4 遭遇
飛行中のゴンドラの中というのは、大変にやかましい。
むろんその元凶は、後部で唸りを上げている発動機にある。人員輸送を主とする大型飛行船では、発動機をブームの先に取り付けたり、ゴンドラの下部に置いたりして騒音の軽減を図っているが、操舵手が人力で発動機そのものの方向を変えることにより操舵を行う軍用小型飛行船の場合、発動機は操舵手の手の届く位置にあるのが普通である。そしてもちろんゴンドラは小さく狭いから、操舵手以外の乗員も否応なしに騒音にさらされ続けることになる。
そういうわけで、アマツバメ級のような小型艇のゴンドラには、耳栓が標準装備されている。むろん騒音すべてを締め出すだけの能力はないが、少なくとも『やかましい』を『わずらわしい』くらいのレベルまで下げることは可能だ。
わたしはその耳栓を外した。サンヌが、肘をぽんと叩いて注意を促した上で、耳を指差す仕草をしたからだ。これは、航空軍団が正式に制定したゴンドラ内ハンドサインで『耳栓を外せ』という意味になる。
「船影一、十時、高!」
騒音に負けぬように、サンヌが叫ぶ。
ゴンドラ側壁に作りつけてある物入れから双眼鏡を掴み取ったわたしは、すぐに十時方向上方の空を探り始めた。ここはすでに中央山岳地帯に深く入り込んだ空域である。民間の航路など、レスペラ藩王国への不定期連絡船以外皆無だ。しかも事前情報では、それすらも空賊の跳梁によって事実上途絶状態にあるという。わたしたち以外に王国軍航空部隊がいるという情報も受け取っていない。となれば、船影の正体は三つしか考えられない。
臨時にレスペラに向かった、あるいはその帰途にある民間籍飛行船。レスペラ藩王国が保有する飛行船。そして、レスペラに攻撃を仕掛けている空賊。
‥‥いた。
わたしの双眼鏡の視野に、ひょいと黒い影が滑り込んできた。鳥とは明らかに動きが違う。おそらくは比較的小型の飛行船だ。下部のゴンドラはまだ黒い点にしか見えない。距離は二千はあるだろう。よく視認できたものだ。さすがにサンヌである。
「距離二千! サンヌ、『レンゼルブ夫人』に接触報告を!」
双眼鏡を眼に当てたまま、わたしは早口で怒鳴った。飛行中のゴンドラ内で意思の疎通を行うには、ハンドサインに頼るか、大声を張り上げるしかない。
「了解、大尉!」
サンヌの応じる声を聞きながら、わたしは再び双眼鏡を動かし始めた。船影を中心に渦巻きを描くように動かし、周囲の空を探ってゆく。戦闘任務の場合、二艇一組というのが最小戦術単位である。もしあれが空賊ならば、最低でももう一艇いるはずだ。
やはり。
左方少し遠いところに、ふたつ目の船影があった。おそらく同じクラスの艇であろう。
「新たな船影! 十時、高! 距離‥‥二千!」
わたしは双眼鏡をいったん下ろし、肉眼で目標を捉えようとした。手前側の飛行船はすぐに見つかった。明らかに、近づきつつある。自艇の速度と進路を確認したわたしは、双眼鏡を手前の船影に向けた。視野を固定し、相手の速度と進路を読もうと試みる。
「速度‥‥十! 距離‥‥接近中! 迎撃進路の公算大!」
迎撃進路というのは、お互いの進路が交接ないし交差し、しかもその時点で双方の未来予想位置が最も至近となる場合をいう。言い換えれば、向こうの艇はこちらを射撃するのに好適な位置へ向けて進んでいるというわけだ。その上、高度は相手の方が高い。飛行船は気嚢の下にゴンドラを吊り下げているという構造ゆえに、上方が弱点かつ搭載兵器の死角となる。
やはり、空賊か。
しかし。なぜ?
