〜宵闇に 思い浮かぶは 一輪の 浜辺佇む 白き花かな〜
風花シリーズ第4弾。
少し不器用な艦艇乗りと、偶然出会った一人の女性のお話です。
昨日の昼前に約3カ月の航海から帰港し、今日は夕方から同僚たちと馴染みの店へと繰り出していたのだが、 今朝から何ともし難い疲れを感じていた俺は、珍しく二次会で抜けて来た。
――コンビニ寄って、さっさと帰るか――
そんな事を考えながら、通い慣れた海沿いの歩道を、ひとりぼんやり歩いていた。
月明かりに照らされた海は薄らと明るく、その波頭がキラキラと反射する。
暫くして、よく足を運ぶ海辺まで辿り着き、少し気を緩めたその時。ふと何処からともなく、まるで人が啜り泣くような声というか、音が漏れ聞こえてきたではないか。思わずその場で立ち止まり、聞こえてきた方向へ眼を凝らす。
気のせいだと思いたいが、鳥の声猫の声でも、寄せる波の音でも……海風でもない。
誰か居るのか。
基地にほど近い地域性からなのか、はたまた車も通らない抜け道のような歩道だからなのか。このポイントは普段から人通りは多くなく、ましてや夜ともなれば、少し先の住宅街の近くにあるコンビニまで、ほぼ人とすれ違う事は無い。
そういや、この辺も出るとか出ないとか、新米の頃は脅されたもんだが、よくある都市伝説程度にしか考えてなかった。
と言うより、若干その手の話は苦手な俺としては、なんかの間違いでなければ非常に困る。
――勘弁してくれ――
こんな事なら、多少無理してでも三次会まで行っときゃよかったと後悔しても、後の祭りだ。
しかし、ここを通らなければ艦は戻れない。いや、厳密に言えば戻れるが、かなりな遠回りになる。少し前からトイレ熱の高まっていた俺としては、出来ればそれは避けたい。
トイレか、はたまた不審な何かと直接対峙か。この状況下でこの二者択一はなかなか厳しい。どこかに、アレがこの世のものだという証拠でも落ちてはいないか。
――そうはいっても、実際に“見た”という奴はいないんだよな――
埋もれていた記憶を確認すると、トイレの優先順位がグンと上がる。ここから一番近いトイレは、この道の少し先にあるコンビニの中だ。
怖くないと言えば嘘になるが、進まなければ帰れない……基トイレは無い。という事は、覚悟を決めて足を踏み出してみるしかない。いざとなれば走る。足の速さには自信のある俺としては、それだけが勝機となる。
情けないと言われようが、自衛官だって殆どの者が人の子だ。(稀に熊の子や虎の子が混じっているらしいが)
得意の戦技も戦術も通じないであろう、得体の知れないモノは正直怖い……そんな葛藤をしてふと気が付けば、先ほどの泣き声らしきものが止んでいた。
暫く待ってみても、波と風の音しか聞こえない。
――なんだやっぱり気のせいだったか?そうは言っても警備の事もあるしな、一応確認するかな。……いや、帰ったら念のため程度に報告しとけばいいか――
思い直し、しかし少しばかり歩速を速めてその場を通り過ぎようとした、その時。
「ックシュン!」
でっかいくしゃみが聞こえ、続いて
「大変、もうこんな時間! ?」
慌てたような女性の声がしたかと思うと、堤防脇の階段から鼻をすする白い影が飛び出てきた。
「うわっ! ?」
「きゃっ!」
運悪く、出合い頭の形で鉢合わせとなったその白い影に体当たりをかまされ、思わず反射で一本背負いの態勢を取りかけるが、そこで気付いた。
――え、――
「す、すみません!」
引き手で絡めた手を解き、相手を解放するとザザザッと距離を取る。
柔らかく、ふんわりとした温もりと、仄かな甘い香り。間違いなく生身の人間だ。
これはヤバい。非常にヤバい。
「生身の方とは存知あげず、大変失礼しました!!」
ここは平身低頭、ひたすら謝るしかない。
「クスッ」
予想外の反応に思わず頭をあげると、相手は大人しそうな、ひとりの若い女性だった。
辺りが薄暗いせいなのか、色白に見えるが……足はきちんと二本ある。
「生身の方って。ええと、もしかして私、お化けか何かと間違えられちゃったんでしょうか?」
――ヒー、とんでもない事しちまった――
