はじまり
僕の名前は『七川 空』。
北海道は道庁所在地、札幌市に七川家の次男として生まれる。
幼少期より非常に活発な子供で、母親曰く手が付けられなかったらしい。
幼稚園児になると、野球好きの両親に影響を受けてプロ野球選手を志すようになる。
この頃からプロ野球チーム『札幌ウォーリアーズ』の絶対的エースにして日本のエース『金上 昇』選手のファンになる。
小学生になると、僕の通う『札幌市立祭壇前小学校』と『札幌市立祭壇奥小学校』の生徒を中心とした少年野球チーム『ホーリー・サンシャイン・フェニックス』に所属するようになる。
ここで3年生時よりエースとして活躍し、6年生時には野球日本代表に選出される。
主にクローザーを担当し、セーブ失敗0の活躍を見せた。
中学生になり、『札幌市立益荒男中学校』野球部ではなく、リトルシニアチーム『ノーザン・ブレイク』に所属する。
ここでもエースとして3年間君臨し、2年生時、3年生時ともに野球日本代表に選出された。
日本代表ではロングリリーフとして活躍した。
さらに学業でもメキメキと頭角を現し、文武両道をここに極める。
それもあって、道内では有名進学校とされる『札幌神童高等学校』に進学する。
なお、スポーツ特待生として道外のいくつかの私立高校から勧誘を受けたが、なんだか気に食わないので断った。
ここでも勿論野球部に所属し、またもエースとして3年間活躍。
3年生時には野球日本代表として世界一を経験、ここでもクローザーを担当した。
しかし学業は振るわず、志望校である『ビッグ大学』ではなく、滑り止めの『ウォーターハザード大学』工学部に進学する。
ここでもスポーツ特待生としていくつかの私立大学から勧誘を受けたが拒否。
しかし油断と不注意で、ありえないことが発覚する。
なんと工学部のキャンパスには野球部がなかったのである。
自業自得ながら、悔恨の念にかられ意気消沈し、全く勉強に身が入らず前期の必修単位を全て落とし、留年を確定させてしまう。
さらに奨学金の手続きにも不備が見つかり、奨学金が借りられなくなってしまう。
僕はこうして1年生時に退学を決意、18歳にしてプー太郎となる。
小学生から高校生までの輝きはどこへ行ったのか、何故志望校に落ちてしまったのか、何故滑り止めの大学の事をしっかり調べなかったのか、そんなことを考えている内に僕は体調を崩すようになる。
症状は消化不良と平衡感覚の乱れだった。
僕はここで初めて、明確な挫折を経験した。
通院と服薬の日々に嫌気がさすことが何度もあったが、この事態を解決せずにはプロ野球選手になることできない、と自分に言い聞かせることで何とか耐えることができた。
この生活を数か月続け、19歳になってようやく体調が回復した。
やっと野球ができる。
僕は地元の高校、大学、草野球チームの力を借りて練習に励んだ。
今年プロになるために今までより一層野球の練習に精を出した。
それは雪の日も雨の日も変わることはなかった。
練習し続けるうちに、プロ野球選手への道が着実に縮まっていくのを感じるようにもなった。
9月某日、ウォーリアーズの1軍本拠地『札幌スタジアム』で入団テストを受けた。
まず1次試験として50m走と遠投を行い、そのうえで一定の基準を満たした者のみが2次試験へ進む。
2次試験はウォーリアーズの2軍の選手と対決し、その結果を踏まえて合否が決まる。
僕はなんとか1次試験を通過し、2次試験へと駒を進めた。
僕は大滝 優選手、鼻頭 三大門選手、灰林 秀郎選手の3人を三振、サードゴロ、セカンドゴロに抑えた。
僕のピッチングは(2軍の選手とは言え)プロにも通用したのだ。
数日後、合格通知が届いた。
そしてドラフトの日、七川家はテレビにくぎ付けとなった。
僕が指名されるのはまだまだ時間がかかるだろうが、もしかしたら本指名の選手のリストを取り間違えるかもしれない、と淡い期待を抱きながら一応最初から見た。
無論、そんなことはなかったのだが。
本指名が終わり、続いて育成ドラフトが始まった。
なお、『千葉フィッシャーマンズ』、『名古屋ダイナソーズ』は指名がなかった。
『横浜ハムスターズ』、『新宿クロウズ』、『広島ドルフィンズ』、『さいたまキャッツ』は第1巡のみの指名に終わった。
ウォーリアーズの1巡目指名は僕ではなかった。
残すは『神戸ジャガーズ』、『大阪バイソンズ』、『仙台ピジョンズ』、『東京タイタンズ』、『福岡チキンズ』、そしてウォーリアーズだ。
しかし、結果はすぐに分かった。
第2巡選択希望選手 福岡チキンズ 七川 空 投手 所属なし
なんと僕はウォーリアーズではなくチキンズに育成ドラフト2位で指名された。
何故チキンズなのかはさておき、ついにプロ野球選手になるという念願の夢がかなったのだ。
その日の夜は赤飯を2合食った。
翌日神童高校を借り、球団関係者とあいさつを済ませた。
また別の日、福岡県某所で仮契約を行い、支度金300万円、年俸300万円、背番号は117と決まった。
さらに別の日、健康診断で異常なしと判断され、晴れてチキンズへの入団が成立した。
翌日、本指名8人と育成指名5人の計13人と名将『初野 剛毅』監督のもとで入団会見を行った。
注目はやはりドラフト1位の『大船渡 零文』投手だった。
そして1月。
『闘鶏寮』へ入寮した後、チキンズの2軍本拠地である『福岡球場』で新人合同自主トレが開始、ドラフト指名選手13人(投手は8人野手5人)の中での競争が始まった。
2月、ついに沖縄での春季キャンプ開始。
僕は練習試合に出場することはなく、基礎的な練習に励むこととなった。
北海道とのあまりの気温の違いに体調を崩すこともあったが、無事キャンプを完走することができた。
3月はいよいよオープン戦だ、と思っていたが出場はなかった。




