17 脱出
「お久しぶりです、フォリーオ大尉」
現われたのは、フレンス・オウラだった。大きな肩掛け鞄を下げている。
「何の御用でしょう」
わたしは事務的に応じた。
「やだなあ。怖い顔しないで下さい。ティリング少尉のお手伝いができないかと思って、訪ねて来ただけですから」
へらへらとした笑いを浮かべながら、オウラ。
ティリングに対する襲撃から、ほぼ丸一日経過していた。わたしたちは新しい宿舎‥‥整備班の下士官用に借り上げられた家‥‥に移り、警備もさらに強化されている。
『死亡した暗殺者生存偽装作戦』のお膳立ては驚くほどうまくいった。医師に付き添われ、担架で王城に担ぎこまれた『捕虜』は、無事に弾丸摘出手術を受け、今朝からさっそく尋問を受けている‥‥という噂が、すでにレスペラ全土に広まっている。ただし、今のところ内通者が浮き足立って動いている気配はない。
ちなみに、暗殺者二人の身元は、あっさりと判明した。二人とも、レスペラ東部の新たな村の住人だった。入植したのは、いずれも一年ばかり前のことだ。おそらくは、最初から内通者の手足となるべく送り込まれた者だろう。
「部外者の、しかも民間人のお手伝いなど結構です」
わたしはオウラの暗号解読への助力を断った。
「これでも翻訳者ですからね。それに数学の素養もある。ヴォーデ大学文学博士にして、数学士なんですよ、わたしは」
「結構です」
「仕方ありませんね。それじゃ、これをティリング少尉に渡してくれませんか」
オウラが、懐を探る。取り出したのは、撃鉄を起こした拳銃だった。
「お静かに。ティリング少尉の所へ参りましょう」
小声で、オウラ。
銃口は、わたしの腹にぴったりとくっつけられている。引き金は、すでにわずかだが絞られていた。‥‥下手に抵抗すれば、命がない。わたしはおとなしく従う事にした。ティリングには悪いが、少なくともオウラが殺そうと思っている人物はわたしではあるまい。
「えーと、オウラさんと二階へあがります。一階の警備は、任せましたよ」
わたしは、オウラを刺激しないようにゆっくりとした口調で、王室警護隊の警備責任者に声を掛けた。警備責任者は明らかに不信感を覚えたようだったが、二階への階段を上るわたしとオウラを止めはしなかった。
「まさかとは思うけど、あなたが内通者なの?」
階段を上りながら、わたしはそう訊いてみた。銃口は、今度はわたしの背中に押し付けられている。
「まあ、そういうことだね」
‥‥おかしい。
わたしはそう感じていた。オウラは藩王国政府関係者とはいえ、あくまで嘱託である。警察軍の動きに関する詳しい情報など、そう簡単には手に入れられないだろう。とすると、彼もまた、昨日の暗殺者同様、下っ端ということか。
ティリングの部屋の前には、王室警護隊員二人が立哨していた。オウラが、わたしに拳銃を突きつけているところを見せつける。
「騒ぐな。抵抗すると、大尉が死ぬぞ」
慌てて拳銃を抜こうとした王室警護隊員の手が、止まる。
「彼の言う通りにして」
オウラがわたしを撃てば、当然警備の者によって射殺される。しかし、わたしの命もないだろう。いずれにせよ、彼はひとりである。時間を稼げば、いずれ取り押さえるチャンスが訪れるに違いない。焦る必要はなかった。
「全員、部屋に入れ」
オウラが命じた。王室警護隊員が、しぶしぶ扉を開け、部屋に入る。わたしに拳銃を突きつけたまま、オウラが視線で警護隊員を制しつつ、慎重に入室した。
「なにがあったんです?」
驚きに眼を見開いたティリングが、問う。
異変を察知したサンヌは、いち早く拳銃を抜いていた。だが、人質にとられているわたしを見て、銃口を下げる。
「全員、おとなしくしていろ。この鞄の中には、擲弾が七発詰まっている。これを見ろ」
