〜朝靄に 隠れし君の その顔を 瞼の裏で そっと想いし〜詩織Vol.1
あの日の出会いと、過去の事。
詩織目線のお話です。
――あっ……――
少し離れた場所に見える、その姿に胸が高鳴る。前回姿を見せたのはどのくらい前だったろう。はやる気持ちを抑えて、今日も気付かれないようにと細心の注意を払って。少し離れたいつもの場所から、私は朝陽を浴びて輝く大好きな海と空を眺めて。今は亡き愛犬に想いを馳せる。
――紅葉、今日も綺麗だね――
紅葉の命の灯火が、日に日に小さくなっていくのは目に見えて分かっていたし、寿命なのだから仕方ないのも理解していたけれど。
――紅葉、――
最後は自宅で、と動物病院を後にした日の夜。その時を迎える間際、それまで尻尾すら動かすことも出来なくなっていた紅葉が、懸命に頭を上げて、顔を寄せていた私の頬を触れるように舐めた。
それが、紅葉とのお別れだった。
思い出すとまだ涙が滲むけど、ご飯はちゃんと食べられるようになったから、
――寂しいけど。大丈夫だから、心配しないでね――
新鮮な朝の空気を身体の隅々まで取り込むように、ゆっくりと深呼吸をして。視線を流し、そっと彼を伺う。
多少離れていても、目の良い私にはその様子が分かる。
視線の先には、ここ数年の待ち人であるその男性が、全身に朝陽を浴びながら、真剣な面持ちで海に向かってカメラを構えていた。
パッとしない女子大生の私だけれど、目の良さがこの細やかで貴重な幸せを齎してくれるのだから、遺伝子には本当に感謝しかない。
まだ小学生だった頃から、この場所で朝焼けを見るのが好きだった私は、よく秋田犬の紅葉を連れて訪れていた。というよりも、ここを通るのが殆ど日課にもなっていたのだけれど、あれは確か大学進学が決まった頃。ある朝、いつも通りに紅葉と訪れたこの場所で、見慣れないあの男性が岩場にいる事に気付いた。
その時、その男性は岩の上に器用に片膝をつき、海に向けてカメラを構えていて。カメラの事は何も知らない私でも、そのレンズの大きさから見てもかなり本格的なカメラなんだろう、というくらいは分かる。
初めは、その立派なカメラが気になってつい見入ってしまったものの。翌日も姿を見せたその男性の、その周辺の澄んだ空気と静寂と、煌めく朝陽に包まれて。カメラを構える彼のその真剣な様子も、全てがまるで別世界のように映り、自然と心に染み込んでいった。
そしてその後も不定期に現れる彼の姿が、何時しか朝焼けと同じくらい、さらにはそれ以上に目が離せなくなっていって。
そしてまた今日も。名も知らない彼の、その姿をそっと眺める。
時間からしたら、ほんの10分くらい。その10分がどんなに待ち遠しくなっていたのかと、毎回毎回思い知る。
本当ならば、もう少し長く眺めていたいのだけれど。
犬の散歩をする人やランニングする人もある程度行き交う、自宅周りだけの散歩とはいっても、朝も早い時間帯。紅葉が元気だった頃からの日課とはいえ、あまり遅くなると家族に心配をかけるから、それが限界。
だから、次にいつ会えるか分からないその姿を、その10分の間にしっかりと目に焼き付ける。
こんな自分に気付いたら、きっと気味悪がられるだろうと、以前少しの間だけ通うのを止めた事もあったのだけれど……あの場所から離れ、冷静になってみて初めて。私の指定席から少し離れて見えるところにあるあの桟橋に、ある艦艇が戻って来る時のみ、彼があの岩場に姿を見せていた事に気が付いた。
偶然にも、その艦艇には従兄弟の光流ちゃんが乗っているというの、何かの縁なのだろうか。
そう思うと、少しだけあの男性に近付けたような気持ちなり、心が躍った。そして、その事実に気が付いてしまった私は、もっとあの男性の事を知りたいという気持ちを抑え切れず。いつものように泊まりに来た光流ちゃんに、なけなしの勇気を振り絞って彼のことを尋ねてみた。
でも光流ちゃんから帰ってきた言葉は、実につれないもので。
――確かに……デッカいカメラ持って、艦内とかこの辺とか、よく撮影して歩く乗員は居るけど。詩織が見たというのが本当にその人かどうかも分からないし、例え本人だとしても一応機密情報だし。幾ら詩織の頼みでも教えられないよ。それに、本当にあの人だとしたら……無理だと思う――
従兄弟が入っていても、未だに自衛隊のことはよく分からない私としては、その言葉にただ落ち込んでしまった。