まるで再び酔いが回ったかのように、目の前も頭もクラクラしてきた。
「面目次第もございません!!」
再び深く頭を下げる。
「あの。自衛隊の方ですよね?私は大丈夫ですから、もう頭上げて下さい」
――やっぱ丸分かりか――
これは下手したら始末書ものかと覚悟を決める。今直ぐに上官に連絡を入れたほうが良いのか。だがその前に、
「私は海上自衛隊所属の松岡雅と申します!この度は、」
「え、ええと、ストップ!」
「え、」
月明かりが照らす中、優しい眼差しの彼女が笑いを堪えているのが分かる。
宜しくない、この状況を何とかしたい一心だった俺しては、そんな彼女の様子にその後の振る舞いに迷う。
「海上自衛隊の松岡雅さん、私は竹下詩織です。地元の大学に通っています。今晩は」
「はぁ……今晩は、」
何と返していいのか分からず、ただおうむ返しになる。
「私の方こそすみませんでした。飛び出した上に、思い切りぶつかってしまって。本当にごめんなさい」
小さく謝る彼女の目を見て、今更ながらに思い出す。この女性さっきまで、ここで泣いていたんだと。一応、泣いていた訳を尋ねるべきか、しかし個人的な問題に踏み込んでいいものか……いや、自分の立場からすれば良い訳はない。
「いや、此方こそきちんと確認もせずすみませんでした。お怪我は無かったですか?その、服は……」
「少し……いえ、本当はとても驚きましたけど、体も服も大丈夫です」
それを聞いて少しホッとはするが、後々身体に異常が出たとなっては困る。まずは自宅へ送り届ける事を最優先事項とする。
「今は大丈夫でも心配ですので。御自宅まで送らせて頂きます」
「え、大丈夫ですよ?家はすぐその先ですから」
「いえ、すみませんがこれは譲れません」
「ああ。そうですよね、……それでは折角ですし、護衛よろしくお願いします」
呟くように何か納得したらしい彼女は明るい笑顔を見せる。迷いなくすらりと出た護衛という言葉に、根拠もなく
気を遣わせた
何故がそんな気がした。
「御宅はどちらですか?」
「この道を少し先に行った、あの十字路を右に曲がって……」
肩を並べて、ゆっくりと歩き出す。
――ええと。こういう時ってどうすりゃいいんだ――
歩き出したものの、この手の経験値の少ない俺としては間が持たない。
ここは頑張って話題を振るべきか、しかし、女性が好みそうな話題って何だ。季節の話か?……それじゃあまるでどっかのご隠居みたいだよな。いや、それ以前に馴れ馴れしいと思われるかも知れないな、と尽きぬ悩みが頭の中を駆け巡る。
頼みの綱の村田は三次会へ行ってしまい、高橋と横手の二人は、少し前、入校の為に艦を去った。あいつ等がいればこういう時上手く乗り切ってくれるのだが、ボヤいたところでどうにもならない。
――しかし、あいつら普段どんな話してるんだ――
脳内に、近年立て続いて結婚式を挙げた、高橋と村田の顔が浮かぶ。
村田はともかく、奥手でこういう時は俺と同様にまるで役に立たなかった“あの高橋”も、遥ちゃんと出逢ってからというもの、傍目にも余裕が伺え、本当に人が変わったかのようだ。
ひとりゴチャゴチャ考えていると、
「松岡さんて、艦艇勤務ですか?今日、入港してましたよね?」
彼女から、予想だにしなかった直球が投げ込まれた。
「ええと、」
――参ったな――
基地の様子を見ていれば、艦の出入りくらい分かることとはいえ……一応は機密扱いになる内容だけに、見も知らぬ赤の他人に自ら明かす訳にもいかない。しかし、そんな俺の反応を汲んだのか、彼女に掬われる。
「あ、こういうことは余り話せないんでしたよね。すみません、今のは忘れてください」
勝手に話を畳む彼女の言葉に少し驚くが、こちら側のそんな事情も、この街の生まれなら知ってるのも当然か、と俺も勝手に納得する。
「いえ、こちらこそ何だかすみません」
二人とも再び無言となり、聞こえるのは寄せる波の音だけとなる。
♬〜♬〜♬〜
微妙に気まずくなった空気を打ち破るかのように、突如賑やかな音楽が鳴り響いた。
――あれ、この曲って、――
「すみません」
