2 新聞
予定時刻を過ぎても、『レンゼルブ婦人』は到着しなかった。
わたしはまぶしい朝日に目を細めながら、『レンゼルブ婦人』がやってくるであろう東の空を眺めた。だが、やや霞がかかった春の青空の中に、艇影は認められなかった。
「これだから民間人は‥‥」
やや離れて立つ操舵手のティリング少尉が、ぶつぶつとこぼす。
わたしは臨時係留場となっている車両倉庫前に視線を転じた。われわれの艇番206、『紫の虎』はすでに離陸準備をすべて整え、堅く締まった地面に斜めに打ち込まれた杭に結ばれた六本の係留索で辛うじて地表に繋ぎ留められている。ボイラーからの熱気を注ぎ込まれて最大まで膨らんだ紡錘形の灰青色の気嚢は、青空を背景とするとさながら洋上を漂う海豚の屍骸のようにも見える。その周囲に三々五々突っ立っている整備班の連中は、一様に恨めしそうな表情で東の空を眺めていた。
「いかがいたしましょう、大尉殿」
整備班長であるテリアー曹長が振り返り、そう訊いてきた。
「‥‥見張り員およびボイラー番各一名を残して屋内待機。『レンゼルブ婦人』が到着次第、事前計画通りに進めます」
わたしは歯切れ悪く答えた。テリアー曹長が敬礼し、部下たちに指示を与え始める。
「あたしたちはどうするのさ、大尉?」
手にした新聞から顔を上げぬまま、サンヌ軍曹が問う。
「このまま待機よ」
わたしは投げやりな口調で応じると、手近にあった雑具箱に腰を下ろした。
「やれやれ」
年寄りじみた口調でこぼしたサンヌが、一瞬だけ新聞から目をそらし、自分の足元に工具箱があることを確認すると、そこを目指して慎重に腰を下ろした。ティリング少尉だけは、いまだ視線を東の空に据えたまま、苛立ちを隠せない様子で突っ立っている。わずかな風が、彼女の明るい金色の髪をそよがせるのを眺めながら、わたしはため息をひとつついた。
思えば、今回の任務は最初からつきに恵まれていなかった。第二航空連隊長直々の命令で、空賊の跳梁に悩まされる藩王国救援を目的とした派遣部隊の編成にかかったのが五日前。その翌日にはわが国とアクレ公国との国境で飛行船同士の小競り合い‥‥お互い数発ずつ『腰だめ』で撃ちあった、いわば『敵対する軍隊同士の強面の挨拶』だけだが‥‥が勃発し、その対応が優先されたために派遣部隊の規模が一個航空中隊から半分の一個航空小隊‥‥わずか二艇に削られてしまった。さらに出発直前になってから、頼りにしていた整備班の重鎮コシュト一等軍曹が虫垂炎で緊急入院という始末。
不幸はそれだけに留まらなかった。なんとか事前計画どおりに進発した二艇のうち艇番207が、経由地のワルアン市で発動機故障のために立ち往生。指揮と修理を副長のデリグ中尉に委ね、ともかくも先を急ごうと整備班を列車で先行させ、一艇だけでようやく最終目的地の手前、ダルムド市までたどり着いたというのに‥‥約束の時刻になっても、契約した民間籍輸送飛行船が現れない。
『紫の虎』単独で進発するわけには行かなかった。目的地たるレスペラ藩王領までの距離は約三万二千。軍用飛行船は小型軽量を旨として設計されているので、その航続距離‥‥主としてゴンドラ搭載の発動機用ガソリンの量に制約される‥‥は二万前後が普通であり、わがアマツバメ級飛行船『紫の虎』もその航続力はカタログ上でも一万八千に過ぎない。したがって、どこかで給油する必要があるが、そもそも陸路すら通じていない中央山岳地帯に位置するレスペラ藩王国へ至る航路の途中に適当な給油地点などない。鈍重だがペイロードの大きな輸送飛行船に余分なガソリンと灯油を積み込み、適切な個所で着陸し、補給してもらう以外に、解決方法はなかった。
「まったく‥‥」
