〜荒風(あらかぜ)を その身に受けし 花ひとつ そっと手かざし 支え護らん〜
自然と湧き上がる感情に抗えない。
雅が動き出します。
山から降りてから二日後には、予定通りの出港となり、俺は母港を後にした。慌ただしい中で、あの朝のことは脇に追いやられ、そのまま脳裏から消え去っていたのだが。
少しばかり気の張る仕事を終え、ようやくゆっくりできる事になった日の午後、久々に愛機のカメラを取り出した。が、電源が立ち上げると同時に映し出された、その画像に思わず目を見張り固まった。
心を捉えて離さないその画像は、あの朝、あの場所で、無意識に撮っていた“彼女”の姿だった。
少し離れた艦の姿を見つめる小さな後ろ姿。その姿は朝靄の衣を微かに纏い、儚く美しく、なんとも言えない幻想的なものとなっている。
それは、正に自分の眼に飛び込んできた、あの時の景色を、そのまま切り取り収めたかのようで。
先日会った彼女は、衝撃的な出逢いが嘘のように物静かで控えめだが、しっかりとした内面が随所から伺えた。
が、その癖やはりというか何というか、思い掛けないところでどこか少し抜けているような……よく言う天然という奴なのか。嫌味はないがなんとも不思議な魅力のある女性だった。恐らく今まで俺の周りに居なかったタイプだと思う。
あの眼差しと柔らかい口調、伏し目がちにはにかむ姿が脳裏に蘇る。
揺れる心が静まらず。焦ったように指が消去ボタンへと動くが、直後、自分の中の何かが抗い、その指を押し留めてしまった。
処置に困った俺は、カメラからそのデータの入ったSDカードを抜き出すすと、カードの保存ケースへ移した。そして、真新しいカードへ差し替え、その気持ちを振り切るように、カメラを持ち直して甲板へと向かった。
* ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ *
甲板へ出ると、ちょうど空が染まり始めていた。撮影ポイントを決めてカメラを構える。
長年、ずっと景色を主に撮ってきた。もちろん、稀にふざけて同僚たちを写すこともあるが、殆どは人の介在しない、人の力の及ばない、大自然の営みを好んで撮っている。
今は、赤味がかったグラデーションが広がり刻一刻と変化する空と、その様子を映し出す大海原を目の前にして。ファインダー越しに、何時ものように無心になる。艦橋を照らすその光は、徐々に憂いを帯び、海原の煌めきは言葉に尽くせないほどに美しく。そして、どこか物哀しく。
その哀しみを湛えるからこその穢れなき美しさに、俺は見るたび魅了される。
時間いっぱい粘ってみたものの、納得のいく出来栄えではなかった。が、晩御飯の後は当直の時間だ。思わず、ため息が漏れるが
――まぁ、また次がある――
そう自分を慰めると、カメラを部屋へ戻し、そのまま食事に向かう。
――お、今日は肉か――
俺は特に好き嫌いは無い(というより、艦艇勤務になって何でも食べる様になったような気もするが)、今日は肉の気分だったのでこれはかなり嬉しい。
艦艇乗りの楽しみのひとつにやはり飯は欠かせない、かなり重要なアイテムだ。この限られた空間で、栄養だけでなく英気を養う必要がある為か、陸海空の三自衛隊の中で、専門職を持つ海上自衛隊の飯の旨さは断トツだと言われる。
まあ、他のところの飯を食う機会がほぼ無い俺としては、うちの艦の飯は確かに美味いが、世界一なのかは分からない。
しかし巷では金カレー含めて自衛艦の料理は興味の対象なのか、少し前から料理に目覚めたという高橋によれば、艦メシだか何だかという料理本が出版されているらしい。美味い飯は自衛官ならずとも、命の、そして活力の源だ。その意味でも需要があるのかも知れないが、俺はただ、いつその料理を高橋に作らせるか、と密かに目論むだけだが。
* ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ *
「そうだ、松岡。お前、確かカメラやってたよな?」
旨い夕餉を堪能した後、艦橋へ向かう途中で徐に副長に呼び止められる。
「やる、と言いますか。自己満足程度でしたら、多少は」
「おーやっぱりそうか!悪いがひとつ頼まれてくれないか」
嫌な予感しかしないが……縦社会で生きる者としては、上官のたっての頼みともなれば尚のこと、余程の事でもない限り“断る”という選択肢は消える。
「自分にできる事でしたら」
「帰港直後に見学が入っているのは知ってるな?実はその時にだな、」
時間が迫る中で先ずは要点だけを聞き、当直明けに改めて士官室へ顔を出す事になったのだが。
――参ったな――
どうも、大学生が多数くるという今回の見学の間、艦内の見学コースに、飾らない、普段着姿の自衛官を写した写真を飾るのはどうだろう、という話が急遽持ち上がったらしく。確かに、この堅苦しい職業をより身近に感じてもらうためには良いんじゃないかと話が纏まったらしい。
そして。有り難いことに、日頃から暇さえあればカメラを持って彷徨いていた俺に白羽の矢が立ったのだという。
当直を終えたその足で食事を済ませ。約束の時間ジャストに士官室を訪れた。
「松岡です。入ります」
「来たか。疲れているところ、悪かったな」
「いえ、問題ありません。早速ですが、此方になります」
持ってきたカメラを、副長の前に差し出す。
「む、俺はカメラに疎くてな。パッと見、電源くらいしか分からん。悪いが少し教えてくれるか」
「承知しました。では先ず、電源ボタンを押し電源が立ち上がると、画面には前回撮った際の最終の画像データが読み込まれます。ここのボタンを押すとひとつ前のデータが読み込まれ、こちらのボタンを押すと、一つ後ろのデータが読み込まれます。因みに、このボタンを押せば、現在このカメラで使っているSDカードに収まっているデータの一覧を見る事が出来ます」
「ほう、成る程。よく出来てるな」
「先ほど申し上げた通り、自分は基本は景色を撮る事が多いものですから、問題は今回の趣旨に見合う画像があるかどうか、なのですが」
「確かに、見たところこのカードには景色しか無いようだが……しかし、おい。これまた見事に撮れているな」
「恐れ入ります。少しなら、撮り貯めたデータの中に1つくらい使えるものがあるかも知れませんので、手持ちのカードもお持ちしました」
持ち込んだ、2つの保存ケースをテーブルに置く。
「此方もお預けします。お役に立ちそうなものがあれば、どうぞお使いください。帰るまでに一応意識して撮るようにしますが、どんな絵面のものが欲しいとか、ご希望を仰って頂けたら、それに合わせて撮ることも可能ですので」
「悪いな、助かるよ。とりあえず、今はカードだけ借りておくか。またある程度新しいデータが溜まったら、それも一度見せて貰えるか」
「承知しました」
返されたカメラを手に部屋へ戻りかけるが、正直、あのカードの中に見学者が喜びそうな……役に立ちそうな画像があるとは到底思えず。
部屋へ帰り際、早速専任を捕まえ事情を話し、それ用に時々隊員たちの姿を撮るかも知れない、とひと言断りを入れておく。
出来たら本当に自然な日常の姿を撮りたいものだが、仕事のうちとはいえ隠し撮りが許される訳もなく。当然、副長からも話が伝わるだろうが、専任に声を掛けておけば尚のこと安心・確実だ。
この航海後に、艦を後にする自分としては、形のある何かを“ここの家族”に残せる、そんなきっかけを貰った。この時はそのくらいにしか思っていなかった。
* ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ *
無事に母港へ帰り着いた日の翌日。艦内の何処もかしこも、朝から見学者を迎えるための最終準備に追われていた。
が、見学者の案内役以外は全て免除されていた村田と俺は、この間に部屋の片づけの仕上げにかかる。
昨夜、
――また暫く会えないだろうからな、餞別だ――
と、土産用に売られていたらしい、この艦のピンバッジを寄越した同室の加賀も、やはり見学の受け入れ準備で既に居ない。
ひとりでのんびり部屋の掃除をしていると、基地の広報担当がSDカードの保存ケースを返しに来た。その際、幾つかのデータをこの先も広報で使わせて貰えないか、と請われるが、特に問題がある筈もなく、役に立つならと快諾する。
――いよいよ、か――
すっきりと片付いた、自分の机やベッド周りを眺め、配属されたあの日や、ここで過ごした月日を思い起こしていると
「雅、終わった〜?」
ひょっこり村田が顔を覗かせる。
「ああ。そっちは?」
「こっちも完了。片付けるも何も、もう大した荷物も残っとらんし。ほな、ひと休みしよか」
「お、サンキュ」
村田から放り投げられたペットボトルを受け取る。ちょうど喉が渇いたと思っていた所だけに有難い。本当に細かなところまで気の付く男だと感心する。女に生まれ変わってもさぞかし良い嫁になることだろう。
「俺な、今さっき、返し忘れてた本を届けに専任とこ行ったんよ。そしたらな、途中途中に雅の撮った写真が飾られててな。いっつも凄いの撮るなぁって思ってたんやけど、デッカくすると迫力が増してホンマびっくりやな」
村田の、少々大袈裟なその評価に思わず笑う。
「そっか?あの程度ならその辺にゴロゴロいると思うけどな。でもまぁ、ありがとな」
「いや、あれは一度どっかに応募したほうがええと思うで」
そこまで言われると少し気になり始める。今朝から飾られている筈の写真だが、どこにどんな写真を飾るのか、そう言えば詳細は特に聞かされていない。
「はいはい、その内ね」
「出たな、雅のその内!」
この先どの位、この村田と肩を並べて笑い合えるのか。高橋や横手を含めて希望の職が被っていないものの、再び同じ艦に配属される日が来るのかどうかなど、先のことは誰も分からない。
「なぁ、雅」
「ん?」
「俺な、やっぱ運命ってあると思うんよ」
いきなりな村田の乙女発言に思わず鳥肌が立つ。
「何だよいきなり気持ち悪、」
笑う俺には構わず、村田は語り出す。
「いや、真面目な話やで。俺、やっとの事で結婚したけどな、結構いろいろあってん。いろいろあって、それでも……結局俺にはあいつしか居らんかった。あいつ意外考えられなかった。あいつもそう思ってくれたから、形にすることが出来たんやと思う」
普段とは違い、静かに訥々(とつとつ)と語る村田の姿に、やはり、近付く別れに少し敏感になっているのかなと、ここは黙って聞く事にする。
「でもな、互いのタイミングが少しでもズレとったら、結婚どころか、付き合う自体が難しくなるんやろなって、ほんま身に染みたわ」
何年もの遠距離恋愛の末に昨年結婚をした村田は、傍目にも本当に幸せそうだが。その陰には言う通りの、いや言わない事も含めた苦悩が多々有ったのだろう。が、結局今この場で村田が何を言いたいのかは分からないが。
「高橋は、相変わらず目の毒レベルで遥ちゃんと仲良くやってるしな、横手も例の見合い相手と上手くいってるみたいだから良しとして。俺な、雅にも幸せで居て欲しいんや」
「は?俺は十分幸せだから心配は無用だぞ」
「そっか。ならええんやけど、な」
村田はじっと俺を見詰める。
「おっと、時間」
濁すように腕時計を確認すれば、打合せの集合時刻まであと15分を切っていた。慌てて身なりを確認し、部屋を後にする。
* ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ *
最終の打ち合わせは、今日の分担、各サポート体制、立入禁止区域等の確認程度で終わり、見学者の入場開始時刻までまだ30分ほどあった。
出番の少ない村田と俺は、皆の邪魔にならないようにと船首付近で潮風を浴びながら時間を潰す。
「お、お出ましか」
村田の声に簡易テントの受け付けを伺えば、学生らしき若者たちがぞろぞろと集まり、列を作り始めていた。
「こうして見ると結構な人数だよな。大丈夫か?」
「まぁ、こっちは加賀たちのサポートもあるし、何とかなるっしょ」
ま、村田が大丈夫というのだから大丈夫なのだろう。
「あ、竹下みっけ」
村田の視線の先を見ると、ちょうどタラップを降りる光流ちゃんの姿が見えた。彼の向かう先には、既に受け付けと荷物検査を済ませたのか、ゆっくりと艦に近づいてくる三人の姿が見える。
「さ〜て、いっちょやりますか。……雅。まぁ、お前も頑張りや」
村田は、俺の肩をポンっと軽く叩きながらそう言い捨て、先に歩き出す。
――頑張れって。何をだよ――
心がザワつくが、気持ちを切り替え、制帽を被り直すとその後を追った。
* ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ *
「皆さん、お早うございます。本日艦内の案内をさせて頂く私は村田と、此方は加賀と清水、館山です。宜しくお願い致します。」
お早うございま〜す、よろしくお願いしま〜す、と見学者たちが口々に答える中、村田が早くも笑いを取り、若者たちの心を掴んだ様だ。あいつは芸人になってもやっていけそうな気がする……が、今はそんな妄想を切り捨て、タラップを登ってくる客人を出迎える。
「竹下さん、大変ご無沙汰をしております。本日はわざわざお越し頂き、有難うございます」
光流ちゃんに誘導されて甲板に辿り着いた竹下家の三人……彼女とその両親に挨拶をする。
「松岡さん、此方こそご無沙汰しまして。本日はお招き頂き有難うございます。お言葉に甘えてお邪魔しました」
「今日はお世話になります。光流ちゃんの仕事場を見学させて頂く日が来るなんて、夢にも思っていませんでしたから私もう本当に楽しみで」
「だ・か・ら!ココで光流ちゃん呼びは止めてくれって!あれ程、」
光流ちゃんが、恐らく無駄と思われる抵抗を試みる。
「あらヤダ、ゴメンナサイね、“竹下一曹”。しかし、松岡さん。私服姿も素敵だったけど、制服姿はまた一段とイケメン度数が上がるわねぇ」
イケメン度数ってなんだ……。どう見ても俺は高橋や横手と違ってイケメンの部類ではないが。光流ちゃんには気の毒だが、君の叔母……つまり彼女の母親のパワーは衰え知らずのようだ。しかし俺は、今日飲み込まれる訳には行かない。何としてでもこの仕事を無事終わらせて貰わなければ。そう誓いを新たにする。
その後も母親から放たれる魔球も、貼り付けた仕事モードの笑顔で何とか打ち返し、彼女とも型どおりの挨拶は交わしたものの、互いの視線が交わることは無かった。
その時は特に気にせず、艦内見学の注意事項を伝え、前のグループの様子を確認しながら、ゆっくりと見学コースを移動し始める。
その道すがら、主だった装備の説明をするが、父親はこの手のモノには興味があるらしくて食いつきも良く、かなり真剣に聴き入っている。母親も熱心に耳を傾け、まぁ!とかへぇ!とかそれなりに反応してくれている。
それに反して彼女はというと、母親が話を振ればちゃんと的を得た答えを返したりと、聞いていてくれている様子は十分に感じ取れるのだが……その表情は空虚というか、どこか沈んだままで。
光流ちゃんによれば、当初彼女は来ない予定だったとも聞いており、この手の物は余り好きでは無かったのか、無理に付き合わせたのではないか、と申し訳なく思う。
彼女の様子が気になりながらも甲板でのコースは予定どおり終わり、上へ移動する前に確認をとる。