声を掛ける勇気なんて……ある訳無いし。もう忘れた方が良いのかな、なんてそのまま暫く時間を置いてみても。無理だと言われても、どうしてもあの姿が忘れられなくて。
ひと目見たい一心で、結局またあの場所へ足が向いてしまった。
でも、その日も翌日も彼が姿を見せる事はなく、光流ちゃんを乗せたあの艦艇も母港からまた旅立って行ってしまい、あの男性も姿を消してしまった。
* ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ *
「竹下さん!ねぇ、今日こそ合コン、付き合ってよ!」
――どうしよう、また来ちゃった……――
駆け寄ってきたサークル仲間の垣内くんと佐々木さんの姿を認めると、途端に足が重くなる。
「あの、御免なさい、今日はもう予定があるので」
「えーまた? !じゃあ、いつなら良いの?合わせるからさ!」
――え、今まではこれで諦めてくれたのに――
今日の竹垣くんは、引き下がる様子がない。
「あ、あの、私、合コンはちょっと……」
「え、竹下さんて、もしかして彼氏居るの?」
何も悪いことはしていないのに、早くこの場から逃げ出したくて……冷や汗が流れてドキドキが止まらない。
「あの、私、大切なひとが居るから」
「え、そうなの?全然そんな様子無かったから、ごめんなさい、」
「えー、竹下さん狙いのヤツ、結構いるのに。良いじゃん、彼氏も連れて来れば」
――え?狙うって何?合コンて、彼氏や彼女も連れて行けるものなの?――
それすらよく分からない私は、その彼氏という勘違いを訂正するタイミングを逃してしまった。
「垣内くん、何言ってるの!合コンに彼氏連れて行くのおかしいでしょーが!」
――やっぱり、おかしいんだ――
ハッと我に帰り、彼なんて居ないと正そうとしたけれど、
「だってさ、彼氏って絶対この大学じゃ無いでしょ?サークル(ウチ)の大事な白雪姫を掻っ攫ったのがどんな奴なのか、俺だって興味あるし」
――え?――
「……白雪姫?」
中学校の部活でやった事はある役だけど。どうしてみんな知ってるんだろう。誰かに話した事あったかな、と新たな疑問に思考が止まる。
「あー!なんだろね!良いの、良いの!竹下さんは気にしないで良いの!ホント、ゴメンね〜!またお茶しようね!」
佐々木さんは、垣内くんの首根っこ掴んで、本当にごめんね、と繰り返し謝りながら立ち去って行ってしまい。彼氏についての“間違い”を正すきっかけを失ってしまった。
――ど、どうしよう……――
とりあえずはメールで訂正しようかと携帯を手にするけれど。
……でも。
――これで合コンの話が無くなるのなら――
罪悪感と、面倒から逃れられるという気持ちの両天秤は、後者が勝ち取ってしまった。
それからしばらくの間はサークルでも“彼氏”について聞かれたり弄られたりしたけれど、“少し遠距離の社会人”という嘘の説明の後は、徐々に聞かれる事も無くなり。ようやく罪悪感も小さくなってきていたところ。今、待ち侘びていた彼の姿を目にし、嘘の上塗りをするその脳内で、勝手に彼にしてしまっていた男性の真剣なその横顔に、忘れかけていた罪悪感と申し訳なさで、自分の事が許せなくなる。
――佐々木さんにだけでも、本当の事を言って謝ろう――
ため息をついて、私は家に帰った。
* ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ *
その日の夜。レポートも一区切りついた私は、気分転換を兼ねて少し潮風を浴びたくなって。ちょうど良いから買い物がてら、目と鼻の先にあるコンビニに行くことにした。
「お母さん、ちょっとコンビニ行ってくるね」
「あら。もう暗いのに、明日じゃダメなの?」
「うん、ちょっと買い忘れたものがあるから」
気をつけて行くのよ〜、という言葉を背中に、海沿いのコンビニへ向かう。
店内に入ろうとした時、サッと潮風に頬を撫でられて。その風に誘われるように、そのまま海岸沿いの歩道を少し歩いた。そして気が付けば、よく紅葉と遊びに来ていた、小さな浜辺の前に立っていた。引き寄せられるように、防波堤の横の階段を降り、浜辺に佇む。
何だろう、朝とは違う、この感覚。
月明かりに照らされて、寄せては返す波を眺める内に心から溢れ出てきたこの切なくて、身を切るような痛み。心配する両親の手前、泣かないようにしていた反動なのかも知らないけれど。一度零れ落ちた涙は止める事が出来なくなってしまい……。
