11 昼食
「こちらへどうぞ、フォリーオ様」
執事‥‥王族に仕える人の場合、この用語で正しいのだろうか‥‥が、わたしを一室へといざなった。第一種礼装に身を包んだわたしは、ちょっと緊張気味に執事が開けてくれた戸口から中へと足を踏み入れた。
そこはさして広くない食堂だった。中央に、純白のテーブルクロスが掛かった正方形のテーブル。天窓から差し込む光が、並べられた金属の食器類を照らしている。
「どうぞ」
執事が椅子を引いてくれる。わたしは礼の言葉をつぶやきつつ腰を下ろした。すぐに給仕係‥‥たぶん‥‥の小柄な女性が現われ、食前の飲み物を注いでくれた。執事が下がり、給仕係も引っ込んだところで、わたしは背の高いグラスに半分ほど入った見た目は工場廃液にそっくりな飲み物をすすってみた。何種類かの果汁やすりおろした果肉を混ぜたものらしく、柔らかな甘味とよい香りがした。悪くない。
ほどなく、システィハルナが現われた。
「立たなくて結構」
立ち上がりかけたわたしを、そう言って制する。
今回のシスティハルナのいでたちはなんとも可愛らしかった。濃淡二色の水色を基調にしたドレスで、裾は膝下までしかない。髪には少女趣味な大きなリボン。こちらも水色である。飛行服や乗馬服など色気のない装いばかり見せられていたので、ドレス姿は鮮烈といっていいほど新鮮かつ刺激的‥‥むろん、性的な意味合いではない‥‥と言えた。それと同時に、わたしは彼女がまだ十六歳の少女だということを改めて思い起こした。
「背中の具合はどうです?」
「医者は問題ないと言いました。傷口はすぐに塞がるそうです。打撲もせいぜい全治三日とのことです」
「それはよかった」
システィハルナが、心からと思われる安堵の笑みを浮かべる。
「車両をどうもありがとうございました。お心遣い、痛み入ります」
わたしは座ったまま一礼した。システィハルナはわざわざ、わたしたちの宿舎まで迎えの無蓋車両を寄越してくれたのだ。しかも、無蓋車両の中には背中の傷を気遣って、特別に柔らかい羽毛クッションをいくつも用意させてあった。運転手にそれとなく尋ねたところ、システィハルナ自らが侍女の一人とともに運び入れたという。‥‥若いくせに、気が利く。これならば、人望を集めるはずである。
「お気になさらずに。招待したのは、わたくしですから。それと‥‥艇の方には異常ありませんでしたか?」
「はい」
わたしとサンヌ、ティリング少尉の三人で、『紫の虎』内外を徹底的に調べたが、破壊工作の痕跡とおぼしき事象は何ひとつ発見できなかった。
「いずれにしても、『レンゼルブ夫人』を失ったことは痛手ですわね」
飲み物をすすったシスティハルナが、嘆息する。
わたしはうなずいた。すでに今回の一件については、詳しい電信報告が警察軍から航空軍団の方へ送られている。いずれ民間籍飛行船が雇用されるだろうが、それまでレスペラは孤立状態となる。ガソリンや灯油は自給できるし、弾薬筒のストックも余裕があるが、整備班が来れないのは痛い。
「『レンゼルブ夫人』は、あなたの艇の身代わりになったのかも知れませんね」
「やはり姫様もそうお思いですか」
わたしはわずかに唇を噛んだ。警察軍は、『紫の虎』にも『レンゼルブ夫人』にも警備の者を張り付かせていた。その能力が高かったことは、『紫の虎』に破壊工作が行われなかったことからも推察できる。そこで、工作員はおそらくは『レンゼルブ夫人』に積み込まれる貨物になんらかの仕掛け‥‥たぶん焼夷物質を付属させた爆薬‥‥を施したのだ。ほんのわずかな爆発と燃焼でも、それがゴンドラ内で生じたものならば、たちまちガソリンに引火して、大爆発を起こしてしまう。
「では、姫様はレスペラ内に空賊に通じている者がいるとお考えなのですか?」