彼女が立ち止まり、パーカーのポケットから携帯を取り出した。松岡はさり気なく距離を置く。
「お母さん?ごめんなさい、少しのんびりしちゃって。うん大丈夫、もう少ししたら帰るから。え?もう帰ってきたの?あ、じゃあ何か買って帰ったほうが良い?」
――買い物か……あ、コンビニ!――
漏れ聞こえたその内容に、すっかり忘れていたトイレへの熱い想いがむくむくと首をもたげる。
この辺りで買い物といったら直ぐそこのコンビニしかない筈である。彼女もコンビニへ寄るのだとしたらなんとも好都合だ。
これは普段から行いの良い俺へのご褒美なのか。期待値がゆるゆると上がる。
――あとどの位だ――
思い出した途端、じわりとその欲求が強まり内心焦る。向かう道の先を伺うと、20メートルほど先にコンビニの看板の灯りが見える。よし、あと少しの辛抱だ。
「すみません、お待たせしました」
話を終えたらしい彼女が寄ってくる。
「いえ、」
また肩を並べて歩き出す。
「松岡さん、あの。コンビニ寄っても構いませんか?」
期待通りの彼女の言葉が、もはや神の福音レベルに聞こえ、思わずガッツポーズをしそうになる。
「実は私も寄るところだったので。助かります」
切実な自分の想いを伝える。
「それなら良かったです」
「ところで、今の着信音って、」
偶然にも同じ曲が好きだと分かると、ゲンキンなものでなんだか親近感が湧く。
「っしゃっせ〜」
コンビニ店員の、程よく軽い感じの出迎えを受け、彼女へひと言断りトイレへ……念願のトイレへと向かった。
――あぁ、助かった――
すっきりさっぱり、身も心も晴れやかに。手を洗い、気持ちも落ち着いてくると、先ほどまで一緒だった彼女を急に意識してしまう。
自分より15センチほど背が低く、色白で肩まで届きそうな黒髪には緩いウェーブがかかっている。
ふと、以前寄港先の浜辺で撮った、名も知らぬ白く小さい花を思い出した。
――とにかく、早く送り届けないと――
店内へ戻ると、彼女が買い物かごを持ってショーケースの前で悩んでいた。
「お待たせしました」
「あ、松岡さん。家族の飲み物を頼まれたんですけれど。松岡さんだったら……久々に帰宅して飲むとしたら、どれが飲みたいなって思いますか?」
指し示されたのは、多種多様なアルコール飲料で。
そうだ。腹も落ち着いた事だし、自分も買って帰ろう。そう思い、近くにあったカゴを手に取る。
「私は特に決まった銘柄は無いのですが。基本的にビールなのでコレとか、あと季節限定のコッチも良いですね」
言いながら、手に取りそのまま自分のカゴへ入れる。
「季節限定……それ良いですね。じゃあ同じのにしちゃおうかな」
彼女のカゴにも同じものが入れられる。
「え、ご家族のお好みとかは大丈夫なんですか?」
「大丈夫です、アルコールさえ入ってれば何でも良いみたいですから。でも私詳しくないので決めかねてしまって。松岡さん居てくれて本当に助かりました」
くすくすと笑う彼女の目には、もう涙が滲んでいない。はにかんだような笑顔が似合う、そんな彼女をもっと笑わせたい。ふとそんな事を思ったが、それは当然俺の役目などでは無く。すぐに打ち消す。
「この程度の事なら何時でもお手伝い致しますよ」
困った国民を助けるのは自衛官の務めであり、特に他意はない。お気に入りのツマミを足し、レジへと向かう。
「持ちましょう」
先に会計を済ませた俺は、その返事を聞く前に彼女の袋も持って歩き出す。この位の芸当なら、普段は娑婆から遠く離れがちな艦艇乗りでも朝飯前だ。
「あ、あの電信柱の先の右手の家です」
程なく玄関まで辿り着き、彼女の分の袋を渡す。
「遠回りさせてしまって、それに荷物まで持って頂いて。何だかかえってすみませんでした」
ペコリと頭を下げる彼女に、再度身体の具合を確認する。
「大した事ありません。それよりも、本当にどこも痛くないですか?」
「ふふ、本当に大丈夫ですよ?」
彼女は楽しそうに笑いながら、さっき掴んでしまった側の手を少し大きく動かしてみせた。この様子なら本当に大丈夫なのだろうが、念には念を、だ。
「竹下さん、ご家族の方とも少しお話をしたいので、」
♬〜♬〜♬〜