どの位そうしていたのか、ハッとして携帯で時間を確認する。
「やだ、もうこんな時間?」
家を出てからもう直ぐ30分くらい経つ。とりあえずコンビニへ戻って、電話しないと、
焦った私は、またうっかり、駆け上がった階段から歩道へと飛び出してしまい、
「うわ! ?」
「きゃっ」
ドン!と何かにぶつかり、次の瞬間には何故か腕が掴まれていた。
――え、な、何?――
しかし、私がパニックに陥るより先、その相手が掴んでいた手を放して後ずさりをし、
「生身の方とは存知あげず、大変失礼しました!!」
大きな声で謝罪をすると、私に向かって深々と頭を下げた。
見間違いではない。あの“彼”が、今目の前にいる。驚きと、喜びと、恥ずかしさと。そして例の罪悪感が胸の内でせめぎ合う。
とにかく何か、返事をしなければ。
――でも、生身の方って……――
「クスッ」
思わず漏れてしまい、彼も驚いたように顔を上げた。
「生身の方って。ええと、もしかして私、お化けか何かと間違えられちゃったんでしょうか?」
なんだか、イメージと少し違うけれど。あの男性が今目の前にいる、その現実に心の整理もつかなくて。いつも以上に言葉が出て来ない。
「面目次第もございません!!」
再び深く頭を下げた彼に、私の方が慌ててしまう。
「あ、あの。自衛隊の方ですよね?私は大丈夫ですから、もう頭上げて下さい」
――自衛官だもの、やはりトラブルは困るよね――
「私は海上自衛隊所属の松岡雅まつおかみやびと申します!この度は、」
――そんな、悪いのは飛び出した私なのに――
「え、ええと、ストップ!」
「え、」
月明かりが照らす中の、困りきった様子の彼を見て、きちんとお詫びをしなければと小さく深呼吸する。
「海上自衛隊の松岡雅さん、私は竹下詩織です。地元の大学に通っています。今晩は」
「はぁ……今晩は、」
戸惑った様子で、彼はただ一言そう返す。
「私の方こそすみませんでした。飛び出した上に、思い切りぶつかってしまって。本当にごめんなさい」
心からの謝罪を言葉にし頭を下げ、顔を上げると彼と目が合った。私の顔をじっと見詰めた彼が目を眇めたように見えたのは、気のせいだったのだろうか。
「いや、此方こそきちんと確認もせずすみませんでした。お怪我は無かったですか?その、服は……」
「少し……いえ、本当はとても驚きましたけど、体も服も大丈夫です」
心配させたくなくて、明るく振舞ったのだけれど、
「今は大丈夫でも心配ですので。御自宅まで送らせて頂きます」
「え、大丈夫ですよ?家うちはすぐその先ですから」
「いえ、すみませんがこれは譲れません」
「ああ。そうですよね、」
自衛官だもの。
「……それでは折角ですし、護衛よろしくお願いします」
この国を守ってくれている自衛官という人たちが、どんな環境でどんな仕事をしているのか。従兄弟の光流ちゃんが入隊してからほんの少しだけ知る機会が増えた。
“自衛隊在職中、決して国民から感謝されたり歓迎されることなく自衛隊を終わるかもしれない。
きっと非難とか叱咤ばかりの一生かもしれない。
御苦労だと思う。
しかし、自衛隊が国民から歓迎されちやほやされる事態とは、外国から攻撃されて国家存亡の時とか災害派遣の時とか、国民が困窮し国家が混乱に直面している時だけなのだ。
言葉を換えれば、君達が日陰者である時のほうが、国民や日本は幸せなのだ。
どうか、耐えてもらいたい。”
光流ちゃんが自衛官になるきっかけとなったというこの言葉を聞いた時、本当に衝撃を受けた。ちっぽけな正義感や憧れだけで出来るような仕事ではないのだろうな、無知な私はそんな漠然とした考えしか浮かばなかったけれど。
そんな自衛官でもあり、一方的に憧れていたこの松岡さんと並んで歩くこの道が、ずっと続けば良いのにな、とそっと月にお願いしてみる。
* ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ *
――こういう時は、何か話さないといけないの?――
男性とはきちんとしたお付き合いをした経験がない私は、どんな話をすれば良いのか分からなくて。それよりも、息が苦しくてきちんと呼吸できているのかどうかも分からない。
――自衛隊の話をすれば間違えないのかしら……あ、そういえば――
「松岡さんて、艦艇勤務ですか?今日、入港してましたよね?」