相変わらず突っ立ったまま、ティリング少尉が毒づく。軍隊において、遅刻は犯罪的行為と見なされる。近代戦において、戦術的タイミングは勝敗を決しかねない重要なポイントだからだ。ティリングのつぶやきを聞き流しながら、わたしは再びため息を‥‥今度は小さめに‥‥ついた。
わたしは、サンヌが真剣に読み込んでいる新聞に目をやった。黄ばんでこそいないが、古新聞であることは一目でわかった。おそらく、車両整備の連中がペンキ塗りや部品洗浄の際に使おうと持ち込んだものだろう。
「暇つぶしにはいいわね。どこにあったの?」
「あんたの尻の下だよ、大尉」
サンヌがぼそりと答える。
わたしは腰を上げると、雑具箱を開けてみた。ぼろ切れや雑多な部品類の上に、一束の新聞が置いてある。わたしはその一部を取ると、ふたたび腰を下ろした。
発行日は、二十日ほど前だった。誰かがテーブルの上に広げてお茶を飲みながら読んだらしく、茶色い環状の染みがついたその新聞を、わたしは斜めに読み飛ばしていった。
社会面にはたいした記事はなかった。いつもどおりの強盗と殺人、窃盗に詐欺といった暗い話ばかりだ。国際欄はまだ読み応えがあった。オルシャ共和国で橋が落下し三十人が死亡、鉄材節約の手抜き工事の疑いで建設業者六人逮捕。大陸環状鉄道建設計画国際会議は線路軌間規格をめぐって紛糾、着工予定時期はいまだ未定のまま。イルギス王国で議会選挙、野党愛国行動党躍進。ヴィーカル連合王国でガス式飛行船実験進む‥‥。
わたしはその記事を丹念に読み込んだ。やはり飛行船乗りとしては、気になる記事である。
通常、飛行船はゴンドラの内部で灯油などを燃焼させ、生じた熱気を気嚢に送り込むことによって‥‥熱せられた空気は体積が増えるので、周囲の大気に比べ『軽く』なる‥‥浮力を得る。それに対し、最近研究が進められているガス式飛行船は、熱気の代わりに空気よりも軽量なガスを気嚢に詰め込んで浮力を得ようとするやり方だ。今のところ、利用が有力視されているガスは、鉄に強い酸を掛けた場合に生じる水素ガスと、石炭を加熱した時に生じる石炭ガスの二種類である。より軽量なのは前者だが、貴重な鉄材を大量に使用するためにガス生成のコストがあまりにも高く、また引火しやすく危険である。石炭ガスはそれよりも安価だが、それほど軽量ではないので熱式に比べペイロード面でのメリットが少ない。いずれにせよ、ガス式は下降時のコントロールの難しさとコスト‥‥熱式ならば、加熱をやめれば自然に降下を始めるが、ガス式では弁を開いて気嚢内のガスを逃がす‥‥貴重なガスを!‥‥必要がある。そのようなわけで、近い将来においても、軍民問わず飛行船の主流は熱式であり、このヴィーカル連合王国での実験も航空開発よりもむしろ科学技術の高さを諸外国に見せつけることのほうが主眼であろう。あるいは、国王の『ペット・プロジェクト』なのかもしれない。わが『紫の虎』の百数十倍はあろうかという大きさの巨大ガス式飛行船の想像図を眺めながら‥‥キャプションにはご大層にも『大陸縦断飛行に出発する巨船の想像図』と書いてあった‥‥わたしは鼻で笑った。
「こいつは永久保存版だね、大尉」
サンヌが言いつつ、自分が読んでいた新聞を渡してくれた。
『王国航空軍団、レスペラ藩王国支援に軍用飛行船を派遣』という見出しが、わたしの目に飛び込んでくる。
わたしは苦笑しながら、自分たちのことが書かれた記事を読み飛ばした。こちらが気恥ずかしくなるほどに、記事の調子が軍礼賛的だったからだ。空賊の跳梁に悩まされる地方自治領に派遣される正義の味方。聡明かつ勇敢な士官らと、澄んだ瞳の兵士たち。ぴかぴかに磨かれた徽章と、曇りひとつないブーツ。
わたしは新聞の発行元を確かめた。思ったとおり、この地方の有名な御用新聞であった。
傑作なのは、記事の下の方に添えられた細密画だった。軍用小型飛行船の前には、ぴしりと敬礼を決めた飛行服姿の三人の女性が描かれている。キャプションには、『派遣小隊を率いるエルダ・フォリーオ大尉と、その乗員』とある。
