21 親友
「呼び出しといて遅れるとはね」
「ごめん、ごめん」
渋面のフィーニアに対し、わたしは素直に謝った。急いで階段を上がってきたので、まだ息が荒い。
久しぶりの曇天だった。空は一面に薄灰色の雲に覆われ、時折雨がぱらつく。この尖塔の最上階も、いつもより薄暗く、湿り気もあり、陰気臭い空気を漂わせていた。
「で、何の用事なの? わざわざここに呼び出したということは、内密の話があるんでしょ?」
「まあまあ慌てないで。まず、サリュシオン王子の死の真相から話させて」
わたしは、王子が自殺した日の様子を、事細かに語って聞かせた。一応自殺との発表はなされたが、当然その詳細は市民に対し伏せられている。
「‥‥そういうことだったの」
「で、気付いた?」
「なにを?」
フィーニアが、当惑げに訊く。
「ヴィーカル連合王国の本当の狙い。軍事に無知なサリュシオンは気付かなかったけど、軍人ならば誰でも気付くはずよ」
「‥‥レスペラの軍事的価値?」
「ご名答」
ある意味、レスペラは無敵の要塞である。これだけ山奥にあると、地上軍の投入は事実上不可能である。陸路での攻撃を強行しようとするならば、まず街道の建設から始めなければならず、遠征費用は大国の国家予算の大半を食いつぶすほどのレベルとなってしまうだろうし、行軍時間も年単位で測らねばなるまい。ありえるのは飛行船による攻撃だけだが、これも充分な数の迎撃飛行船と対空砲火を集積させれば、容易に撃退できてしまうはずだ。
ここに、いずれ開発されるであろう充分なペイロードを積み込んで大陸の端まで往復できるような、高性能ガス式飛行船の戦隊を駐留させるとどうなるか‥‥。そう。卓越した飛行船技術を持つ勢力が、レスペラを制した場合、大陸の主要都市すべてを意のままに襲撃できる可能性があるのだ。各国は飛来する飛行船を迎撃することはできても、策源地たるレスペラを叩くことはできない。拳銃だけで、狙撃用施条銃と撃ち合うようなものである。あるいは、長大な海岸線を持つものの海軍を保有しない国家が、優秀な艦隊と陸戦隊を有する国家と戦うようなものか。
「ヴィーカルの真の狙いは、それだと思うわ。サリュシオンは、騙されていたのよ、結局」
「でしょうね」
フィーニアが、うなずく。
「それと‥‥どうやら、内通者はサリュシオンだけじゃなかったみたいなの」
「‥‥ほう」
「サリュシオンは言ったわ。空賊に流す軍事情報を取りまとめたのは、フレンス・オウラだって。彼は藩王国政府の嘱託に過ぎない。警察軍の情報を、そうやすやすと手に入れることはできなかったはずよ。誰か、オウラに情報を流していた奴がいるのよ。おそらく、ヴィーカル側はオウラを媒介にして、もう一人の内通者を警察軍内部に抱えていたんじゃないかしら。それなら、辻褄は合うし、そして多分、本命は軍人のほうだったはずよ。サリュシオンはおいしいことを吹き込まれて、操られていたに過ぎない」
「心当たりは、あるの?」
「あるわ」
わたしは断言した。
「フレンス・オウラが、わたしを人質に取ったときに、口を滑らせたのよ。『昨日、大事な部下を二人とも死なせてしまい‥‥』ってね。そのときは聞き逃しちゃったけど、あとから思い起こせば、これは内通している軍人を特定する決定的な証拠だったのよ」
フィーニアは、わたしの推理を黙って聞いていた。
「オウラの言う大事な部下っていうのは、ティリング少尉殺害を試みた二人だというのは間違いないわ。そしてこの時点では、そのうち一人が生きていると発表されているのも事実。それが偽装で、実はすでに死んでいることを知っている人物は、ごく少数よ。つまり、オウラはその少数の誰かから、生きたまま捕らえられたとされる部下が実はすでに死んでいることを知らされたのよ。だから、二人とも死なせたと言ったし、ティリングを殺害しようとした。常識的に考えれば、解読できるかどうか判らない暗号を始末するよりも、尋問されている部下の口を封じる方が先でしょう」
