5 戦闘
空賊側の戦術的選択はふたつあった。すなわち、二艇が連携を取りつつ『紫の虎』を襲うか、あるいは一艇ずつに分かれてこちらの二艇を個別に襲撃するかである。
一方のわれわれにも、ふたつの選択肢があった。『レンゼルブ夫人』を援護できる位置で戦うか、あるいはいったん無視して自由な機動を行うかである。
わたしは迷わず後者を選択した。空賊側二艇がこちらへ向かってくるならば、『レンゼルブ夫人』の援護を行わなくても問題はない。一方敵が分散してくれれば、わが艇が勝利するチャンスが増大する。『レンゼルブ夫人』は低速のうえ非武装だが、逃げ回ることくらいはできるはずだ。
「少尉、緩上昇開始! 進路、右三十度!」
わたしは誘うかのように『紫の虎』を機動させた。
「二番、千を切ります! 一番、約七百!」
裸眼で距離を目測したサンヌが告げる。
どうやら敵は二艇ともわれわれを先に屠ろうと考えたようだった。進路をわずかに変えただけで、あくまで射撃好適位置につこうとしている。
「サンヌ、観測と装弾に専念して! ティリング少尉、あとは任せたわよ!」
「了解!」
ティリングが声を張り上げる。
わたしは九型旋回砲の照準器を覗き込んだ。倍率は四倍なので、双眼鏡よりも視野は広く、目標を捉えるのは容易だった。一番に指定した空賊艇が、レンズの中に飛び込んでくる。視程も良好だ。
「一番、二番ともに進路一定!」
大きいが冷静な声音で、サンヌが宣する。敵の武装はこちらと同様、いずれも旋回カノン砲一門ずつらしい。小型艇の標準的な武装である。どうやら、火力の優位を生かして近接した砲撃戦を行いたいらしい。となれば、防勢に立つこちらの取るべき戦術は、敵の意図の阻止しかない。
「一番、約五百! 交戦開始!」
わたしは充分にリードを取ると、目標の上方に狙いを定め引き金を引いた。発条仕掛けの撃鉄が雷管キャップを叩き、生じた火が薬筒内部の発射薬に至る。一瞬だが、発動機の騒音すら圧倒する轟音を残し、砲弾が砲口から飛び出した。照準器の視野が、衝撃で激しくぶれる。ぱっと広がった火薬の臭いが、流れ込む空気にあっというまに散らされる。発射の反作用で、ゴンドラ全体が揺れる。
煙の尾を引きながら、砲弾が一番艇の左方を飛び去ってゆく。外れだ。
九型旋回砲の有効射程は四百。五百というのは最大射程内だが、まず撃っても当たらない距離である。あくまで近接されないための威嚇射撃に近い。
しかし、外れ弾はいくつかの貴重な情報をもたらしてくれる。こちらが推定した目標の速度と進路に関するデータのずれ具合。目標近辺の風の流れ。それら新たな変数を考慮し、狙いを修正して再び撃つ。この繰り返しが、空対空射撃の基本である。
わたしは照準器から眼を離さずに、一番艇の動きを見守りつづけた。サンヌが装弾作業を行う音が、発動機の騒音に混じってわずかに聞こえる。砲身を冷ますために濡れタオルを被せる。薬室を開き、内部を確認してから新たな弾薬筒を込める。薬室を閉じ、雷管キャップを被せ、撃鉄を起こし、濡れタオルを取り去る。見えていなくても、生じる音だけで、わたしはサンヌの動きを逐一追うことが出来た。
予測していたのとほぼ同じタイミングで、わたしの左肩がぽんと叩かれる。訓練と寸分違わぬ時間で、サンヌは装弾をやり終えていた。
射距離はまだ四百を切ってはいない。わたしは狙いを先程よりも右に修正し、二弾目を放った。今度は、やや上方へ外れる。
敵も撃ち返し始めた。一番艇のゴンドラに閃光が走る。進路は変えていない。あくまで正面から撃ち合うつもりらしい。
「至近弾、右下方!」
ティリングの叫び。
「少尉、回避運動準備! 発砲後!」
わたしは叫び返した。どうやら、敵の砲手の腕は結構高いらしい。向こうのカノンの性能は、こちらと同等かやや下というところであるにもかかわらず、初弾をかなり正確に撃ってきたのだ。油断して進路を一定に保っていては、一発食らうおそれが強い。敵の照準を甘くするために、こちらの進路や速度、高度を小刻みに変えてやる必要がある。だがそれは、わたしがもう一発放ってからだ。敵も装填には一定の時間が掛かるから、そのあいだは命中弾を食らうおそれはない。
サンヌの手が左肩を叩く。わたしは慎重に狙い、引き金を引いた。
砲弾は、なんと一番艇の気嚢の真下、ゴンドラの直上を通過した。‥‥対人射撃に例えて言えば、敵兵の股の間を銃弾が通過したようなものだ。いずれにせよ、外れである。
「くそっ」
おもわず悪態が漏れる。
