〜差し出した 手に添えられし 温もりと 愛しき笑みに 心灯(とも)りし〜
通じ合えた二人の想い。
しかし、それは新たな試練の始まり?
「結局、詩織ちゃん来ないの?」
漸く街が起き始めるような、朝も早いこの時間。むさ苦しい男が二人、コーヒー缶を片手に仲良く始発を待つ。
「振り切った」
「まあ、やっと想いが通じて二日目で、いきなりこれは可哀想だしねぇ」
村田も頷く。
昨夜の別れ際、見送りたいと言い出した彼女のその希望だけは、
『朝が本当に早いし、会うと行きたくなくなるし、ひとりで帰すのも心配だから』
と、かなり情けなくも尤もな理由を付け、諦めさせた。
置いて行く方より、置いて行かれる方が遥かに辛い。これはよく耳にする話だが、的を得ていると俺は思う。
この先、ずっと自衛官と付き合っていくのならば、嫌という程そういう場面に出くわすというのは必然だ。だからこそ村田の言葉通り、思いが通じたばかりの今だけでも、そんな思いを味あわせたくはない。
――あの笑顔を護るのも俺の務め、か――
嘗て、重度の奥手患者としてその名を馳せたあの高橋が、
『遥の笑顔は、力の及ぶ限り自分の手で護る』
と、いくら気の置けない仲間内での酒の席とはいえ、臆面もなく言い放った時も、そんなもんか、とか、高橋も変わったよな、としか思わなかったが。
貸切状態のローカル電車に乗り込み、何となく鞄から例のネクタイピンを取り出し、手に取り眺めていると、ポケットの中で携帯が震えた。
『雅さん、行ってらっしゃい。身体に気を付けて、お仕事頑張って下さい』
彼女からのメールに添えられていた写真は、満開の枝垂れ桜だった。それは、彼女の携帯の待ち受けになっていたもので。昨夜のあの海岸で海を眺めながら、いつか二人で訪れようと約束をした、少し名の知れた桜だった。
――いつの日か、雅さんが撮った、この桜の写真が見てみたいです――
二人の未来へと繋がる、そのささやかな望みは何があっても叶えよう。そう思い必ず行こうと約束した。
『有難う、行って来ます。詩織さんも、くれぐれも身体には気を付けて。時間が取れ次第、また連絡します』
返事を書き終え、送信ボタンを押すと脇から声がした。
「なんや、えらい事務的やな。そこは愛してるとか書かんと。ただでさえ距離が出るんやから、言葉選びは重要やで」
――このヤロウ――
「お前、なに覗いてんだよ!」
「まぁまぁ落ち着きって。折角人間らしくなった恋する雅くんに、遠距離でやったらあかん十ヶ条、この村田がちゃ〜んと伝授してやるしな」
「は?そんなのあるのか?てか、恋するとか余計だ」
なんだかんだ言いながらも、経験に基づくその貴重な十ヶ条とやらは是非にでも聞かねば、と前のめりになる自分に、
――いい年して高校生みたいだな――
とひとり突っ込む。
きっと側から見ればバカみたいなんだろうが、バカでも何でも構わない。会ったばかりだというのに、不思議と気持ちがストンと収まる彼女との運命を、俺としては何ひとつとして蔑ろにはしたくない。
「時間は売るほどタ~ンとあるぞ!諸君!メモの用意は宜しいか〜?」
「まさかそれ、水上艦長の真似とか言わないよな?似てね〜」
「そっか~?結構評判良かったんやけどなぁ」
「それお前、若い奴らだけだろ?気を遣える、マトモで優しい奴らで良かったじゃないか」
「え〜、そうなんか?なんやメッチャへこむわ」
「……今頃、どの辺りかな」
昨日まで我が家だった、艦とその乗員に想いを馳せる。
「そういや、昨日、専任からメール来たんやった」
「え、何お前、仙人とメル友なの?スゲーな」
「まあな、色々あるんよと言いたいけどな、趣味がよう合うもんで。って、今それはどうでもええねん。この間の見学の騒動の時な、雅、お前叫んだやろ?」
「は?俺?叫んだっていつ、何を」
記憶に擦りもしないが、この流れでは当然、嫌な予感しかしない……