その俺の言葉を遮るようにまた携帯が鳴った。鳴ったと思ったら、次の瞬間、玄関のドアが大きく開いた。
「詩織!お前、暗いのにひとりでフラつくなんて危ないだろ!今迎えに行こうと……え……松岡二尉?あ、いえ、もう一尉」
「は?竹下?……お前ここで何してる」
「何と言われましても、ここ、叔父の家なんです。一尉は、え、ええとどうして詩織と」
目の前で呆然としている竹下光流は、同じ艦に乗る一曹だ。ほぼ同時期に配置され、歳も1つしか違わない竹下とは不思議とウマが合う。お陰で仕事の面でもやり易く、色々と助けられているのだが。
その竹下が、確かに不意打ちのような形にしろ、彼女と俺を交互に見比べる彼は、普通そこまで驚くか、と言うほど混乱しているように見える。
そういや、何時だか酒の席で、基地のそばに親戚が居ると居ないとか聞いた気がする。
……という事は、
彼女の方へ向き直り確認する。
「君、竹下一曹のご親戚?」
「はい。光流ちゃんがいつもお世話になってます」
おいおい、こんな可愛い従姉妹が居るなんて聞いてなかったぞ。てか、竹下。お前どう見ても光流ちゃんてキャラじゃないだろう。
「私が慌ててて、うっかり松岡さんにぶつかっちゃって。もう暗いからって心配して送ってくださったの」
「あ、え!そうだったんですか、お世話かけてすみませんでした!一尉、お茶でも飲んでいってください」
「いや、竹下。実はな、俺が」
「松岡さん、上がって貰わないと私が母に叱られちゃいますから、」
訳を話そうとする俺を遮り、そっと背中を押す彼女の手に抗えず、そのまま玄関の中へ押し込まれてしまう。
「お母さ〜ん、ただいま〜」
「詩織、今光流ちゃんが飛び出して行ったんだけど会わなかった?もー、あのコあんたの事になると本当に煩いんだから、ってなんだ一緒だったの……あらやだ、ゴメンなさい。お客様?」
「さっきそこでお会いした松岡さん。夜道が危ないからって送ってくれたの。海上自衛隊の方で、光流ちゃんともお知り合いみたい」
ええ、光流ちゃんの事はよく存じ上げてますが。
「まぁ、松岡さんですか。光流の叔母です。甥がいつもお世話になっております。今日は詩織までご迷惑をお掛けしたようですみませんでした。さ、大したお構いも出来ませんけれどどうぞおあがり下さい」
「あの、竹下さん。実はですね、」
「あら松岡さん、何かご予定でも?お急ぎですか?」
竹下の叔母……つまり彼女の母親の、その絶やさぬ朗らかな笑顔の裏に、断ることを憚られる強い何かを感じる。
「いえ、特には無いのですが」
押し問答になるが、慣れないこの状況下で、相手のペースから抜け出せない。
まあ確かに急ぐ用もなく、先ほどのアクシデントの所為なのか、気怠さももう感じないが……とにかく今は、彼女との一件の謝罪をした上で、ひとまずこの家を後にするべきなのは間違いない。
改めて丁重に辞退してみるが、しかし頼みの光流ちゃんが今回に限って頼りにならず、劣勢から抜け出せない。
「さあ、ここでは何ですから、本当、遠慮なさらずおあがり下さい」
遂には母親の勢いに負け、少しだけお邪魔する事にする。靴を脱いで上る際、
「あの。さっきの事は、2人だけの秘密にして下さいね?」
すれ違いざまにそっと囁かれ、その言葉に混乱し、その近さに一瞬緊張が走る。
彼女がどういうつもりか知らないが、そういう訳にはいかない。
居間に通されると直ぐに、母親がビールと漬け物を持って来る。
「折角ですが、ビールはちょっと」
「え、松岡一尉、いつもビール派じゃないですか。具合でも悪いんですか?」
「まあ、そうだったんですか?」
母親が、心配そうに配膳の手を止める。
「いえ、そうではなくて。詩織さんのお母さん、ちょっと宜しいですか」
促し、椅子に腰を下ろして貰う。
「あら、お母さんだなんてなんだか照れちゃうけど、何でしょうか?」
「実は、お詫びしなければならない事がありまして、」
「え、松岡さん!それはもう終わった話ですから、」
そこへ、料理を乗せたお盆を持って彼女が入って来た。
「いや、話さない訳には」
「え、何かあったんですか?」