「‥‥まあ、納得できる推論ね」
「暗殺者が実は死んでいることを知っていたのは、システィハルナとエクス隊長、その信頼の置ける部下数名、呼び寄せた医者、わたしとその部下二名、つまりティリング少尉とアドム軍曹。それと‥‥」
わたしはいちいち指を折りながら、容疑者を並べ立てた。
「わたしね。たしかに、その場にいたわ」
フィーニアが、かすかにうなずく。
「そしてもうひとつ。オウラはティリング少尉暗号解読作戦が偽装だということを知らなかった。だから、このリストから、システィハルナ、エクス隊長、わたしとその部下は除外できるわ。となると‥‥」
わたしはフィーニアを見やった。彼女は、無言でわたしを見つめ返した。
「‥‥レスペラ唯一の軍事航空の専門家。もし本当に、ヴィーカルの目的がレスペラの航空要塞化にあるとするならば‥‥絶対に抱き込んでおきたい人物よね、あなたは」
尖塔の最上階に静けさが訪れた。遠くで鳥が甲高くさえずり始めたが、すぐに沈黙してしまう。
「ここまであけすけに喋るってことは、もうすでにこの話はシスティハルナの耳に入ってるってことよね?」
視線を逸らしたフィーニアが、訊く。
「いいえ。まだ殿下は確信を抱いてはいないわ。わたしが頼み込んで、捜査着手を延期してもらったの。だから、逃げるのならいまのうちよ。明日、レスペラ派遣群の艇番207が、民間籍飛行船を伴って到着するわ。あなたが望むなら、帰還する便に密かに押し込んであげる。亡命なさい」
「ありがたい申し出ね」
フィーニアが、鼻で笑う。
「なぜ? なんでヴィーカルに協力したりしたの?」
「とても断りきれない好条件を出されたからよ」
「お金?」
「まさか。わたしが金銭に執着しないタイプだってことは、知ってるでしょ」
「‥‥ひょっとして、空?」
「正解。すべてうまくいけば、飛行船隊を率いる提督にしてやると言われたのよ」
フィーニアが、右腕を挙げる。わずかに震える指先を、わたしに突きつけるかのように。
「ガス式飛行船ならば、ペイロードに余裕があるから、片腕の女にも乗り込む余地があるの。再び、飛べるのよ」
「そんな。王都オルテンを襲撃しかねない艇に乗り込もうというの?」
「まあ、そんなことにならないことを祈るけどね」
フィーニアが、皮肉な笑みを浮かべつつ、右腕を下した。
「リンカンダムを裏切る気?」
「わたしはレスペラ人よ。それに、これには実利的な面もあるのよ。サリュシオンだけじゃ、仮に独立した場合、完全にヴィーカルの傀儡になってしまったでしょう。わたしが軍の実権を握っていれば、少なくとも傀儡にはさせない」
「言い訳になってないわね。もしわたしが空賊に喰われて死んだら、どうするつもりだったの?」
「あなたが簡単にくたばるわけないじゃない」
フィーニアが、冷笑する。
「部下の腕もいいし。それに、手加減するように空賊には指示してたしね。まあ、サリュシオンとオウラの暴走は、防げなかったけど。それに関しては、申し訳なく思ってるわ」
「ともかく、その夢は諦めることね」
わたしは肩をすくめつつ告げた。
「砲手であるあなたには、判らないでしょうね。わたしは操舵手だったのよ。しかも、とびきり腕のいい」
フィーニアが、思うように動かぬ右手に左手を重ねた。いたわるかのように、そっと握る。
