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 〜厚き雲 貫き射し込む ひと筋の 煌(きら)めく梯子 手繰(たぐ)り昇らん〜

雅は、自分自身の変化に戸惑いますが……。



  医務室へ入り、脇にあるベッドへ彼女をそっと下ろすと、俺は傍の椅子を引き寄せて彼女正面に陣取る。



「詩織さん、少し話をしたいのですが。その前に、足の具合は?」



  目を伏せたままの彼女に焦るが、先急いで取り返しのつかない過ちを犯すのだけは避けたい。


 

「足は大丈夫です、何ともありませんし……あの、私は、何もお話しすることありませんので。ご迷惑をおかけしておいて……勝手言ってすみませんけど、もう帰らせて頂けませんか」


「申し訳ないのですが、それは出来ません」



  無情な通告の如き言葉に、息を飲み驚いたように顔を上げた。こらえるような眼差しにひるみかける。


  頼むから、そんな顔をしないでくれ。



「私の撮った写真を見て、詩織さんが泣かれたと聞きました。数あるデータの中から、今回どれを採用したのか聞いていませんが、何かお気に触るような事が有ったのでしょうか。何か有ったのならば、それを撮った私から、先ずはお詫びをさせて頂きたい」


「理由を言えば、……帰してくれるのですか?」



  望みは叶えてあげたいが、先が見えない以上、安請け合いは出来ない。



「善処はします」



  少しの間をおいて、彼女が口を開いた。まるで何処か遠くを見ているかのように、その視線は彷徨さまよっている。



「……どうして、あんな写真飾ったんですか」



  消え入りそうなほど小さな声で呟くと、また目を伏せてしまった。その手は、ぎゅっと握り締められている。



「あんな写真、とは?」



  その声色こわいろに、言い知れぬ胸騒ぎがする。



「ひと月ほど前、この桟橋が少し遠くに見える岩場で、松岡さんが撮った写真です。……私、松岡さんが時々あそこに来る事、前から知ってました」


「前から?前からとはいつの事でしょうか?」



  予想外の展開に、思考が止まる。少し前って何時いつだ。記憶を辿たどるが、あの夜よりも前に、彼女と会ったという覚えがない。



「いつからだったのか、正確には忘れましたけど。最初は、紅葉に付き合って朝早く散歩へ行った時、偶然あの辺りから見えた朝焼けがすごく神秘的で。それからあそこから朝焼けの空と、それを映す海を見るのが好きになりました。そのうち、少し離れた場所に、時々カメラを持った男の人がいることに気が付いて」



  朝靄……桟橋が見える岩場。まさかとは思うが、あの写真が使われたのか。いや、しかし、あのデータの入ったカードは、副官に預ける時に退けておいた筈だし、何よりも、今回の趣旨からも大きく外れている。


  だがその反面……符合する画像を、他に撮ったという記憶もない。


  ……だとすれば、何てことだ。間違いなく俺のミスだ。



「その人の、真剣に写真を撮る姿がとても印象的で見飽きなくて。いつの間にか、松岡さんが姿を見せる日を待つようになってました」



  カメラをいじる時にはどうしても集中してしまう。とは言え、犬の散歩をする人などが道を行き交えば当然気が付く。が、やはり、彼女のことは……



「実に申し訳ないというか、情けない話ですが。全く気がつきませんでした」


「それは多分、いついらしてもお邪魔にならないようにって。入港した翌日からはもう少し離れたところで海を眺めるようになってたからかも知れません」


「え、」



  まさか、その頃から俺の乗っている艦を知っていたとでも言う事か。


  生まれたその謎は、続けられる彼女の話により直ぐに解けた。



「初めてお見掛けしてから、多分一年くらいして気が付いたんです。この艦が帰って来ると、大抵一、二回はあの場所にいらっしゃるって。でも、艦が居ないときには絶対にお会いしない。だから、思いきって光流ちゃんに聞いてみたら、確かに帰港するたびにカメラを持ってこの辺りを歩く乗員に心当たりはあるって。もちろん、この間の夜まで、お名前も階級も、どんな方かも、何にも教えてくれませんでしたけど」



