〜海鳴りに 焦がれる想い 溶き混ぜて 果てへと流し 泡と消え行く〜詩織Vol.2
きちんとお別れをしよう。
詩織は、その決意を固めますが……。
「ねえ。最近何かあった?」
今日は真知子ちゃんに誘われ、二人きりでご飯を食べていた。大学からほんの少し離れた、比較的静かな商店街にあるカフェでパスタをフォークに絡め取る。
食べたいものもよく分からなくて、食べたものが美味しいのかもよく分からない。それでも残さず食べ切って、食後の紅茶を頂いている時。
カウンター席の隣に座る真知子ちゃんが、私の顔を覗き込むように聞いてきた。
「え?特に何もない、かな」
「本当に?最近ね、“頑張って”笑っているし、今日だって“頑張って”食べてたし。何だかすご〜く頑張ってるように見えるんだけれどな」
私と違って大人の女性らしさが満載の佐々木真知子ちゃんは、サークルでもムードメーカー的な存在で。不思議と気の会う、本音で話が出来る数少ない大切な存在で。密かに憧れていたりもする。
「……そう見えてるの?」
「少なくても、私にはそう見えるわね」
口を閉ざしてしまった私に、真知子ちゃんは少し歩こうと促して。
店を出て、並木道をゆっくり歩く。
初めて光流ちゃん以外の人に、心の奥に燻り続ける、処理し切れないこの気持ちを、少しずつ話し始めた。
しばらく歩いて、途中の公園のベンチに腰掛けて、噴水を眺めながら話を続ける。
「ごめんなさい、本当は彼なんていないのに」
「勝手に勘違いしたのはこっちだもん、もう気にしないで?でも……その人のこと、本当に忘れられるの?」
「ううん。忘れないといけないの」
「でもね、肝心の本人の気持ちを聞いた訳じゃないんでしょ?」
「……そんなの、聞けない」
「どうして?その人が決めた信条みたいのがあるから?本当かどうかも分からないのに?もしそれがただの噂だったら?」
「それは、本当だと思う」
確かに本人に確認したわけでも無いけれど。いつも側にいる光流ちゃんの話は何よりも確かだと思うし。あの日に見た彼の背中に、存在を全てを否定されたような……身を抉られるようなあの感覚は、今になっても消えることは無い。
「ね、詩織ちゃん。私にできること、何か無い?」
「有難う。でも、私、大丈夫だから」
「だったら、我慢しないで泣いて?もう、泣きそうな顔で笑わないで?」
覗き込む、真知子ちゃんの目が少し赤くて。私も目尻が熱くなってくる。
私は幸せ者だな、って思う。これ以上、心配かけられない。
少しだけ、二人で一緒に泣いて。松岡さんの事は二人だけの秘密にする事にして。本当に忘れるためには新しい出逢いも必要だ、という真知子ちゃんの言葉にも納得して。近いうち、合コンに呼んでもらう事にもなって。
いつもみたいに二人で同じ方向の電車に乗る。
「明日、サークルに来れそう?」
そう言えば、最近は何もする気が起きなくて、少し足が遠のいていたサークル。
「うん……行ってみようかな」
「無理しなくても良いけど、もし行けるなら待ち合わせて行こ?」
「うん。真知子ちゃん、有難う」
笑顔で手を振って、乗り換えの駅で真知子ちゃんは降りて行った。
私、ちゃんと、笑えていたかな。
しかし、人生は思う通りにならないもので。
やっと前に進めそうなそんな私を、予想外のことが待ち構えていた。
* ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ *
「ただいま」
「あ、詩織!ちょうど良かった」
手洗いを済ませて声のする居間へ行くと、もうお父さんも帰っていて。ちょうど晩酌を始めたところのようだった。