オウラが、左手で鞄の中から掌にすっぽりと収まってしまう程度の奇妙な道具を引っ張り出した。太く黒い線が尻尾のようにくっついており、それは鞄の中へと続いていた。
「これは発条仕掛けで、雷管キャップを叩けるように作ってある。この線は、導爆薬線だ。すべての擲弾に繋がっている。つまりだ」
その奇妙な道具を、オウラが掌に軽く握り込んだ。
「これ以後、俺が掌を開いたら、発条が作動して雷管キャップを叩き、すべての擲弾が起爆する。この部屋にいるものは、全員死亡するというわけだ。だから、抵抗するな。銃や刃物を持っている者は、今すぐ捨てろ」
真っ先に、サンヌが手にしていた拳銃を床に置いた。ちょっとためらってから、ティリングも倣う。わたしの強い視線を受けて、二人の王室警護隊員も、拳銃を置いた。
「ねえ、ひょっとして、『レンゼルブ夫人』を爆破したり、システィハルナ王女の飛行船に爆薬を仕掛けたりしたのも、あなた?」
ふと思い付いたわたしは、訊いてみた。
「そうだ。数学士というのは嘘でね。実は、理学士だ。大学で学んだのは、言語学と化学なんだ」
微笑んで、オウラ。
「警護隊と軍曹は、隅に寄れ」
オウラが命ずる。三人が退いたのを確認してから、彼はわたしも隅へと押しやった。‥‥擲弾の詰まった鞄を持っている以上、手の届くところに人質を置いておく必要がなくなったのだ。拳銃の銃口は、今度はティリングに向けられた。
「さて、少尉。例の暗号の原本と写し、いままでに得られた解読結果、その他それに関するメモの類を洗いざらい出してもらおうか」
「えーと、それなんですけど‥‥」
ティリングが、答えに窮する。わたしは口だけで割り込んだ。
「悪いけど、暗号うんぬんの話は、すべてでっち上げだったの」
「‥‥なんだと?」
「内通者を炙り出すための罠よ。押収した書類に暗号は使われていなかったし、もちろん内通者の存在を指し示すようなものもなかったわ」
「それにまんまと引っかかったというわけか、俺は!」
オウラが、ひずんだ笑みを見せる。
「昨日大事な部下を二人とも死なせてしまい、意を決して自ら乗り込んでみれば、結局嘘に踊らされていただけとはな。‥‥システィハルナの策謀か?」
「そうよ」
わたしはそう答えた。自分のアイデアだと言えばオウラに何をされるか判らないと危惧しての偽りだ。‥‥これくらいの嘘、システィハルナは許してくれるだろう。
「まあいい。どうせレスペラでの俺の仕事は終わりだ。いずれにせよ、あんたを殺すのと、脱出することが目的だったからな」
オウラが、銃口をティリングに向かって振りたてる。
「待って。暗号がでっち上げだとわかった以上、彼女を殺す意味合いはないわ」
「判ってるさ。無駄な殺しはしない主義でね。代わりと言ってはなんだが、脱出を手伝ってもらう」
「脱出?」
「飛行船で逃げるのさ。大尉は、その警護隊員を縛り上げろ。少尉、あんたは軍曹を縛れ。それが済んだら、大尉を縛るんだ」
「ち、ちょっと待って。あなた、飛行船を扱えるの?」
わたしは慌てて訊いた。
「いいや。彼女が操舵するんだ」
オウラが、銃口でティリングを指した。
「素人だね。一人じゃ、飛行船は動かないよ」
サンヌが、口を挟んだ。
「‥‥操舵にひとり。ボイラー係りがひとり。最低でも、二人は必要だ」
「逃げるってことは、遠くまで行くんでしょ」
わたしも言ってやった。
「‥‥だったら、航法にもひとり必要だわ。あなたが大学で天測や地文航法について学んだのなら、別ですけどね。中央山岳地帯でロスト・ポジションに陥ったら、命がないわよ」
オウラが、しばし沈黙した。
「いいだろう。大尉と軍曹、警護隊員を縛ったら一緒に来い。ただし、鞄の中身のことを忘れるなよ」
警備責任者は、あきらかに異変に気付いていたが、わたしは目顔で介入しないように命じた。擲弾の話ははったりではあるまい。今までの言動からすれば、オウラはかなり用意周到な人物である。彼がその気になれば、みんな命はない。