  正確に言えば、その間に陸上配置などもあったのだが、それは今、彼女が知る必要のない話だ。


  それよりも……当たり前だが、当時から光流ちゃんはこの事を知ってたという事になる。俺としてはただ驚くばかりだが、彼女と出逢ったあの夜の、彼のあの過剰な反応にようや合点がてんがいった。



「ではあの夜は、最初から?」


「はい。本当にびっくりしましたけど。まさか、直接お話が出来る日が来るなんて思ってなくて。でも、本当に嬉しかったです」



  衝撃が大き過ぎて脳内処理が追い付かないが、それとこれ……あの写真を見て泣いたという理由には繋がらない。



「確認ですが。先ほど詩織さんがご覧になったのは、先日の帰港の際、朝靄の中で私がその岩場で撮った、この艦と詩織さんの写真で間違い無いのでしょうか」



  握る手に更に力が入り、彼女の指先が白くなる。



「はい」



  予想通りの返事とはいえ、目の前が真っ白というか、真っ黒というか。軽く目眩を感じる。



「そうでしたか……あの日、目に入ったその景色が余りに幻想的だった為なのか、自分でも気付かないうちに撮っていました。許可なく撮ったものですし、何度か消そうとはしたのですが、どうしても消すことが出来ませんでした。今回の展示についてですが、自衛官の飾り気のない日常風景という趣旨でしたし、本来はあの写真が採用されること自体が無い筈でした。全てこちらの手落ちとはいえ、詩織さんに不愉快な思いをさせてしまい、大変申し訳ありません。問題のデータは直ぐに消しますし、」


「宮野さんが、」



  焦り、早口となる謝罪の言葉を遮ぎられる。



「……宮野三曹が、何か」


「宮野さんが。あの写真見て、素敵ですよねって。松岡さんは、女性が嫌いだとか、女性を憎んでいるとか、生涯独身主義だとかってもっぱらの噂だけど、実は写真の女性が松岡さんの大切な人じゃないかって。そうじゃなきゃ、こんな素敵な写真は撮れないって……そんな訳無いのに、おかしいですよね」



  宮野三曹のその感想やらと、自笑気味に語る、震える声に息が詰まる。


  しかし、想い人って。そんな写真撮れないって。



――そういうものなのか?――



  問うたその言葉に、どこかで菩薩が微笑んだ気がする。



「もう、全部話しましたから」



  言葉を選べず黙り込む俺には構わず、彼女は自らベッドから降りてドアに向かおうとする。



「詩織さん、ちょっと待って」



  すれ違いざま、咄嗟に彼女の腕を掴んだ。掴んだはいいが、俺は一体どうしたいのか。今一度心に問うが……、


 

「約束したじゃないですか、話したら帰してくれるって」


「善処する、“とは”言いました」



  今、この言葉で封じることが、どれほど卑怯なのかは分かっているが、背に腹は変えられない。もう少し、少しでいいから時間が欲しい。



「光流ちゃんからも、松岡さんの事、たくさんお聞きしましたから。だから、もう私のことは気にしないでください」


「竹下一曹から、一体何を聞いたんですか」


「松岡さんは、一生結婚する気がないから、特定の女性とはお付き合いしないし、……上官からのお見合いも、会わずに全部断るほどだって。自分は尊敬している人だけど、松岡さんを好きになっても……きっと私が傷付くだけだろう、って。それでも、そうだと分かっていても、私は、遠くから姿を見るだけでも嬉しかったから……、私が勝手に、……ごめんなさい」

 


  手を振り解かれないように、少しだけ力を込める。



「……確かに、今まではそうだったかも知れません。いえ、意識して“そう在ろう”としていました」


「もう、良いんです。今日は、松岡さんが住む世界を少しだけ覗いたら、それで……終わりにしようって、思って、来ただけです。二度と、あそこにも行きませんし、……これでもう、ご迷惑をおかけする事もないと思います。お願いですから、……もう、……手を離して」