「ここまでで、何かご質問はありますか?」
「いえ、実に分かりやすいご説明でしたし、特にはありません。が、しかし、いつも外から見ていただけなので、こうやって間近に見るとやはり圧倒されますね!」
「本当に凄いお仕事なんだって、拝見してしみじみ感じました。竹下一曹〜!叔母ちゃんあんたを少~し見直したわよ!」
何だよ、少しかよ、と小さくボヤく光流ちゃんに、その場に居合わせた隊員までもが思わず笑い出す。
「では。特にご質問が無ければ、この後はいよいよ艦橋に上がります。が、その前に、皆さんトイレや休憩は必要ないですか?」
「すみません、松岡さん。ちょっとトイレお借りしても」
「あ、お父さんそれなら私も!」
「ええ、どうぞごゆっくり。竹下一曹、お連れして」
「了解しました。ほら、行きますよ」
竹下夫妻を引き連れて、光流ちゃんがトイレへ向かうと、その場に二人だけ残される。まあ、厳密に言えば各所に配置されたサポート役や、諸々の都合で見学の時間も仕事をする乗員などが数名近くには居る事は居るのだが。
彼女は、近くの装備品の説明書きから目を離さないが、その姿からはとても読んでいるようには感じられない。
「詩織さんは、休憩されなくて大丈夫ですか?」
問えばピクリと反応し、
「はい、大丈夫です」
と短く返事は返す。が、しかし、視線は合わない。
気のせいではない。意識的に合わせようとしない。
線を引かれている、その事実が心に刺さる。
――何時もなら自分が線を引く側なのに、俺もずいぶん勝手なもんだな――
『頑張りや』
どうしてか、さっき投げつけられた村田の言葉が蘇る。
「一尉、お待たせしました」
意外に早く三人が戻り、持て余していた俺は正直ホッとする。今はともかく、この見学を終わらせることだけを考えよう。
「では、他に問題が無ければ次は艦橋へ」
「あのっ!」
言葉を遮り突如あがったその言葉に、皆が一斉に彼女を振り向いた。
「どうかなさいましたか?」
今日、初めて彼女と視線が交わったが、直ぐ目を伏せられた。
「あの、すみません、た、高いところが少し苦手なので。私は此方で待たせて欲しいのですが」
「え、詩織、あなた何時もジェットコースターとか……」
そこまで言いかけると、母親は何かを悟ったのか口を閉ざし、困った様子で父親を振り返る。
「詩織、それでは皆さんにご迷惑だからもう帰るか?」
見兼ねたように父親が声を掛けるが、
「私なら大丈夫だから。それにね、もう少しこの辺もゆっくり見たいし。折角の機会何だから、二人は行ってきて?」
作ったと分かる笑顔が痛々しい。あの日以降、今日まで接点は無かったが、何か気に触ることでもあっただろうか。
「詩織。こんな機会、次は何時あるか分かんないんだぞ?」
そう念を押す光流ちゃんに、二言三言そっと伝えるが、
――私は良いの、のんびり待っているから――
とやはり譲らない。意を唱えていた光流ちゃんも、諦めたようで口を閉ざしてしまった。
こうなると、此方としては妥協案を示さねばならないが、最終的にどうするかは、家族に判断を委ねるしかない。
「竹下さん、詩織さんには他の者をお付けする事も可能です。その場合、お二人は引き続き見学して頂く事も出来ますが。どうされますか?」
「そうだな、詩織がそこまで言うなら……母さんどうだろう、そうさせて頂こうか?」
「詩織、あなた本当にそれでいいのね?」
含んだような母親言葉にも、やはり彼女の意思は変わらず。それならば、
「竹下一曹、宮野三曹に少し助けて貰えるか聞いてみてくれ」
「分かりました」
光流ちゃんが無線で確認する間、宮野三曹がこの艦の衛生員である事や、万が一何かあっても直ぐに連絡が取れることなどを説明する。
宮野三曹とは直ぐに連絡がついたらしく、事情を話すと5分も経たずに来てくれた。