ふと思い出して尋ねてみる。もしかしたら、本当に光流ちゃんと同じ艦かも知れないと思うと、勝手に親近感が湧いてしまう。
「ええと、」
でも、松岡さんの反応は歯切れの悪いもので。その様子から、以前光流ちゃんに言われたことを思い出した。
「あ、こういうことは余り話せないんでしたよね。すみません、今のは忘れてください」
――かえって困らせちゃった――
「いえ、こちらこそ何だかすみません」
二人とも再び無言となり、聞こえるのは寄せる波の音だけとってしまい。気を悪くしてしまったのではないかと、浮かれていた心が冷たくなっていく。
〜♬〜♬〜♬〜
そんな、微妙に気まずくなった空気を打ち破るかのように、私の携帯が鳴り始めて。慌てて確認すると、お母さんからの着信だった。
「すみません」
――やっぱり心配させちゃったかな――
電話に出る私から、松岡さんはそっと距離を置いてくれる。そんな生真面目さにまた惹かれる。
「お母さん?ごめんなさい、少しのんびりしちゃって。うん大丈夫、もう少ししたら帰るから。え?もう帰ってきたの?あ、じゃあ何か買って帰ったほうが良い?」
お母さんの話で、帰港した光流ちゃんが来たのだと知らされる。
教育期間を終えた光流ちゃんが、うちのすぐ側にある基地に偶然にも配属された時、小さい時から特に可愛がっていた父は殊の外喜んで。今では、帰港の度に泊まりに来る事がすっかり恒例となっていた。
「すみません、お待たせしました」
通話を終えた私は、松岡さんに声を掛けると、海を眺めていた松岡さんが振り返る。
「いえ、」
松岡さんにはただ微笑んでそう短く返すだけで。また肩を並べて歩き出す。
「松岡さん、あの。コンビニ寄っても構いませんか?」
送ることが彼の義務である以上、コンビニでさようならをしてくれるとも思えない。ので、勇気を出してお願いしてみる。
「実は私も寄るところだったので。助かります」
その笑顔にまた心が躍る。
「それなら良かったです」
何だか、顔が熱くなっている気がするけれど、大丈夫かな、変な顔していないかな、段々と不安が強くなってくる。
「ところで、今の着信音って、」
突然振られたその言葉に、ハッと我に返って。
偶然にも同じグループの、しかもあの曲が好きだと分かると、思いがけず見つけられた共通点に、徐々に話が弾み出した。
私は光流ちゃんの影響で聞くようになったグループだったのでよく知らなかったけれど、少し前に流行っていた曲なんだと教えて貰う。
その声も素敵だな、なんて思うその気持ちに浸る間もなく、コンビニに着いてしまった。
「っしゃっせ〜」
いつもの明るい出迎えを受けて店内へ入ると、松岡さんは私にひと言断ってトイレへ向かった。
もしかして、コンビニに用事って、おトイレだった?それなら、すごく我慢させてしまったのかも、と気に掛かる。
残された私はカゴを持って、光流ちゃん用の飲み物を選ぼうとして。松岡さんにもお詫びを兼ねて何かお礼をしないと、と思い付く。
――でも、松岡さんは何がお好きなんだろう――
「お待たせしました」
棚の前で考えを巡らせていると、いつの間にかすぐ横に松岡さんが戻って来ていた。その距離に改めて体温が上がり始めてしまう。
「あ、松岡さん。家族の飲み物を頼まれたんですけれど。松岡さんだったら……久々に帰宅して飲むとしたら、どれが飲みたいなって思いますか?」
何とか、噛まずに全部言い切れた。
「銘柄は無いのですが。基本的にビールなのでコレとか、あと季節限定のコッチも良いですね」
またひとつ、この男性の好きなものを知ることができて。心が満たされていく気がする。
「季節限定……それ良いですね。じゃあ同じのにしちゃおうかな」
そう言い訳をして、カゴにも同じものを入れる。
「え、ご家族のお好みとかは大丈夫なんですか?」
「大丈夫です、アルコールさえ入ってれば何でも良いみたいですから。でも私詳しくないので決めかねてしまって。松岡さん居てくれて本当に助かりました」
光流ちゃんが拘らずに何でも飲むのも、私が毎回どれにしようかと決めあぐねるというのも事実で。助かったというのももちろん本心。
この細やかな時間が楽しくてつい笑ってしまったら、松岡さんに真顔で一瞬見つめられ。
その視線にまた胸がどきりと跳ねる。
「この程度の事なら何時でもお手伝い致しますよ」
そう笑顔で返した彼は、そばの棚から乾きもの幾つか取ると、レジへと向かってしまう。あくまでも、仕事の上での気遣いなんだろうな、と当たり前の事なのに少し気が沈む。