  紡ぎ出される、涙のにじんだ言葉ひとつひとつが、流れるように心の奥へと届き、きしむ。



――運命か――



  そんな陳腐な言葉がこの自分に当てはまる日が来るとは。村田のしたり顔が目に浮かび、思わず苦笑にがわらう。



――タイミングって、本当にあるのかも知れないな――



  今がそのタイミングだというのならば。まだ間に合うというのならば、迷っている時間など無い。



「ごめん、それは無理」



  言うと同時、強引に腕の中へ引き寄せる。知らぬ間とはいえ、抱え込ませてしまった悲しみを、少しでも取り除けるようにと願いながら。


 

「ま、松岡さんっ、……私、真面目に話してるのに、……からかわないで、」


「からかってなどいません。少しで良いから聞いて。竹下一曹の言ったのは、大筋間違いじゃありません。ただ、先ほど言った通り“今までは”、です」


「……え?」


 

  途端に、腕の中から抵抗が消えた。



「正直なところ、自分の事なのにまるで整理がつかなくて混乱していますし。何をどう言えばいいのか……」


「……あの、……さっきの、大筋間違いではないって、どういう……」


「ただ単に、退官するまで誰とも結婚する気が無かっただけです」


「……女性が嫌いって、いうのは?」


「ないですね。むしろ普通に好きかと」


「……嫌いじゃないなら、……どうして」


「簡単に言えば、軍人だからでしょうか」


「……自衛隊にも、結婚されている方、沢山いらっしゃいます、よね」


「彼らは、彼らの価値観で家庭を持っています。それに対して私がとやかく言うべき立場でもありません。ただ私としては、その相手が出来ること自体が、“互いのリスク”に繋がる、ずっとそう考えていました」


「……軍人、だから」


「はい。“今までは”、確かにそう考えていました」



  軍人だから。



  子どもの頃から憧れていた叔父が、演習中の事故により殉職した事が、そもそもの発端だった。


  それは、ちょうど俺の入隊が決まった直後に起きた事故で、軍人を家族に持つ事のリスクをまざまざと見せつけられた。が、それでも固まっていた入隊の意思は揺らがず。しかし、それを機にひとつの信条を掲げた。


  リスクが大きいこの先の人生において、道連れは作らない。せめて、無事退官するまでは。


  だが今は、まるで心がそれを否定するかのようにしっくり来ない。



「この先も、恐らく基本的な考えは変わらないと思います。が、道は決してそれだけじゃないのだと、……自分はただ目を瞑って逃げていたのかも知れないと。今日、目の前に突きつけられました」


『人生を共に歩んでくれるその存在が、必ずしも弱味になるとは限らない。その存在があってこそ、覚悟がより深まる事もあるとは考えられないか?』


『お前の考えは尊重するが、出会いまで拒む事はするな』


『支えとなる存在が、人の心を強くする事は多々ある』



  折に触れ、そう教えてくれた艦長たちの言葉を思い返す。   



「ずっとこういうことは避けてきたので。今でも何をどうして良いのか分かりません。私の仕事の事も、歳が少し離れている事も、詩織さんのご家族のお気持ちの事も全部含めて。この先も、詩織さんが戸惑ったり不安に思ったりする事がきっとあると思います」



  返事は無いが、もう後戻りは出来ない。いや、しなくて良いんだともう納得した。



「それでも構わないとまだ思って貰えるなら……許して貰えるなら。少しずつ、詩織さんとの関係を深めていけたら良いな、と思います」



  ずっと強張こわばっていた彼女の身体から、クタリと力が抜ける。その身体を抱えたまま、ベッドへ腰掛ける。



「少しずつ、ですか?それって……最初はお友だちから、みたいな感じでしょうか?」


「どうなんでしょうか……何か少し違う気もしますが」


「クスッ」



  やっぱり笑われるよな、と情けなくなるが、いくら誤魔化しても無い経験値が増える訳もなく、格好付けても仕方がない。



「でも、……私なんかで、良いんですか?……私、何の取り柄もない、何処にでもいる大学生ですし、……松岡さんこそ後悔しないですか?……もしも……同情からだなんて事があっても、……私は、嫌です」


