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蝶の記憶  作者: 高階 桂
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6 盆地

 子供のころ、二百年ほど前に活躍した山岳探検家‥‥もちろん飛行船発明以前の徒歩探検である‥‥の回想録を読んだ覚えがある。

 全編を通じ、子供心をくすぐる波乱万丈の冒険譚だったが、なかでも圧巻だったのは大失敗に終わった三回目‥‥だったか四回目だったか、そのあたりはすでに記憶が定かではないが‥‥の探検であった。予想だにしなかった大山脈に行く手を阻まれ、引き返す途中でこれまた想定外の豪雨のために装備の大半と仲間の一人を失い、コンパスひとつを頼りに険しい山々をさまよう羽目に陥る。やがて保存食糧も尽き、時折遭遇する野生動物と見慣れぬ植物を糧に、来る日も来る日も出口の見えない迷路のような人跡未踏の山中を踏破する苦行。

 その労苦もやがて報われる時が来る。とある尾根を越えたとたん、その麓から平野部が広がっているのを、彼は眼にするのだ。緑や黄色の絵の具で丁寧に塗り分けられたかのような耕作地。点在する慎ましい家々。人工的な、一直線に並んで伸びている木々。立ち昇る淡い灰青色の煙。そう、ついに彼らは中央山岳地帯を脱出したのである。人類を寄せ付けぬ荒々しい神の領域から、人間の住む世界へと、生還したのだ。

 まあ‥‥どう考えても彼ほどの感激は味わっていないだろうが、レスペラ藩王国の領域たる細長い盆地が見え出すと、わたしはそれなりに感慨深いものを感じていた。一応は『生還』なのだ。あのレスペラ艇が飛来しなければ、どうなっていたことか。運が悪ければ高度一千から墜落し、この身は岩山の中腹を彩る赤茶色の不定形な染みになっていたかも知れぬし、あるいはあの冒険家同様、人跡未踏の地にわずかな装備だけで放り出されていたかも知れない。そして当然、わたしがそこで生き延びる能力は、ベテラン冒険家の彼よりは数段下であろう。

 わたしは地図を取り出すと、眼前の地形と照合を始めた。戦闘空域になる可能性が高い以上、地形は把握しておくべきである。

 単に『レスペラ』とだけ呼ばれている‥‥レスペラ盆地でも、レスペラ高原でもない‥‥この平地は、ほぼ東西方向に伸びる小山脈に挟まれた、細長い甘藷を思わせる形状の盆地である。土地には緩やかに傾斜がついており、北東方向が一番高く、南西方向が低い。したがって、周囲の小山脈から流れ出す水で形作られたいくつかの小河川は、みな一様に南西方向に向けて流れており、ほぼ盆地の南西隅でひとつの流れにまとまり、山間を縫うようにしてさらに西へと流れ下っている。レスペラ川と呼ばれるその流れは、つまるところタガレー共和国を流れる大河エジエントの一支流であり、最終的にはヴィーカル連合王国を通ってサンダスン海に流れ込む。ここはすでにリンカンダム王国側から見た大陸分水嶺を越えた土地なのである。地理的に言っても、ほぼ大陸の中央と言って差し支えない。わたしの生まれ故郷は、大陸東部にあるリンカンダム王国の、さらに東方にあるエドレン半島東端にある飛び地の港町である。今わたしは、実に生地から大陸半分の距離を隔てた土地に降り立とうとしているのだ。

 レスペラは、上空から見る限り豊かな土地のようであった。まあ、当然だろう。よほど旨味がない限り、こんな隔絶したところに入植地などできはしない。平地の樹林に覆われていない部分は、その半分近くが畑地や果樹園と化しており、残りもおそらくは放牧地などに利用されているのであろう、そこかしこに大小様々な家畜の姿が見受けられた。薄茶色のほっそりとした馬、それよりもずんぐりとした肉牛、白地に黒ぶちの乳牛、白っぽい毛玉にしか見えない羊たち。もっと小さな白い群れは、山羊だろうか。

 それら緑豊かな平地に引かれた茶色い線としか見えない道は、いずれも定規を用いたかのようにまっすぐで、ぽつりぽつりと現われる小集落のあいだを繋いでいる。東の方、わずかに土地が盛り上がったところには、城のような建造物が見えた。わたしは地図を確かめた。今は廃城となっているらしく、バツ印が描き添えてある。

