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蝶の記憶  作者: 高階 桂
3/22

3 飛行

 自分が失敗すると、やたらと攻撃的に振舞う人々がいる。

 ある程度自分の過失を認め、妥協点を見出せばすぐに片がつく事柄も、こういう困った人が絡むと大事になる。謝罪するどころか一切非を認めず、失敗の原因を他人に押し付け、責任を他所に転嫁し、当事者であるにもかかわらず第三者的な立場に身を置こうとする。そして高圧的に振舞うことにより、冷静な議論を行う余地を与えずに、自らの保身を図るのだ。

 『レンゼルブ婦人』の船長も、そんな困った人種の一員であった。

 わたしは怒声交じりの言い訳を聞き流し、遅刻は不問にすると告げた。彼とはこれから長い付き合いになる。明日には整備班と残余の装備を運ぶためにもう一度飛んでもらわねばならないし、207号艇が到着すればその移動の支援も必要となる。臨時に補給品を運んでもらうケースも出てくるだろう。いまここで彼に臍を曲げられてはまずい。

 とにかく船長を納得させ、物資積み込みを急ぐように説得したわたしは、精神的に疲れ果てて『紫の虎』のゴンドラに乗り込んだ。

「いやな奴」

 装備品の点検を行っていたティリング少尉が、去ってゆく船長を睨みながら、つぶやく。

 わたしは同意の唸り声で応じた。

「ありゃ、ホモだね、きっと」

 サンヌが断言する。わたしは苦笑した。彼女にかかると、全人類男性の三分の一くらいは同性愛者らしい。

 ティリング少尉は、サンヌの断言に対し厳しい視線を投げかけた。‥‥性的な冗談はお好みではないのだ。ティリングの家系は数代前から数多の優秀な軍人を輩出している名門であり、彼女が受けた教育はかなり厳格なものだったらしく、どうやらそのカリキュラムの中には下品な冗談を飛ばすという項目は含まれていなかったようだ。確かめたわけではないが、ティリング少尉は性に関してはかなり保守的な立場と思われた。

 対するサンヌ・アドム軍曹は性的にはなんとも開けっぴろげな人物である。結婚歴二回に離婚歴二回。付き合った男の数は‥‥本人いわく『大尉のざっと十倍』に及ぶ。出身も貧しい漁村であり、読み書きを覚えたのは海軍に入ってからだという。軍歴はすでに海軍時代を含め二十年を超える。かたやティリング少尉はわずか半年前に士官学校を‥‥かなり優秀な成績で‥‥卒業したばかり。むりやり魚に例えれば、少し腐敗臭が漂い始めた干物と水揚げ直後で跳ね回っている小魚くらいの違いがある。

 わが艇に配属された当初のティリングは、まことに扱いにくい人物であった。中途半端に頭の良い人物にありがちな、自分の知性を基準にしてしか物事を考えられない狭量さ‥‥本当に知性ある人物ならば、他人の知力や理解度を慮る対応が出来るはずである‥‥の持ち主だったのだ。

 それを見事に矯正してしまったのが、サンヌだった。いや、矯正という用語は適切ではあるまい。むしろ教化とでも言うべきだろう。固い肉をじっくりと煮込んで柔らかくするがごとく、なにごとにつけても年季の差をさりげなく見せ付けるという実に婉曲的なやり方で、ティリングの尊敬を勝ち取ったのである。それ以来、ティリング少尉は実に扱いやすい人物と化した。もっとも、いまだサンヌのいささか品のないおしゃべりや育ちの悪さには閉口しているようだが。


  高度一千で、巡航に入る。

 『紫の虎』は、先行する『レンゼルブ婦人』の左斜め後方にぴたりと張り付いた。発動機の出力は約七割。その程度の速度で充分に、出力全開の『レンゼルブ婦人』に追随できる。編隊飛行の場合、より低速な機体を先行させるのが基本である。

 『レンゼルブ婦人』の気嚢は派手であった。典型的な商用飛行船らしく、左右両面に広告が描かれていたのだ。左舷では、いささか間の抜けた笑顔を浮かべた美人が、とある酒類醸造所製品を愛飲するように誘惑し、一方右舷では、コミカルに描かれた数種の動物が、地方銀行への預金を勧めている。

 そういうわけで、わが『紫の虎』艇長兼砲手であるわたしは、編隊飛行の際には対地監視とともに僚機との相対位置観測の役目も課されているので、脳をすっかりアルコールにやられてしまったかのような美人と数十秒おきに顔を合わせる羽目に陥ってしまった。どうせ顔を合わせるならば、裏側の『うさぎさん』や『くまくん』の方がずっと好ましかったのだが。

 第一行程は約五時間に及んだ。その間、わたしとサンヌが一回ずつ、ティリング少尉が二回、あれを利用した。‥‥航空軍団では、『衛生筒状容器』と婉曲に呼称される琺瑯引きの蓋付き容器のことである。当艇乗員がすべて女性で構成されている理由のひとつが、これである。狭いゴンドラの中、プライバシーはないに等しい。