「まさか。同情だなんて、断じてそんな事は思っていません。それに、」



  俺の胸に添えられたままだった、彼女の手に力が入る様子が伝わってくる。



「多分、宮野三曹が言った言葉が真実なんだと思います。知り合ったばかりでこんな事を言うのおかしいと思われるかも知れませんが、しかしそう思うと、色々と腑に落ちることばかりで。ですから、恐らく詩織さんでなければ意味が無いのだと思います。というよりも、自分が抵抗なくこう思えたのも、詩織さんだからなのだと。何故だか理屈抜きでそう思えますから」



  耐えかねたように。ヒック、と鳴き声を漏らすその身体を、改めて抱き締める。



「要領が悪くて、沢山傷付けたみたいで。本当にすみません」


 

  腕の中で、横に頭を振る。何だか泣かせてばかりな気がして不甲斐なさにさいなまれ、またかなりのキャパオーバーである自分としては……ふと思い出し、高橋を真似て背中をポン、ポンとさすってみる。



「子どもじゃ、ないです、」



  小さく抗議をされるが、そこは聞こえない振りをしておく。柔らかな髪をそっと撫でると、仄かな優しい香りが広がり鼻をくすぐる。


  なんとも心の落ち着く、不思議な感覚。腕の中の温もりが、その感覚を更に高める。



「……詩織さん。勝手ばかり言って申しわけ無いのですが、その、お友だちからっていうの、やっぱりやめても構わないでしょうか」



  そんな小さな希望を告げ、彼女が泣きながらクスリと笑いを零した頃。執務机の上の内線が鳴った。



――しまった、まだ仕事中だ――



  腕時計を確認しながら片手を伸ばし、座ったままで受話器を取る。この部屋に籠城してから15分程しか過ぎておらず、胸を撫で下ろした。



「お待たせしました、松岡です」


『一尉、そろそろ皆さん下りていらっしいますが、どうされますか?』


「もう少ししたら、竹下詩織さんと直接食堂に向かいます。竹下一曹にもそう伝えて貰えますか?」


『承知しました。では後ほど』



  余計な事は一切聞かない宮野三曹に、心の底から感謝する。



――さて、と――


「きちんと話がしたいのですが、明朝からの移動の為、余り時間が有りません。詩織さん、今日の見学の後に何かご予定は?」


「私は大丈夫です」


「良かった。では、夕方になるかと思いますが、片付いたら連絡します」



  急ぎ、携帯番号を交換をし終えると、なんだか安堵と疲労感に包まれるが、ここでゆっくりはしていられない。



「そろそろ戻らないと」


「あの、少しお化粧直しても良いですか?」


「ああ、すみません、気が付かなくて。そこの洗面台でよかったら使ってください」



  どんなに大人しく見えても流石は女子大生。ささっと手慣れた様子で、よく分からない作業を数分で済ませた。厚化粧でない分、まあ泣いた事が誤魔化し切れていないのが難点だが、こればっかりはどうしようもあるまい。



「お待たせしました」



  慌てる彼女は、目が合うと、あのはにかんだ笑顔を見せ、またすぐに目を伏せてしまう。そんな仕草に心がほんのりとぬくもる。



  * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ *



  急な階段ではその手を取り、頭をぶつけないようにと手をかざして彼女を誘導し、ゆっくりと下りる。また子ども扱いすると抗議を受けたが、怪我でもされたら俺が辛くなると本音を語ると、何故だか押し黙ってしまった。