「持ちましょう」
お互いの会計を済ませ、コンビニを出ると松岡さんさんが私の袋に手を伸ばしてきた。
いつでもきちんとしている方なんだろうな、とお言葉に甘えてふたつの袋を素直に預ける。
コンビニの間近にある我が家には、本当に直ぐに着いてしまった。家の灯りが見えた時点で此処までで、と申し出てみたのだけれど……玄関まで送ると譲らない松岡さんの言葉に、もうNoとは言えず。結局、玄関の前で預けていた袋を受け取る羽目に陥ってしまった。
「遠回りさせてしまって、それに荷物まで持って頂いて。何だかかえってすみませんでした」
「大した事ありません。それよりも、どこも痛くないですか?」
「ふふ、本当に大丈夫ですよ?」
お礼を渡して早くお別れしなきゃと思いながらも、心配そうな彼の様子に、掴まれた側の手を少し大きく動かし大丈夫アピールをしてみる。が、それも報われなかったようで。
「竹下さん、ご家族の方とも少しお話をしたいので、」
――何もそこまでしなくても、――
〜♬〜♬〜♬〜
焦る私に構わず、また携帯が鳴った。鳴ったと思ったら、次の瞬間には玄関のドアが大きく開いて、中から光流ちゃんが転がり出てきた。
「詩織!お前、暗いのにひとりでフラつくなんて危ないだろ!今迎えに行こうと……え……松岡二尉?あ、いえ、もう一尉」
「は?竹下?……お前ここで何してる」
「何と言われましても、ここ、叔父の家なんです。一尉は、え、ええとどうして詩織と」
こんなに慌てる光流ちゃんを見たのは初めてな気がする……。“いちい”って、もしかしたら一等海尉っていう、幹部という事?
自衛隊の幹部が何なのかはよく知らない私でも、光流ちゃんよりも位が上なんだという事だけは分かる。
――よりによって光流ちゃんにバレちゃうなんて――
打ち明けたあの日から、ずっとこの男性に惹かれ続ける私の気持ちを、誰よりも真面目に聞いてくれていた光流ちゃんは……きっとあの時は既に、その相手が誰なのか分かっていたと思う。
だからこそ、あの日にしっかりと釘を刺したその後は、そっと見守ってくれていた光流ちゃんにだけは、これ以上の心配を掛けたくなくて。この偶然の出会いを知られたくなかった。
そして、今目の前で驚きを隠しもせず、こちらへ向き直るこの彼にも、
「君、竹下一曹のご親戚?」
「はい。光流ちゃんがいつもお世話になってます」
この男性にこそ、知られたくなかった。光流ちゃんが話した通りの人ならば、私のような存在はこの男性にとっては迷惑にしかならない。
今までは、彼の姿を見かける度に、勝手に運命的なものを感じていたけれど。
身勝手にも、今夜はその運命すら呪ってしまう。
その後、お母さんも加わり、押し問答の末に家へ上がる事となった松岡さんに、
「あの。さっきの事は、2人だけの秘密にして下さいね?」
すれ違いざま、お願いだからとそっと囁く。松岡さんとの経緯を変に誤解されるのだけは避けたかった。
こうなった以上は、家まで送ってくださったお礼という事でおもてなしをして、それでこの心臓に悪い時間を乗り切ろう……と松岡さんは光流ちゃんに任せてキッチンに向かう。
とても楽しそうなお母さんが、冷えたビールとお通しを持って居間へ消えたのだけれど、
「折角ですが、ビールはちょっと」
「え、松岡一尉、いつもビール派じゃないですか。具合でも悪いんですか?」
「まあ、そうだったんですか?」
「いえ、そうではなくて。詩織さんのお母さん、ちょっと宜しいですか」
「あら、お母さんだなんてなんだか照れちゃうけど、何でしょうか?」
そんなやり取りが漏れ聞こえてきて、どうしても焦りが増す。
それでもなんとか作り置きの煮物や乾きものなど幾つか盛り付けて、私も急いで居間へ向かったのだけれど、
「実は、お詫びしなければならない事がありまして、」
「え、松岡さん!それはもう終わった話ですから、」
時すでに遅し……ううん、違う。彼は初めから、誤魔化す気など更々無かった。
「いや、話さない訳には」
「え、何かあったんですか?」
光流ちゃんも眉をひそめ、ビールを注ぐ手を止めてしまった。
「だから、何でもないって、」
それでも、私は……。
私が悪いのは分かっているし、それで私が叱られるのも当然なのどけれど。万が一、松岡さんが誤解されるような事があったら、申し訳なさすぎる。