「詩織、お帰り」
「お父さんもお帰りなさい。ちょうど良かったって、何かあったの?」
「ああ、さっき光流から連絡があってね。早く知らせたくて、お父さん急いで帰ってきちゃったよ」
「え?光流ちゃん?出掛けたばかりなのにもう帰ってきたの?」
「違う違う、今朝メールが届いててね。少し前に電話が来たんだ」
「……何か良くない話?」
光流ちゃんが出港後に連絡をしてくることなんて、先ずない。普段から大して連絡も寄越さない人間から突然そんな連絡が入れば、心配になるのも当然だろう。
「違う、違う。何でも次の帰港直後に、学生グループ向けの見学会があるんだって。松岡さんが手配してくれたらしいんだけどね、良かったらその日にお父さんとお母さんと詩織の三人で、艦の見学に来てみないかって。この間泊まりに来れなかったから、そのお詫びだそうだよ。本当に律儀な人だね」
出てきたその名前に心が軋む。
「あら!光流ちゃんの仕事場の見学させて貰えるの? 」
嬉しそうなお父さんとお母さんの手前、笑って話を合わせるけれど。
「一応ね、今の予定だと来月の7日らしいよ。土曜だし、その日なら詩織も行けるよね?」
壁に掛かっている家族の予定表に、仮予定として見学会の文字が加わった。
「ごめんなさい、私は行けないかな」
「え?そうなの?」
「もしかしたらサークルの用事があるかもしれないし」
行きたくないなんて口が裂けても言えない私は、またひとつ、嘘をついてしまった。
「そうなんだ。せっかくの機会なのに残念だなぁ。でも見学会はまだ先だから、まあ今直ぐに決めなくても」
「私のことは良いから、二人で行ってきたら?」
一方的に話を畳んだその勢いでお風呂に入って。部屋に戻ると、クッションに顔を埋める。抑えようと誓ったのに、心のざわめきが強くなる一方で、息が苦しい。
――合コン、がんばろう……――
好きな音楽を聴きながら、目を閉じると。あの横顔が瞼の裏に浮かんでは消える。眠りに落ちるその瞬間、涙が流れたのを感じた。
* ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ *
それから暫くして、私は生まれて初めて合コンに参加する事になった。
その当日、真知子ちゃんと落ち合ってそのお店に向かう途中、突然携帯が鳴り始めた。
画面を確認すると「表示圏外」となっている。
――まさか――
真知子ちゃんに断って電話に出る。
「光流ちゃん?」
「お前、今どこ!」
少し遠い声だけれど、何で?怒ってるの?
「え?今は友だちと一緒に、」
「今さっきおばさんに聞いた。合コンだって?あれほど嫌がってたのに何でだよ!見学会も来ないんだって? お前、それで本当に後悔しないの? !」
「何、で。何で光流ちゃんが怒るの?私の気持ち、光流ちゃんが一番分かってくれてるのに」
「だからだよ!あの人、詩織に会ってから何だか変わったんだよ!最初は気のせいかって思ったんだけどさ、そう思ってるの俺だけじゃなかったから!」
「話がよく分からないよ。松岡さんがどこか変わったのだとしても、一度しか会ってない私が関係してるなんて、普通考えられないよ?友だち待たせてるから、もう切るね?」
「詩織、待てって!じゃあ、見学会にだけでも絶対に来い!その日にあの人はこの艦から降りるんだから、それっきり二度と会えなくなるかも知れないんだぞ!」
松岡さんが、あの艦から居なくなる……?入校するって前に言っていたけど……そういうことなの?直接会えなくなっても、同じ景色を見ることは出来ると思っていたのに。それすらも許されなくなるの?