「詩織ちゃんがタラップでコケた時な、詩織!って叫びよったで。……まさかお前、覚えとらんの?」
「マジか」
全くもって記憶にございませんが。何だか体温が上昇した気がしなくもない。
「マジか、はこっちの台詞や。鬼みたいな顔してすっ飛んできた思うたら、あっという間に詩織ちゃん確保してるやん。誇りある制帽まで吹っ飛ばしおって」
「し、仕方ないだろ、落っこちそうだったんだぞ?」
そうだ。万が一、あの時彼女が海にでも落ちていたとしたら、今後の広報活動にも影響が出た筈だ。ここはよく頑張ったと、褒めて貰ってもバチは当たらなそうだが。
「で、お前は詩織ちゃん抱えてさっさと消えるし?あの後、あそこに取り残された俺ら、結構大変だったんやで」
予想がつくだけに、ただ耳が痛い……
「ウチのグループの女子学生がキャーキャー黄色い悲鳴上げるわ、男は男でやっぱ目がハートやらわで。とにかく騒がしくて参ったわ」
「それは……何とも済まなかった」
「まあ、詩織ちゃんも落っこちず、入隊希望者は倍増したらしいし。隊としては結果オーライやろ」
必死で周りが見えてなかったとは言え、穴があったら入りたい。事の次第を報告した際の、何故か笑うのを堪えたような、上官たちの様子が思い起こされる。
『お前もなかなかやるもんだな』
艦長のあの言葉が、額面通りなのか甚だ疑問が生じ、冷や汗が流れる。
「挙句、食堂でも二人の世界に浸ってたやろ?まあご両親も竹下もえらい驚いた顔してたし、宮野三曹は妙に悟ったように笑ってたしな。まぁ、他の奴らは怖いモノでも見たかのように固まってたけど。いや、結構なもの見せて貰うたな」
決して浸ってたつもりも無かったんだが、これはかなり恥ずかしい。今後は気をつけようと肝に銘じる。
「で、専任の話だけどな。雅のお陰で女子学生と乗員の合コン話まで持ち上がったぞ、って喜んどったで〜。お前、実はキューピッドやったんやなぁ」
「……良い加減ウルセーよ」
「ほらほら、そない顔しとったら詩織ちゃん、怖がるやろ。今どき珍しいほど純粋で可憐な女子大生やし」
「彼女には、俺にこんな顔をさせる要素はひとっつも無いから。余計なお世話だ」
「うひゃー、お前、ホンマにあの無骨で無愛想な松岡なんか?」
腹を抱えて笑う村田に、もう好きにしてくれと不貞寝を決め込む。
目を閉じれば、彼女の顔が浮かび……自分の世界に浸ったまま、うっかりウトウトしてしまったらしい。
「……いくらゴッツイ箍が外れたばかりかて、こりゃ重症やな。しっかし、この顏はめっけもんやなぁ」
この時、村田が撮った俺の多少ニヤケた寝顔の写真が、“状況報告”と言う名のふざけたメールと共に、高橋や横手ばかりか、ご丁寧に専任の元へと配信され。艦内にまた新たなネタを提供したという事を、俺はかなり後になって知らされる羽目となる。
* ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ *
時は流れて。
離れていた間に、晴れて社会人になった彼女の方が色々と融通が付くようになり。遥々と会いに来てくれることもあったが、それもやはり数えるほどだった。
時折、長期間に渡り連絡も覚束ないような環境に陥ると、彼女の存在自体が夢か幻かという錯覚すら起きたが、そんな時は二人で撮った写真とあのネクタイピンを眺め、心を慰め、気を引き締めていた。
そんな中、彼女の希望もあって手紙でやり取りを始めたが、やはりそんなに頻繁に出せる訳もなく。しかし、この手紙というのは、メールとはまた違い、綴られた言葉に重みを感じ。いつしか、そのうちの一通を、こっそりと肌身離さず持ち歩くようになっていた。
まあそれも、直ぐに村田にバレてえらい目にあったのだが。
そして、無事に中級過程を終えた俺たちは、今日、揃って懐かしいこの街へ戻って来た。
村田は船務、俺は航海という具合に、付与された特技が被らなかった事も幸いしたのだろうか。