 先導するレスペラ艇に従い、『紫の虎』も高度を下げつつ盆地上空を西進していった。やがて、われわれの眼下に小規模な街が現れた。リンカンダムの地方都市よりは小さいが、村と呼ぶにはいささか気の毒なくらいの大きさだ。その向こう、小さな丘の上には、よく目立つ高い尖塔を伴う城砦があった。あれが、現レスペラ藩王国藩王、フザロックの居城だろう。

 さらに西には、何本もの煙突を連ねた一群の建物があった。地図によれば、原油の精製施設となっている。わたしは心中でその施設にキスを送った。あれがあったからこそ、今回の派遣任務における兵站の問題は実に簡略なものになったのだ。言うまでもなく、軍用飛行船‥‥民間飛行船でも同じことだが‥‥が一番大量に必要とする消費物資は、発動機用ガソリンと熱源用灯油である。この二者の消費量に比べれば、飛行船部隊が日々必要とする食糧や弾薬、補修用品の類の物資などわずかなものだ。もしレスペラが石油製品の自給が不可能な土地であったとしたら、レスペラ派遣群はわずか一個小隊の飛行船部隊を維持するために、連日補給用大型貨物船を飛ばす必要があるだろう。‥‥派遣費用は二倍ないし三倍に膨れ上がったに違いない。

 街の外れ、牧草地らしい低い柵に囲まれた一角には、国際標識であるオレンジ色の布で着陸位置を示す三角形が描かれていた。使われている木材の明るい色合いから、ひと目で新築とわかる数件の小屋が周囲に散らばっている。係留塔が三つあり、そのひとつには小型の飛行船が収まっていた。レスペラ警察軍航空部隊の出撃基地、といったところなのだろう。

 わたしは着陸準備を下命すると、自ら旋回砲に砲口キャップを被せた。


 故障ないし破損した艇に着陸の優先権がある。これが、基本的な空のルールのひとつである。また、護衛を主とする軍事任務の場合、護衛の艇が最後に着陸するのが常識というものだ。

 そういうわけで、三艇のうち最初に着陸したのは『レンゼルブ夫人』となった。それを見届けてから、下からの手旗信号の指示に従って、わが『紫の虎』は高度を下げていった。すでにボイラーは消火され、冷えてきた気嚢は浮力を減じ、地面が急速に近づいてくる。見張り員であるサンヌがゴンドラから身を乗り出し、対地高度を目視で計測し、告げる。ティリング少尉が出力を落とした発動機を小刻みに動かし、地上要員が待ち受ける位置へ正確に艇体を導く。わたしは小さなバラスト‥‥砂を詰めた目の細かい麻袋‥‥をつけた係留索の一本を手に待機していた。サンヌの二十のコールで、それをゴンドラの外に投げ出す。地上要員が係留索を繋ぎ留めたのを確認し、ティリングが発動機を停止した。

 地面が近づく。わたしは重いバラストを手にした。もしも降下速度が速すぎた場合には、それをゴンドラ外に投げ捨てることにより全体重量を減少させ、気嚢に残っている浮力を利用して減速するのだ。まあ、そんな事態に陥ることはめったにないが。

 今回も、緊急用バラストの出番はなかった。『紫の虎』は一本だけの係留索をたるませながら、しずしずと狙ったとおりの場所に降りてゆく。サンヌが、一本ずつ係留索を投げ始めた。地上要員が受け取り、固縛してゆく。

 どしんとゴンドラに衝撃が走る。

「高度ゼロ。着陸しました」

 サンヌが告げる。もう発動機が止まっているから、怒鳴る必要はない。

 われわれは着陸後点検に入った。ボイラーの消火を確かめ、燃料系統に漏れその他がないかチェックする。続いて発動機の点検。旋回砲の点検‥‥発砲したから念入りに。各種消耗品のチェック。

「ゴンドラ内、異常なし」

 そう宣言したわたしは、そこでやっと周囲に眼を向けた。地上要員の一人を呼び、係留索の固縛を再確認させてから、ゴンドラの外に出る。着陸したからといって、安易に降りてはいけない。飛行船から乗員がいなくなるということは、体重分のバラストを艇外投棄したと同じ効果をもたらすのだ。したがって、まだ気嚢内部が熱く、充分に浮力が残っている場合、飛行船は急上昇してしまう。係留作業中ならば、それによって死傷者が出るおそれすらあるのだ。