光流ちゃんも眉をひそめ、ビールを注ぐ手を止める。
「だから、何でもないって、」
「詩織、松岡さんがお話ししているのに、横から口を挟まない。良いからあなたもここへお座りなさい」
ピシャリと畳まれ、彼女も渋々といった様子で盆を置き椅子に腰掛ける。
話すべきだと分かっていても、こうも皆の視線が集まると尻込みしそうだ。
「実は、今夜は仲間と飲みにに出ていたのですが、」
「あ、そういえば、そうですよね。一尉何でこんなに早いんですか?皆さんは?」
「光流。あなたもお黙りなさい?」
笑顔の母親が視線を投げると、光流ちゃんもハイ、ゴメンナサイ、と口を噤む。うっすらと、この家の力関係が伺えたような。
気を取り直して話を続ける。
「続きですが、訳あってひとりで先に帰る途中、海岸から人の泣くような声がしまして。普段はこんな時間に人がいるような場所ではないので、少し不審に思いましたが、」
ひと息入れ、続ける。
「そのまま通り過ぎようとした所で、海岸の方から白い影が……いえ、詩織さんが、」
「詩織!あんたコンビニ行くだけって言ってたでしょ!なんでひとりでそんな人気のない所で泣いるの! ?紅葉が死んじゃって悲しいのは分かるけど!何かあったらどうするつもりなの! ?」
ええと、今度はアナタデスカ。
何だろう。さっきから先に進めていない気がする。というか、紅葉って何だ。誰か亡くなったのか。
大切な人が亡くなったのなら泣くのも当然だろうが、明らかに、あそこは夜に女性ひとりでウロつくには相応しい場所ではない。
「ごめんなさい、紅葉が好きだった場所だったから、つい……」
「え!何、紅葉死んじゃったの?てっきりまた寝てんのかと思ってた……。何時?」
おいおい、光流ちゃんまで。人がひとり亡くなったらしいのに、死んじゃったは無いと思うが。
「1週間くらい前。この間、光流ちゃんが出港した直後から少しずつ食が細くなって、寝る時間も多くなって。獣医さんに診てもらったら、老衰ですって。本当に寂しくなっちゃったけど、15年も生きてくれたんだもの。マルチーズとしては大往生よね、」
何だ、犬のことか。そうか、可愛がっていたんだな。それで泣いてたんだ……いや待て、俺まで流されてどうする。
「紅葉ちゃんは本当にお気の毒でした。が、すみません、先続けます。道の脇から出て来た詩織さんとらちょうど鉢合わせになったのですが、不審者かと思い、つい一本背負いを」
「え、一尉、詩織をぶん投げちゃったんですか? !」
「違うのっ、私が道に飛び出して松岡さんにぶつかったの!でも、投げられてないから!松岡さん、引き寄せただけで!私を見て直ぐ手を止めてくれたから!」
必死に説明をする、そんな彼女の様子に、光流ちゃんと母親は驚いたように顔を見合わせている。
それはさて置き、俺としてはそろそろ最後まで言わせて欲しいのだが。
「ええと、それでですね。詩織さんは大丈夫だと仰るのですが、やはり怪我が無いか心配でして。本当に申し訳ありません。この件は上に報告をし、後日改めてお詫びに伺いたく、まずはその旨のお許しを頂きに参りました」
ようやく目的を達し、起立し深く頭を下げる。
「まあ、それで態々(わざわざ)?松岡さんのご事情もお気持ちも良く分かりました。詩織、あなた身体はどうなの?」
「ああ、それなら俺が」
光流ちゃんが彼女の腕を取り、上げたり下げたり、肘を曲げたり伸ばしたり、捻ったりしてみせる。が、彼女は痛がる様子もなく、ただ困ったように笑う。
光流ちゃんも頷き、
「確かにこれなら大丈夫だと思います。念の為、叔父にも診てもらいますし、必要があればまた追ってお知らせしますが。どうします?一尉も確認されますか?」
いや、光流ちゃん。君も俺も医官でも無いし、ましてや俺は赤の他人だ。やはりそれはダメだろう。しかし、聞けば光流ちゃんの叔父である父親は、整形外科の開業医だというのだから、奇遇とはいえ幸運だった。
「いや、それで十分。竹下、有難うな」
「本当に何ともないのに」
少し拗ねたような彼女に母親も光流ちゃんも笑うが、俺は安心した途端に喉の渇きを覚えた……。早く帰って飲み直したい。