  無事に連れ立って食堂へ入ると、竹下一曹が叔父と叔母にご飯の食べ方を指導していた。側には宮野三曹と複数名の隊員が雑談をしている。



――待たせたかな――



  急ぎ近寄り、声を掛ける。



「竹下さん、お待たせしました。途中抜けてしまい申し訳ありません。艦内はじっくりご覧頂けましたか?」


「あ、はい、たくさん見させて頂きましたし、お土産も買えました。本当に良い経験をさせて頂きました」



  竹下夫妻は、俺の傍らに立つ彼女の様子を伺いながらも、こちらに合わせてくれる。



「さ、これで皆さん揃いましたね?一尉、お腹も程よく空きましたし、早速ご飯に致しましょう!」



  絶妙なタイミングで誘導する、ほがらかな笑顔を浮かべた宮野三曹の号令に場も和み、順番にトレーを手に取り行儀よく並ぶ。


  そのまま一方通行で進みながら、用意されていた炊き込み御飯やおかずなど、必要なだけ各々で自分のトレーに盛る。



「詩織さん、好き嫌いは?」


「特にありません……多分」


「多分て、何ですか」


「え、あの。今まで考えた事なかったですし……」


「そうですか。まぁでも、何でも食べられるなんて、偉いですよね」


「……本当に子ども扱いしてませんか?」


「いや、だから、決してそんなことは」



  彼女に、艦内での食事の注意点などを教えつつ、飯を盛って歩く。そんな二人の姿を、竹下夫妻と光流ちゃんが驚きながらもさも嬉しそうに。宮野三曹は何かを悟ったかの様に、それ以外の面々は鳩に豆鉄砲状態で眺めていたという事を。


  学生グループから解放され、加賀と一緒に様子を見にきていたらしい村田から、後日長々と聞かされるハメになるとは……この時は露とも知らなかった。



  * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ *



  多少?のゴタゴタはあったが、結果的には見学を無事に終え。村田と俺は、艦長を始めとする“家族”……共に暮らした上官、同僚、部下たちに見送られ、住み慣れた“我が家”を後にする。


  入れ替わりで配置された新米幹部が乗り込むと、艦は短期航海の為に母港を後にした。



「随分あっさりと行っちゃったよねぇ」


 

  小さくなるその姿を見送りながら、村田が漏らす。



「ま、今生こんじょうの別れでもないし、あっちもこっちも互いに忙しい身だしな」


「忙しいっていえば、雅、急がんとまずいんちゃう?とにかくうち行こか」



  明日が早いという事もあり、今夜は村田の家に世話になる事になっている。



「悪いな、頼む」


「気にすんなって、お互い様や」


「俺さ、夕飯、外で済ませて来ても構わないかな」



  ただでさえ少ない時間、やはり彼女と過ごしたい、というよりも、制限時間内に今後のことを話し合わなければならない。



「そりゃお前、ええに決まっとるでしょ。霞だってそんな野暮、よう言わんし」



  夕飯も世話になる予定だったから仕方ないとはいえ、既に筒抜けなのかよ、とがっくりする。



「てかさ、本当に良かったのか?お前たちだってまた暫く離れ離れなのに」


「だから、それもかまへんて何度も言うとるやろ。お前が居たかて何も変わらんし」



  確かに。辺り憚らず霞ちゃんとの時間を大切にする姿は、万年ハームーンな高橋の事をもとやかく言えるものではなく。



「あー、はいはい、決してお邪魔はいたしません」


 

  基地からは徒歩数分の、村田夫婦の住む(最も、彼らより先に高橋夫妻が住み着いていたのだが)マンションへ辿り着くと、霞ちゃんと高橋の愛妻である遥ちゃんが今か今かと待ち構えていた。

 

  二人に尻を叩かれながら身支度を済ませると、満面笑顔の三人に部屋から放り出された。


  約束の時間の五分前に竹下家の前に立つが、過去味わった事のない種類の緊張感を感じる。


  深呼吸をし、意を決してインターホンを鳴らす。



――はーい――



  パタパタとスリッパの音がしたと思うと、ゆっくりドアが開き、そっと外を伺う彼女と視線が交わる。途端に広がるその照れたような笑顔に、まるで勢いだけだったかのような今日の自分の行動も、間違っていなかったな、と確信に変わる。



「詩織さん、お迎えにあがりました。お支度は?」


「はい、もう、出掛けられます」



  頬を染める彼女を直ぐにでも連れ去りたいが、



「その前に、ご両親にもご挨拶をしたいのですが」


「あ、そんな別に、」


「いえ、すみませんがこれは譲れません」



  そう言うと、そうでしたね、と笑う。



「それなら、少し上がりますか?」


「いや、余り時間がないので。不躾ですが、今日はここで失礼したい」


「分かりました。お父さん、お母さん。ちょっと来て貰える?」


「はいはい、あなたまだ出かけてなかったの。あら、松岡さん、いらっしゃい。今日は色々と有難うございました。本当に楽しかったです。ごめんなさいね、お父さん、ちょうど今お風呂に入っちゃって」


