〜寄せ帰る 届かぬ想い 断ち切って 全て閉じ込め 砂に埋(うず)めし〜詩織Vol.3
雅への想いを断ち切る。
終わらせるため、詩織は自ら退路を断ち……。
どこをどう通ったのか分からない。暫くすると、松岡さんはひとつの扉を押し開けた。その入り口をくぐるとき、扉に貼られた立ち入り禁止の札が見えた。
そっと下されたその場所がベッドの上だと、伏せた視線でも分かった。
松岡さんは、そばの椅子をベッドの脇に引き寄せて腰掛け、私の正面に向かい合う。
逃げ場の無い私は、これからどうなるのか分からず……ただボンヤリと膝に乗せた自分の手を眺める。
「詩織さん、少し話をしたいのですが。その前に、足の具合は?」
「足は大丈夫です、何ともありませんし……あの、私は、何もお話しすることありませんので。ご迷惑をおかけしておいて……勝手言ってすみませんけど、もう帰らせて頂けませんか」
ボンヤリとしたまま。考える前に言葉だけが勝手に口から紡ぎ出される。
「申し訳ないのですが、それは出来ません」
あんな騒ぎを起こしたのだし、謝るだけで許して貰おうなんて……虫が良すぎるもの当然だ。回り始めた思考の中でそう納得して。
もしかしたら松岡さんのお仕事にも何か影響が出るのではと思い至り、思わず顔を上げるとその視線が交わった。スッと、背中に冷たい汗が流れた気がする。
「私の撮った写真を見て、詩織さんが泣かれたと聞きました。数あるデータの中から、今回どれを採用したのか聞いていませんが、何かお気に触るような事が有ったのでしょうか。何か有ったのならば、それを撮った私から、先ずはお詫びをさせて頂きたい」
――え、写真……?――
よく分からないけれど、松岡さんの話というのが、もしも写真の事だというならば。
「理由を言えば、……帰してくれるのですか?」
半信半疑、唯一の望みを口にする。
「善処はします」
ホッとした気の緩みに、限界まで踏み込んでいたブレーキが緩んでしまう。
「……どうして、あんな写真飾ったんですか」
言うつもりはなかったのに。
「あんな写真、とは?」
一度緩んでしまったブレーキは、簡単には戻らなくて。
「ひと月ほど前、この桟橋が少し遠くに見える岩場で、松岡さんが撮った写真です。……私、松岡さんが時々あそこに来る事、前から知ってました」
「前から?前からとはいつの事でしょうか?」
勢いのまま止まらなくなってしまった自分の言葉に、自分自身が混乱して。段々と、どうでも良くなってきた。
どうせ、今日で終わりだったのだから。
とことん嫌われて。それで本当にお別れになっても、もうそれでも構わない。
全て話して、早くここから立ち去りたい。
「いつからだったのか、正確には忘れましたけど。最初は、紅葉に付き合って朝早く散歩へ行った時、偶然あの辺りから見えた朝焼けがすごく神秘的で。それからあそこから朝焼けの空と、それを映す海を見るのが好きになりました。そのうち、少し離れた場所に、時々カメラを持った男の人がいることに気が付いて」
黙ったままの松岡さんに、畳み掛けるように話し続ける。
「その人の、真剣に写真を撮る姿がとても印象的で見飽きなくて。いつの間にか、その人……松岡さんが姿を見せる日を待つようになってました」
「実に申し訳ないというか、情けない話ですが。全く気がつきませんでした」
「それは多分、いついらしてもお邪魔にならないようにって。入港した翌日からはもう少し離れたところで海を眺めるようになってたからかも知れません」
「え、」
「初めてお見掛けしてから、多分一年くらいして気が付いたんです。この艦が帰って来ると、大抵一、二回はあの場所にいらっしゃるって。でも、艦が居ないときには絶対にお会いしない。だから、思いきって光流ちゃんに聞いてみたら、確かに帰港するたびにカメラを持ってこの辺りを歩く乗員に心当たりはあるって。もちろん、この間の夜まで、お名前も階級も、どんな方かも、何にも教えてくれませんでしたけど」
これで良い。松岡さんからすれば、間違いなく面倒くさい、少しでも距離を置きたい相手になる筈。
「ではあの夜は、最初から?」
「はい。本当にびっくりしましたけど。まさか、直接お話が出来る日が来るなんて思ってなくて。でも、本当に嬉しかったです」
本当に、私は幸せだった。同じ空気を感じ、同じ空と海を眺めて。その幸せだった日々に。その想いに。
今日、外れることのない蓋をする。
「確認ですが。先ほど詩織さんがご覧になったのは、先日の帰港の際、朝靄の中で私がその岩場で撮った、この艦と詩織さんの写真で間違い無いのでしょうか」
