12 回想
その翌日、わたしとサンヌ、ティリング少尉の三人は、朝早くから係留場へと赴いた。
むろん、『紫の虎』点検のためである。夜間の警備状況‥‥不審者を見かけなかったかどうか‥‥を警備の者に確認してから、慎重にゴンドラ内外を調べる。
「‥‥怪しい物は、ないね」
備品を一通りチェックし終わったサンヌが、言った。
「こちらも大丈夫です」
主にゴンドラの周囲‥‥地面や係留塔になにか仕掛けられている可能性もある‥‥を調べたティリング少尉が、そう報告する。
「結構」
旋回砲やボイラーなどのゴンドラ内設備を精査したわたしは、朝だというのにかなりの疲労を覚えてへたり込んだ。‥‥むろん、精神的な疲れである。その可能性は低いとは言え、仕掛けられているかも知れぬ爆発物の捜索というのは、恐ろしく気疲れする作業なのだ。
「こりゃ、爆発物処理手当でもつけてもらわなきゃ、合わないね」
わたしの傍らにへたり込みながら、サンヌ。
「へばっている場合じゃないみたいですよ、大尉」
ゴンドラの外から、ティリングがそう声を掛けてくる。
「どうしたの?」
わたしは立ち上がり、ティリングが指差す方を見やった。
黒塗りの馬車が一台、放牧場の端に停まっていた。そこから降りてきた数名の人物が、こちらへと歩んでくる。遠目にも、その中にシスティハルナとエクス隊長がいるのが見えた。
「また爆薬が仕掛けられているなんて、言うんじゃないだろうね?」
わたしから『レンゼルブ夫人』爆発の顛末を詳しく聞かされているサンヌが、ぼやくように言う。
わたしはゴンドラから飛び降りると、システィハルナを出迎えに行った。
「おはようございます、殿下」
「おはようございます、大尉」
システィハルナが、ぺこりと頭を下げる。今日も、乗馬服のようなスタイルだ。
「大尉、お時間はありますか? 少し、お話したいことがあるのですが‥‥」
遠慮がちに、システィハルナが訊く。
「もちろん構いません。ですがその前に、部下に指示を与えておきたいのですが」
「結構です。お待ちしています」
わたしは一礼すると、『紫の虎』へ駆け戻った。ティリングとサンヌに、宿舎に戻って待機しているように告げると、システィハルナのところに取って返す。
「お待たせいたしました、殿下」
「少し歩きましょうか」
わずかに微笑みながら、システィハルナがわたしの腕を取った。
わたしとシスティハルナは、ごくありきたりの世間話を交わしながら、しばらくの間放牧地を歩んだ。護衛の王室警護隊員はあちこちに散り、エクス隊長だけがわたしたちの会話がかすかに聞き取れるくらいの距離を置き、あとをついてくる。
朝露を纏った瑞々しい牧草は、かすかだが生臭い匂いを放っていた。どこかに巣があるのか、小さな蜜蜂が数少ない野の花を探して、あたりを飛び交っている。
「座りましょうか」
システィハルナが、牧草地を仕切る柵を指差した。
わたしは彼女の隣に腰を掛けた。
「もしよろしければ、あなたのことを話していただけませんか? 経歴は読ませていただきましたが、もっとあなたのことを知りたいのです」
わたしの顔を穏やかなまなざしで見つめながら、システィハルナが言う。
「わたしのこと‥‥ですか。とくにお話するようなことはないと思いますが‥‥」
「それほど立ち入ったことをお尋ねするつもりはありません。でも、航空軍団から送られてきたあなたに関する経歴には書かれていなかったことを、知りたいのです。たとえば、あなたの生まれた街はラフマンだと書いてありました。わたしはラフマン市のことを、地図の上だけでしか知りません。どういう街だったのですか? どんな人が住んでいたのです? どんな音が、どんな匂いがする街なのですか?」
相変わらず穏やかなまなざしで、システィハルナ。
わたしは戸惑っていた。これは、単なる知識欲の顕れなのだろうか? それとも、そのうちこの娘に『お友達になってください』とでも言われるのだろうか?