陸海空引っくるめての再編成やら、艦や乗員の配置替え、新旧交代の都合もあり。村田と俺は、陸上勤務以外では、三配置時代から殆ど離れることがなかったあの“懐かしい我が家”への再配置が決まっている。
先に過程を終えていた高橋は砲術の特技を、横手は機関の特技を引っ提げて、母港を同じくする新型のイージス艦へ既に配置されている。
「いやー、これやこれ!この景色やなぁ。懐かしい故郷や!」
駅から伸びる懐かしいその道を、基地へ向かい歩き始める。
「お前、それ聞いたらお袋さん泣くぞ……」
「大丈夫やて。俺次男やろ?それに海自の艦艇乗りになった時から諦めとるみたいやし。問題なしや」
「いや、そうは言っても親御さんとしては寂しいんじゃないか?」
「今じゃ孫に囲まれてそれどこじゃないみたいだしな?……って、あれ?」
村田の反応に前を見れば。
ずっと心に思い描いていた彼女が、道の真ん中で、驚いたように目を見開き立ち竦んでいた。その手には、ちっこい犬が繋がれたリードが握られている。
メールに添えられる写真の中に時々入ってきた、ミニチュアダックスフンドの桜だろう。
今日ここへ帰る事になったとは、決まってからすぐに伝えていたものの、当然だが先ずは基地へ赴かなければならず、会うのはゆっくり出来る夜にしようと話が纏まっていた。
その為、特に到着時間は教えていなかったのだが。
少し見ぬ間に、また女性らしさが増したように見えるが、久々に会ったせいなのだろうか。
――運命やなぁ――
茶化していないと分かる、村田の言葉が風に流れ、ポンと肩を叩かれる。
「先コンビニ行っとくわ」
「悪い、直ぐ行く」
村田が敬礼をしながら、久し振り、元気だった?とかなんとか挨拶を交わすが、すれ違いざまに何か囁くと、彼女は真っ赤になり、立ち尽くしたまま顔を伏せてしまった。
――くそっ、あいつ、何した――
ふつふつと湧く殺意をひた隠し、彼女へと近づく。
「詩織、ただいま」
「お、お帰りなさい……」
「詩織、顔見せて?」
「あの、今はちょっと」
「あいつに何言われたの?酷いこと?」
そんな訳ない事は分かっているが、その顔が見たい俺は、糸を垂らす。
「そ、そんなことないです!あの、村田さんはただ、」
きちんと釣られ、顔を上げてくれるその初心なところはいつまでも変わらず。その変わらない本質が、改めて愛おしいと思うが。
取り敢えず今は、貴重なその隙を突く。
重なった唇が離れると、染まり上がった彼女はするするすると、その場にへたり込んでしまった。しまった、やり過ぎた、慌てて彼女の前に膝を付く。
「悪い、我慢出来なかった」
「だ、大丈夫です、久し振りだったので、こ、心の準備が、できてなかっただけ、」
相変わらず身体中から湯気が出そうな彼女に、帰って来たんだなと実感が湧き、その存在を腕の中に包み込む。二人の横で、混ぜてくれと言わんばかりに桜がぴょんぴょん跳ねている。
――桜、悪いが却下だ――
「で、村田に何言われたの?」
「!……ひ、秘密です、」
「え、秘密なの?やっと会えて嬉しかったのに、なんだかショックだなぁ」
ふざけた口調でも、ショックだと言われるのが居た堪れないのか、観念したように白状する。
「雅さんが、……ずっと手紙と写真を持ち歩いてたって」
――あいつ、また余計なことを――
「あと、詩織ちゃんも同じだったでしょって。雅さんにも言ってなかったのに、何で知られているんでしょう?」
ホント、何でだか知らないが。あいつはいちいち聡いからな。
「知らなかったな。詩織も持っててくれたんだ」
「何だか、手紙に書かれた文字って、読むたびに心の隅々まで染み渡ると言うか。メールとはまた違って、雅さんがすごく近くに感じられる気がして」
「それ、俺も思ってた」
思わず二人して笑うと、業を煮やしたらしい桜が二人の手を舐めだし、また笑う。