「はい」
もう少しの我慢だと、突き上げてくるものを堪える。
「そうでしたか……あの日、目に入ったその景色が余りに幻想的だった為なのか、自分でも気付かないうちに撮っていました。許可なく撮ったものですし、何度か消そうとはしたのですが、どうしても消すことが出来ませんでした。今回の展示についてですが、自衛官の飾り気のない日常風景という趣旨でしたし、本来はあの写真が採用されること自体が無い筈でした。全てこちらの手落ちとはいえ、詩織さんに不愉快な思いをさせてしまい、大変申し訳ありません。問題のデータは直ぐに消しますし、」
もう良い。
だから、もう何も言わないで。これ以上の拒絶にきっと私は耐え切れない。
「宮野さんが、」
「……宮野三曹が、何か」
「宮野さんが。あの写真見て、素敵ですよねって。松岡さんは、女性が嫌いだとか、女性を憎んでいるとか、生涯独身主義だとかって専もっぱらの噂だけど、実は写真の女性が松岡さんの大切な人じゃないかって。そうじゃなきゃ、こんな素敵な写真は撮れないって……そんな訳無いのに、おかしいですよね」
ここまで言えば、もう十分だろう。これで、終われる。
そう思ったら、不思議とささくれた心が少し落ち着いてきた。
「もう、全部話しましたから」
ベッドから降りて、黙り込む松岡さんの横をすり抜け、入り口へと向かったのだけれど。
「詩織さん、ちょっと待って」
すれ違いざま、腕を掴まれて動きが制せられる。
「約束したじゃないですか、話したら帰してくれるって」
「善処する、“とは”言いました」
――確かにそう言った気がするけれど、だけれど――
「光流ちゃんからも、松岡さんの事、たくさんお聞きしましたから。だから、もう私のことは気にしないでください」
流れを受け容れられずに、出すつもりのなかった光流ちゃんの名前までもが転がり出てしまう。
「竹下一曹から、一体何を聞いたんですか」
松岡さんの硬い口調に濁せなくなってしまい……告白する。
「松岡さんは、一生結婚する気がないから、特定の女性とはお付き合いしないし、……上官からのお見合いも、会わずにその場で断るほどだって。自分は尊敬している人だけど、松岡さんを好きになっても……きっと私が傷付くだけだろう、って。それでも、そうだと分かっていても、私は、遠くから姿を見るだけでも嬉しかったから……、私が勝手に、……ごめんなさい」
頭の中はぐちゃぐちゃになり、ただ胃が締め付けられる。
「……確かに、今まではそうだったかも知れません。いえ、意識して“そう在ろう”としていました」
「もう、良いんです。今日は、松岡さんが住む世界を少しだけ覗いたら、それで……終わりにしようって、思って、来ただけです。二度と、あそこにも行きませんし、……これでもう、ご迷惑をおかけする事もないと思います。お願いですから、……もう、……手を離して」
まだ泣けない。泣いては駄目。
「ごめん、それは無理」
その言葉が耳に届き、その意味を理解する前にグイッと引き寄せられた。包み込むように抱き留められたその途端、心も身体も再び凍てつく。
「ま、松岡さんっ、……私、真面目に話してるのに、……からかわないで、」
ううん、違う。からかうような人ではない。
とても面倒見が良いのだという松岡さんだから。
無愛想で根の優しいのだという松岡さんだから。
だからきっと、私のことも憐れんでこんな事をするのだろう。
それ以外の理由なんて、考えられない。
でも、今の私にとってのそれは……その優しさはただの拷問でしかなくて。敵う訳が無いと分かっていても、残った力を振り絞って抗う。
「からかってなどいません。少しで良いから聞いて。竹下一曹の言ったのは、大筋間違いじゃありません。ただ、先ほど言った通り“今までは”、です」
「……え?」
――光流ちゃんが、何?――
「正直なところ、自分の事なのにまるで整理がつかなくて混乱していますし。何をどう言えばいいのか……」
――いったい、何の話を、している、の?――
「……あの、……さっきの、大筋間違いではないって、どういう……」
「ただ単に、退官するまで誰とも結婚する気が無かっただけです」
――退官するまで?退官って、定年のこと?―
「……女性が嫌いって、いうのは?」
「ないですね。むしろ普通に好きかと」
――どう言うこと?――
「……嫌いじゃないなら、……どうして」
「簡単に言えば、軍人だからでしょうか」
――でも、――