いずれにしても、そこまで言われれば話さざるを得まい。わたしは背後に突っ立っているであろうエクス隊長のことをちょっと気に掛けながら、語り始めた。
わたしの生家は、その東半分がリンカンダム王国の飛び地となっているエドレン半島の最も東に位置する港町ラフマンで、中規模な宿屋を営んでいた。
ラフマンは小さいが賑やかな街であった。東大洋は豊かだが荒れやすい海であり、そこに差し伸べられた腕のようなエドレン半島の突端にあるラフマンは、昔から避難港兼漁港兼風待ち港として栄えたのだ。汽走船の一般化に伴い、風待ち港としての機能は低下したが、それでも街の賑わいは衰えなかったし、宿も繁盛していた。
わたしには二人の姉と一人の兄がいた。すでに兄は宿屋の跡取り息子としての道を歩み始めていたし、姉二人はごく普通の若い娘として成長していた。わたしが成人してからのことだが、父が酔っ払って思わず漏らした言葉を信用するとすれば、『普通の女の子を育てるのに飽きた』らしい父は、三女であるわたしをちょっと毛色の変わった子供に育てようと試みたらしい。そういうわけで、わたしはかなり自由奔放な育て方をされたようだ。‥‥少なくともおしとやかな娘でなかったことは、確かである。
そんな少女時代のわたしの心を捉えたのは、飛行船であった。ラフマン市港の南には軍用埠頭があり、東大洋を哨戒するリンカンダム海軍の戦隊が常駐していた。そこには海軍航空隊の飛行船中隊も併設されており、しょっちゅう哨戒任務や訓練のために飛び立っていたのだ。宿屋の屋根裏にあるわたしの部屋の窓からは、係留されている飛行船はもちろん、整備作業を行う兵士たちの姿までもがはっきりと見通せた。飛行船が飛ぶ天気のいい日には、自室にこもって飽かず係留場を眺め、飛ばない雨や霧の日に外に遊びに行くというのが、わたしの習慣であった。今思えば、かなり変な子供である。
大陸のほとんどの国家が参戦した『大戦』が勃発したのは、わたしが十二歳の時であった。わがリンカンダム王国は、いわゆる『東部同盟』の盟主として、ヴィーカル連合王国やタガレー共和国、ドングル海沿岸協商諸国などを主力とする『西方条約』諸国と戦った。大陸で事実上最も戦線から遠い街であったラフマンは、一年半に及んだ大戦の間も平和そのものだったが、子供の眼を通しても戦争の影はそれなりに感じられた。西方からの輸入品の不足、埠頭に入港する大型船舶の減少‥‥海軍にかなりの船が徴用されたせいだ‥‥、物価の上昇、そして、重度の障害を負って帰郷する軍を除隊した青年たち。むろん、死体となって帰ってきた者もいただろうが、なぜか戦死者の葬儀などに関する記憶はない。‥‥たぶん、両親が見せないように気を使ってくれたのだろうが。
海軍飛行船中隊も、戦争中はラフマンを留守にしていた。そして、戦争が終結してもしばらくの間帰ってこなかった。大戦はいわば引き分けに終わり、戦後も両陣営は大陸中部に戦力を集中させていたから、辺境の洋上哨戒に回せる飛行船戦力はなかったのだ。
わたしの飛行船への思いは、この時期さらに強くなっていた。遠距離恋愛の心理、とでも言えばいいのだろうか。飛行船の姿が見えないことによって、さらに恋慕の情が募っていたのだ。
すでに、わたしは両親と兄に対し、将来飛行船乗りになると宣言していた。狙っていたのは、民間籍輸送飛行船の操舵手であった。子供なりに、軍用飛行船は危険だと考えていたのだ。
だがその一方で、わたしはあまり粘り強くない人間であることも確かだった。民間籍輸送飛行船の操舵手になるためには、まずそれら飛行船を保有して運航する企業に入社し、そこでいわば下積みとも言うべき仕事をこなしてから、あらためて操舵手候補として名乗りをあげ、先輩操舵手の指導を受けつつ腕を磨かねばならない。そしてそれら飛行船の操舵手の大半は男性であり、女性の入り込む余地はあまりないことも事実であった。もちろん、自分で飛行船を手に入れれば、役所の認可を受けるだけで操舵手となることは可能だが、そんな元手が十代の女の子にあるわけもない。当然のことながら、繁盛しているとはいえ平凡な宿屋にも、そのような蓄えはなかった。
幸い、大陸は平和な方向に向かいつつあった。わたしが中等教育を終わる前に両陣営は全面的和解にこぎつけた。『東部同盟』は解散し、『西方条約』は単なる通商条約に格下げされる。さらに幸運なことに、リンカンダムでは飛行船戦力の統合が発表された。陸軍航空師団と海軍航空隊が合併し、新たに第三の軍種として‥‥陸軍や海軍と比すれば格下で、しかも呆れるくらいに小規模ではあったが‥‥航空軍団が発足する運びとなったのである。その準備として、航空軍団隊員を養成するための各種学校が一足先に開校された。その中には、航空軍団士官学校の名もあった。
わたしは迷わず航空軍団士官学校に応募書類を送った。とりあえずそこで飛行船操舵を習い、数年だけ軍務に就いてから除隊し、民間籍飛行船の操舵手に鞍替えすればいいと考えたのだ。