「夜は予定通りで大丈夫?」
手を貸しながら一緒に立ち上がり、並んでコンビニへと歩き出す。 その足元では、桜がくるくる回りながら器用に歩く。
「はい、イタリアンでしたよね?すごく楽しみにしてます」
「18時に迎えに行くから」
「はい、お願いします」
じゃあ後で、とコンビニの前で彼女と桜を見送り、店内へ入ると、村田は店内のカウンターでのんびりコーヒー片手に寛いた。俺もコーヒーを買い、隣へ座る。
「なんや、やけに早いな。時間、まだ大丈夫やったのに」
「いや、こっちも準備あるし」
「高橋お勧めの店なんやろ?準備って、手配は全て済ませてたんちゃうの?」
「いや、心の準備がだな」
今更こいつに隠すことなど何もない。
「あー、それ、なんやよう分かる。遠距離の後はえらい気、張るしなぁ。まあでも。今の雅なら、何も心配は要らんと思うで」
心配要らないとの有難い評価を貰っても、そう簡単には落ち着くものじゃない。が……こればっかりは、流石の村田でもどうこう出来るもんじゃない、というのも確かだ。
少し浮き足立ちながらも無事着隊し、村田と俺は、懐かしい家族からの歓迎を受ける。
肝心の艦はドッグ入りをしていたが、あと一週間ほどで整備自体は終わる見込みと聞かされた。意外に余裕があり驚くが、予定が詰まっていた俺としては非常に助かる。
ちなみに明日の晩は、程なく帰港する予定の高橋と横手を含め、久々に集まって飲み明かす話になっていた。
* ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ *
約束の時間の数分前。初めて共に生きたい、そう思ったあの日の夜のように、再び竹下家の前に立つ。
試験より緊張してるんじゃないかと思うほどの自分を心臓を宥め、インターホンを鳴らと、
「は〜い」
スピーカー越しに、懐かしくも朗らかな、母親の声に迎えられた。
「こんばんは。松岡です。大変ご無沙汰しています」
「まあ、やっぱり松岡さん、ちょっと待ってくださいね」
――詩織〜?見えたわよ〜――
――すぐ済むから――
そんなやり取りが漏れ聞こえると同時、ドアが開かれた。
「松岡さん。ご無事お帰りになられて良かったです。本当にお疲れ様でした」
「有難うございます。これ、彼方の特産品です。少しですが、皆さんで召しあがってください」
「あら、わざわざ有難うございます。早速頂きますね。お父さ〜ん、松岡さん見えましたよ。詩織〜、何してるの?」
「おー、松岡さん!お帰りなさい。お待ちしてました」
奥の書斎で仕事でもしてたのか、眼鏡を外しながら父親が出て来た。
「すっかりご無沙汰をしてしまって。お陰様で本日、無事に戻りました」
「いや、お元気そうで。またゆっくりお話でも聞かせてくださいよ。なんだ、詩織はまだ支度してるのか?」
「久し振りですからねぇ」
まるで自分のことの様に嬉しそうな母親が奥を伺うと、ちょうど彼女がやって来た。その背後から、クーン、クーンと甘え鳴く声が聞こえる。
「ごめんなさい、桜がまたお散歩行くのかと思ってるみたいで、なかなか離れてくれなくて」
そんなに慌てて、転んだりしたらどうする。急いで靴を履こうとする彼女手から一旦バッグを預かる。
「大丈夫、まだ時間はあるから」
靴を履き終えた彼女にバッグを返し。よし、準備は万端整った。
「それでは、詩織さんをお預かりします」
「はい、よろしくお願いします」
「行ってらっしゃい」
二人に見送られ、漸く家を後にした。
* ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ *
電車で移動し、少し歩いて目指す店へと到着した。アドバイス通りに予約をしたその部屋は半個室の様な造りで、通路からは視界が遮られる。その癖、目の前の大こな窓一面に、目の前の港が映り、その海の上で、大小の灯りが揺らめくのがよく見える。