「……自衛隊にも、結婚されている方、沢山いらっしゃいます、よね」
「彼らは、彼らの価値観で家庭を持っています。それに対して私がとやかく言うべき立場でもありません。ただ私としては、その相手が出来ること自体が、“互いのリスク”に繋がる、ずっとそう考えていました」
互いのリスク……
いざとなれば、本人だけでなくその家族にも影響が及ぶのは、何も自衛官に限ることでは無いけれど。
場合により、遥かに危険を伴う可能性がある自衛官だからそこのリスク。
「……軍人、だから」
自衛官は、万が一の時に国民より先に死ぬ仕事。
以前ネットで、そう書かれていたのを目にしたことはあったけれど。災害以外の万が一の事がこの日本に起こる訳がないなどと、どこか楽観的に捉えていた。でも、自衛隊からすれば決してそうではないのだと、初めて言葉の持つ意味を理解する。
「はい。“今までは”、確かにそう考えていました」
軍人だから望まないだなんて。
国と国民を護ってくれる人が、幸せを望めないなんて。そんなこと、あって欲しくない。違う。あってはならないと思う。
誰よりも、松岡さんにはずっと幸せでいて欲しいのに。 例え、そこに、私という存在が無いのだとしても。
「この先も、恐らく基本的な考えは変わらないと思います。が、道は決してそれだけじゃないのだと、……自分はただ目を瞑って逃げていたのかも知れないと。今日、目の前に突きつけられました」
何で突然こんな話になったのか。頭がついていけていない間に、また話の流れそのものが変わってしまい。先が読めず、次の言葉を待つ。
「ずっとこういうことは避けてきたので。今でも何をどうして良いのか分かりません。私の仕事の事も、歳が少し離れている事も、詩織さんのご家族のお気持ちの事も全部含めて。この先も、詩織さんが戸惑ったり不安に思ったりする事がきっとあると思います」
――この先?――
「それでも構わないとまだ思って貰えるなら……許して貰えるなら。少しずつ、詩織さんとの関係を深めていけたら良いな、と思います」
――許す?私が松岡さんを?それって、どう言う意味?関係を……深めるって……また会ってくれると言う、こと?――
予想のしていなかった展開に混乱は増し、ますます考えが纏まらなくなり、
「少しずつ、ですか?それって……最初はお友だちから、みたいな感じでしょうか?」
浮かんだ疑問をそのままぶつけるしか出来ない。
「どうなんでしょうか……何か少し違う気もしますが」
「クスッ」
どうやら……松岡さんの近くにいることを認められ、また次も会えるらしいのだという事は分かった。
もちろん、私としては心の底から喜ばしいことなのだけれど。
同時に、手放しでは喜べない自分もいる。
「でも、……私なんかで、良いんですか?……私、何の取り柄もない、何処にでもいる大学生ですし、……松岡さんこそ後悔しないですか?……もしも……同情からだなんて事があっても、……私は、嫌です」
そんな、優しさに付け入るような形で……足枷のようなもので松岡さんを縛るなんて……そんなこと私には出来ない。
「まさか。同情だなんて、断じてそんな事は思っていません。それに、」
その言葉に、残っていた楔が泡のように消えていく。
「多分、宮野三曹が言った言葉が真実なんだと思います。知り合ったばかりでこんな事を言うのおかしいと思われるかも知れませんが、しかしそう思うと、色々と腑に落ちることばかりで。ですから、恐らく詩織さんでなければ意味が無いのだと思います。というよりも、自分が抵抗なくこう思えたのも、詩織さんだからなのだと。何故だか理屈抜きでそう思えますから」
信じられない言葉に心も溶け落ち、押し込めていた感情が一気に溢れ出してくる。
「要領が悪くて、沢山傷付けたみたいで。本当にすみません」
――そんなこと、ない――
反射で頭を横に振ると、少し戸惑ったように、ぎこちなく背中をポン、ポンと摩られる。
「子どもじゃ、ないです、」
普段から子ども染みている癖に、松岡さんにだけは子ども扱いはされたくなくて、小さく抗議をしてみる。すると優しく髪をそっと撫でられ、その温もりに涙が止まらなくなってしまった。
力の抜けた私の身体包み込む、その優しい腕の中で。大きな安心感を生まれて初めて味わう。
「……詩織さん。勝手ばかり言って申しわけ無いのですが、その、お友だちからっていうの、やっぱりやめても構わないでしょうか」
遠慮がちに言葉にされたその希望に、何だか笑いがこみ上げた時。近くで内線ような音が鳴った。