震える私の手から携帯が取り上げられ、そのまま抱えられるように歩道のベンチへ座らされた。
「初めまして。ごめんなさい、彼女話せそうもないのでお電話変わりました。私、詩織さんと同じ大学に通う、佐々木真知子というものです。詩織さんの従兄弟さんですよね?ごめんなさい、会話が聞こえてしまったのですけれど、今夜の合コンは私が行かせませんので安心してください。それと……その見学会に行けば、詩織ちゃんは必ず“その人”に会えるんですか?」
「え、あの、初めまして。あ、あの、詩織は」
真知子ちゃんに凭せ掛かった私の耳に、戸惑った様子の光流ちゃんの声が届く。
「座らせましたから大丈夫です。今日はこのまま送っていきます」
「……佐々木さんは、詩織から聞いているんですね」
「少し前から本当に様子がおかしくて。ついさっき無理やり聞き出しました。従兄弟さんは、まだ希望があると思いますか?」
「正直なところ、断言はできません。ですが、詩織はともかく彼の方も意識をしているのは間違いないと思います」
そんな事、あるわけ無い。そんなの光流ちゃんの勘違いに決まってる。
「ちょっと待って貰えますか?」
携帯から耳を離して真知子ちゃんは私に向き直る。
「詩織ちゃん。その見学会?私も行った方が良いと思うよ。これで最後になるかもしれないんだったら余計だよ?」
「でも、松岡さんは」
「本当かどうかも分からないことでずっと苦しむより、自分でしっかり確かめて来るのが、きちんと忘れる為にも一番の近道じゃない?」
本当の本当に、これで最後になる……。もう二度と会わないって、自分でそう決めた筈なのに、心に大きなうねりが巻き起こる。何だか、息が続かない。
そう感じた時、優しい手が背中を支えてくれた。
「従兄弟さん、とりあえず詩織ちゃんを送ります。今、今メモ取れますか?」
「え?あ、はい、大丈夫です」
「090-○○□□-☆☆◇◇、私の携帯です。何かあったら連絡ください」
「……佐々木さん、有難うございます。詩織のこと、よろしくお願いします」
「はい、任せてください!」
元気にそう返した真知子ちゃんは、通話を終わらせた携帯を返してくれて。肩を抱いたまま、自分の携帯でどこかに連絡を始めた。
「あ、洋子?ごめん、私と詩織ちゃん、ちょっと無理そうなの。今から代理見つかるかな。え、うん、ちょっと詩織ちゃんの具合が悪くなっちゃって。うん、私家まで送っていくから大丈夫。あ、ホント?助かる〜!私も後で連絡するけど、よろしく言っといて!うん、分かった。ありがとね!」
きっと、合コンの埋め合わせの手配をしてくれたんだ。
「真知子ちゃん、ごめんなさい。私、ひとりで帰れるから。真知子ちゃんだけでも行って?」
「だーめ。従兄弟さんとも約束しちゃったし。だいたい、そんな青い顔した詩織ちゃんをひとりにして帰ったら、私サークルで締め上げられちゃうわよ?」
茶化したように笑う真知子ちゃんと、二人で時々通り掛けの店に引っ掛かりながら、ゆっくりと家路に着いた。
その日、家にまで送ってくれた詩織ちゃんは、何かを察したのかも知れない母の強いお願いにより、急遽泊まっていく事になって。
その日は二人で、居間の隣の和室に布団を並べて潜り込む。そう、あの日、彼が泊まったこの部屋。何だか、すごく遠い日の事のように感じる。
「なんか、修学旅行みたいね」
楽しそうな真知子ちゃんと、たくさん話をした。既に話したことも、まだ話きれていなかった事も、本当にたくさん。その殆どは、真知子ちゃんの質問攻めにあって、松岡さんの事だったのだけれど。
「ふーん」
包み隠さず、全てを曝け出したのでは……と思うほど、語り尽くした後に、真知子ちゃんが唸った。
「え?何?」
「私、佐々木真知子は、従兄弟さん……あ、光流さんだっけ。に一票を投じます!」
真似っこの敬礼をしてそう宣言をする真知子ちゃんに思わず笑ってしまう。
「一票って、何に?」
「その彼、光流さんの言う通り、詩織ちゃんの事を結構気にしてると思う」
「……光流ちゃんも真知子ちゃんも、どうしてそんなに自信があるの?」
根拠のない話にも関わらず、迷い無く断言ができる二人に対して、純粋に不思議に思う。
「あら、根拠ならあるわよ?きっと光流さんもその彼の直ぐそばにいるからこそ、見える根拠があるんじゃないのかな」
「根拠って……」
いったい何処に?
