思い起こした。突然届いた、あまりにも長い手紙。慣れぬ左手で書いたせいなのか、あるいは心が乱れているせいなのか、とにかく読みにくい字でつづられていた。読み始めた時のショック。読み終わったときの悲しみ。あとにも先にも、一通の手紙であんなに感情を揺さぶられたことはない。

「ねえ、飛んでる?」

「いや」

 フィーニアが、首を振る。

「今度の一件が終わったら、飛ばせてあげようか?」

 わたしの提案に、グラスを持ち上げかけたフィーニアの手が止まった。

「悪くないね」

 ややあってそう言ったフィーニアが、グラスをぐっと呷った。三分の一ほど入っていた琥珀色の液体が、あっという間に喉に注ぎ込まれる。

 ‥‥あまり乗り気ではないらしい。

 わたしは話題を切り替えた。話すネタなら、たくさんあった。笑える話。友人だから話せる恥ずかしい話。愚痴。上品な猥談。

「もっと頻繁に会えばよかった。あんたと飲むのが、こんなに楽しいとはね」

 七杯目だか八杯目だかをすすりながら、わたしは思わずそう口走っていた。

「航空軍団辞めて、こっちに来る?」

「あはは。それもいいかもね」

「藩王陛下もシスティハルナ王女も飛行船には理解があるわ。正規に軍用飛行船乗員として訓練を受けた者は、レスペラにはわたし以外にはいないから、あなたの経験と実力があれば、大尉待遇で警察軍に採用してもらえるわよ」

 チーズの塊に喰らいつきながら、フィーニアが言う。

「あんたの部下はいやよ。少佐にしてくれるんなら、考えてもいいわ‥‥。あ、でもやだ。ヤラム王子の部下にはなりたくないもん」

「‥‥あの人はねえ」

 フィーニアが、急に深刻な表情になった。

「あ。やっぱり、あんたもヤラム王子が苦手なんだ」

 わたしはフィーニアの顔を指差し、笑った。酔いは、心地いいほどに回っていた。

「軍人としては優秀だけどね。保守的と言うか、融通が利かないんだよね。フザロック陛下も、ヤラム王子の意見を取り入れすぎるし」

「そのへん、どうなってるの、王族の皆さんは? フザロック陛下が全権力を掌握しているわけじゃないんでしょ?」

「いまいち気弱なのよ、陛下は。王妃が亡くなったのは知ってるでしょ? それ以降は、内政に関しては常にヤラム王子にお伺いを立てているそうよ。セレスタ様は、もう隠居同然だし」

「若い二人はどうなの?」

「システィハルナ王女は‥‥頭は悪くないわ。藩王位を継げるだけの人徳の持ち主だし。陛下に対してもそれなりの影響力を持ち始めているわね。サリュシオン王子は切れ者だけど、ちょっと単純かな」

「ほほう。かなり辛辣ね」

「内緒よ、内緒」

 同室時代と同様、二人とも自分の酒量の限界というものは充分に心得ていた。フィーニアが、瓶の底に残ったわずかなブランデーの三分の二ばかりを、自分のグラスに注ぎ入れる。あとの三分の一は、同量の水とともにわたしのグラスに納まった。

「では、最後の乾杯を。第二連隊レスペラ派遣群の任務成功を祈って」

 フィーニアが、グラスを掲げた。

「空賊撃退と、フィーニア・クロイ少佐の昇進を願って」

 わたしもグラスを掲げた。

「乾杯」


第九話をお届けします。これでキャラも舞台も設定もほぼ出揃いました。次回より、ようやく話が動き始めます。

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