システィハルナはそれには答えなかった。代わりに、給仕係を呼ぶ。
「始めてください」
スープは小麦粉でたっぷりととろみをつけた、具の多いものだった。魚の切り身‥‥むろん淡水魚である‥‥はやや泥臭く、港町育ちのわたしの口には合わなかったので、ソースをたっぷりと絡めた上に付け合せのソテーした野菜を載せ、むりやり口に押し込んだ。ステーキはちょっと拍子抜けするくらい小さかったが、味は上々だった。全体としてやはり薄味であり、山中ゆえに塩や香辛料を多用する習慣がないことをうかがわせた。上質な食事ではあったが、幼い頃から塩辛い干し魚や塩蔵鱈などを食べつけていたわたしにとっては、なんとなく物足りないような気もした。
「デザートはケーキか果物か果実のパイ。どれがよろしいですか?」
システィハルナが訊く。わたしの腹具合からすれば、全部平らげられそうだったが、そんなはしたない真似はできない。瞬時迷ったが、果物ならばいつでも食べられるだろうし、ケーキもどうせ素朴なものだろうとわたしは判断した。ここはやはり、丁寧に作られているであろうパイを味わってみたい。
「では、パイをいただきます」
「では、わたくしはケーキを」
システィハルナが、給仕係に注文を出す。運ばれてきた皿を一目見て、わたしは自分の決断の正しさを知った。
システィハルナの前の皿には、きれいに焼き上げられ、粉砂糖をまぶされた、そこそこ美味しそうだったがありふれたケーキが載っていた。
対するわたしのパイは見事なものだった。扇形にカットされた大きな一片には、砂糖漬けにされた色とりどりの果実と砕いた堅果、それに生焼けの数種のフルーツが乗せられ、幾重にも折り重ねられたパイ生地自体もふんわりと焼き上げられている。
だが、わたしはそのおいしそうなパイを食べそこねた。
わたしはパイにそっとナイフを入れた。さくっという小気味良い音とともに、つやのある生地に刃が沈み込む。わたしは丁寧に作業を進め、正方形に近い形に一片を切り取った。ナイフを置き、フォークでその一切れを持ち上げようとしたその瞬間、かすかにぱーんという音が鳴り響いた。
システィハルナが、弾かれたように立ち上がる。
「なんですの?」
「監視哨からの警報です。空賊ですわ。たぶん、西」
システィハルナが窓を開け放つ。わたしもフォークを置くと、窓に駆け寄った。
山並みの向こうに、一筋の煙の柱が上がっていた。火箭だ。
「北西監視哨ですね。色は赤。とすると、視認したのは第十二監視哨。‥‥真西だわ」
システィハルナが振り返り、わたしの腕をつかんだ。
「行きますよ!」
有蓋車両に押し込められ、一気に丘を駆け下る。
「手伝ってください」
そうわたしに頼んだシスティハルナが、あの可愛らしいドレスを脱ぎだし始める。いささか戸惑ったが、ここは手を貸さないわけにはいくまい。わたしは広いとは言えぬ有蓋車両の中でシスティハルナの脱衣を手助けした。
ドレスの下から現われた肉体は、いかにも少女らしい体つきながらもそこそこ鍛えられた見事なものであった。太腿などは常に身体を動かしている者特有の引き締まったものだ。腕は細く、白く、柔らかだったが、華奢な感じは微塵もなかった。
車内の隅に置いてあった布袋から飛行服を取り出したシスティハルナは、それを着け始めた。わたしはそれをぎこちない手付きで手伝った。
着替え終わってすぐに、車両が止まった。文字通り車両から飛び出したシスティハルナの後から、わたしも飛び降りた。係留場では、すでにレスペラ艇のうち一艇の離陸準備が進んでいた。気嚢は八割程度膨らんでいる。システィハルナは、その艇めがけて疾走していた。誰かが、ゴンドラの中で手を振っている。赤毛だ。おそらく、あのリュレアとかいう砲手少女だろう。