――しかし、近くにこんな店があったとはな――
口コミどころか、ネット検索ではヒットすらしないという、知る人ぞ知る店らしい。あの高橋が一体どうして知り得たのか、と不思議に思うが。その謎解きは、今は後回しだ。
「綺麗……。雅さん、素敵なお店知ってるんですね」
「実は、同期の高橋の勧めなんだ。ヤツの隠れ家だったらしいんだけど、特別にって教えてくれた」
「そうなんですか?村田さんもですけど。その高橋さんもお優しい方なんですね」
本当にその通りだな、と心底思い、改めて気心の知れた友に感謝をする。
景色や店の雰囲気だけでなく、聞いていた通り、酒も料理も絶品で。押し付けのない、店主の拘りを隅々まで堪能した。
料理を食べ終える、そんな頃合いを見計らい、控えていた給仕が合図を送ってきた。
――そろそろ良いか――
彼女がナプキンで口の端を拭うのを待ち、OKのサインを出す。
「ごめん、ちょっとトイレに行ってくる」
「あ。はい」
疑う様子もなく、窓の外の風景を楽しむ様子を確認し、待っている給仕の元へと向かう。
* ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ *
「すみません、有難う御座いました」
「いいえ。このくらいの事、なんでもありません。ご成功をお祈りしています」
静かに微笑む店員から渡された花束を手に、緊張しながら席へと戻るが。彼女はまるで気付かず、まだ窓の外を眺めている。
ふとイタズラ心が芽生え、椅子の後ろへ回り込むと、その鼻先に花束を差し出す。
「きゃっ!え、何?」
驚いて椅子から転がり落ちそうな彼女を、空いている手で慌て背中から抱え込む。
「ごめん、まさかそこまで驚くとは」
「もう、酷いじゃないですか」
「本当にごめん、詩織に会えて、つい嬉しくて。機嫌直して?」
肩越しに覗き込むと、有難うございます、と差し出した花束を受け取り、笑顔を見せる。
俺は、その笑顔を、もっと……いや、一生見ていたい。
「別に怒ってませんけど、でも、雅さん、このお花は?」
「見ての通り、詩織の好きな白いチューリップとかすみ草?後は店員のチョイスで入った赤いバラ。他は季節的に手に入らないのと、花束向きじゃないのと、木の類も今日はやめとけって止められた」
「え、雅さん、あの、そういう意味ではなくて、」
アタフタする彼女も、本当に見飽きないな。
腕を解き、自分の椅子を引き寄せて隣へ座る。
「詩織、結婚しよう。いや、俺で良ければ結婚してください」
ポケットから小さなケースを出し、呆然としている彼女の手のその上にポトンと乗せる。
フリーズしたままの彼女に、一抹の不安が生まれる。
「詩織?」
「けっ、結婚、ですか? !」
良かった、息はしているようだが。今はまだ、彼女のタイミングでは無かったのだろうか。
社会人になった彼女が、仕事にもやり甲斐を感じ始めていたというのは言葉の端々に感じていた。
それならば、今度は自分が待てば良い。ただそれだけだ。だが、時間が経ったも変わらなかった……いや、より深まったこの気持ちは、この機会にきちんとした形にして置きたい。
「どうしよう。……今日、雅さんに会えただけでも幸せだったのに、私、」
ひとり勝手に予定を組み替え始めていた俺は、どうやら彼女の気持ちを置き去りにしていたようだと気が付く。やっと理解が追い付いたらしい彼女は目を潤ませ、花束に顔を埋めてしまった。
「詩織?」
声にならないのか、顔を埋めたまま、首を縦に振っているように見えるが。
「ええと、それはつまり、結婚には異論なしという意味?」
また縦に振られる。
「詩織、顔を見せて」
その願いは即刻却下されたらしく、今度は頭が少しだけ勢いよく、横に振られる。
まあ、プロポーズが受け容れられたのは間違いないようで、やはりホッとする。
「詩織、指輪、指に嵌ても良い?」