先程発した命令通りに、ティリングが発動機を動かし、『紫の虎』が進路を変えた。もちろんこれで敵の砲弾が当たる確率は減少するが、こちらの射撃も不正確となる。わたしはいったん照準器から眼を離し、肉眼で状況を確認した。
敵の二番艇も、発砲を開始していた。射距離はすでに四百を切っている。一番艇との相対距離は二百五十程度。外れ弾が薄い灰色の尾を引きながら、わが艇の後方を飛び去る。
「少尉、距離を保って!」
わたしはそう命じた。回避運動を続けつつ、適宜発砲するという消極的戦法を取らざるを得ない。不用意に踏み込めば、火力に勝る敵に圧倒されるおそれが大だ。
わたしはよく狙って三回撃ったが、射弾はいずれもが外れた。その間空賊側は二艇合わせて十発以上を放ったが、これもことごとく外れた。こちらが回避運動を継続している以上、彼我ともに射弾はそうそう当たるものではない。
「『レンゼルブ夫人』は?」
「五時、高! 一千!」
ティリングが、すかさず答える。とりあえず、敵の射程外へと逃れたようだ。
「二番、進路変更!」
サンヌが叫んだ。
二番艇が、大きく進路を変えていた。発砲も止め、高度を稼ぎに掛かっている。
その先には、よたよたと逃げてゆく『レンゼルブ夫人』の姿があった。
どうやら、敵は逃げ回るわが艇を屠ることをいったん諦めたらしい。一番艇がこちらを抑えているあいだに、二番艇に鈍重な『レンゼルブ夫人』を攻撃させる肚だろう。
「少尉! 二番艇を追って!」
わたしはすかさず命じた。発動機の向きが変わり、『紫の虎』はぐるりと旋回した。
「一番、旋回中!」
サンヌが報告する。
わたしは双眼鏡を取り、二番艇を暫時観察した。旋回砲は、すでに『レンゼルブ夫人』の方へと向けられている。こちらを無視し、あくまで『レンゼルブ夫人』を仕留めにかかる態勢である。わが艇との距離は三百五十というところか。
「一番詳細!」
わたしは双眼鏡を手放すと、そう叫びながら旋回砲へと取り付いた。照準器の視野の中に、素早く一番艇を捉える。
「一番七時、水平! 進路十二時! 同速! 約三百!」
サンヌの声を聞きながら、わたしは一番艇に狙いをつけた。すでに旋回を終えた一番艇は、こちらの追尾に掛かっていた。旋回砲がきらめきを発し、一瞬だが黒い影が照準器の視野を過ぎる。
「至近弾、左下方!」
ティリングの叫び。
いまや『紫の虎』は敵弾に対し脆弱な状況にあった。二番艇を阻止するために進路一定、出力全開のために速度も一定。一番艇に対する角度も浅く、敵砲手はリードを大きく取る必要がない。
しかしその条件は敵も同様である。いや、むしろこちらの方がやや有利と言える。敵一番艇の発射した砲弾は逃げる『紫の虎』を追う形になるのに対し、こちらが放った砲弾は近付いてくる一番艇と相対する形になるからだ。同距離で発射したとしても、その飛翔時間はこちらの方が短くて済むし、命中した際の運動エネルギーもこちらの方が大きい。
わたしは慎重に狙いを定めて‥‥撃った。
外れ。
「二番、発砲! ‥‥僚艇至近!」
サンヌの声。
「こちらも至近弾! 上方!」
ティリングの声。
わたしは芽生え始めた焦りをむりやり押さえつけた。『レンゼルブ夫人』はいまや射撃訓練用の吹流しとたいして変わらない状況にあると思われた。ぐんぐんと距離を詰めてゆく二番艇を一刻も早く阻止してやらねば、早晩命中弾を喰らうことだろう。そして我々が『レンゼルブ夫人』を救うためには、なんとしても追いすがってくる一番艇に砲弾を命中させ、その機動力を封じなければならない。
引き金を引く。
砲弾は、気嚢の左方を通過した。
サンヌが無言のまま、てきぱきと装弾作業を行ってくれる。わたしは息を大きく吸い込んだ。火薬の匂いと、熱せられた金属の不快な匂いが、鼻腔を這い登ってくる。
「至近弾! 左方水平!」
いつもよりトーンの高いティリングの声。よほど近かったのだろう。
サンヌの手が左肩を叩く。わたしは気合を入れなおして、照準器を覗き込んだ。
‥‥おや。
わたしは瞬きを繰り返した。視野の中に、黒い小さな影がある。だが、瞬きしても影は消えなかった。
「サンヌ、一番の後方をチェック!」
狙いを定めながら、わたしはそう命じた。
「船影一! 七時、水平! 一番の後方! 一千! 三番と呼称します!」
ややあって、サンヌが報告する。
「よろしい!」
それを承認しながら、わたしは内心で首を傾げた。三番の正体は何だ? 空賊の増援か? それとも‥‥ひょっとして、味方だろうか?