「‥‥飛べない操舵手がどんなに辛い存在か。飛べない鳥。いえ、飛べなくても気高く生きている鳥は数多いから、さしずめ飛べなくなった蝶ね。美しい翅があるのに、飛べない。なまじ華麗に舞った記憶があるだけに、よけいにみじめだわね。もはや重荷でしかない翅を背に、這いつくばって生きていかねばならぬのだから」
‥‥飛べない蝶の記憶。
フィーニアが、窓外に眼を転じた。まるで、そこに蝶が舞っているかのように、視線をさまよわせる。
「悪いけど、亡命する気はないわ」
ややあって言い放ったフィーニアが、するりと腰の拳銃を抜いた。
「やめてよ。ここのところ、何度もそんな目にあってるんだから。それとも、あなたまでサリュシオン王子に倣って、後頭部を吹き飛ばすつもり?」
「残念ながら、自殺する勇気はないわ。後ろを向いて」
わたしは素直に後ろを向いた。フィーニアに撃たれるとは思っていなかった。わたしにフィーニアが撃てないと同様、彼女にもわたしを撃てるはずがない。
細い紐が、わたしの手首を固縛する。足首も、同様に縛られる。
「じゃあね、エルダ。もう一回だけ、一緒に飲みたかったわ」
そう言い置いて、フィーニアの姿が戸口に消える。螺旋階段を駆け下りる音が、小さくなってゆく。
「フィーニア!」
フィーニアの縛り方はゆるかった。‥‥まるで、追いかけてもらうのを期待していたかのように。
螺旋階段を駆け下りる。血相変えて王城の正門へ駆けつけたわたしの前に、一台の馬車が近付いてきた。なんと、御者台にはサンヌの姿がある。なんというタイミングの良さだろうか。
「サンヌ! クロイ少佐を見なかった?」
「見たもなにも、少佐が命じたから馬車を用意しといたんじゃないか」
「何ですって?」
「走ってきた少佐が、すぐにフォリーオ大尉が使うから馬車を用意しておくようにと言ったんです」
馬車の窓から首を突き出したティリング少尉が、説明する。
「わたしたちも飛行準備して待機してくれって。何があったんですか?」
「クロイ少佐はどこへ?」
「馬を駆って、城外へ出てったよ」
事態に気付いていないサンヌが、のんびりとした口調で答える。
わたしは馬車に乗り込んだ。
「どこへやろうか?」
「‥‥係留場へ」
おそらく、フィーニアはそこだ。
フィーニアの時間的見積もりは、見事なものだった。
サンヌの操る馬車が係留場へと滑り込んだ時には、すでにフィーニアが単独で乗り込んだレスペラ飛行船は宙に浮かんでいた。わたしは『紫の虎二号』に駆け寄ると、唖然としてフィーニア艇を見上げている作業員に緊急離陸準備を命じた。
「なんで離陸させたの?」
わたしは、警備についていた義勇軍兵士に詰め寄った。
「拳銃突きつけられたんですよ。擲弾も持ってたし、作業員の命を守るには、あれしか方法がなかったんです」
「どうせどこへも行けませんよ。ガソリンも灯油も少ししか積んでいないし、たった一人じゃないですか」
作業員の一人が、言う。
「あれでも、彼女の目的地までは充分なのよ」
わたしは、気嚢が膨らむのをじりじりしながら待った。サンヌとティリングは、すでにゴンドラに乗り込んで、各種離陸準備に掛かっている。
そのうち、一台の無蓋車両が係留場に走りこんできた。ドレス姿のシスティハルナが、転がるように降りてくる。例によってエクス隊長が、続く。
「申し訳ありません、姫様」
わたしは、事の次第を手早く物語った。すべてを言い終わらないうちに、事情を察したらしいシスティハルナが、哀しげな顔で遮った。
「飛行船はお貸しします。クロイ少佐を追いかけ、彼女が望むような結末を与えてやりなさい」
「ありがとうございます」
フィーニアの艇は、ほとんど発動機を使わずに、低い灰色の雲の下をゆったりと漂っていた。