係留塔に陣取る『紫の虎』は、空賊襲撃に備えてすでに離陸準備を整えていた。わたしはわざと離陸前点検に時間をかけ、オウラの隙を覗ったが、制圧するチャンスは訪れなかった。彼があの道具を手放すまえに導爆薬線を引きちぎることができれば、おそらく起爆することはないと思うが、彼もそれは承知しているようで、こちらが手の届く範囲には入ってこなかった。
ひとつ確実に言える事は、オウラが飛行船に関して無知であるらしいということだった。わたしは気嚢加熱中にわざと必要のない作業をやって見せたが、彼は文句ひとつつけなかったのだ。また、追加のガソリンや灯油の積み込みも指示しなかった。現在積み込んでいるガソリンは戦闘定量の二分の一、灯油はわずか三分の一である。これでは、一番近いタガレー国内の入植地へさえたどり着けない。
わたしは作戦を立てた。途中で、燃料が足りなくなったといって引き返せばいい。オウラはおそらく自殺するタイプではない。山中に不時着して朽ち果てるよりは、別の脱出方法を探すだろう。もうすでに、地上作業員たちはわたしたちがオウラの人質となっていることに気付いていた。引き返してくるころには、システィハルナがなんらかの手を打ってくれていることであろう。
「離陸するわよ」
わたしの言葉に、オウラがうなずきで承認を与える。
『紫の虎』はしずしずと上昇した。ティリング少尉が発動機に火を入れる。
「西へ向かえ!」
オウラが命じた。
「おい。あれは何だ!」
オウラが叫んだのは、離陸して一時間ばかり経過した頃だった。
彼が銃口で指し示す先には、小さな艇影があった。方角は東だ。
わたしは双眼鏡を取り上げた。詳しく見るまでもなかった。
「追っ手ね! おそらくレスペラ艇だわ!」
システィハルナだろうか。ともかく、味方である。
「少尉、もっと速度をあげろ!」
「これ以上出力を上げたら、燃料を無駄遣いすることになりますよ!」
ティリングが、言い返す。
「かまわん!」
「だめよ!」
わたしは一枚目の切り札を出すことにした。
「ガソリンはもう半分近く使っちゃったのよ! どこへ逃げたいのか知らないけれど、そこへたどり着けるだけのガソリンはないわ! レスペラへ引き返した方が、身のためよ!」
意に反し、返ってきたのは不敵な笑みだった。
「燃料が少ないのは計算済みだ!」
拳銃をいったん手放したオウラが、懐から一枚の紙を取り出す。
「ここに向かえ!」
紙は手書きの地図であった。ほぼ中心に、赤い点が打たれてある。わたしは官給品の地図を取り出すと、地形を照合した。そう遠くない場所だ。ガソリンが切れるずっと前に、たどり着ける。
「空賊が設けた緊急の補給地点だ! ガソリンも灯油も貯えてある! そこで給油して、さらに西へ飛ぶ!」
「用意のいいことで!」
皮肉な口調で、サンヌ。
「結局どこまで逃げるの? タガレー国内に仲間がいるの?」
「答える必要はない!」
「答えてもらわなきゃ! わたしたちは人質なんですからね! 安全を保障してくれない限り、これ以上の協力はできないわ!」
わたしは腕を組んでそう言い放った。
「‥‥道理だな! いいだろう! 俺の受けた命令は、暗号解読の阻止だけだ! すべてが偽装だと判った以上、任務は果たしたと考えていいだろう! その後、自己判断でレスペラを去れとの指示だ! タガレーのある場所に赴けば、礼金と新しい身分が待っているはずだ!」
「わたしたちはどうなるの?」
「たぶん、どこかの軍閥に頼めば、リンカンダムへ送還してくれるだろうな! ひどい眼にあうことはないだろう! 軍閥だって、リンカンダムの軍人を虐待したりすれば、様々な方法で報復されることくらい承知しているからな!」
オウラがそう答えた。わたしはしばし考えてから、質問を放った。