松岡さんは、片腕に私を閉じ込めたまま少し重心をずらし、器用に呼び出しに応じる。
「お待たせしました、松岡です」
相手が誰か分からないものの、松岡さんは間違いなくお仕事中で、お父さんたちも放ったらかしだったと思い出して焦る。
「もう少ししたら、竹下詩織さんと直接食堂に向かいます。竹下一曹にもそう伝えて貰えますか?」
通話を終えた松岡さんが、生真面目な顔で私を見つめる。
「きちんと話がしたいのですが、明朝からの移動の為、余り時間が有りません。詩織さん、今日の見学の後に何かご予定は?」
光流ちゃんが教えてくれて入校の事だろうか。
「私は大丈夫です」
「良かった。では、夕方になるかと思いますが、片付いたら連絡します」
そろそろ戻らないと、と松岡さんがそっと腕を解いてくれた。
いざ離れてみると、改めて恥ずかしさがこみ上げて来るけれど、今はとにかく時間が無い。急いで携帯番号だけ交換をする。
「あの、少しお化粧直しても良いですか?」
どんな顔になっているのか見るのも恐ろしいけれど、泣いたと分かり過ぎる顔で皆の前に戻るのはどうしても抵抗がある。
「ああ、すみません、気が付かなくて。そこの洗面台でよかったら使ってください」
小さな鏡でも、取り繕うには十分だった。
「お待たせしました」
バッグを持ち直して振り返ると、また松岡さんと目が合ってしまい。
気恥ずかしくて、ただ顔を伏せるしか出来なかった。
* ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ *
食堂へ向かう中、急な階段では手を差し伸べて、少し低い場所では頭をぶつけないようにとそっと手をかざしてくれて。
――やっぱり子ども扱いされている気がする……――
そう思って再び抗議をしてみたけれど、
――怪我でもされたら俺が辛くなるから――
と真顔で返されてしまい、顔が赤くなるのを感じた私はただ顔を伏せるしか出来ない。
松岡さんの後について食堂へ入ると、光流ちゃんがお父さんとお母さんに、艦内でのご飯の頂き方のようなことを一生懸命に教えていた。
その側では、宮野さんとさっきまで側にいてくれた数名の乗員が雑談をしている。
――気まずいけれど……後で皆さんにはきちんとお礼とお詫びを伝えないと――
「竹下さん、お待たせしました。途中抜けてしまい申し訳ありません。艦内はじっくりご覧頂けましたか?」
きっかけを掴めない私は、お父さんたちに声を掛ける松岡さんの横にそのまま佇む。
「あ、はい、たくさん見させて頂きましたし、お土産も買えました。本当に良い経験をさせて頂きました」
お父さんもお母さんも、私を心配な様子で伺っているのを感じ、恥ずかしいけれど……なんとか笑ってみせた。
「さ、これで皆さん揃いましたね?一尉、お腹も程よく空きましたし、早速ご飯に致しましょう!」
朗ほがらかな笑顔を浮かべた宮野さんが仕切って楽しい雰囲気に変わると、早速ご飯の時間となり。ひとり、またひとりと、トレーを手に取った順に行儀よく並び始めた。
そのまま一方通行で進みながら、用意されていた炊き込み御飯やお菜など、必要なだけ各々が自分のトレーに盛って行く。松岡さんから差し出されたトレーを受け取って、導かれるままに松岡さんの前に並んだ。
「詩織さん、好き嫌いは?」
「特にありません……多分」
「多分て、何ですか」
――何でって言われても――
「え、あの。今まで考えた事なかったですし……」
「そうですか。まぁでも、何でも食べられるなんて、偉いですよね」
苦笑いをする松岡さんに、少し悔しくなる。
「……本当に子ども扱いしてませんか?」
「いや、だから、決してそんなことは」
その返事に些かの疑惑を残しながら、前の人に続いて必要な分だけトレーに盛り付けていく。松岡さんが盛り付け終わるのを待って、お父さんとお母さんの側に行こうとしたけれど、二人とも光流ちゃんと一緒に乗員さんに囲まれて、何だか楽しそうに盛り上がっている。
仕方なく、少し離れた席に松岡さんと二人で座った。
何でも凄く重いらしい食堂の椅子を、松岡さんが引いてくれ、隣り合って座る。
腰掛けてみるとその近さにまた緊張してしまって。とりあえず、今夜はどこかでご飯を食べようとの話だけはできたけれど、新作だというせっかくのメニューも、味わう余裕なんて全然なかった。
ご飯のあと、皆さんに習って指定の場所へ使った食器を下げて、後からやって来た乗員さんも交えて少し歓談をして。やっと自分の口から、今日掛けたご迷惑のお詫びが出来た。