飛行船同士の交戦というものは、彼我がそれを望んでいる以外の場合には起こりにくいのが普通だ。言うまでもなく空は広大だし、三次元で機動し、なおかつ滞空時間が制限されている飛行船同士であれば、たとえ出没空域が限定されているとしても、遭遇すること自体がまれである。したがって、戦時における飛行船同士の戦闘は、敵支配地域に攻撃ないし偵察などの任務により進出した戦力に対する迎撃戦闘か、競合空域における戦術的優位を得るためのいわゆる戦闘哨戒中の制空戦闘が主となる。単に移動中の飛行船を空中で捕捉するなど、通常では不可能に近い。
こちらの移動計画が漏れていたのだろうか。今や無線電信の時代である。われわれの出発を見届けた空賊の仲間が、空賊の根拠地に無線電信を送る。待機していた二艇が離陸する。‥‥少なくとも、時間的には間に合うだろう。なにしろこちらは、ガソリン節約のためにレスペラまで一直線の針路を取っているのだ。特定の空域で待ち伏せていれば、当方が勝手に飛び込んでくるという寸法である。
現行の国際条約および慣習法によれば、その所属が標識等の不備によりつまびらかでなく、かつ護身用小火器よりも強力な武器を空中で使用可能な状態で積載している飛行船は、その実効運用者の意図にかかわらず、空賊飛行船と見なしてよいとされている。これは、海賊に関する取り決めを準用したものである。そしてもちろん、いずれかの国家に所属する軍用ないし公安用飛行船は、たとえそこが自国の管轄権のおよばない公海の上空や国境未確定地であったとしても、空賊飛行船の拿捕に務める義務がある。
今回の任務において、わたしが上官から指定された交戦規則では、相手が交戦の意図を見せただけで発砲しても構わないとされている。わたしはとりあえずサンヌに信号旗を掲げるように命じた。『衝突の危険性有り。回避せよ』と『軍用航空機公務中』の二旗だ。これを無視することは、少なくともリンカンダム王国の国内法上四つばかりの罪を犯すことになる。
サンヌがずんぐりとした短い指を巧みに使い、ふたつの旗を索に結びつける。遠距離からでも視認しやすい鮮やかな色彩が、風を受けてばたばたとはためく。
信号旗を充分に視認できる距離にもかかわらず、接近中の二艇は針路を変えなかった。
わたしは近いほうの艇に双眼鏡のピントを合わせた。気嚢は薄いグレイ。空の色に溶け込みやすいために、軍用飛行船によく採用されている色だ。旗や国籍徽章の類はいっさい見えない。ゴンドラの大きさから言って、三座艇か四座艇だろう。
「以後、接近中の二艇を敵性と見なす! 手前を一番、奥を二番と呼称! 対飛行船戦闘準備! ティリング少尉、出力定格! サンヌ、『レンゼルブ夫人』に高度上昇と回避運動を指示!」
覚悟を決めたわたしは双眼鏡を下ろし、そう命じた。
逃げるわけにはいかなかった。少なくとも、当面は。軽快な『紫の虎』だけであれば逃げ切れるだろうが、鈍重な『レンゼルブ夫人』はさしずめ前足を二本とも傷めた鹿のようなものである。すぐに追いつかれ、屠られてしまうだろう。リンカンダム王国航空軍団軍人として、民間人を見殺しにするわけには行かなかったし、『レンゼルブ夫人』なしでは今後のレスペラ藩王国増援計画にも支障をきたす。
『レンゼルブ夫人』に対し信号旗を振り終わったサンヌは、早くも九型旋回砲‥‥当艇唯一のまともな兵器‥‥に被せられていた防水布を外し終わっていた。わたしは素早く各部をチェックした。砲口内、薬室、閉鎖機、よし。
「少尉、高度、針路維持! サンヌ、弾込め!」