わたしも『紫の虎』めがけて走り出した。こちらも気嚢はかなり膨らんでいる。ゴンドラの中にはすでに、サンヌとティリング少尉の姿があった。
ゴンドラに転がり込むと同時に、わたしの手に飛行眼鏡と飛行帽が押し付けられた。それらを手早く着けながら、問う。
「状況は?」
「敵さんは複数。西から中高度を接近中。伝令いわく、『警察軍航空部隊は迎撃に出動するので、レスペラ派遣群も共同行動を取っていただきたい』だって」
サンヌがにやにやしながら言う。‥‥昨日警察軍にきっちりと刺しておいた釘がしっかりと効いているらしい。
「各部状況報告」
「発動機異常なし。定格保証します。気嚢、索、ゴンドラ正常。ガソリン戦闘定量二分の一」
早口で、ティリング少尉。
「ボイラー燃焼中。灯油戦闘定量三分の一。砲門異常なし、未装填。弾薬筒定量。非常用品定量」
生真面目な口調で報告したサンヌが、急にくだけた口調になって、付け加える。
「‥‥ただし、若干一名、飛行時の軍装規定に抵触」
わたしは自分の第一種礼装を見下ろした。むろん、着替えている暇などない。
「レスペラ艇、離陸します」
ティリング少尉が叫んだ。
システィハルナの乗り組んだ艇が、するすると上昇を始めていた。発動機に火が入り、唸りが係留場に響き渡る。
わたしはサンヌを見やった。サンヌが、うなずく。機動性を重視するために、ガソリンも灯油も最大積載量どころか戦闘定量よりも大幅に少なくしてある。まだ気嚢の浮力は充分とは言えないが、離陸は可能だろう。飛行船は地上にいる状態が最も脆弱である。また、離陸直後、低空を低速で飛行している状態も脆弱となる。なるべく早く高度と速度を稼ぎたい。
「緊急離陸準備!」
わたしは地上作業員たちに命じた。すぐに、係留索が外され始める。最後の三本は、一斉に斧で断ち切るという方法が取られた。乱暴なようだが、これが一番安全なのだ。
縛めから解き放たれた『紫の虎』は、ふわりと宙に浮かんだ。
「少尉、発動機始動」
「了解!」
どうん、という唸りをあげて、発動機に火が入った。サンヌはすでに対空捜索に入っている。わたしも双眼鏡を取ると、西の空を探った。
いた。
「十一時、高!」
「視認した! 大尉、四艇もいる!」
サンヌが珍しく興奮した声をあげる。
わたしは双眼鏡を下ろした。‥‥たしかに、四つの気嚢が確認できた。そしてその空賊艇隊とわたしたちのあいだに、レスペラ艇の姿があった。
「少尉、速度維持しつつ高度上昇! サンヌ、戦闘準備!」
「了解!」
叩きつけるような返答が二ヶ所から返ってくる。わたしは旋回砲に取り付いた。サンヌが、手早く装弾する。
‥‥なにをするつもりだろう。
わたしはレスペラ艇の動きに不審を持った。ぐんぐんと、空賊との距離を詰めているのだ。通常、数で劣る場合には最大射程近くを保ちつつ砲撃を行うのが妥当な戦術である。接近すれば、数で勝る方が優位な機動を行い、絶好の射撃位置を確保する可能性が高い。
やがて、空賊が発砲を始めた。レスペラ艇が、激しい動きで狙いを外そうとする。
「王女様は囮になる気かい?」
サンヌが、怒鳴る。
‥‥無茶な。
そう思ったが、レスペラ艇の行動により、空賊艇はすべてそちらに引き付けられていた。むろん敵も、わが艇の動きについて承知しているはずだが、まずは一艇ずつ潰そうという魂胆なのだろう。いずれにせよまだ距離があり、『紫の虎』は空賊に対して脅威とはなっていなかった。
「少尉! 距離を詰めて!」
システィハルナの操舵‥‥わたしは、彼女がレスペラ艇を操っていることを疑わなかった‥‥は見事だった。空賊砲手の機先を制するような奇抜な動きで、相手を翻弄している。撃ち返してもいるようだが、あの機動ではさすがのリュレアでもろくに狙いを付けられないだろう。威嚇射撃にしかならない。