「そうでしたか。今夜、詩織さんをお連れする、そのお許しを頂きたかったのですが」


「まあ、ご丁寧にありがとうございます。松岡さんなら安心してお任せできますし、主人には私からお伝えして置きましょうか?」



  まあ、今日のところは仕方がないか。



「有難うございます。ではお言葉に甘えます。ご主人にもよろしくお伝えください」


「はい、確かにお引き受けしました。さあ、時間が勿体無いでしょう、行ってらっしゃいな」



  門限を確認すると、母親に見送られ、彼女を伴い竹下家を後にする。



「詩織さん、予定通り晩御飯からで大丈夫ですか?」


「はい、大丈夫です」



  あの夜と同じように、二人並んで歩いていた筈だが……何だか違和感を感じる。が、直ぐにその原因が分かり、立ち止まり振り返る。



「どうして半歩後ろ?」


「え、え!あの、その」



  顔を真っ赤にして伏せたその顔を覗き込む。



「詩織さん?」


「あの、ち、近くて……その、何だか恥ずかしくて、」



  確かにあの夜よりは近いかと思うが。先ほどは腕の中に居ませんでしたか、とは突っ込まず。


  しかし、何だろう、このふわふわした気持ち。心地いい。



 ――ホント、可愛いな――



  湯気でも出るんじゃないかってくらい赤くなった彼女の手を取り、



「行きましょうか?」



  ゆっくりとまた歩き出す。



「はい、」



  小さいが、しっかりとした返事が耳に届く。


  繋がれたその手の感触に、許される限り共に生きていきたい。自然とそう思えた。


  漸く自分の気持ちも、この先どうしたいのかもはっきりと見えた今。長年固執してきた信条を上書きする。


  生まれて初めて自分が大切にしたい、そう思ったこの女性が望んでくれる限りは。決してこの手を離さない。


  そして共白髪になるその日まで、彼女に不要な心配をさせないように、今以上に慎重且つ確実に、国を護る守人もりととしての職務に邁進まいしんして行こうと思う。


  もちろん、彼女が自衛官の……艦艇乗りの仕事をきちんと理解した上でも、まだ先を望んでくれるならば、なのだが。



  * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ *



  その辺は、やはり俺より詳しい彼女の勧めで入ったレストランで晩御飯をしながら。


  そして食後のコーヒーが運ばれて来るまでの間に、家族のことから入校後のざっくりとしたスケジュール、その間は此方にはなかなか帰れないこと事などを怒涛のように語り。


  そして、それらを含め、この先に発生する可能性がある、障害となるものを大まかに示した。


  本来ならばもっと時間を掛けて説明し、ゆっくり判断をして欲しかったのだが、なんせ時間が無く、つい事務的になる。


  しかし、概略を話し終えた後の、きょとんとした彼女の反応は正直想定外のものだった。



「光流ちゃんから大体のことは聞いてますよ?」



  光流ちゃん。確かにお前は時に村田のごとく気の利くやつだったよな。今日別れたばかりなのに恋しいもんだな。これもホームシックみたいなもんなのか。



「詩織さんは、本当に私で良いんですか?」



  彼女はまだ若く、可能性はいくらでもある。気が付いてしまった自分の気持ちはともかく、彼女の気持ちを盾に縛り付けるつもりはない。



「あの頃は松岡さんがどんな方かも分からなかったのに、変に思われるかも知れませんが……どうしても松岡さん姿が頭から離れなくなってしまって。その事は、何年も前から両親も知ってますし。多分、うちの事は心配しなくて大丈夫だと思います。ただ、折角こうしてお話できるようになったのに、離れてしまうのは……少し不安ですけれど」


「ハハッ」


「松岡さん?」

 