「私のは幾つかあるけれど。その朝靄の日の話が決定打かしらね。思いっきり意識してないなら、営業スマイルでさらっと挨拶できるでしょ?わざわざそんな回り道なんてしないわよ」
「でも、ただ私が嫌われているのかも知れないし」
初めて会ったあの夜に感じた、立ち入る事を許さないとでも言うような、目には見えない引かれた一線と、あの朝に見送ったあの背中からは……とてもそんな希望など抱けはしない。
「だってね?自衛官だから問題になりそうだっていうなら、ぶつかったその場で上司に連絡するでしょう?逆に言えば、トラブルが起きた時に個人で関わったら、余計に立場を危うくする危険性があるかと思うけど。という事は、その彼は単純に詩織ちゃんの事が心配だったんじゃないの?それを本人が自覚していたかどうかは分からないけれど」
「そんな事、言われても」
「ね?分からないでしょ?だから、行って自分の気持ちも含めて、もう一度確かめて来ないと。最後のチャンスなんだよね?」
このまま、時間に任せて忘れることすら許されないのなら。
「ごめんね、心配かけちゃって。見学会のことは、もう少し考えてみるね」
「うん、そうだよ、まだ時間あるんだし。ねぇ、それよりも明日の講義、詩織ちゃんも午前からだよね?」
「うん、そう。もう寝ないとダメだよね」
お休み、と挨拶を交わして。その夜は寝つきも良く、夜中に目も覚まさずに、久し振りにぐっすりと眠る事ができた。
* ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ *
結局、行くか行かないかはっきりと決められないまま、見学会の予定日まで一週間を切ってしまった。
夕飯後に部屋に上がろうとしていた私は、お茶に付き合ってと母に呼び止められて。取り留めのない話をしながら淹れてもらったお茶に口を付ける。
「ねぇ、詩織。あなたがずっと好きだった人って、松岡さんでしょう?」
少しの間をおいてから、さり気なくお母さんに聞かれた。
「え…?」
突然の言葉に反射で顔を上げてしまい。肯定も否定も出来ず、目が反らせない。
「凄い偶然じゃない?詩織がずっと想い続けていた人が、実は光流ちゃんと同じ艦の人だったなんて」
「どうして、松岡さんだと思うの?」
「お母さんだってこれでも昔は私も女の子だったし。それにね、詩織の様子を見ていれば分かるものよ?」
「私、そんなに分かりやすいの?」
「そうねぇ。勘のいい人なら結構すぐに気付く知れないわね。詩織のことを知ってる人なら特に。実際、お父さんも気が付いたわよ?だからあの夜、あんなに松岡さんのことを引き留めたんじゃない?」
じゃあ、もしかしたら……松岡さんにも気付かれたかも知れないと言うこと?