『紫の虎二号』は、ティリングの巧みな操舵により、急速にその距離を詰めていった。眼下は峨々たる山が連なっている。レスペラは南の方角だが、すでに見えない。
わたしは双眼鏡を覗いた。フィーニアは、ゴンドラから身を乗り出してなにやら作業していた。わたしは眼を凝らし‥‥フィーニアの意図を理解した。
彼女はゴンドラ脇にあるレスペラの徽章を外していたのだ。解放された鮮やかな色彩の布切れは、雨粒交じりの風に乗ってひらひらと流されていった。
次いで、彼女は旋回砲に取り付いた。砲口をキャップでふさいだまま、わたしたちの方へと向ける。フィーニアの顔に、いたずらっぽい笑顔が浮かんでいるように思えた。
「空賊を気取るつもりかい?」
サンヌが、呆れたように叫ぶ。
やがて、フィーニアは索に信号旗を結びつけた。『われに続け』を意味する旗だ。
「なにが言いたいのでしょうか?」
ティリングが訊ねてきたが、わたしはそれに答えられなかった。すでに、フィーニアの意図に気付いていたからだ。
今度は、フィーニアが拳銃を取り出した。まっすぐこちらへ向けて、発砲する。むろん、弾丸の届く距離ではない。ぱんという、間の抜けた音が、かすかに聞こえる。
「撃ってやんなよ、大尉!」
耳打ちするように、サンヌ。
そう。フィーニアは、わたしに撃ち墜としてもらいたいのだ。所属徽章を捨てて武装を誇示し、進路を強制し、あまつさえ発砲して見せた。法的には、撃墜しても構わない状況といえる。
空で死にたいのか。
「‥‥卑怯者」
わたしは旋回砲に取り付いた。サンヌが、そそくさと装弾する。
外す距離ではなかった。わたしは長いあいだためらってから、一発だけで墜落することはありえないからと自分に言い聞かせ、引き金を引いた。
砲弾が、気嚢を貫く。
フィーニアが、もうひとつ信号旗を出した。『謝意』を示す旗だ。
「大尉! 発動機停止の許可を!」
ティリングの言葉に、わたしは手信号で承認を与えた。このままでは、行き過ぎてしまう。
発動機の唸りが止まった。行き足のついていた『紫の虎二号』は、フィーニア艇の横をゆっくりと通り過ぎてゆく。
サンヌが、わたしの左肩をぽんと叩いた。おもわず振り向いてしまう。
「死なせておやりよ。親友なんだろ?」
「‥‥親友なもんですか」
わたしは旋回砲をフィーニア艇に向け、ろくに狙いも付けずに引き金を引いた。まるでフィーニアに呼び込まれたかのように、砲弾は気嚢に命中してしまう。
「フィーニアの阿呆! 自殺する勇気がないからって、わたしにあんたを殺させる気! 卑怯者! 意気地なし!」
フィーニア艇の気嚢から、浮力が徐々に失われてゆく。高度も下がってゆく。
「あのままじゃ、不時着しちまうよ。あの娘も、飢え死にしたくはないだろうさ」
装弾を終えたサンヌが、わたしの肩を叩く。
わたしは照準器を覗き込んだ。視界は涙でぼやけていた。狙いを下向きにし、ゴンドラを見る。なんとか、フィーニアの姿を見分けることができた。おそらくは、避け得ない死を目前にしても、泰然としているであろうその姿を。
わたしは無力だった。そして無能だった。飛行船から他の飛行船を射撃するしか能のない、愚かな女だ。‥‥夢を追い続け、窮地に立たされた親友の死を目前にして、それを早めてやることしか出来ぬ、役立たずな人間。
「フィーニアの阿呆!」
ぐいと気嚢に照準を戻し、わたしは引き金を引いた。
「サンヌ! 次弾!」
三発目を喰らったフィーニア艇は、みるみる高度を落としていった。わたしは旋回砲の砲口をさらに下げ、四発目を放った。当たったかどうかは、判らない。
疲れ果て、わたしはゴンドラの床に崩れ折れた。ティリングが、帰投しますと言ったことだけは、かすかに覚えている。