おそらく公刊資料を参考にしたのであろう、アマツバメ級軍用飛行船の描写は細部に至るまで正確であった。だが、乗員の方は多分に想像が混じっているらしく、不正確だった。推測だが、取材記者が送った電信には、わたしたちの詳しい容姿までは記載されていなかったのだろう。絵の中のフォリーオ大尉はきりりと締まった表情の、控えめに見積もってもわたしより五割増しくらいの美人で、飛行服の胸部は異様なまでの盛り上がりを見せていた。その隣に立つサンヌ・アドム軍曹は、三十代半ばという年齢と美人とはお世辞にも言えぬ顔立ちはほぼ正確に描かれていたものの、わたしと同じくらいの背丈に描かれていた。‥‥実際は頭ひとつ分低いのだが。
一番曲解して描かれていたのが、ミラーユ・ティリング少尉であった。まるでどこか外国の純真無垢なお姫様、といった体の明るい髪の美少女が、びっくりするくらい大きな眼を見開いて敬礼している。少尉が美人であることに疑いを差し挟む余地はないが‥‥少なくとも、この細密画に描かれているような、さながら宗教画に見られる女神の背後で意味なく羽ばたいている天使のような顔立ちではない。
「切り抜いといて」
わたしは新聞をサンヌに返した。サンヌがさっそく、尻の下から取り出した金切り鋏で、慎重に記事を切り抜き始める。
わたしはふたたび自分の新聞を手に取った。このあたりの地方政界に関する解説記事を半ばまで読み進めたところで、変化が生じた。
「来た! 大尉、来ました!」
ティリング少尉の声に、わたしは弾かれたように立ち上がった。
彼女の指差す方向には‥‥青空しか見えなかった。わたしは眼を凝らした。すると、ごくかすかだが、明るい色彩が認められるようになった。
わたしの手に、金属の塊が押し込まれた。‥‥サンヌが、双眼鏡を渡してくれたのだ。わたしは礼の言葉をつぶやきつつ、使い慣れた双眼鏡を眼に当てた。鏡筒をわずかに動かし、空を探る。円形に切り取られた視界の中に、いくつかの色彩の混じった気嚢らしき物体が飛び込んできた。間違いないだろう。
双眼鏡をサンヌに返したわたしは大声で整備員たちを呼ばわり、離陸準備を命じた。駆け足でやってきたテリアー曹長がてきぱきと指示を飛ばし、薄茶色の作業服をまとった整備員たちが所定の位置に散り、各々に与えられた作業を再開する。
「やれやれ、やっとお出ましかい?」
ずんぐりとした指で新聞を丁寧に折りたたみながら、サンヌがわたしの横に立った。
同時投稿の第二話です。本作は一人称中篇作品です。まことに静かな始まり方ではありますが、今後空戦シーンや王女様なども出てきますので、続きも読んでいただけるとありがたいです。連載ペースですが‥‥当初は週一回の予定でしたが、あらためて読み直してみると各話の分量があまりにも少ない(汗) ですから水曜日と土曜日の週二回連載を目指すことになりました。よろしくお願いします。 では用語解説 ペイロード/有効搭載量。 ペット・プロジェクト/権力者などが自分の権勢を誇示する、あるいは自己満足のため行う事業のこと。単に趣味に走った場合もある。砂漠の真ん中に国際空港を作ったり、無意味に高いビルを建てたり、何の役にも立たない研究所を立ち上げたり、といった類の無駄使い。 では前作殻竿飛行隊を読んでいただいた読者様向けの後書きを。‥‥すいません、また空ものです。おまけに主役は女性士官で、しかも大尉です(汗) たぶん‥‥年齢的にも瑞樹と同じくらいだろうな(笑) えーと、本作は数年前に書いたもので、多少は手直ししましたが、ストーリーその他は全く改変しておりません。ですから、「殻竿」に似たキャラや描写などが今後出てきたとしても、こちらがオリジナルということになります。ご了承下さい。