「はい、」
消え入りそうな返事を確認し、彼女の手からそっと小箱を引き取る。中から指輪を取り出し、彼女の左薬指にゆっくりと嵌めると、漸く顔を上げてくれた。
頬を伝う綺麗な涙を指で拭い、そのまま肩を抱き締める。
「……やび、さん、うれ、しいです。あ、ありがと、う、」
一生懸命伝えてくれる、その背中をポンポンと摩る。
「も、……こ、子どもじゃ、ないです、」
「ハハッ、詩織が子どもなら結婚出来ないし、それは俺が困る」
暫くして泣き止んだ彼女は、それでもまだ夢心地のようで。俺に靠れたまま、指輪をぼんやり眺めている。
婚約指輪も、あの店でと決めていた。彼女のイメージに合うように、桜のモチーフを纏った、ダイヤモンドのリングを頼んでいた。
とはいっても、デザインは、その知識を持つ霞ちゃんが引き受けてくれたのだが。
「勝手に決めるのもどうかと思ったんだけど。もし気に食わなかったら詩織の好きなのを買おう」
「そんな。この指輪、本当に素敵ですよ?私、これじゃないと嫌ですから」
「それなら良かった」
暫くして、何とか落ち着きを取り戻した彼女と、タイミングを見て運ばれたデザートを食べ終え。暖かな祝福を受けながら、居心地の良い店を後にする。
* ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ *
帰りの車内は、土曜日という事もあってか、幾分混み合っていた。
花束を抱える彼女をドアの手摺りへと導き、彼女を腕の中に包み込むように手摺りに掴まる。結婚式や新居の事など話してると、あっという間に最寄駅に着き、駅前のスーパーで買い物を済ませる。
たいして遠くもないお馴染みの道のりを、何時ものように手を繋ぎ、ゆっくり歩く。
「え、じゃあそのマンション、空きが出たんですか?」
「どうも、今日の事を相談した時から、高橋が管理人に声掛けてくれてたらしくて。詩織の都合が良ければ、明日にでも見学させてくれるらしいよ」
「その高橋さんと、あと村田さんもいらっしゃるんですよね?」
「そう。村田が一番手で、高橋がその次。ウチが入れば三番手になるけど、近々横手も仲間に加わるかも知れない」
「え、横手さんもですか?すごい、勢ぞろいですよね?ふふ。何だか楽しそう」
「横手も嫁さんも実家が結構近くなんだけど、その嫁さんの希望もあって、次に空きが出たら買おうかとなったらしい」
「そうですか。皆さんが一緒だと、私も心強いですし。明日、見学させて貰いたいです」
「良かった。けれど、続きはご両親にきちんと話をしてから」
「譲れないんでしたね、」
「そう、これは譲れません」
月に明るく照らされながら楽しく歩き続け、竹下家へと帰り着く。
今日は遠慮なくお邪魔をすると、中では光流ちゃんがすっかり寛いでいた。
先ずは酒を注ごうとする父親を、察したらしい光流ちゃんが差し止め、俺は俺で母親に座って貰う。
姿勢を正し、改めて自分の仕事の事……何れ他の地への配置換えが考えられる事、連絡も出来ずに仕事に出る事もある、など。
既に彼女には何度も説明済みの、伝えられる限りの内容を漏らさず伝える。
時折り入る光流ちゃんの援護?も含め、黙ってしっかりと聞いてくれた両親から
――詩織が望む道ならば――
と、無事に結婚の了承を得る事が出来た。
感極まったらしく、
――詩織、本当に良かったね――
――松岡さんと、幸せになるのよ?――
涙を滲ませる両親と、それに対して
――有難う――
とやはり泣く彼女のその横で。何故か光流ちゃんまでが男泣きをしていた。
――本当にこいつってヤツは――
そんな光流ちゃんとも、また暫くは共に働けるという事も、心から幸せだと思う。
* ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ *
外泊で出ていたものの、今日は官舎へ帰るつもりでいたのだが。もう遅いし、泊まっていけば良いという両親からの誘いと、酒も進んだという事もあり、今夜は素直に世話になる事にした。
「雅さん、お風呂入れそうですか?」
先に父親が潰れ、そのまま畳の上に転がり、光流ちゃんもそろそろ目が閉じそうだ。
楽しい時間だったが、俺もそろそろ横になりたい。
「シャワーだけ、浴びさせ貰えるかな」
「分かりました。あの、雅さん、立てますか?」
「え、立てるけど、どうして?」
「光流ちゃんより強い人、初めて見ました」
自衛官、酒が飲めてなんぼの世界と言っても過言では無い。入隊時には下戸だったヤツがザルに進化するまで、多くの者はそう時間を要さない。
勿論、体質的に無理な者も少なからず居るが。
「大丈夫、この程度なら歩けるし、風呂も入れる」
「お風呂、こっちです」
案内された浴室は、薄いブルーと白のツートンカラーで纏められていた。
「父のですけど、買い置きの新しいものなので、今夜はこれを使ってください。何かあったら呼んでくださいね?」
「有難う」
――何かなくても呼びたいです――
着替えを受け取りながら、うっかり声に出しそうになる。
――ヤバい、まさか酔ったか?――
心地良いシャワーを浴びながら、酒量の見積もりを多少変更する。
居間へ戻ると、入れ違いで光流ちゃんも風呂へ消えた。
「松岡さん、お布団敷きましたから、どうぞ」
「あ、すみません、有難うございます」
「御免なさいね、先に休ませて頂きますけど、のんびりなさって下さいね」
母親はそう言うと、後のことは任せるわね、と彼女に言い残して寝室へ引き上げて行った。
居間と、襖で仕切られていた和室に一組ずつ布団が敷かれている。一組は光流ちゃんの分だろう。
「あれ、お父さんは?」
気が付けば、さっきまで転がっていた主人の姿が見当たらない。
「どうしても起きないから、さっき光流ちゃんに運んでもらいました」
そっか、じゃあ遠慮なく休ませて貰うとするかな。
「詩織、俺はどっちで寝れば」
「奥の部屋を使ってくださいね。あ、朝ごはんは6時頃で良いですか?」
「いや、せっかくの休みにそんなに早く起きなくても。俺は7時でも」
「ふふ。光流ちゃんの影響で早く起きるようになっちゃってるので。だから大丈夫です」
――じゃあ、ご飯が出来たら声を掛けますね――
お休みの挨拶して部屋を出て行く彼女を見送り、その日は大人しく床に入った。
* ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ *
翌朝、何時もの時間に起きていた俺は、布団を畳み、6時半頃に声が掛かるまで静かに出来る柔軟体操をしていた。
襖を開けると、既に食卓が整っていた。
皆で朝ごはんを頂きながら、今日の新居の見学の予定や長期留守にする前に、出来る限り早い挙式を希望している事を告げる。
「まあ、村田さんて、もしかして見学の時にお会いした、あの関西の方?あの方もいらっしゃるなら、更に安心ね」
あの日、学生グループの引率をしていた村田と、いつ何処で接点があったのだろうか、と少し不思議に思う。
「他にもね、雅さんのお友達の高橋さんご夫妻もいらっしゃるし、もしかしたら横手さんという方も」
ブフッ
彼女が楽しそうに報告する中、突如、光流ちゃんが味噌汁を吹き、咳き込んだ。
「おい、光流どうした?」
「まあ、光流ちゃん!大丈夫?喉に詰まったの?」
慌てて世話をする両親と彼女には届かないほどの小さな、
「四天王、勢揃いか」
という光流ちゃんのその呟きは、どうやら隣でテーブルを拭いていた心優しい俺の耳にだけ聞こえたらしい。
その、聞くに新しい謎の呼称の説明は、まあ追々(おいおい)、じっくり時間を掛けて聞かせて貰うこととして。午前中のうちにマンションの見学に出掛ける。