光流ちゃんに相談した頃から、自衛官という仕事を少しずつ意識するようになって。今では、自衛隊の置かれている状況も何となく分かるようになっていた。自衛官を取り巻く環境というものにようやく最近気付けた私としては……ほんの僅かでも、私の事では何ひとつとして負担を掛けたくはない。
「詩織、松岡さんがお話ししているのに、横から口を挟まない。良いからあなたもここへお座りなさい」
なんとか話題を変えたいと思っても、お母さんのその一言に何も言えなくなってしまった。仕方なく椅子に座ってみたけれど、胃がきゅうきゅうと締め付けられて生きた心地がしなくて。死刑執行を待つ気持ちってこんな感じなのかしら……なんて場違いな事まで考えてしまう。
情けなくて、申し訳なくて。顔を上げられないまま、松岡さんの説明をただ聞くだけしかできなくて。
「続きですが、訳あってひとりで先に帰る途中、海岸から人の泣くような声がしまして。普段はこんな時間に人がいるような場所ではないので、少し不審に思いましたが、そのまま通り過ぎようとした所で、海岸の方から白い影が……いえ、詩織さんが、」
「詩織!あんたコンビニ行くだけって言ってたでしょ!なんでひとりでそんな人気のない所で泣いるの! ?紅葉が死んじゃって悲しいのは分かるけど!何かあったらどうするつもりなの! ?」
お母さんの叱る声に、胸をなで下ろす。そう、私が悪いのだから、お願いだから、勘違いはしないで。
「ごめんなさい、紅葉が好きだった場所だったから、つい……」
叱られているのに、心配させたのに。どうしてもホッとしてしまう。
「え!何、紅葉死んじゃったの?てっきりまた寝てんのかと思ってた……。何時いつ?」
ああ、光流ちゃんは知らなかったんだっけ。
「1週間くらい前。この間、光流ちゃんが出港した直後から少しずつ食が細くなって、寝る時間も多くなって。獣医さんに診てもらったら、老衰ですって。本当に寂しくなっちゃったけど、15年も生きてくれたんだもの。マルチーズとしては大往生よね、」
お母さんだって凄く可愛がっていたのに。私がいつまでもメソメソしているから、泣けなくなっちゃったんだよね。本当にごめんなさい。
「紅葉ちゃんは本当にお気の毒でした。が、すみません、先続けます。道の脇から出て来た詩織さんとらちょうど鉢合わせになったのですが、不審者かと思い、つい一本背負いを」
「え、一尉、詩織をぶん投げちゃったんですか? !」
――えっ違う、――
「違うのっ、私が道に飛び出して松岡さんにぶつかったの!でも、投げられてないから!松岡さん、引き寄せただけで!私を見て直ぐ手を止めてくれたから!」
気が付けば勢いのままに立ち上がっていた。そんな私の様子に唖然とする三人の視線に居た堪れず、そろそろと座り直す。
「ええと、それでですね。詩織さんは大丈夫だと仰るのですが、やはり怪我が無いか心配でして。本当に申し訳ありません。この件は上に報告をし、後日改めてお詫びに伺いたく、まずはその旨のお許しを頂きに参りました」
何事も無かったかのように、後を引き受けそう締めくくると、松岡さんは立ち上がり、深々と頭を下げてくれた。
ぶつかったのは、私の方なのに……気持ちがザワザワと落ち着かない。
「まあ、それで態々(わざわざ)?松岡さんのご事情もお気持ちも良く分かりました。詩織、あなた身体はどうなの?」
本当になんともないんだと訴えようとすると、
「ああ、それなら俺が」
光流ちゃんが私の腕を取り、様子を見てくれた。高校まで柔道やらサッカーやら、何かとスポーツをやっていた光流ちゃんは、簡単な事なら少しは分かるらしいけれど。曲げたり捻ったり伸ばしたり、念の入りように思わず笑ってしまった。
「 確かにこれなら大丈夫だと思います。念の為、叔父にも診てもらいますし、必要があればまた追ってお知らせしますが。どうします?一尉も確認されますか?」
ようやく腕を開放してくれた光流ちゃんのその判定にホッとする。そう、あとはお父さんに診て貰えば良いだけ。もちろん、心配をかけるような馬鹿な行いは、しっかり叱られた上で。
それならば今日のところは引揚げようという松岡さんは、再びお母さんと光流ちゃんに強く引き留められてしまい。やっとビールとおつまみに手を付けてくれた。
お酒が進むにつれ、艦内の裏話や光流ちゃんの普段の様子を少し話してくれるものの、全然酔った様子もなくて。相変わらずの丁寧な話し方に、一線を引いているのがよく分かり……一方的な気持ちだと分かっていても、やはり寂しく感じてしまう。