お父さんもお母さんも、自分たちがいない間にそんな事があったのだと知らされ、一緒に頭を下げてくれて。また余計な心配を掛けてしまって申し訳なくて仕方がない。それでも。今日ここに見学に来させて貰ったお陰で、本当にたくさんの胸のつかえを下ろすことが出来た。
今日1日で、心はとても軽くなった気がする。
その後、食堂を後にした私たちは、下艦のために甲板に戻った。艦を降りる時も私の手を離さず、常にお父さんとお母さんの足元に気を配る松岡さんの姿に、後ろから付いてくる光流ちゃんがとても複雑な顔をしていて。私だって恥ずかしくて仕方ないけれど、さっき掛けたご迷惑を思えば嫌とは言えない。
艦を降りて三人で家に向かう中、自然と目に飛び込んでくる景色はとても美しく。
そよぐ風も本当に心地良く感じられた。
* ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ *
家に帰ってから、お父さんとお母さんに今日起きたことを、出来るだけ正確に話した。
きちんと理解して貰うために、初めて松岡さんを見た、あの日のことからのことも、全て。
片思いの相手が松岡さんだと既に気が付いていた二人も、その全てを聞いたのは初めてで。
「まさかそんなに長い間、本当に松岡さんひと筋だったなんてねぇ」
お母さんも、半ば呆れたように笑っている。
「どおりでお見合も素気無く断る訳だよね。まあ、松岡さんなら仕方ないか」
お父さんはひとり勝手に納得している。
「何年も気持ちを秘めていないで、さっさと告白しちゃえば良かったのに………って一瞬思ったけれど。その頃の松岡さんならきっと難しかったんでしょうね。本当に、幸運だったのね?詩織は」
「いくら松岡さんでも、お父さん、詩織を取られちゃうのやだけどなぁ」
拗ねた真似をするお父さんに、お母さんと二人で笑う。
部屋に戻り真知子ちゃんにメールを入れると、すぐに電話が掛かって来た。夢心地で時間も余りない私は簡単な報告しかできなくて。まるで自分のことのように喜んでくれる真知子ちゃんと、明日また二人でゆっくりご飯をしようと話が纏まった。
急いでシャワー浴びてお風呂から出ると、お母さんが髪を結ってくれた。
「久し振りね、こうして詩織の髪を整えるの」
お母さんは楽しそうにそう言いながら、慣れた手つきでサイドから髪を編み込んでいく。
「はい、完成!」
「有難う」
「お夕飯も外で済ませてくるのよね?」
「うん、そう言ってた」
「うちで食べていけば良いのに」
側で本を読んでいたお父さんがつまらなそうに顔を上げる。
「もう。初めてのデートなのに、親がいたらお邪魔でしょう?それにお父さんだって出掛けるじゃないの」
デートなんだと改めて指摘されると、なんだかすごく恥ずかしい。
「あーあ。お父さんも松岡さんと飲みたかったなぁ」
「はいはい、それはまた次の機会にお願いしましょうね」
「次の機会かぁ。いつになるのかなぁ」
お父さんも支度があるらしく、嘆くように居間から出て行った。
「まったく、お父さんにも困ったものよね」
そう笑うお母さんだけれど、もちろん本当に困った様子はない。
「詩織、もう支度は済んだの?忘れ物はない?」
「うん、大丈夫」
大丈夫でないのは、私の心。
「はい。お茶入ったわよ」
「え?あ、有難う」
ひと口ふた口と口をつけると、立ちのぼるハーブティーの香りが身体の中に染み込んでいく。
「少しは落ち着いた?」
「うん」
クスクスと笑うお母さんは、きっと全てお見通しなんだろうな、とまた少し恥ずかしくなる。
〜♬ピンポーン♬〜
折角落ち着いてきた心臓がまた跳ねる。
時計の針は、約束の時間の5分前。
「きっと松岡さんね。ほら、行ってらっしゃい」
「うん。行ってきます」
コロコロと笑うお母さんを置いて、私は慌てて玄関に向かう。
「はーい」
高鳴る鼓動が漏れ聞こえないように、そっとドアを開けると、生真面目な顔の松岡さんと目が合った。
すごく嬉しくて恥ずかしくて、どんな顔をすればいいのか分からなくて。
「詩織さん、お迎えにあがりました。お支度は?」
その言葉に、今夜は時間が無かったのだということを思い出す。
「はい、もう、出掛けられます」
「その前に、ご両親にもご挨拶をしたいのですが」
「あ、そんな別に、」
急いでいるのだし、と思ったけれど。
「いえ、すみませんがこれは譲れません」
そういう人だったな、と思い直す。
「そうでしたね。それなら、少し上がりますか?」