「松岡さん、本当に御免なさいね。二十歳過ぎてもそそっかしい子で、お恥ずかしい限りです。この件のご報告はお立場的に必要であるのならばお任せしますが、お詫びは今きちんとして頂きましたし、そもそもが詩織が発端で起こった事です。どうかもうお気になさらず、詩織のためにもこれで終わりにして頂けませんか?」
頭を下げる母親の手前、恥ずかしくてとても幽霊かと疑ったなどとは、口が裂けても言えない。
「いえ、咄嗟の判断が悪かったのは私の方です。大切なお嬢様に、」
「やだわ〜、お嬢様だなんて柄じゃないわよねぇ?」
憚らずにカラカラと笑う母親に光流ちゃんも、
「まあ、ドジな詩織には無縁の呼称だよな」
と呟く。そうか、そんなにドジなのか。ひとは見た目では分からないもんだな。
「もう、二人して酷いんだから」
少し面白くなさそうな、それでいてホッとしたようなそんな彼女を尻目に、
「はい!じゃあ、この件はこれでお終い!松岡さんも宜しいですね?」
パンッと手を打ち一方的に終了宣言をする母親に、さあさあさあと酒とツマミを勧められる。
そんな図々しいことは出来ないと暇を告げるが、先ほど彼女が買ったビールに、俺の分も含まれていたのだと聞かされるとどうにも断りきれず。
乾ききった喉を潤したいということもあり、結局「少しだけ」と、お言葉に甘えることにした。
しかし、艦の飯とはまた違う、酒の進む美味いツマミを堪能し。少しのつもりが、すっかりこの場に馴染んでしまった頃、この家の主人が帰宅した。
改めて姿勢を正し、再度事の経緯を説明し詫びたのだが。まるでデジャブかのように、先ほどと同じやり取りの後、父親の診立てで、彼女の腕は問題ないだろうと評価が下される。
今度こそ帰えろうと試みるが、四人に阻止され。結局は甥っ子がよほど可愛いらしい父親を交え、思いの外話も弾み、実に楽しい時間を過ごした。
* ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ *
「こんなに遅くまでお邪魔してしまって、すみませんでした。お料理本当に美味しかったです。ご馳走様でした」
「いいえ、大したお構いも出来なくて。私の料理で良かったらまた何時でもいらしてくださいね。松岡さんなら、光流ちゃん抜きでも大歓迎ですから」
「有難う御座います。機会があればまた是非お邪魔させて頂きます。それでは、私はこれで失礼致します。お休みなさい」
「はい、お気を付けて。お休みなさい」
「なんだ、松岡さんも光流と一緒に泊まっていけば良いじゃないですか」
――ウチは男の子が居ないから、たまに来る光流と飲み明かすのが楽しみなんですよ、――
と先ほど嬉しそうに語っていた父親に、再度引き止められる。
なんとも有難い申し出だが、いくら光流ちゃんの親族とはいえ、今日知り合ったばかりの家に流石にそれは……
「有難う御座います。明日は用がありますので、それもまたの機会にお願いします」
適当に繕った理由を付け、その場を凌ぐ。
――次は絶対ですよ!男と男の約束ですからね!――
と、中々俺を放そうとしない、少し酔いの回った父親を母親が窘め、彼女が宥める。
門の外まで見送ろうとする光流ちゃんを押し留め、賑やかな竹下家を後にした。
膨れた腹をさすりながら、夜気に包まれ歩き出す。綺麗に輝くまん丸い月に、行く道を照らされる。さらりと撫でる海風が、普段よりも心地良く感じられた。
* ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ *
昨夜は遅かったにもかかわらず、何故かいつもの時間より少し早く起きてしまった俺は、空が徐々に明るみを帯び始める中、ひとり甲板で身体を解していた。身体が温まった頃、同僚を含めて見知った顔が集まり出す。
しかし、昨夜は本当に食べ過ぎた。普段より酒はかなり抑えたつもりだが、艦の飯とは違う、久々の家庭の味につい箸が進んでしまった。
いつものメニューをこなした後、朝食前にもう少し体を動かすかという話になり、その前に一息入れる。甲板に胡座をかき、村田と並んで水を飲んでいると