恥ずかしいという気持ちよりも、その可能性に恐怖で身が縮む。
――だから、あの朝――
気持ちに気付かれて避けられたのなら……改めてあの日の背中に納得する。
「お母さん。私、見学会、やっぱり行くね?きっと、松岡さんには二度と会えないと思うし」
「二度と会えないって?そうなの?」
「ほら、前に光流ちゃんが言ってたでしょ?もっと偉くなる為の教育期間みたいなのがあるって。だから、もう直ぐここから居なくなるんだって」
「それって、終わったらまた帰ってくるんじゃないの?」
「よく知らないけど。必ず帰ってくる訳じゃないみたい」
「そう……なの。お人柄の良さそうな方なのに。せっかくお近づきになれたのに……残念だわ」
「……そうだね」
「詩織は?このまま会えなくなってもいいの?」
「仕方ないよ。松岡さんね、誰ともお付き合いも結婚もする気がないんだって。すごく有名な話らしいよ?」
「まあ、何でまた」
「何でかなんて、知らないけど……」
素敵な人なのに勿体無いわねぇ、と嘆くお母さんを置き去りにして、私は逃げるように部屋へ戻った。
本当の本当に最後にする為。松岡さんの住むあの世界を、少しでも近くに感じたい。
そして、出来ることならば、あの笑顔もまた見たい。
見学会が、私の初恋の卒業式。 今度こそ、必ず。
真知子ちゃんに、きちんと忘れるために見学会へ行くことにした、とメールを打ち。
あの日掴まれたその部分に、そっと手を添えて。窓から厚い雲に覆われた夜空を見上げた。
* ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ *
見学会の前日には、光流ちゃんからお父さんに、予定どおり見学会が行われるとの連絡があった。
そしていよいよ、その当日を迎える。
会えるのも、これで最後になるであろうあの人の中に、少しでも悪いイメージが残らないように。小綺麗な服を選び、いつもより少しお化粧も頑張って。
「詩織〜、そろそろ行くわよ〜」
「は〜い、」
抱き締めていた、紅葉の写真を机に戻して。行って来ます、と部屋を後にする。
――良い思い出にしよう――
歩くにつれて徐々に大きくなるその艦の姿に、心の中でそっと誓った。
* ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ *
「お、光流だ」
大勢の学生に混じって、受付と持ち物検査を終えて。案内に沿って艦に向かうと、タラップを駆け下りてくる光流ちゃんの姿が見えた。
「こうしてみると、制服姿もサマになってきたなぁ」
光流ちゃん大好きなお父さんは、ホクホクの笑顔で光流ちゃんの出迎えを待つ。
「叔父さん、叔母さん。詩織。おはよう」
「おはよう。今日は頼むな」
「光流ちゃんが案内してくれるの?」
お母さんの問いに、光流ちゃんが私の方を見ながら、一拍置いて答える。
「案内係は松岡一尉だよ。俺はサポート役で一緒に回る」
――そんな話、聞いてない――
今日の内に艦を降りるという彼が案内役をするなんて思いも寄らず。会えたとしても挨拶をする程度だろうと勝手に思い込んでいた私は、その言葉に戸惑う。
ずっと一緒だなんて、耐えられる自信がなくなり。途端に決まってきた筈の覚悟も何もかもが、根底からグラつく。
そんな、湧き上がるその気持ちを断ち切るように、携帯が鳴った。見れば、真知子ちゃんからのメールで。
――多分すごく緊張しているだろうけど、きちんと向き合っておいでね――
添付されていた四つ葉のクローバーの写真にも、勇気を貰って。深呼吸をし携帯をマナーモードにして、光流ちゃんを見つめ返す。
「じゃあ行こうか」
丁度、学生グループが乗艦し終わったところらしく、艦の上で挨拶をしているらしい声が聞こえて来る。
私たちは光流ちゃんに誘導されながら、お父さんを先頭にゆっくりとタラップを上がる。
タラップの上から下を眺めると、予想以上のその高さに驚く。そして、いよいよ乗艦すると、そこには既に松岡さんが待っていた。