それでも、夢のようなこのひと時をしっかりと覚えておきたい、という気持ちだけは、自由にしてあげようと思い。彼の言葉に耳と心を傾けた。
程なくしてお父さんも帰宅して、私の腕も、外科医の診立てで問題なしとお墨付きを貰えた。お役目を果たした松岡さんは、暫くお父さんに付き合ってから基地へ帰って行き。私の夢の時間は終わりを告げた。
* ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ *
部屋へ戻って寝支度を整えても、松岡さんの事が頭を離れなくて。その声と笑顔を思い返しながら、ぼんやりと音楽を聴きいていると、ドアをノックされた。
「詩織、ちょっと良いか?」
「光流ちゃん?明日早いんでしょ?まだ起きてていいの?」
「うん、そうだけど。少し話したい」
珍しくドアを閉めて腰を下ろした光流ちゃんは、持っていたペットボトルを差し出してきた。
きっと、松岡さんのことなんだろうな。
受け取りながら、またぼんやりと考える。
「話って?」
「詩織がずっと好きだった人、松岡一尉だよね?」
こういう時、光流ちゃんはいつもストレートに聞いてくる。
「好きっていうか、ずっと素敵だなって思っている人だけど」
「詩織の場合はどっちでも同じだろ」
「光流ちゃんは、最初から松岡さんのことだって分かってたんだね」
「ごめん、分かってた」
「ううん。お仕事柄、教えられないのは仕方ないもの」
「詩織、それだけじゃないんだ」
「え?何が?」
「松岡一尉はね、色々と複雑なんだよ」
――?――
「複雑って、どう言う……」
「松岡一尉は……。あの人は、仕事の面でも俺凄く尊敬してるし、人間的にも本当に良い人だよ。それは間違いない」
――まさか、ホモとか?それとも結婚してるとか?――
「光流ちゃん、私の勝手な片思いだし、松岡さんの事情を私が勝手に知っちゃうのは」
「だけどさ、このままだと詩織はいつまでも先に進まないだろ?」
それを言われてしまうと、返す言葉がない。
たまに彼の姿を見られればそれで満足な筈だったのに、お付き合いの申し出も、合コンのお誘いも、父の関係者からのお見合い話も。少しも心が動かず全部断ってしまうほど、いつの間にか心の真ん中に居座っていたこの気持ち。
それが恋というものなのかどうかもよく分からないまま、ただ彼に会える日を待っていただけの年月。
そんな私の気持ちに気付いていたのに、光流ちゃんは今まで何も言わず、見守っていてくれていた。それが、今になって初めて踏み込んでこようとしている。
「覚えてるか?前は、あくまでも詩織の想い人と、俺の予想した人物が同一人物だと仮定しての話だったけれど。本当にあの人は、自分のテリトリーに誰も寄せ付けないって」
確かにあの日、もしも俺の思っている人と同じ人ならばって、前置きをした上でのその話は聞いたけれど。今でもその言葉の、真の意味が分からない。
「勿論、海自の幹部で艦艇乗りなんだから、当たり前かもしれないけど。仕事は俺なんかから見ても凄くできるし、普段は驚くほど無愛想だけど、根は凄く優しい人だし。ちょっとしたミスでも死に直結し兼ねない仕事だって言ったろ?どんなに小さなミスでも当然こっ酷く叱られるんだけど、誰に対してもただ叱るんじゃなくて、きちんとなんでそうなったのか、じゃあどうすれば防げるのか。ただ答えを与えるんじゃなくて、いちいち膝付き合わせて一緒に考えてくれるんだ」
そんな彼の、何が問題なんだろうかと、ますます謎が深まるばかりだけれど。逆立ちしても私が釣り合うような相手では無かったんだな、と思い知ってしまう。
「テリトリーに誰も寄せ付けないって言われても。光流ちゃんの話を聞いたら、そんな風に思えないけれど……」
自分の気持ちはともかく、なんだか釈然としない。
「自衛官同士なら余りそういうのも無いみたいだけど。完全に“そこ”に入っているのは、同期の高橋一尉と横手一尉、村田一尉くらいじゃないのかな。まあ、これは俺の勝手な憶測だけどね」
「自衛官じゃないと、ダメなの?」
「うーん、うまく言えないけど、もしかしたらそう言うのでも無いのかなぁ。ただ、結婚する気がないから、特定の女性は作らないって何度か聞いたことがある。それは松岡一尉がずっと護っている決め事があるからだって」
もう、何も考えられなくなってしまった。