  彼女が目を丸くしてこちらを伺う。



「すみません、村田が言ってたことを思い出して」


「村田さん、て?」


「今日の見学の時に、メインで学生グループの引率をしてた乗員です」


「その村田さんが、何を仰ったんですか?」


「人の出逢いには運命がある、みたいな事です。その運命を掴むには、タイミングを外してはダメだとも言ってましたね」


「タイミングですか?」


「そう、タイミング。今日のことを考えたら本当だったな、って思えて。気悪くしたなら、申し訳ありません」


「いえ、そのタイミングが合ったお陰だというなら、すごく嬉しいです」



  はにかんで首を横に振る。



  ひとまず、無事に意思疎通が図れたことに安堵をし、店を後にする。


  足りない時間に心残りが増える一方だが、せっかく繋がった縁が途切れないようにと、遥ちゃんから授かった、有難いアドバイスに従う。



「ちょっと買い物したいのですが、構いませんか?」


「はい、全然大丈夫です」



  教えて貰った店はすぐに見つかった。


  その店先で、不思議な顔をし立ち止まる彼女の手を取り店内に入り、遥ちゃん情報により難なく目的のショーケースに辿り着く。



「詩織さん、好きな花って何かありますか?」


「え、ええと、桜が一番好きですけど、他には白いチューリップと金木犀と、あ、後はかすみ草と菫と藤も向日葵も好きですし、蓮華草や 鈴蘭も好きです」



  その全部を入れた花束を抱えて笑う彼女も見てみたいと思った。まあそれは、次の機会にでも実践してみよう。……その花が一度に揃うのかは分からないが。

 


「それならば、これなんてどうですか?」

 


  小さな桜のモチーフを散りばめた、プラチナのリングを指差す。



「とても素敵ですけど……あの、ごめんなさい、どうですかって、意味がよく……」


「仕事とはいえ、常に側に居られませんから。お詫びというか、いや身代わりというか、」


「え、そんな、大丈夫ですよ?その、私、今日もういっぱいいっぱいで。これ以上何かあったら心臓止まりそうですし」


「止まったら非常に困りますし、仮に止まったとしても命懸けで心配蘇生しますが。これは私の我がままと思って受け取って欲しいです」


「クスッ」



  結構真剣だったんだが、思い掛けず笑いを取ったか。



「それなら、松岡さんが選んでくれた、この可愛い桜のが欲しいです」



  直ぐにケースから出して貰い、サイズを選ぶ。揃いの柄のタイピンと一緒に無料サービスの名入れも施し、店を後にする。



「有難うございました。何だかお金使わせてしまって申し訳無いですけど、すごく嬉しいです。松岡さんの“身代わり”、大切にしますね」


  そう笑いながら話していた彼女だが、歩きながら、繋いでいた右手をチラチラと気にしている様子が感じられ。ああ、そうかと気が付いた。彼女の左側へ移動し、指輪を嵌めていない左手を取り、繋ぎ直す。


  何事かと驚いた顔をするが、意図が分かったのか、また嬉しそうに微笑み、指輪の嵌った右手を眺める。


  そのまま手を繋いでゆっくり歩き、あの海岸のある場所まで戻って来た。


  今日は二人で防波堤の上に腰掛け、今は主の居ない桟橋を眺めるながら尽きぬ話をする。艦は今頃どの辺りだろうか。



『お前も。誰に気兼ねすることなく、幸せになって構わないんだからな』



  艦を降りる際、そう言って肩を叩いてくれた、水上艦長の渋味のある笑顔が思い出される。



 ――なれるのかな、こんな俺でも――



  ずっと意図的に避けてきたその道を、進んで良いのだと、多くの手により背中を押された。



――先のことは分からないが、――



  横に座る、彼女の身体を抱き寄せる。ふわりと立ち上がる仄かな香に心が落ち着く。



――もう、気持ちを無視して蓋をするのも、誤魔化すのも、しまいだ――


 

  溢れ出るこの気持ちを、今更抑えることなどできない。


  可愛らしい彼女の唇に、そっと指で触れる。ハッとした彼女が顔を伏せようとする。が、それを許さず、その唇を奪う。


  その柔らかな感触に暫く浸り。漸く顔を離すと、彼女は真っ赤な顔を両手で覆ってしまった。



「詩織さん?」


「ご、ごめんなさい。い、いきなりで、びっくりしてしまって、」



――これは、参るな――



  時折、うっかり艦を降りそうになるという高橋の、その言葉が持つ意味を思い知る。


  すっかり顔を隠してしまった彼女を、今一度腕に抱き締める。

 