「いや、余り時間がないので。不躾ですが、今日はここで失礼したい」
今日は、というその言葉に、また次があるのだと……何だかとても不思議に感じる。
「分かりました。お父さん、お母さん。ちょっと来て貰える?」
「はいはい、あなたまだ出かけてなかったの。あら、松岡さん、いらっしゃい。今日は色々と有難うございました。本当に楽しかったです。ごめんなさいね、お父さん、ちょうど今お風呂に入っちゃって」
「そうでしたか。今夜、詩織さんをお連れする、そのお許しを頂きたかったのですが」
「まあ、ご丁寧にありがとうございます。松岡さんなら安心してお任せできますし、主人には私からお伝えして置きましょうか?」
「有難うございます。ではお言葉に甘えます。ご主人にもよろしくお伝えください」
「はい、確かにお引き受けしました。さあ、時間が勿体無いでしょう、行ってらっしゃいな」
納得してくれた松岡さんは、お母さんに 門限を確認をして。ようやく家を後に出来た。
「詩織さん、予定通り晩御飯からで大丈夫ですか?」
「はい、大丈夫です」
あの夜と同じように、二人並んで歩き始めたけれど。
――ち、近い――
あの夜とは違って、少し油断すると肩が触れてしまいそうなその距離に、またドキドキが止まらなくなって。
突然、松岡さんが立ち止まり、怪訝な顔で私を振り返る。
「どうして半歩後ろ?」
松岡さんはゆっくり歩いてくれていたのだけれど……。
「え、え!あの、その」
熱くなったことが自分でも分かって、慌てて伏せたその顔を覗き込まれる。
――やだ、もっと近くなっちゃった――
「詩織さん?」
「あの、ち、近くて……その、何だか恥ずかしくて、」
素直に白状すると、一瞬驚いたような顔をした松岡さんは、笑いながら私の手を取る。
それは、今までに見た型通りの笑顔ではなくて。
「行きましょうか?」
「はい、」
松岡さんは、またゆっくりと歩き出した。
繋がれたその手の感触に、本当にこの人のテリトリーに入れて貰えたのだと、少しずつ実感が湧く。
――願わくば。ずっと傍に居られらますように――
そう祈る私の心は、落ち着かなくて幸せな気分で少しずつ満たされていった。
* ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ *
まずは晩御飯を、という約束だったのだけれど……親族以外の異性と、二人きりでご飯を食べたことがないという松岡さんは、女性が好みそうなお店にはかなり疎いらしく。
結局、私がよく行く近場のカフェレストランのドアをくぐった。
お腹が空いていたらしい松岡さんはしっかりとしたセットもののご飯を、私は緊張もあってかお腹も空かず、少なめのパスタを注文した。
ご飯が来るまでの間、ご飯を食べながら、そしてデザート、食後のコーヒーに至るまで。ひと息つくまもなく、松岡さんのご家族のお話や、入校後の予定などなど。本当にたくさんの事を教えて貰う。
そして、この先に待ち構えている可能性の大きい問題点……よく障害となるものが、申し訳無さそうに付け加えられる。
けれど。
光流ちゃんからも大まかなレクチャーを受けていたので、何となくだけれど分かっていた。
まず、入校によって暫くは遠距離になること。
……でも、不定期に会えなくなるのは既に経験済み。
突然いなくなり、連絡が取れなくなる可能性があること。
……これも、同じく経験済み。
災害時などでも、家族は後回しになり、簡単には帰れないこと。
そして、宣誓のことなど。
……ネットの情報とかで、既に知っている。
「光流ちゃんから、大体のことは聞いいてますよ?」
もちろん、ただ知っているのときちんと理解出来ているのとでは大きく違うだろうけれど。
松岡さんは、少し驚いた様子だったけれど、一瞬間を空けて続ける。
「詩織さんは、本当に私で良いんですか?」
松岡さんでなければ、私にとって意味がなく、今から引き返す気はない。そもそも、時を経ても変わらなかった想いが今更どうにかなるとも思えず、またその年月も背中を押す。
「あの頃は松岡さんがどんな方かも分からなかったのに、変に思われるかも知れませんが……どうしても松岡さん姿が頭から離れなくなってしまって。その事は、何年も前から両親も知ってますし。多分、うちの事は心配しなくて大丈夫だと思います。ただ、折角こうしてお話できるようになったのに、離れてしまうのは……少し不安ですけれど」
納得して貰えるか分からないけれど、きちんと伝える。
「ハハッ」
――え?