わたしの命令を受け、サンヌが旋回砲の弾薬筒を布製の弾薬袋から取り出した。彼女いわく『あたしの最初の男の持ち物と同じ大きさ』という太くて長い紙筒が、薬室に押し込まれる。薬室を閉じたサンヌは、薬室に通じる点火口に雷管キャップをかぶせ、撃鉄を撃発位置まで起こし、わたしの左肩をぽんと叩いた。発射準備完了の合図である。
「一番距離、千!」
わたしはそう宣しながら、風を読もうと務めた。
世間一般では直接射撃というものに対しかなりの誤解が生じているようだ。そのひとつに、きちんと照準を合わせさえすれば必ず銃砲弾は命中する、というものがある。
それは物理学的に誤った認識である。光は空気中で基本的に直進するのに対し、銃砲弾は発射直後から重力の影響を受けて下方に向けわずかずつ落下するからだ。通常、遠距離直接射撃というものは射程を稼ぐためにやや上方に向けて行われる。球技でボールを遠くに投げる場合と同様、ある程度放物線を描くように撃てば、遠くまで銃砲弾を届かせることが可能だからだ。
したがって、眼で見た通りに狙って遠距離射撃をした場合、銃砲弾は必ず目標よりもずっと下方を通過することになる。つまりは外れるわけだ。命中させるには、使用する銃砲の弾道性能を熟知し、なおかつ彼我の相対距離を正確に把握し、その射距離において銃砲弾が通過するであろう個所と目標の位置を一致させなければならない。‥‥この説明がよく解らない人は、『玉入れ』を思い起こしていただきたい。任意の位置にある籠に放物線を描いて玉を投げ入れるには、籠の口が形作る円内に、落下に入った玉を通過させる必要がある。これは、遠距離射撃と原理的には一緒である。
もうひとつ重要なのは風の影響である。高速で飛翔する銃砲弾に対するその影響ははなはだ小さなものだが、たとえ砲口付近では顕微鏡レベルのわずかなずれであっても、銃砲弾が目標に到達する頃には大きな誤差となる。まして、空中では地上よりも空気の流れは複雑である。
さらには湿度や気温も、弾道に影響を与える。過度の湿り気は空中での抵抗を増やすし、光が分厚いガラスを通過するときにわずかに屈折するように、銃砲弾も温度差の激しい空気の塊の境界を抜けるときにわずかにその進路を捻じ曲げられるのだ。
そして最大の問題は‥‥彼我ともに三次元機動をしているという事実である。
固定された射座からの対人狙撃でさえ、目標が動いていれば難しい射撃となる。ある程度の射距離があり、かつ目標が歩行している場合、照準器の中心に目標を捉えた状態で引き金を引けば、それは百パーセント外れるのだ。銃弾が狙った位置を通過するころには、目標は少なくとも一歩先を歩んでいるからである。命中させるには、目標の未来位置を予測し、そこに照準器の中心を合わせて、引き金を引くしかない。
対飛行船射撃も、対人狙撃技術の延長線上にあると言える。むろん、こちらの方がはるかに難しくなる。人間の移動速度は飛行船とは比較にならぬほど低速だし、上下方向への変化もわずかである。また、対人狙撃は射手が静止状態にあることを前提とするが、今日の空中対飛行船射撃はこちらも機動していることが大半だ。
対人狙撃よりも楽な点はふたつある。ひとつは、目標たる飛行船の気嚢が人間の頭部や胴体よりもはるかに大きいことである。したがって、対人狙撃ほどの精度は要求されない。ふたつめは、対人狙撃が即座に人の殺傷に直結するのに対し、飛行船射撃は基本的に敵飛行船の浮力減衰を狙ったものにあるという点だ。今日の軍用飛行船の気嚢はいわゆる『細胞構造』になっており、複数の命中弾を満遍なく浴びせられない限り完全に浮力を失うことはない。もちろん戦闘行為である以上、乗員が墜死する可能性はある。だが、少なくとも引き金を引く瞬間に神に向かって許しを乞う必要はないだけ、気は楽だ。もっとも、陸軍の狙撃兵に言わせれば、われわれ航空軍団射手のそのような態度は、崖から人を突き落としておいて、殺したのは地面だと主張するようなものだそうだが。