空賊が、むきになってレスペラ艇を追いまわす。多勢に無勢、さすがのシスティハルナも追い詰められてきていた。高度が落ち、機動する余地も少なくなってゆく。
だが、空賊の方もレスペラ艇を追うあまり高度が下がっていた。システィハルナは、ただ闇雲に逃げ回っていたわけではなかった。効果的に、空賊艇を任意の場所に誘い込んだのだ。そしてそこは、わが『紫の虎』の射程内だった。
わたしは初弾を放った。ちょっと遠いが、相手はこちらに尾部を向ける形で飛行中なのに対し、当方はそれにまっすぐ向かっているところであった。絶好の射撃条件だ。
砲弾は、わずかに気嚢の左を通過した。サンヌが装弾するあいだ、わたしは旋回砲をしっかりと保持し、照準器の中に気嚢を捉え続けた。サンヌの手が、わたしの左肩を叩く。目標の空賊艇は、ようやく進路変更を開始したところだった。距離は三百を切っている。わたしは、慎重に狙いを修正し、二発目を発射した。
命中。
わたしが放った一弾は、空賊艇気嚢の下部右側を辛うじて貫いた。
「回避機動!」
ティリングにそう命ずると、わたしは他の空賊の位置を確認した。二艇はまだシスティハルナを追いまわしているが、一艇はこちらを迎え撃つために上昇を始めている。わたしが命中させた艇は、慌ててバラストを落とし始めた。ゴンドラから、砲口炎がきらめく。こちらに向けて放たれた砲弾は、大きく外れた。
わたしは次の目標を接近中の艇に決めた。被弾させた艇はしばらく脅威にはなるまい。システィハルナには悪いが、もう少し二艇を引き付けておいてもらおう。
「少尉、回避しつつ接近中の艇の側方を通過して!」
「了解!」
かなり無茶な要求であるが、ティリングの腕ならば可能なはずだ。
わたしは再び旋回砲に取り付いた。空賊艇は、接近を続けながら時折発砲してくる。わたしは撃ち返さずに、じっと機会をうかがった。お互い行き違う時、しかも最も近付いたときに狙うつもりだった。
相互の距離が、ぐんぐんと近付く。向こうも同じチャンスを狙おうと言うのだろう、接近しているにもかかわらず、発砲を止めた。
‥‥ならば。
「サンヌ、バラスト投棄準備! 下に留意して!」
「あいよ!」
わたしは作戦を変更した。今度はお互いの距離が近いから、こちらが被弾する可能性も高い。そこで、命中率は落ちるがより安全な策をとったのだ。
わたしはいったん照準器から眼を離した。今度は咄嗟射撃となる。一瞬のうちに空賊艇の未来位置を予測し、そこに砲弾を撃ちこまなくてはならない。
最接近の数秒前に、わたしは叫んだ。
「投棄!」
がくんと、ゴンドラが揺れる。‥‥サンヌが、砂袋を投げ捨てたのだ。
すっと、『紫の虎』の高度が上がった。わたしは照準器に眼を当て、空賊艇の未来位置に向け砲弾を放った。距離は百もない。ほぼ同時に、空賊艇も発砲する。
敵弾は大きく外れた。こちらの予想外の急上昇に、照準を狂わされたのだ。そしてこちらの砲弾も‥‥外れた。
「くそっ」
わたしは毒づいた。サンヌが冷静に、次弾を装填する。
「追って!」
わたしの命令に、ティリングが素早く反応する。空賊艇は、針路そのままで高度を稼ぎつつあった。有利な位置を占めてから、射撃しようという手だろう。
「状況報告!」
空賊艇を注視しつつ、わたしは問うた。サンヌが、早口で報告する。
「被弾した艇は離脱中の模様! レスペラ艇は無傷! 一艇に命中させた可能性大!」
‥‥おめでとう、リュレア。
わたしは心中で赤毛の少女に拍手を送った。
「大尉、市街地に接近しつつあります!」
ティリングが、注意を促す。
「了解!」