「松岡さん?」
声を立てて笑う松岡さんに、やっぱり変に思われたのかな、と不安になる。
「すみません、村田が言ってたことを思い出して」
「村田さん、て?」
「今日の見学の時に、メインで学生グループの引率をしてた乗員です」
見たような気がするけれど……余裕がなかった私の記憶の中に、残念ながら村田さんの姿は残っていない。
「その村田さんが、何を仰ったんですか?」
「人の出逢いには運命がある、みたいな事です。その運命を掴むには、タイミングを外してはダメだとも言ってましたね」
「タイミングですか?」
「そう、タイミング。今日のことを考えたら本当だったな、って思えて。気悪くしたなら、申し訳ありません」
――何となく、分かる気がする――
「いえ、そのタイミングが合ったお陰だというなら、すごく嬉しいです」
心からそう思った。
必要な話し合いもひと通り終えて、混み合う店を後にする。
「ちょっと買い物したいのですが、構いませんか?」
少し歩くと、松岡さんが尋ねてきた。明日からまた忙しくなるというのだから、本来はその準備をする予定だったのかも知れない。
「はい、全然大丈夫です」
とは言ったものの、ここでお別れした方が松岡さんも助かるのではないかとふと悩む。が、当の松岡さんがあるお店の前で一瞬立ち止まると、そのまま店内へ入ろうとして。
――え、ここって――
松岡さんのイメージとかけ離れ過ぎている、そのジュエリーショップの店先で、私は思わず立ち止まる。
松岡さんは何も言わず、そんな私の手を取ると、スタスタと店内に入ってしまった。そしてそのまま、迷った様子もなく、ひとつのショーケースの前で足を止めた。
「詩織さん、好きな花って何かありますか?」
――え、花?好きな、花……――
「え、ええと、桜が一番好きですけど、他には白いチューリップと金木犀と、あ、後はかすみ草と菫と藤も向日葵も好きですし、蓮華草や 鈴蘭も好きです」
質問の内容とこの状況が繋がらないまま、聞かれたことに答えてみた。
「それならば、これなんてどうですか?」
そう言って松岡さんが指し示したのは、小さな桜のモチーフを散りばめたプラチナのリングだった。
「とても素敵ですけど……あの、ごめんなさい、どうですかって、意味がよく……」
――分かりません――
「仕事とはいえ、常に側に居られませんから。お詫びというか、いや身代わりというか、」
――身代わりって――
「え、そんな、大丈夫ですよ?その、私、今日もういっぱいいっぱいで。これ以上何かあったら心臓止まりそうですし」
ただでさえ、今日で終える筈だった一方的な初恋が、何がどうなったのかよく分からないうちにどうやら気持ちが通じて。
大好きな人のテリトリーに入ることを許され、……大好きな声で名前も呼んで貰って、飾っていない笑顔を見ることも出来て。
本当に嵐のような1日の中、夢心地の私は、まだその全てを現実として受け止められていない。
隣を歩く松岡さんに手がほんの少し触れてしまうだけでも口から心臓が飛び出しそうだし、名前を呼ばれると全身の血が駆け巡ってクラクラして。
これ以上何かあったら、きっと容量オーバーで立って入られなくなる。
「止まったら非常に困りますし、仮に止まったとしても命懸けで心配蘇生しますが。これは私の我がままと思って受け取って欲しいです」
そんな私の気持ちを知ってか知らずか、松岡さんは顔色一つ変えず、また独特の言い回しで松岡さん自身の気持ちを口にした。
「クスッ」
私だけではないのかも知れない。温かくて胸が苦しくて不思議な気持ちなのも、……そして、離れなければならないことが少し不安なのも。
それならば。松岡さんがそうして欲しいのならば。
「それなら、松岡さんが選んでくれた、この可愛い桜のが欲しいです」
遠慮をするのは止めておこう。そう思う。
その指輪をケースから出して貰い、サイズを見る。
名入れをしたお揃いの柄のネクタイピンと指輪を受け取ると、松岡さんが私の指に指輪を嵌めてくれた。
またクラクラしながら松岡さんに連れられて店を後にする。
すっかり舞い上がってしまった私は、気の利いた言葉も出て来ないけれど、心からの有難うを伝えて。
心地良い無言の中、歩きながら存在感の増した右手につい視線を送ってしまう。
そんな私に気付いたのだろう。流れるように二人の立ち位置が入れ替わり、繋いでいた手は、指輪を嵌めていない方の左手に繋ぎ直される。
いきなりでびっくりしたけれど、その細やかでさり気ない気配りに、またこの人を好きになる。
そのまま手を繋いでゆっくり歩き、あの海岸のあの場所まで戻って来た。
今日は二人で防波堤の上に腰掛け、今は主の居ない桟橋を眺めながら、尽きぬ話をする。
光流ちゃんを乗せた艦は、今頃はどこにいるのだろう。
ふと言葉が途切れて少しすると、突然肩に手が回され、そっと身体を抱き寄せられた。
びっくりして途端に脈が上がるけれど、包み込む温もりに心が落ち着く。
今まで抑えてきた気持ちが枯れることなく溢れ流れ、もう抑えることはできない。
沈黙の中、すっと唇を指で触れられる。更に驚いた私は反射的に顔を伏せようとしたけれど、松岡さんの動きの方が遥かに早くて。