 わたしはティリング少尉とサンヌに気嚢の点検を命じると、あたりを見渡した。

 いた。

 お目当ての人物は、なぜか犬を足元にはべらせて立っていた。わたしは手袋を取りながら歩み寄った。

「リンカンダム王国航空軍団第二連隊、レスペラ派遣群司令、フォリーオ大尉です」

 しごく生真面目な表情で、敬礼してやる。

「ようこそレスペラ藩王国へ。連絡将校に任じられたクロイ少佐です」

 おなじく真面目な表情で、フィーニアが答礼する。

 実に七年ぶりの再会であった。言うまでもなくレスペラは辺境の地であり、よほどの理由がない限りそこの市民が域外を訪問することなどない。同様の理由で、普通の市民が観光地でもないレスペラを訪れることなどありえない。そういうわけで、士官学校の寮で一年にわたり同じ部屋で暮らし、親友だったはずのわたしとフィーニアのつながりは、数ヶ月おきに交わされる書簡だけの仲となっていた。

 わたしたちは、しばし無言のまま見詰め合っていた。

 七年前に比べ、フィーニアの外見はかなり変化していた。比較的長かったきれいな黒髪‥‥飛行訓練の前にはいつも結い上げるのを手伝わされたものだった‥‥は、短い機能的な髪型に変化を遂げていた。いつも笑みを絶やさなかった丸顔も引き締まり、やや物憂げな雰囲気を漂わせている。身長もやや縮んだように思えるのは、気のせいだろうか。あるいは、少し猫背になったのかも知れない。

 女という人種は、男ほど動物的ではない。長年音信不通だった幼馴染みと、握手ひとつで友情を復活させるというような芸当はできない。女が友情を維持するには、相手が同性であれ異性であれ、継続した物理的接触が不可欠なのだ。わたしもずっと以前から気付いてはいたが、数ヶ月ごとの短い手紙というのは、どうやら友情を維持するには不足していたようだ。

「とにかく、先に仕事を片付けちゃいましょう」

 猫がよくやるように、ふっと視線を逸らしたフィーニアが言い、小脇に挟んだ書類を取り出した。右腕で書類を支えながら、左手でペンを握る。

「それがいいわね」

 わたしたちは書類を参照しながら、細目に関し事務的な打ち合わせを行った。『レンゼルブ夫人』で運んだ装備の収納と管理、レスペラで自給できる消耗品の手当てについて、係留中の警備、宿舎の手配などなど。

「じゃあ、問題なしね」

 フィーニアが、書類の隅にサインを入れた。

「たぶん、王城に来てもらうことになると思うわ。そのときは、迎えを寄越すから。じゃあ、わたしは仕事が残ってるから、これで。今夜、宿舎の方に顔を出すから。積もる話は、そのときにね」

 早口で一方的にしゃべる彼女を、わたしは遮った。

「その前に。この犬、何なの?」

「この仔? 預かりものよ」

 フィーニアが言いつつ、左手で犬の頭を撫でた。おとなしい犬だった。オレンジに近いような薄茶色の毛並みで、腹の方だけが白い。ふさふさとした太い尻尾とあいまって、なんだか狐みたいに見える。わたしはしゃがみこむと、犬の顎の裏を撫でてやった。

「じゃあ、また今夜」

 書類を小脇に挟んだフィーニアが、首輪をそっとつかむ。犬は逆らわずに立ち上がり、フィーニアにとことこと付いていった。

 わたしは無言のままそれを見送った。

 立ち上がったわたしは自分の右掌を見下ろした。犬の毛が、数本張り付いている。犬には触った。だが、フィーニアとの肉体的接触が皆無だったことに、わたしはふと気付いた。


第六話をお届けします。ようやく手紙の差出人、フィーニア登場です。本作は推理ものではありませんが、語り手エルダ・フォリーオが空賊の真の目的や内通者が誰であるかを探り出す経緯が、空賊との戦い以上にメインのストーリーでありますので、推理小説と同様主要なキャラが出揃うまで時間が掛かっております。事態が本格的に動き出すまでもうしばらくご辛抱下さい。

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