「あ、言っておくけど、松岡一尉は別に女癖が悪い訳じゃないから。付き合いでならたまに飲みに行くみたいだけれど。でも、最初からそのつもりの飲み会とか合コンとかだけじゃなくて、上官からの見合い話も、話も聞かないで速攻で断るし。そういう煩わしいのを嫌って今でも外に出ないで官舎住まいだっていうのは、基地内でも結構有名な話だよ」
「光流ちゃん、もう分かったから。私なんかが釣り合う人じゃないって分かったから。勝手に憧れていただけだもの。そんなに素敵な人なら、迷惑掛けたらダメだよね」
「そうじゃないよ、詩織。本当に忘れられないなら、そういう人だと分かっていても忘れられないのなら、もう仕方ないんじゃないの?あの人、待つだけじゃきっとこのまま変わらないぞ?」
光流ちゃんは、首を横に振る私にため息をつく。
「何年も想い続けたんだろ?今更焦って幕引きを図らないで、もう一度じっくりと自分の気持ちを見つめ直してみな?」
そんな宿題とおやすみという言葉を残し、光流ちゃんは寝床へ戻っていったけれど。私の気持ちは固まっている。
――忘れよう。何年掛かっても、ちゃんと忘れよう。でも、その前に。あとひと目、しっかりとあの姿をこの目で見ておきたい――
その夜は、結局ほとんど眠れなかった。翌朝は光流ちゃんの朝ごはんのお世話をしてからすっかり日の昇った海辺を歩いてみる。あの岩場には、誰も居ない。
やっぱり、あの朝日が昇る時間帯が一番合う確率が高いみたい。そのまま、何時もの場所で海を眺める。
松岡さんと過ごした短いあの時間を思い起こす。並んでみてよく分かったけれど、少し背が高くて、話す声は少し低くて。そして、あの真っ直ぐな眼差し。
今までのように想像ではなく、実体化してしまった松岡さんに、改めて気持ちが高まり、揺らいでしまう。
――どうしたら、忘れられるのかな――
ぼんやりと考えながら家に戻り、身支度をして大学へ向かったものの、電車の中で気分が悪くなってしまい、降りたことのない駅のホームに降り立った。
――寝不足が祟ったかな――
飲み物を買ってホームのベンチに座り。何をする気も起きず、またぼんやりと目に入らない景色をやり過ごして。
何も考えないまま、ふらりと駅を出てみる。うちから余り離れていないけれど、初めてくる街。同じように海のそばの小さなその街は、見た感じ大差のない風景なのに、まるで自分が異邦人のように感じる。
無意識のうちに海の方角へ、当てなく歩く私の目に止まったひとつの看板。来た道を少し戻って、スーパーでおにぎりと飲み物を買って。その看板の目的地を目指した。
ほとんどがアスファルトの道で、距離も短いけれど、結構な勾配で。寝不足もあってかなり息を切らしながらやっとの事で目的地に降り立つ。
「こんな所に……」
小高い丘の上の公園からは、街も海もよく見えた。木立の下のベンチに腰掛け、喉を潤しながら海を眺め、気付いた。
――ここからも、桟橋が見えるんだ――
小さく見える艦の姿を認めると、もう我慢が利かなくなってしまった。
誰も居ないこの公園なら。
この日、溢れる涙を隠す必要が無いこの場時は、私の救いとなってくれた。
* ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ *
沢山泣いて、おにぎりも食べて。目の腫れもかなり引いた頃、ようやく家に帰った。
そして、その翌朝。いつもの時間に何時もの場所で、その姿を待った。朝靄が立ち込める海辺。その中には少し小さく、艦の姿が浮かび上がる。彼が何より大切に思っているであろうその艦を、心行くまで目に焼き付ける。
――あと一回。それで最後――
だけれど、彼は居なかった。
――明日、また来よう――
諦めて堤防から腰を上げ、振り返ると。少しだけ離れた道を、基地とは逆方に歩く彼の背中が目に止まった。
少しずつ小さくなるその背中が、彼の気持ちを物語っている。そう思えた。
まさかこんな形で、最後を迎えるなんて。
不思議なことに心は何も感じず、涙も流れなかった。
――さようなら、松岡さん――
もう一度、海と艦を眺め、見えなくなった背中に思いを馳せ、私はその場を後にした。
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最後までお読みくださり有難うございましたm(__)m
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