「信じられないけど、敵じゃないみたいだね!」
双眼鏡を覗き続けているのだろう、サンヌが言う。
わたしの照準器の視野にも変化が生じていた。空賊艇の発砲が止まったうえに、なにやらゴンドラ内の動きが慌しい。
「三番発砲!」
サンヌが叫ぶ。
わたしは緊張して、サンヌの次の言葉を待ち受けた。三番が狙ったのは、わが艇か、それとも空賊艇か。
「大尉、三番を味方と認む! 一番を射撃した!」
サンヌの弾む声が聞こえる。
「ティリング、急減速! 高度維持!」
「了解!」
わたしは賭けに出た。一番艇は、こちらの味方出現を知って慌てている。こちらが減速し、それによって急速に相対距離が縮まれば、絶好の射撃のチャンスが生まれるかも知れない。
発動機の唸りが変化する。ティリングが、強引に角度を変えたのだ。照準器の視野の中で、一番艇の見かけの大きさが徐々に膨れてゆく。
空賊が、こちらの減速に気付いた。わたしは引き金を引いた。その頃にはもう、射距離は二百を大きく下回り、百七十程度にまで接近していた。
「気嚢命中!」
サンヌが高らかに叫ぶ。わたしも照準器の中で命中を確認した。煙の尾は、さながら灰色の長大な槍のごとく、確実に一番艇の気嚢を貫いていた。
「回避開始!」
わたしが命ずる前に、ティリングは明らかに回避行動を開始していた。ゴンドラが揺れ、『紫の虎』はでたらめな動きを始めた。わたしは顔をあげ、肉眼で一番艇を確認した。高度を落としながら、空賊艇は逃走態勢に入っていた。旋回砲がこちらを撃つが、射弾は外れた。接近する三番艇も発砲する。こちらは五百はあろうかと思える距離だったにもかかわらず、至近弾となった。
サンヌの手が肩を叩く。わたしは照準器を覗き込み、一番艇を捉えた。
「回避中止!」
ティリングが、すかさずゴンドラを安定させる。
わたしはゆっくりと狙って引き金を引いた。
砲弾は至近弾となった。一番艇は、高度を急速に下げることにより速度を上げて‥‥位置エネルギーの運動エネルギーへの変換である‥‥遠ざかってゆく。もう脅威ではあるまい。
「ティリング、『レンゼルブ夫人』へ向けて!」
「了解!」
わたしは双眼鏡をつかむと、前方の空を走査した。
『レンゼルブ夫人』を追尾していた敵二番艇は、すでに空域離脱に掛かっていた。増援の出現と、僚艇の脱落を見て取ったのだ。高度を上げつつ、北方へと向かっている。
「喰らってるね! 一発だけ!」
『レンゼルブ夫人』を双眼鏡で眺めながら、サンヌが言う。わたしもレンズを『レンゼルブ夫人』に向けた。気嚢の右舷側、栗鼠の尻尾のあたりに破口が見える。
「よかった。あの程度で済んで」
わたしは安堵の息をついた。三番艇が出現しなかったら、『レンゼルブ夫人』は何発もの命中弾を喰らい、まず確実に撃墜されていたことだろう。
軍用飛行船ほど細かくはないが、民間籍飛行船も中型以上の艇は事故防止のために気嚢に細胞構造を採用している。すでにかなりの量の燃料を自己消費したうえに『紫の虎』に移し変えたから、『レンゼルブ夫人』の総重量は出発時に比べ五分の一程度軽くなっているはずだ。したがって、あの程度の損傷ならばレスペラまでの飛行に大きな問題は生じないだろう。
わたしは救い主となってくれた三番艇に双眼鏡を向けた。‥‥レスペラの艇だ。ゴンドラに、レスペラ藩王国を示す多色の徽章が取り付けてある。
「なんとも芝居がかったタイミングで現われたものですね!」
ティリングが、皮肉めかして言う。
「サンヌ、信号旗! 『謝意』と『救援』!」
「了解、大尉!」
サンヌが、手早く二旗を掲げる。
ほどなく、レスペラ艇が信号旗を掲げた。『われに続け』だ。
「道案内はあちらに任せましょう! サンヌ! 『了解』を! ティリング、レスペラ艇の左後方につけて!」
用語解説 リード/見越し角 目標の未来予想位置に射弾などを送り込むために取られる照準の角度やずれなどのこと。