「詩織さん、気の利かない俺ですが。精一杯、大切にします」


「あ、あの、私も、松岡さんのこと、大切にしたいですし、あの、私は後悔なんてしませんから、」



  じんわりと、心の隅々まで広がるその言葉に、覚悟を新たにする。



「詩織さん、顔を見せて?」


 

  いやいやと首を横に振りかけたのだろうか。ふとその動きを止め、指の間からそっとこちらを覗き見る。その一挙一動に、いちいち心が反応する。



「詩織さん、それじゃ見えません」


「……、」



  そろそろと手が外され、まだ朱に染まる顔が現れるが、恥ずかしそうにまた目を伏せてしまう。



「松岡さん、私、本当に心臓、止まっちゃいそうです」


「そうか、それは大変ですね……それなら、コレは」


「コレ?」



  思わず顔を上げたその隙を突き、再度唇を奪い、更に染まる頬にもそっと口付ける。



「早く慣れて貰わないと、というのは冗談だけど、少しずつで良いから慣れて欲しい」


「が、頑張ります……」


「ハハッ、そんなに頑張らなくても」



  肩を抱いたまま、暫く心地の良い、静かな時間を味わう。



「松岡さん、そう言えば、お時間は大丈夫ですか?」


「そうですね、そろそろ行かないと」



  防波堤から降り、また手を繋いで竹下家へと向かうが、迫る別れに言葉が出てこない。こんなに辛いものだなんて、初めて知る事ばかりだ。


  決して弱みになるだけではない。


  自分たち次第で、互いの存在が大きな活力となるのだという事も、短い時間でも実によく分かった。



「詩織さん、ひとつ我がまま言っても良いですか?」


「松岡さんの我がままって、すごくレベルが高そうですけど。私でも何とか出来そうな事ですか?」


「世界中探しても、詩織さんにしか出来ない事です」


「私にしか?……想像が付きませんが、何でしょう?」


「出来たら。あっちに行く前に一度だけでも良いので、下の名前で呼んで貰えると嬉しいかな、と」


「ハ、ハードル、高いですね、」



  そろそろ竹下家の灯りが見えてくる。



「いえ、すみません、無理ならまたいつか」


「だ、駄目です、いつかなんて不確かな事は駄目。が、頑張りますから。松岡さん、後ろ向いて下さい」



  こんな、良い歳した男の馬鹿な頼みでも、そんなに頑張ってくれるんだ、と嬉しくなる。



「こう?」


「……」


「詩織さん?やっぱり無理しなくても」



  そう言い振り返ろうとする前に、彼女が背中に抱きついてきた。



「松岡……雅さん?」



  何故にフルネームか。顔もさぞ赤い事だろう。その気持ちだけで今はもう十分だ、と再度振り返ろうとするが。それを許すまいとばかりに力を入れる細い手に大人しくする。



「雅さん。私、雅さんも、雅さんの撮る写真も、本当に大好きです。雅さんを好きになって、良かったです」



  ちょっと甘えたつもりが、大きなおまけが付いてきた。



「有難う。俺も詩織さんに出逢えて、本当に幸運だと思っています」



  今は、もうこれ以上無理をさせない。腰に回された手を取り、再び歩き出す。


  自宅まで送り届け、玄関先でほんの少し二人の時間を惜しみ。ご両親にもご挨拶を済ませる。


  入校で明日にはここを離れることや、彼女との事は先のことも含めて真剣なお付き合いを考えている、など。きちんと言葉にして伝える。


  やはり、光流ちゃんによりある程度の説明を受けていたのか、すんなりとこの許しを取り付けた俺は、非礼を詫びて早々に竹下家を後にした。


  道すがら、視界に入る波頭の煌めきが、いつも以上に綺麗に見えるのは、やはり心が満たされているからなのだろうか。


  村田へ、今から戻るとメールをしながら、俺はふとそんな事を思った。



  * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ *

拙い文章をお読みくださり、有難うございました☆彡

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