「竹下さん、大変ご無沙汰をしております。本日はわざわざお越し頂き、有難うございます」
制服姿の松岡さんもとても素敵で。それだけでも今日思い切って来て良かったと、素直に思えた。
「松岡さん、此方こそご無沙汰しまして。本日はお招き頂き有難うございます。お言葉に甘えてお邪魔しました」
「今日は世話になります。光流ちゃんの仕事場を見学させて頂く日が来るなんて、夢にも思っていませんでしたから私もう本当に楽しみで」
「だ・か・ら!ココで光流ちゃん呼びは止めてくれって!あれ程、」
そうやって抵抗する光流ちゃんだけれど、ずっと私の側に居てくれる。
「あらヤダ、ゴメンナサイね、“竹下一曹”。しかし、松岡さん。私服姿も素敵だったけど、制服姿はまた一段とイケメン度数が上がるわねぇ」
はしゃぐお母さんの声を聞きながら、私は艦を見回す。
ここが、松岡さんが住む世界。
今日の見学会についての事前説明のあとは、案内役の松岡さんに続き、ゆっくり移動する。
松岡さんの大切な世界を、この見学会でしっかり覚えて、そしてきちんと忘れる。
だけれど、直ぐ近くに松岡さんが居るというこの状況に、どうしても心が乱れてしまう。
それでも何とか甲板の見学を終えると、お父さんとお母さんが光流ちゃんに連れられておトイレに行ってしまった。
少し離れたところにも他の乗員が居るけれど、実質ふたりきりになってしまい。あの背中が蘇り、途端に怖くなる。
その感情を押し込め、取り繕うように近くの説明書きを眺めてみても、何一つ頭に入ってこない。
「詩織さんは、休憩されなくて大丈夫ですか?」
突然声を掛けられて。しかも名前を呼ばれてまた息苦しくなる。
「はい、大丈夫です」
精一杯の私は、そんな返事しか返せない。
それでも、何とか平静を装うことに意識を集中させる。
ようやく戻って来た三人がまた合流して。長く感じたふたりきりの時間も、腕時計を盗み見るとほんの僅かしか経っていなくて。
それでも、もう限界だった。
「では、他に問題が無ければ次は艦橋へ」
「あのっ!」
先頭に立って歩き出した松岡さんの背中に、慌てて声を掛けると、その場にいた皆が驚いたように私を振り返り、私も固まる。
「どうかなさいましたか?」
今日初めて松岡さんと視線が交わったけれど、これ以上迷惑を掛けたくない私としてはその視線を直視出来ない。
「あの、すみません、た、高いところが少し苦手なので。私は此方で待たせて欲しいのですが」
さっき考えたばかりの、いかにも取って付けたような理由を訴える。
「え、詩織、あなた何時もジェットコースターとか……」
流石にお母さんには通じなかったみたいだけれど、それでもその先は続けないで黙ってくれた。
「詩織、それでは皆さんにご迷惑だからもう帰るか?」
見兼ねたのか、お父さんにもそう声を掛けられるけれど、ここで帰ってしまっては意味がなくなってしまう。
「私なら大丈夫だから。それにね、もう少しこの辺もゆっくり見たいし。折角の機会何だから、二人は行ってきて?」
大丈夫、笑えてる筈。ちゃんと鏡を見て練習してきたもの。
「詩織。こんな機会、次は何時あるか分かんないんだぞ?」
そう念を押す光流ちゃんにだけ、そっと希望を伝えてみる。あと少しだけ、時間を頂戴と。
光流ちゃんはまだ何か言いたそうに、それでも黙って頷いてくれた。
「私は良いの、のんびり待っているから」
心をここに残さない為にも、今はまだ帰れない。
「竹下さん、詩織さんには他の者をお付けする事も可能です。その場合、お二人は引き続き見学して頂く事も出来ますが。どうされますか?」
「そうだな、詩織がそこまで言うなら……母さんどうだろう、そうさせて頂こうか?」
松岡さんの提示した妥協案を、お父さんも無碍には出来ないのだろう。
「詩織、あなた本当にそれでいいのね?」
私は、ただお母さんの目を見て、しっかりと頷くしか出来なかった。
* ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ *
「竹下一曹、宮野三曹に少し助けて貰えるか聞いてみてくれ」
「分かりました」
光流ちゃんが確認する間、松岡さんが今から来る宮野三曹という人が、この艦の衛生員という、つまりは医療班の所属である事や、何かあっても直ぐに連絡が取れるようになっているなど、分かりやすく説明してくれる。
その宮野三曹は、本当に直ぐに来てくれて。40代くらいの、笑うと片えくぼが出来る、優しい感じの女性だった。
「松岡一尉、お待たせしました」
「いや、忙しいのにすみません」
「いえ、大丈夫です。それで、私はどなたをお引き受けすれば?」
「こちらの竹下詩織さんのお世話を、自分たちが下りてくるまでお願いしたいのですが」
「承知ました。お引き受けいたします。では、詩織さん。中に休憩所が有りますので、そちらへ参りましょうか」
「はい、よろしくお願いします」
この人なら安心出来る。本能的にそう感じ、また一刻も早くこの場から去りたい私は、宮野三曹に付き添われて艦内へ続く扉をくぐる。少しホッとした、そんな私のその目の前に、突如大きな写真が現れた。
この艦で働く人なのだろうか。艦のどこなのかは分からないけど、楽しそうに笑っている若い自衛官たちの写真。
「これ……」
もしかして、これが光流ちゃんの言っていた写真?
思わず足を止めた私に気が付き、宮野さんが笑顔で説明をしてくれる。
「素敵なお写真ですよね。これも松岡一尉が撮ったものなんですよ」
やっぱり、そうなんだ。あの、真剣な横顔を懐かしく思い出す。
「あの、他にもあるのですか?……松岡さんのお写真」
「あら。詩織さんも、お写真お好きですか?ええ。この他にも沢山有るのですけれど、ご覧になります?でも、お身体は……?」
「ご迷惑お掛けしてすみませんでした。身体は本当に大丈夫です。あの、もし問題がなければですけれど。他のお写真も見させて頂くことは出来ますか?」
「え?ええ、それは勿論大丈夫です。そうですね。顔色も良さそうですし。それでは、写真巡りしながら休憩室に向かいましょうか」
宮野さんが資料を片手に点在する写真を案内してくれる。普通は見ることのできないお仕事風景や、何よりも楽しみだという食事の一コマや、とっても忙しいというお風呂タイムまで。
どれも自然な笑顔で堅苦しさは感じられない。
「皆さん、素敵な笑顔ですね」
そう言うと、宮野さんがクスリと笑う。
「ここだけの話ですけどね?それは多分、撮る人が松岡一尉だからだと思います」
「松岡さんだからですか?」
「普段は本当にニコリともしないんですけど、何故か隠れファンが多いみたいですから」
光流ちゃんが言っていた言葉を思い出す。
「慕われているんですね」
「根が優しい方ですから。素敵といえば……次の写真が本当に素晴らしくて。皆さんにも是非ご覧になっていただきたいと思ってました。その写真のすぐそばが休憩室になってますし、ちょうど良かったですね」
そう言われて、階段を降りて。また狭いドアをくぐった突き当たり。
その写真は飾ってあった。
――これって……まさか――
まるで地の底に落ちていくような、そんな感覚に見舞われる私には気付かない宮野さんが、その写真について語りだす。
「素敵でしょう?繊細で美しくて。私も本当に大好きなんです。実は松岡一尉、女性が嫌いだとか憎んでいるとか、生涯独身主義だとかってよく耳にする噂なんですけれど。私は、この写真の女性が一尉の大切な人なんじゃないかと密かに思っているんです。そうでもなければ、こんな素敵な写真は撮れないと思いますもの。なんとも言えない、深い愛情を感じる気がしませんか?」
その後も、宮野さんの言葉は止まることなく流れて。話し終え、振り向き驚いた宮野さんに指摘されるまで、自分が泣いていることにすら気が付かなかった。
* ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ *
このままここに居ては、本当におかしくなってしまう。
――取り返しのつかなくなる前に帰ろう――
そう決心した私は、宮野さんや、側で様子を見ていた人たちに口々に休憩所を勧められても、もうそれに応じることは出来ない。
皆が……松岡さんが降りてきてしまう前に、一刻も早くここから去らなければ。
「竹下さんっ、本当にもう直ぐ皆さん戻られますから。もう少しだけ、お待ち頂けませんか?」
「そうですよ、折角いらしたんです。やっぱり艦自慢のご飯も召し上がって頂きたいですし、今日のメニューは御手洗補給長の新作でしてね、」
宮野さんも、皆さんも。仕事とはいえ本当に親切で。無理を言って申し訳ないとは思っても、それでもその無理を通すしかなくて。
「ありがとうございます、皆さんのお気持ちは本当に嬉しいでのでけど、すみません、やはり帰らせて頂きます。両親には降りたら直ぐに連絡しておきますし、その、松岡さんには……宮野さんから、くれぐれもよろしくお伝えください」
やっとの思いでタラップに足を掛け、手摺を掴めたのに。ホッとしたのもつかの間だった。
「あ!ほら、松岡一尉が見えましたよ!」
宮野三曹のその言葉に身体が反応し、思わずそちらを振り返ってしまった。その拍子に、ガクンとバランスを崩し、私の身体がふわりと浮いた。
慌てて手摺を掴みなおそうとしたその手は空を切り、踏み外した足では踏ん張りも効かない。
――落ちる――
そう目を瞑って覚悟を決めた時、複数の悲鳴に混じって
――詩織!――
遠くで名前を呼ばれた気がした。
――あ、れ――
海に落ちたという感覚は無く…予想とは違う違和感に恐る恐る目を開けると、強い力で包み込まれていた。
「一尉!大丈夫ですか! ?」
泣きそうな宮野さんの声にハッとする。
――助かったの?――
「俺は大丈夫。……詩織、さん?」
頭の上から、ずっと聞きたくて、聴きたくなかったその声が降り注いだ。
松岡さんの腕の中にいるのだと気が付かされ、目の前が真っ暗になる。
「ご、ごめんなさい、私、また」
頭の上で小さなため息が漏れ聞こえ、私を包む腕に力が少し強くなった気がする。
――どうして、こうなっちゃうんだろう。笑顔でお別れしたかったのに――
でも、今からでもまだ遅くはない。お詫びをして、先に帰らせて貰おう。大丈夫。もう少しで終わりに出来る。
「宮野三曹、すまないが、少し医務室を借りたい」
――え?――
「は、はい!直ぐ手配します、どうぞそのままいらしてください!」
―ちょっと待って、――
「大丈夫です、帰れますから、」
抜け出そうと身体を捩ると、突然膝の裏に手を差し込まれ。
「ちょっと失礼、」
端的にそれだけ言うと、松岡さんは私を抱えたまま立ち上がった。
「あ、歩けます、歩きますからっ、降ろして下さいっ」
本人が大丈夫だと言っているのに、一体どういうつもりなのだろうか。必死に抵抗しても、ビクともしない。
「詩織さん、しっかり捕まって」
「でも」
とか、
「あの、」
とか何とかきっかけを作ろうとしても、有無を言わさないその様子にそれ以上の言葉は続かず。それでも、何としてでも下ろして貰わなければ悪足搔きをしてみたけれど、逆にしっかり抱え直されてしまう。
その直後、松岡さんの身体の向こうから、知らない声が聞こえてきた。
「ひとりで大丈夫か?」
「ああ、大丈夫だ」
そう答えた松岡さんは、もう一度私を抱え直すと、まだ逃れようとする私には構わずに歩き出してしまい。
色々な感情が入り乱れ、頭の中はぐちゃぐちゃになり。胃は重たく、心は絶望で徐々に冷えていく。
* ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ *
本日も、お立ち寄りいただき有難うございましたm(__)m
またお会い出来れば幸いです☆彡