「あなた、誰に雇われていたの?」
「詳しくは知らんよ! 俺はいわば連絡役でね! 結局のところ、金で雇われた使い走りさ!」
「レスペラに、まだあなたの仲間がいるのね?」
「ああ! 命令は、そいつから受けていたんだ!」
「誰なの、それは?」
「聞きたいか?」
オウラが、楽しげな表情でわずかに身を乗り出す。
「もちろん!」
「聞いたら、生きて返すわけには行かなくなるが‥‥それでも聞きたいか?」
「‥‥やめとく!」
レスペラ艇は、相変わらずわれわれを追尾してきていたが、十二分に距離を保っており、ちょっかいを出してくることはなかった。やがて、『紫の虎』は、手書き地図に記されていた地点上空に到達した。険しい山の中腹に、ちょっとした平地がある。わたしは階段の踊り場を連想した。
「よし。降りろ!」
オウラが命ずる。
ここしか逃げる機会はない、とわたしは判断していた。オウラはずっと隙を見せていない。もし首尾よく導爆薬線を引きちぎったとしても、誰かひとりは拳銃の弾丸を喰らうことだろう。わたしはむろん死にたくなかったし、ティリングやサンヌを失うわけにも行かなかった。
給油作業中に逃げることも出来そうになかった。身を隠せるようなところはどこにもなかったし、無理に逃亡を図っても、崖をよじ登ったりにじり降りているところを狙い撃ちされるのがおちである。
わたしはわざと尋常でない着陸手順を踏んだ。サンヌとティリングに、脱出の意図を伝えるためだ。察したサンヌが、理解したというようにうなずいてみせる。ティリングも判ったらしく、ウインクしてくれた。
着地寸前に、わたしはこう命じた。
「ティリング少尉。合図したら係留索を持って飛び降りて。サンヌはそれを手伝うように」
「了解」
二人が声を合わせる。
「妙なことを考えるなよ」
一応、オウラが釘を刺してくる。だがしかし、こちらの意図に気付いたような様子は覗えなかった。
「着地の衝撃に備えて。かなり揺れますからね。驚いて掌を開いたり、引き金を引いたりしないでよ」
わたしはオウラに対しそう告げつつ、ゴンドラの縁と索の一本を手でつかんだ。この一言で、貴重な数分の一秒が稼げるかもしれない。
どしん、とゴンドラが揺れ、着地する。
「係留索!」
叫ぶと同時に、わたしは腕の力だけでぐいっと身体を持ち上げ、両足をゴンドラの縁に掛けた。そのままぴょんと、ゴンドラの外へと飛び出す。地面に降り立ったわたしは、急いで横にステップを踏みつつ‥‥拳銃の狙いを逸らすためだ‥‥振り返った。
サンヌもティリングも、すでに地面に降り立っていた。
着地したはずのゴンドラの姿は、地面の上にはなかった。三人分の体重を失った『紫の虎』は、重力との戦いに打ち勝ち、急速に高度を上げていた。ゴンドラの見かけの大きさが、みるみる縮まってゆく。
「ははは。寸前に、最大火力にしてやったからね」
サンヌが自慢げに言う。
『紫の虎』は、なおも上昇を続けていった。ゴンドラの見た目は、すでにビスケット一枚と変わらぬ大きさだ。と、それがいきなり爆発した。
オウラが慌てて例の装置を手放してしまったのか。あるいは、別の原因があったのだろうか。ともかくも、『紫の虎』のゴンドラが青黒い煙に包まれる。次の瞬間、火球が生じた。すでに残り少なくなっていたガソリンに引火したのだろう。どおん、という音が、わたしたちの耳を打った。
『紫の虎』は失われた。わたしたちの、艇が。
「あーあ、もったいない」
ティリングが、しみじみと言う。
細かい破片が、ばらばらと降ってきた。発動機かボイラーの残骸らしい大きな塊は、炎をあげながら山の斜面に落下し、もろくなっていた岩を盛大に削り取りながら、転がり落ちていった。
「さて、問題は」
サンヌが、急速に近付いてくるレスペラ艇を指差した。
「あの艇に三人も便乗できるかどうかだね」