 ちなみに、『衛生筒状容器』の中身は、可能な限り速やかに艇外に投棄せよ、とマニュアルには定められている。さすがに納税者の頭上に撒き散らすわけにはいかないので、市街地や農業地帯のみを飛行する任務では『お持ち帰り』となるが、海上や森林、山岳地帯などでは使用者が手ずから投棄するのが原則であり、わたしたちも遠慮なく艇外投棄を行った。どうせ眼下は道すらもない険しい山岳である。付け加えるならば、この艇外投棄にもそれなりのコツがある。バケツで消火活動を行うのと同様に、容器を鋭く振り出して液体を一隗にして放り出すのが肝要である。慣れない者がやると飛び散った液体がゴンドラに付着し、あとあと面倒なことになる。

 ほぼ正午頃、われわれ二艇は予定通り燃料補給地点である山間の小盆地に着陸した。『レンゼルブ婦人』乗員の手を借り、熱源用の灯油と発動機用のガソリンを手押しポンプで補給する。二十分足らずで作業は終了し、二艇は再び空へと舞い上がった。


 人類が空への切符を手にしてから、すでに百年が過ぎた。

 最初に発明された『空飛ぶ』乗り物は、熱気球であった。浮遊の原理は、熱式飛行船と同様である。熱せられた空気の体積が増えることを利用して、球形の気嚢に熱気を送り込み、浮遊したのである。いったん飛び上がればあとは風まかせの、なんとも不自由な乗り物であり、好事家や冒険家がわずかに製作する程度であった。

 だが、その不自由な乗り物に大いなる利用価値を見出したふたつの組織があった。軍隊と広告業界である。前者は究極の高所偵察の手段としてこれを採用し、後者は宣伝媒体としての利用法に気付いたのだ。こうして、熱気球は単なる発明品から便利な道具へと進化した。いくつかの会戦では、気球部隊の有無が勝敗を分けたし、経済先進諸国の大都市では、企業名や商品名を記した巨大な幟を垂らした無人気球が空にぽかりと浮かんでいる風景が日常と化した。

 今からほぼ八十年前に、熱気球は更なる進化を遂げることになる。きっかけは、内燃機関の発明と、その爆発的な普及にあった。熱気球の発明当時から、これに何とか推進力を与えようとする試みは繰り返されてきた。しかし、人力や風力の利用では得られる推進力は微々たるものであり、実用的な推進装置とはならなかった。石炭を燃焼させる内燃機関が発明されると、熱気球の改良に取り組んでいた連中はこぞってそれをゴンドラに搭載し、船のそれに似たスクリューを取り付け、飛ばすようになった。

 当時の石炭利用の内燃機関は高出力ながら重く、飛行推進装置として適しているとは言い難かったが、それでも弱い風ならば逆らって飛ぶくらいのことはできた。熱気球は、単なる『乗り物』から、飛行船という『交通機関』へと進化したのである。空気抵抗を受けにくくするために、気嚢の形状も変化した。いくつもの形が試されたが、最終的に落ち着いたのは紡錘形だった。

 熱気球を積極的に利用していた軍隊は、飛行船に飛びついた。今までの気球では、味方支配地域の上空に索付きで浮かぶ程度が関の山だったが、自力推進が可能となったことにより、本物の斥候部隊のごとく敵地に侵入したうえでの偵察活動が行えるようになったのだ。

 一方民間においては、飛行船の利用は少数に留まった。物資輸送の用に供するには当時の飛行船はあまりにものろく、ペイロード不足だったし、広告手段としても製造コストが高く、無人気球に取って代われるものではなかったからだ。一部の企業は離島間の人員輸送用に定期飛行船航路を開拓したが、船よりも悪天候に弱く、また運行コストがはるかに高かったために長続きしたところは少なかった。かなりの数の冒険家は、長距離仕様の単座型飛行船を製作し、これをもって当時未踏の地であった中央山岳地帯の探検を試みたが、その半数は未帰還となった。当時の技術水準では、いささか無謀な試みであったと言えよう。

 その十数年後、内燃機関の発達が飛行船に更なる進化をもたらす。石油を利用した効率の良い内燃機関の搭載と、重量当たりの熱量が多い精製燃料を使用するボイラーの採用により、出力と速度、ペイロードのいずれもが大幅に増大した飛行船は、高速輸送機関としての地位を確立することとなる。人口密集地隊での大量人員輸送には、その数年前にわがリンカンダム王国で発明され、急速に大陸各国に導入された蒸気機関を利用した鉄道が多用されたが、より遠隔地への人員輸送、島嶼間での人員および一部貨物輸送、そして山岳地帯での全般的な輸送業務は、進化した飛行船が一挙に引き受けることとなった。

 もうひとつ飛行船が活用されたのが郵便業務であった。各国は飛行船を利用した国内郵便貨物ネットワークを競って構築、後には、それらを結び合わせた国際郵便業務が発達した。少し遅れて発明された電信の影響で、飛行船利用郵便業務はその高速性に関する優位を失ったが、電信で長文のメッセージを送るのは高コストであり、今でも郵便物の輸送は飛行船の重要な役目となっている‥‥。


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