千里眼の如く目端が効き、乗員の誰ひとりとして頭の上がらない、艦内請負人の専任を仙人、肝が座り、艦員の胃袋を掴んで離さない御手洗補給長を不動明王と例えるならば。彼女、宮野三曹は怪我ばかりか、心の隅々まで温めてくれる、謂わばこの艦の菩薩というところか。
「松岡一尉、お待たせしました」
「いや、忙しいのにすみません」
「いえ、大丈夫です。それで、私はどなたをお引き受けすれば?」
「こちらの竹下詩織さんのお世話を、自分たちが下りてくるまでお願いしたいのですが」
「承知ました。お引き受けいたします。では、詩織さん。中に休憩所が有りますので、そちらへ参りましょうか」
「はい、よろしくお願いします」
宮野三曹に付き添われて艦内へ入って行く彼女を見送った後、残ったメンバーは狭くて急な階段や通路を縫うように移動し、漸く艦橋へ辿り着く。
艦橋からの見晴らしは、やはり船舶の醍醐味の一つであり。ここからの景色を是非彼女にも見て欲しいと思っていたが、高所恐怖症ならばそれは土台無理な話だ。
艦橋の主だった装備の説明を一通り済ませ、彼女の竹下夫妻が艦橋に待機していた隊員と歓談している最中、光流ちゃんの無線が鳴った。
少し離れたところで応答を始めた光流ちゃんだが、焦った様にこちらに視線を寄越す。夫妻は会話に夢中だったため、そばの隊員耳打ちし、光流ちゃんのそばへ寄る。
「何かあったのか」
「それが、詩織が一尉の写真を見たらしく……」
「俺の写真?それがとうかしたのか」
全くもって意味が分からないが、光流ちゃんから伝えられた内容を纏めると、
俺たちと別れた二人は、彼女の希望で直ぐに休憩所へは向かわずに、随所に飾られているという、俺の写真を見て回っていたらしい。
巡りながら、ひとつひとつ丁寧に眺める様子を見る限りでは、とても元気で楽しそうだったという。
その彼女が、突然一枚の写真の前で足を止め、そのまま食い入るように見つめていたのだと。そして、宮野三曹自身も特に気に入っているというその写真の感想を、世間話程度で話し始めたところ……突然彼女が顔色を変え、静かに泣き出したのだという。
そしてその後、というかまさに今。
休憩所へ誘導しようとする宮野三曹や、その場にいた隊員の言葉には耳を貸さず、先に帰ると譲らず、艦を降りようとしているのだと。
――何だって泣いてる?っていうか、泣くような写真って何だ――
聞かされていた展示の趣旨からはまるで思い当たる節がないが、彼女が泣いているのは間違いがないのだろう。
脳裏に、初めて出会ったあの夜の、泣き腫らした顔が蘇る。
「あの、自分ごときが口を挟むことではないとはよく分かってますし、一尉がお持ちのご信条の事もお聞きしましたが、ですが、詩織は……あいつは」
混乱する中、思い詰めたような……縋るような光流ちゃんの表情に、心の奥が疼き気が急く。
――先ずは、状況の把握だ――
「竹下。済まないが、暫くお二人の事を頼めるか」
「え……あ、はい!任せてください!」
艦橋に配置されていた隊員にもサポートを頼み、竹下夫妻には
「少し席を外しますが、後ほど下で合流致します」
とだけ告げ、急な階段を駆け下りた。
* ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ *
伊達に何年も住んでいた訳ではない。狭くて入り組んだ艦内の移動なんて朝飯前だ。
あっという間に甲板へ降り立ち、更に奥まったところにある休憩所へ向かうべく踏み出すが。乗降口の方で押し問答する声が聞こえ、もしやと踵を返しそちらを目指す。
「竹下さんっ、本当にもう直ぐ皆さん戻られますから。もう少しだけ、お待ち頂けませんか?」
「そうですよ、折角いらしたんです。やっぱり艦自慢のご飯も召し上がって頂きたいですし、今日のメニューは御手洗補給長の新作でしてね、」