これで、迂闊にバラストを捨てられなくなった。落下する砂袋の直撃を受ければ、人はほぼ即死である。
「大尉!」
サンヌが叫ぶ。わたしもほぼ同時に、市街の向こう側からひょっこりと浮き上がってきた気嚢を視認していた。二艇目のレスペラ艇が、ようやく離陸したのだ。ちょうど、わが艇とのあいだに空賊艇を挟むような格好の位置だった。
そのレスペラ艇がさっそく発砲した。砲弾は大きく逸れたが、空賊艇を慌てさせることはできたようだ。大きく弧を描き、市街地上空を抜けて北方へと離脱しようとする。
「少尉、追随して!」
わたしは照準器に眼を当てた。逃げる空賊艇を捉える。その視野の中を一筋の煙が伸びてゆく。レスペラ艇の放った外れ弾である。空賊艇が撃ち返す。生じた砲煙の流れ方から、わたしはおおよその風の流れを読み取った。半ば無意識のうちに計算し、狙いをやや下方に修正する。
発射。
濃灰色の煙の槍が、気嚢を貫いた。
「命中!」
宣言しつつも、眼は照準器に当てたままだ。サンヌが装弾し、視野がぐらぐらと揺れる。
空賊艇が、高度を維持するためにバラストを落とし始めた。
‥‥まずい。市街上空だ。
わたしは撃った。諸元は射距離が詰まった以外、先程と同じだ。
命中。
「このまま近接します!」
ティリングが叫ぶ。わたしは異を唱えないことによって承認を与えた。
再びサンヌが装弾する。と、別方向からの砲弾が空賊艇の気嚢を貫通した。レスペラ艇の射撃だ。
空賊艇の機動力は格段に落ちていた。外気よりも熱い気嚢内の空気は膨張しているから当然圧力が高く、被弾した破口から勢いよく噴出してゆく。高度を維持しようと発動機を下向きにすれば、当然速度は落ちる。
わたしは次弾も気嚢に当てた。三発連続命中である。われながら、凄い。
「これ以上近づけないで!」
わたしは命じた。まだ、空賊艇の旋回砲は生きている。下手に近付けば、起死回生の一発を喰らうことにもなりかねない。
空賊艇の高度は、もはやゴンドラの底部が市街の屋根に触れそうなくらいに下がっていた。発動機はほとんど浮くために使われている。わたしはもう一発、気嚢に撃ちこんだ。これがとどめとなった。ゴンドラが、一軒の商家の二階部分に激突する。ゴンドラがひしゃげ、割れた壁板の破片が街路に降り注ぐ。
「少尉、高度を上げて! 奴らは警察軍に任せて、システィハルナを‥‥いえ、殿下の艇を支援に行くわよ!」
わたしは高らかにそう宣言した。
戦果‥‥撃墜一艇、被弾二艇。捕虜三名。損害‥‥被弾艇なし。負傷者なし。要修理家屋一軒。
完勝であった。他のレスペラ艇とともに残る空賊艇を追い散らし、帰還したわれわれを待っていたのは、どこにこれほどの人々がいたのかと思えるほどの大勢の市民であった。
静々と着地した『紫の虎』を、どっと人々が取り囲んだ。警備の警察軍義勇兵が、押し寄せる人々を規制する。あちこちから、歓声があがる。
「ここはひとつ、格好つけようかね」
サンヌが言い、飛行帽を着けたままゴンドラから身を乗り出し、手を振った。歓声が、わっと高まる。
「これも給料のうちね」
わたしは飛行帽を取り、手を振りつづけているサンヌの傍らで身を乗り出した。作り笑顔を浮かべ、集まった人々に手を振る。歓声が、さらに大きくなった。
「ティリング少尉。あんたもやりなさい。命令よ」
市民に対し笑顔を振りまきながら、わたしはそう言った。
「仕方ありませんね」
肩をすくめたティリングが、手を振り出す。
「飛行帽を取りなさい」
わたしはすかさず命じた。
「了解、大尉」
ティリングが、飛行帽を脱ぎ捨てる。とたんに、あちこちから口笛が飛んだ。若い男どもを中心に、歓声がさらに高まる。
と、人垣が割れた。
現われたのは、システィハルナ王女とその護衛たちだった。今回は、エクスの姿は見えない。