広過ぎないが、子どもが一人二人生まれても問題がない部屋割りに、中古とはいえ綺麗な内装、耐震構造もしっかりしていてと、村田と高橋が言う通り、かなりの好物件ではある。
とは言え、長く住むのは彼女になるのだ。彼女の通勤のことも考え、他の物件も見た方が良いのでは?と提案をするが、彼女は俺が良いならば、自分としてはここに決めたいと言う。
そうなると、やはり時間が惜しくなり、当然、さっさと契約を、という運びになる。村田の助言により、必要な書類を既に揃えていた事が功を奏し、一連の手続きはあっけない程早く済んでしまった。
さて、次クリアすべき課題は、
「結婚式、詩織は何か拘りとか希望はある?」
「ん〜、あると言えば、ありますけど、多分無理だと思いますよ?」
駅前の不動産屋を後にして、近くの喫茶店に入り、頼んだランチが来るまでの間、買ったばかりの結婚関係専門の情報誌を広げる。
正直、チンプンカンプンだ。しかし、いざとなれば、俺には最強のアドバイザーたちが居る。
ともあれ、大事なのは彼女の喜ぶ形なので、地理や時間の制限内であれば、俺としては全部叶えてやりたいのだが。
話す前から無理だというのは、海外挙式とかなのだろうか。確かにそれだと少し難しい。
「試しに話してみて」
「……あの、絶対、笑わないで下さいね?私、ずっとあの桟橋の見える、海のそばで結婚式挙げたいなって。でも、そんなところに結婚式場も神社も無いですし。でも、これ小さい頃の夢ですから」
「そうなんだ。詩織、本当にあそこが好きなんだな。じゃあ、他には?例えばこんな風に教会でとか、十二単着たいとかは無い?」
「十二単は多分重くて歩けませんし、特に憧れは無いです。どちらかというと、派手なのは苦手なので、細やかなというか、静かな感じで、シンプルな感じだと嬉しいです」
細やかか。色白な彼女は、和装も洋装も似合うだろうが、やはり彼女の望む形で整えたい。
式は出来る限り急ぎたいが、選択肢はやはり幾つか揃えたい。そんなことを話していると、やっとランチが運ばれて来た。
美味しそうにピザを食べながら、時々、巻き毛を耳に掛ける、そんな仕草についうっかり見惚れた。
「雅さん?どうかしました?」
「いや、美味しそうに食べるなって」
何とかうまく誤魔化せ
「すごく美味しいですよ。あ、じゃあ、はい」
ていなかった。
今、俺の口の前には、きっと食べ易いように配慮なのだろう、先端を細めるように彼女の手に持たれた、一枚のピザが差し出されている。
これは、まさかと思うが、やはりアレなのか。
「雅さん?どうぞ?」
何の拷問だ。なんの罰なのか。
いや。彼女が望むというなら、やってやろうじゃないか。混み合う店内だ。どうせ誰も他人の事など気になどしてない。
「イタダキマス」
お?
「本当だ、美味い」
「ね?オマールエビの旨味が損なわれてなくて。私、少しはまりそうです」
「また近いうちに来ようか」
「はい、でも、雅さんと一緒なら私はどこでも良いですよ?」
それは殺文句だろう、と思うが。
ニコニコとピザを食べ続ける彼女は、そんな事夢にも思ってもいないのだろう。他のやつにこんな事言ってなければ良いけどな、と少し心配になる。
――先に、籍だけでも入れてしまうか――
何処からか、悪魔のささやきが聞こえるが、それは駄目だと振り払う。きちんとしなければ、彼女にも、ご両親にも、そして背中を押してくれた多くの人間にも失礼である。
――となれば、俺が頑張るしかないな――
当然、こんな極めて個人的で図々しい希望が通るどころか、怒鳴られると考えるのが普通だが。自分としては、何もしないうちから、安易に諦めたくはない。
とりあえずは、今夜奴らにも意見を聞いてみよう。
* ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ *
最後までお読みくださり、有難うございましたm(__)m
またお会い出来たら幸いです(*^^*)