――え、? !――
予想もしていなかった事態に、熱くなった顔を見られたくなくて。唇が離れると同時に両手で顔を覆って隠れるしかなかった。
「詩織さん?」
「ご、ごめんなさい。い、いきなりで、びっくりしてしまって、」
――どうしよう、もう顔見られない――
すごく恥ずかしくて、どうしてだか涙が溢れそうな自分にも驚いて。そんな中、また抱き締められた。
「詩織さん、気の利かない俺ですが。精一杯、大切にします」
改めて届いたその告白は、本当に嬉しくて仕方のないもので。
「あ、あの、私も、松岡さんのこと、大切にしたいですし、あの、私は後悔なんてしませんから、」
それに対する私の答えは、完全な容量オーバーで何だかおかしな感じになって悲しくなる。
「詩織さん、顔を見せて?」
――そんな、無理――
咄嗟に横に首を振りかけ、ふと思い直して。指の隙間からそっと覗いて見た。
「詩織さん、それじゃ見えません」
「……、」
――明日から、また暫く会えないんだもの――
恥ずかしいけれど。一緒に居られる時間を無駄にしてはいけないと、恐々(こわごわ)手を外した。
でも、どうしても視線だけは合わせられなくて。
「松岡さん、私、本当に心臓、止まっちゃいそうです」
これ以上は本当に無理ですから、と懇願する。
「そうか、それは大変ですね……それなら、コレは」
「コレ?」
思わず顔を上げてしまうと、頭に手を回され……唇が離れて呆然としているところ、頬にもそっと口付けられる。
――ま、松岡さんて、もしかしてこういう事にすごく慣れてるの?――
大人の男性なのだし。普通に女性も好きだというし。よく考えれば不思議でも無いけれど。
余りのその早業に、経験値ゼロの私は逃れる術は無いのだと、ひとつ学んだ。
「早く慣れて貰わないと、というのは冗談だけど、少しずつで良いから慣れて欲しい」
「が、頑張ります……」
「ハハッ、そんなに頑張らなくても」
髪を撫でられながら、暫く心地の良い、静かな時間を味わい。
少しずつ冷静になる中、ふと思い出す。
「松岡さん、そう言えば、お時間は大丈夫ですか?」
「そうですね、そろそろ行かないと」
抱えるように防波堤から下され、また手を繋いで家へと向かう。
刻一刻と迫るお別れに、言葉が出てこない。松岡さんもずっと黙ったままで。
想いが通じても、別れはこんなに辛いものだなんて。初めて知る事ばかりだ。
ううん。違う。通じたからこそ余計に辛く、同時に幸せでもあるのかも知れない。
遠く離れて寂しくても、同じ想いで居る限りは。
きっと自分たちの努力次第で、お互いの存在自体が大きな心の源になるのだという事も、この短い時間で分かったつもり。
「詩織さん、ひとつ我がまま言っても良いですか?」
――我がまま?――
「松岡さんの我がままって、すごくレベルが高そうですけど。私でも何とか出来そうな事ですか?」
「世界中探しても、詩織さんにしか出来ない事です」
「私にしか?……想像が付きませんが、何でしょう?」
「出来たら。あっちに行く前に一度だけでも良いので、下の名前で呼んで貰えると嬉しいかな、と」
――え、下の名前って。み、雅さん?――
声に出すなんて。
「ハ、ハードル、高いですね、」
そろそろ家の灯りが見えてくる頃で、焦ってしまう。でも、頑張らないと。
「いえ、すみません、無理ならまたいつか」
「だ、駄目です、いつかなんて不確かな事は駄目。が、頑張りますから。松岡さん、後ろ向いて下さい」
顔が見えなければ、なんとかクリアできる気がする……
「こう?」
「……」
というのは誤算だったみたいで。
「詩織さん?やっぱり無理しなくても」
そう言い振り返ろうとする松岡さんの背中に、咄嗟に抱きついてしまった。
その勢いに乗って、
「松岡……雅さん?」
――言えた……――
大きなハードルを越えると、今度は気持ちが溢れ出てくる。
振り向こうとする松岡さんを制して、言の葉にその気持ちを乗せて届ける。
「雅さん。私、雅さんも、雅さんの撮る写真も、本当に大好きです。雅さんを好きになって、良かったです」
朝陽の中でファインダーを覗く真剣な眼差し。
今日見せて貰った写真はどれもこれも、まるでその場の空間を切り取ったかのように生命力に溢れていて。
作品には撮った人の人柄が出るものだという、写真好きな宮野さんの言葉どおり。松岡さんだからこそ撮れた写真なのだと思う。
「有難う。俺も詩織さんに出逢えて、本当に幸運だと思っています」
玄関先で、再びそっと抱き締められる。
その後。お父さんとお母さんに、改めて入校で明日にはここを離れなければならない事や、自衛官にはありがちなこと、私とは将来のことを考えた上での真剣な付き合いを考えていると伝えてくれた。
私と同じように、光流ちゃん情報によりその辺の事情は多少詳しくなっている二人も、特に異を唱えることなく。松岡さんは朝が早いからと、その足で帰って行った。
その夜も翌朝も。私が見送ることを一切許さないまま。
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拙い作品をご覧いただき有難うございましたm(__)m
またお会い出来たら幸いです☆彡