歓声が、一斉に拍手に変わった。歩んでくるシスティハルナに向かい、集ったすべての市民が割れんばかりの拍手を浴びせる。
「降りてください! 係留は、終わりました!」
地上作業員のチーフが、わたしに向かって怒鳴ったが、その声はすさまじい拍手の音に半ばかき消されてしまう。
システィハルナが立ち止まった。笑みを湛えたまま、視線はわたしを見つめている。事の次第を理解したわたしは、ゆっくりとゴンドラを降りた。どうやらシスティハルナは、この場を利用して市民受けするパフォーマンスをやりたいらしい。
わたしは笑みを浮かべたままシスティハルナに歩み寄った。三歩ほど離れたところで立ち止まり、彼女に向かい恭しく一礼してやる。その間にも、拍手は鳴り続けていた。
システィハルナが、わたしに向け歩み寄った。彼女の左手が、わたしの右手首をつかむ。
次の瞬間、わたしの右手はシスティハルナによって上へと差し上げられた。身長差があるから、高々とはいかないが、それは明らかに勝者を布告するポーズであった。
そのとき巻き起こった歓声を、わたしは生涯忘れることはないだろう。
「こんなに待遇が変わるとはねえ」
差し入れの果物をつまみながら、サンヌ。
「ちょっとした名士あつかいですね」
同じく上機嫌で、ティリング。
空賊艇を叩き落した‥‥しかも全市民が注視する中で‥‥おかげで、われわれの評判は一気に高騰した。昨日冷ややかな視線と辛辣な言葉を投げつけた警察軍の幹部連中まで、手のひらを返したかのようにわたしや部下の腕前を褒め称えた。いままで警察軍は空賊に損害を与えたことはあったが、飛行船を撃墜したことはなかったのだ。わたしは藩王臨席の事後報告の席で、今回の戦果はシスティハルナの艇が空賊の半数を引き付けてくれたおかげであり、またもう一艇のレスペラ艇も撃墜に貢献していることを強調しておいた。‥‥今後とも警察軍との良好な関係を維持したいのであれば、これくらいの謙虚さは必要だろう。
わたしたちは王城に長居することなく宿舎に戻ったが、そこへも市民がひっきりなしに訪れ、礼の言葉やら差し入れやらを次々と置いていった。わたしはティリング少尉と交代でその相手をしたが、途中で疲れ果ててしまい、あとの処理は警護の義勇兵少女に任せることにした。かくして、宿舎の一室は差し入れ専門の倉庫と相成った。
「また現金置いてったやつがいる」
わたしは、礼状のひとつから紙幣をつまみ出した。‥‥新兵の棒給の半月分くらいに相当する高額紙幣である。食糧や消耗品ならば市民の自発的物資提供ということで受け取ることになんら問題はないが、現金や装身具の類は収賄の疑いを招きかねない。警察軍を通じ、藩王国政府にまとめて返却するしかなかった。
「他に使うとこないんだろうね。遊ぶとこもないし、気の利いた店もないし」
小ぶりなオレンジを剥きながら、サンヌ。
「せいぜい酒場くらいね」
ティリングが、応ずる。
「行ってみようか、酒場に」
オレンジを剥く手を止めて、サンヌがそう提案した。‥‥わたしにではなく、ティリングに。
「わたし、飲めないわよ」
「飲むのが目的じゃないよ、少尉」
オレンジの皮の一片を振りたてながら、サンヌ。
「あたしたちは人気者なんだ。今日なら、きっと男どもにもてもてだよ」
「まあ、サンヌったら」
ティリングが、艶やかな笑みを見せた。
‥‥少尉が、サンヌの品のない冗談を聞いて笑った。
わたしは内心で眼を剥いた。わたしの知る限り、初めてのことであろう。首尾よく行った実戦のおかげでティリングの精神が高揚したせいか、あるいは戦闘経験が両者の結びつきをさらに強めたということか。
いずれにせよ、良い兆候である。わたしは眼を細めて、ふたりのやり取りを見守った。