「ありがとうございます、皆さんのお気持ちは本当に嬉しいでのでけど、すみません、やはり帰らせて頂きます。両親には降りたら直ぐに連絡しておきますし、その、松岡さんには……宮野さんから、くれぐれもよろしくお伝えください」
彼女の顔は見えないが、届くその声に胸がざわつき、慌てて乗降口に向かった。
「あ!ほら、松岡一尉が見えましたよ!」
ホッとしたような宮野三曹のその言葉に、驚いたように此方を振り返ろうとするが。その拍子に、既にタラップに乗せていた彼女の足が捩れ、身体がふわりと浮いた。
瞬間、彼女を海に落とすまい、と咄嗟に差し出したのだろう、宮野三曹達が彼女へ向けて手を伸ばすのが見えた。
――詩織!――
耳元で風が吹き、遠くで誰かの悲鳴が聞こえた。
気が付けば、彼女を膝の上に抱え込む形で、尻餅をつくように甲板に座っていた。
「一尉!大丈夫ですか! ?」
泣きそうな宮野三曹の声にハッとする。
「俺は大丈夫。……詩織、さん?」
「ご、ごめんなさい、私、また」
彼女の震えが、全身に伝わってくる。それは、先ほどの恐怖のためなのか。あのまま落ちていたらと思うと、ゾッとする。
安堵のため息が思わず漏れ、彼女を包む腕に、自然と腕に力が入る。
『雅にも幸せで居て欲しいんや』
ふと、村田の顔が浮かぶ。
こんな時なのに、幸せとはなんだろうかと思う。
ある出来事をきっかけとして。軍職に身を置く限り、自分の家庭を持つこと自体を考えないと決めた。という事は、まあ巷に流れる噂の通りの生涯独身主義になるのかもしれないが。
長年、何を言われても守り抜いてきたその拘りが、心の中で初めて揺らぎ、戸惑いを覚える。
俺が望んでいた、ひとりで生きる形の幸せも勿論あるが。
高橋や村田を見る限り、こんな特殊な職を生業とする者だからこそ、尚のこと二人で力を合わせ助け合い、何事も乗り越えていくのだというその形も、きっと周囲が言う通り、そんなに悪いものではないんだろう。
まだ心の整理はつかないが、今この場で、唯一自分がはっきりと分かっているのは……立場とか仕事とかは全て通り越し、彼女をこのまま帰せない、いや、どちらかと言えば自分が帰したくないのだという、突如生まれたこの不思議なこの気持ちを、どうしても無視が出来ないという事だ。
だがやはり、それは俺の一方的な都合に過ぎない。果たして、何をどうする事が正解なのか。
いや、今は、正解などどうでもいい。
「宮野三曹、すまないが、少し医務室を借りたい」
「は、はい!直ぐ手配します、どうぞそのままいらしてください!」
「あの、私は大丈夫です、帰れますから、」
尚も腕から逃れようもがく彼女の膝裏に、そっと手を入れ、
「ちょっと失礼、」
と、彼女を抱えたまま立ち上がる
「あ、歩けます、歩きますからっ、降ろして下さいっ」
必死な彼女には悪いが、今、その希望には応えられない。
「詩織さん、しっかり捕まって」
――でも――
とか、
――あの、――
との訴えには応えず、いったい何時からここに居たのか分からない村田から、衝撃で落ちた制帽を受け取る。
「ひとりで大丈夫か?」
「ああ、大丈夫だ」
なぜか嬉しそうな村田にそう返し、腕の中の小さな抵抗には構わずに歩き出す。
やはり笑顔の加賀と共に、ただ呆然と見守っていた学生グループの間を通り抜ける形となるが、正直、今は周囲を気にしている余裕はない。脇目も振らず、医務室を目指す。
今日のホスト役の自衛官として、 “客人”である彼女のフォローが最優先であり、また、自分の中に生まれたこの気持ちが何なのか、俺自身がどうしたいのか……流さずにしっかり確かめることが必要だ。
* ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ *
拙い文をお読みいただき有難うございました(*^^*)