九型旋回砲はわが航空軍団が誇る最新の対飛行船砲である。その用途は飛行船搭載はもちろん、地上で連装ないし四連装架に装備し、対空目的での使用も可だ。初速が速く、有効射程は四百。最大射程は七百に達する。
軍用飛行船が登場した頃、その搭載兵器はせいぜい歩兵銃だった。そしてその武装も空中での使用を想定したものではなく、むしろ着陸時の乗員の自衛用に積み込まれたものであった。敵の飛行船と出会うこと自体がまれだったので、飛行船同士の戦闘を考慮する必要がなかったせいだ。だが、飛行船が偵察や爆発物を搭載しての妨害攻撃に頻繁に使用されるようになると、その迎撃専用の飛行船が登場してくる。まあ、兵器ないし軍用システムというものはそういうものである。強力な兵器や有効な戦法が出現すれば、必ずその対抗手段が発達するのだ。
そういうわけで最初に開発された本格的武装飛行船は、戦場上空に滞空するタイプの大型飛行船だった。大型化は長時間飛行と複数の兵器搭載の要求からの必然であった。搭載兵器はさまざまなものが考慮されたが、比較的小型の飛行船に命中させねばならない必要性と、重量に制限があった関係上、葡萄弾を発射可能な軽量カノン砲が選定された。
しばらくのあいだ、その空飛ぶ要塞は無敵の存在でありつづけた。だが、発動機の発達は飛行船の高速化を促し、やがてこれらの巨鯨は周囲を高速で飛び回る小型飛行船に容易に撃破されてしまうようになった。防御側も小型飛行船の開発を余儀なくされ、やがて軍用飛行船同士の戦いは高速かつ小型の機動性に優れた艇同士が、お互い有利な射撃ポジションを得ようと動き回るという、さながら猫の喧嘩の様相を呈するようになった。
さらに火砲が発達し、施条砲身が一般化し、弾丸と発射薬を一体化させた弾薬筒が発明されると、飛行船は射程の短い葡萄弾を捨て、比較的口径の小さな‥‥気嚢を撃ち抜けるだけの性能があれば充分だった‥‥高初速かつ長射程のカノン砲を装備するようになった。いわば、地上部隊の散兵が装備する狙撃用施条銃の空中版と言える兵器である。これらカノン砲にはさらに命中精度を高めるために、望遠鏡式の光学照準器が取り付けられた。現在に至るまで、これら高精度の小口径カノン砲が、各国軍用飛行船搭載兵器の標準となっている。
先の大戦でも、飛行船部隊は大きな活躍を見せた。とりわけ革新的と言えたのが、ヴィーカル連合王国が先鞭をつけた擲弾積載飛行船の集中運用であった。複数の擲弾を搭載した八から十二艇程度の中型飛行船団に、護衛の小型船数艇を付け、敵集結地や兵站施設の上空で擲弾を投下するという戦術である。これはもともとわがリンカンダム王国陸軍が誇る列車砲に対抗するために生み出された戦術であったが、その長距離進出能力と擲弾投下精度の高さは列車砲をはるかに上回っており、大戦参加各国はこぞってこの戦術を採用、飛行船戦力の拡充に努めた。その結果、開戦当初には両陣営合わせても百数十しか装備されていなかった軍用飛行船は、終戦時には『東部同盟』だけでも二千を数えたという‥‥。
用語解説 九型旋回砲/本作における銃砲は金属薬莢発明以前の設定。各種銃器および小口径カノンは弾丸と発射薬を一体化させた紙製弾体を薬室に後装、閉鎖の後、点火口にはめ込んだパーカッション(雷管)・キャップを撃鉄が叩くことによって発火、発射にいたる。したがって全ての銃砲は単発式である。金属薬莢がないため、砲尾の閉鎖は不完全であり、飛行船搭載旋回砲は低圧で、口径の割りに反動が少ないという想定。 葡萄弾/散弾の一種。 施条/ライフリング。砲身や銃身の内部に刻まれた螺旋状の溝。腔線。