書類は受理され、わたしは試験を受けるために士官学校が開設された本土のヴェデルチ市行きの列車へと乗り込んだ。生まれて始めての一人旅であった。
試験の出来は上々だった。適性検査にも合格した。わたしは、晴れて航空軍団士官学校第一期生として入学を許可された。あてがわれた寮はあたりまえの話だがまだペンキの匂いが取れていないほど新しいもので、二人で一部屋を共用する造りになっていた。同室となる人物はくじ引きで決められた。わたしと相部屋になったのは、レスペラという聞いたこともないちっぽけな辺境藩王国からやってきた、フィーニア・クロイと言う名の笑顔を絶やさぬ明るい女の子だった。わたしはちょっと会話を交わしただけで、彼女のことを好きになった。まあ、当然だろう。二人とも、飛行船を死ぬほど愛していたからだ。
前途は順風に思えた。だが、逆風はすぐに吹き始めることになる。
最初の一ヶ月は、飛行船とは無縁の学課と実技が続いた。軍人としての基礎訓練と基本的な事項の学習である。
それが終わったところで、全員が適性検査を受けた。結果を聞いたわたしは愕然とした。操舵手としての適性に欠ける、と判断されてしまったのだ。ちなみに、フィーニアは適性ありと判断され、今後は操舵手課程を受けることになった。
わたしは悩んだ。航空軍団の軍人イコール操舵手、などというのは幻想だったことに、遅まきながら気付いたのだ。航空軍団士官学校は、あくまで航空軍団に勤務する士官を養成するためのものである。操舵手養成学校ではないのだ。航空軍団も軍隊である以上、様々な兵科や職掌がある。整備や主計、衛生や憲兵士官なども、同時に必要とされるのである。
落ち込んでいたわたしを救ってくれたのは、フィーニアのアドバイスだった。航空砲手課程に挑戦してみないか、と言ってくれたのだ。幸い、基礎訓練でのわたしの射撃の腕前は‥‥それまでは玩具の銃さえ触ったこともなかったのに‥‥優秀だった。
フィーニアのその時の言葉は、いまでも覚えている。『操舵手だけが飛行船乗りじゃない。砲手も立派な乗員よ。それに、あんたが砲手になれば、おんなじ艇に乗れるかも知れないじゃない』
彼女の言葉に励まされたわたしは、砲手課程を志願した。そして‥‥適性を認められた。
わたしもフィーニアも、卒業の頃にはちょっとした有名人になっていた。彼女はすでに第一期生でもっとも腕がいい操舵手としての評判を勝ち取っていたし、わたしも砲手課程では成績上位五人の一角を占めていたのだ。しかも、その中で女性はわたしだけだった。
無事卒業し、晴れて新米少尉となったわたしとフィーニアだったが、同じ艇に乗り組むという夢はもちろんかなわなかった。フィーニアは首都近郊を守備範囲とする第一連隊に配属され、わたしは北西部国境を守る第二連隊に配属されたからだ。
それから会う機会もないまま、フィーニアは故郷のレスペラに呼び戻されてしまう。彼女は少尉のまま退役し、レスペラ警察軍で本格的な航空部隊の創設に携わることになる。
一方のわたしは、第二連隊で順調に昇進を続けた。航空軍団は拡張期にあり、士官の数自体が不足しており、ポストの数が余っている状態だったからだ。わずか半年で艇長の座を射止めたわたしは、中尉に昇進して小隊を、さらに大尉に昇進して中隊を率いることになる‥‥。
「そう。失礼な言い方かも知れないけれど、かなり面白い人生を歩んでこられたみたいね」
くすりと笑いつつ、システィハルナ。
「否定は出来ませんね」
わたしはそう応じた。
「これからどうなさるおつもりですの?」
可愛らしく小首をかしげて、システィハルナが訊く。
「これから、と申しますと、将来のこと、という意味でしょうか」
「そうです」
「‥‥とりあえず、軍人として生きるしかありませんね。唯一、他人よりも抜きん出ている才能が、飛行船から旋回砲を撃つ、という技術だけですから」
「少佐になって、中佐を目指し、ゆくゆくは将官を狙う、ってとこね」
「はい」
「ご結婚とかは? 子供が欲しいとか、家庭を持ちたいとか思ったことはないのですか?」
「‥‥男は嫌いじゃありませんが‥‥飛行船の方が好きですから」
わたしの正直な答えを聞いて、システィハルナがぷっと吹き出す。
「そんなに面白いことを言いましたか?」
「いえ、ずっと昔、クロイ少佐に‥‥当時はまだ中尉だったと思うけど、同じような質問をしたことがあるの。その時の答えと、そっくり同じだったから」
「はあ」
「似たもの同士なのね。だから、仲がいいんだわ」
断定的に、システィハルナが言う。
システィハルナが、ぴょんと柵から飛び降りた。わたしも慌てて腰をあげた。
「大尉。とても興味深いお話、ありがとうございました。たいへん勉強になりましたわ」
「‥‥わたしの人生など、参考になさらない方がよろしいと思いますが‥‥」
「とんでもない。人生の先輩の話は、とてもためになります」
システィハルナが、そう言いつつわたしにきゅっと抱きついた。‥‥幼い子供が、母親に抱きついたような感じだった。
「それに、どうやらあなたのことを好きになれそうですわ」