「松岡一尉!」
なんと、光流ちゃんが近づいて来たではないか。
朝から元気な光流ちゃんは、俺と村田に敬礼をした後、
「これ、お忘れ物です」
その存在すら忘れていた、すっかり温くなったビールと、乾きものが入ったコンビニ袋を差し出してきた。
「悪かった、すっかり忘れていた。皆さんに召し上がって頂いても構わなかったが……竹下、まさかこれの為にこんな早く戻って来たのか?」
「いえ、それもありましたけど、自分も今日用事があったので。本当は昨日帰りたかったんですが、叔父があの調子ですから」
「ああ、成る程」
確かにあれでは帰れまい。
ふと、昨夜の楽しい時間が蘇る。正直、ああいうのも良いな、とは思うが……まあ、所詮俺には無縁な世界だ。
「わざわざ済まなかった、有難う。皆さんにもよろしく伝えてくれ」
「……それが、ですね……」
光流ちゃんが、困ったように顔を曇らせ、言葉を詰まらせる。
「なんだ、何かあったか?」
――まさか、――
瞬時に昨夜の彼女の姿が蘇る。
「彼女に何か、」
「あ、いえ!詩織はピンピンしてますから、ご心配には及びません」
その言葉にホッと胸をなで下ろす。
「実は、叔母にどうしてもと強く頼まれまして」
「叔母さんに?」
「次の出港の前……たとえば今夜にでも、一尉と一緒に泊まりにきて欲しいと言いだしまして。入校前で特にお忙しいお身体だし、ご迷惑だからと言ったんですが……叔父はすっかりその気で」
マジか。てっきり社交辞令かと軽く考えていたが。穏やかそうでいて、その実有無を言わせ無いような。光流ちゃんの叔母……彼女の母親の笑顔が浮かぶ。
「お気持ちは実に嬉しいんだが、流石にそれはちょっと」
「そうですよね、参ったな〜」
「雅、折角のお誘いやのに、なんで行かへんの」
そこへ、それまで隣で汗を拭きながら黙って聞いていた同僚、村田が珍しく口を挟んできた。奥さんである愛しの霞ちゃんが実家の用事で明後日まで留守らしく、珍しく艦でのんびりしている。
高橋と横手に続き、俺とこの村田も入校を迎え、直にこの艦を離れる。馴染みのある艦を出るというのは、やはり色々と思うところがある。それは、やはり村田とて同じなのだろう。
しかし、頭の回転が早くソツが無いが、余計な詮索は一切しない。そんなコイツが少し変わったのは、やはり霞ちゃんの影響なのか。
因みにこの村田には、既に上官へ報告済みの昨夜の経緯を、つい先ほど掻い摘んで話したばかりだったりする。
「行けん要素が一個も見当たらないんやけど」
「だってな、昨日今日会ったばかりの方たちだぞ?」
「そりゃそうかも知れんけどな?俺、その親父さんの気持ち、なんや少し分かる気する。竹下の親族なら問題ないだろうし、ええんちゃうか?」
「しかしなぁ」
「いえ、やっぱりご迷惑ですから。変なこと言ってすみませんでした。」
「いや、決して迷惑という訳では無いんだが」
女運に恵まれないうちに、気が付けば、女性嫌悪症かと勘違いされるまで奥手になっていた高橋のケースとは少し違い、無闇に他者をパーソナルエリアに入れないという、自分自身に課した信条の為。
俺は私生活でも安易に一般の人と関わること自体を、可能な限り避けている。
しかし今回は、彼女に対する引け目もあり。流石にこのままでは先方に悪い気がしてならない。
「ねぇ竹下、先方のご都合が合えばだけどね?次の入港の時にでもこっちに来て頂いたらどないや?」
「え、村田一尉、そんな事出来るんですか?」
「どうせ団体さんがひと組、予定入っとるし、なぁ?」
村田は暗黙の内に推してくる。
「そうだな、可能かどうかちょっと聞いてみる。もしもOKが出たら、昨夜のお礼という事で叔父さん達に声掛けて貰えるか?」
「了解しました!有難う御座います!」
パッと目を輝かせる、光流ちゃんの底抜けの喜びようを見ると、相当な期待が掛かっていたのかと少し気の毒に思う。彼女の一件だけでなく、あれだけご馳走になった事もあり、これは何とかするべきかと考えを改める。
――まぁ、一度くらいなら問題ないか――
鼻歌を歌う光流ちゃんの後姿を見送りながら、意外にもそんなに億劫と思わない自分に気づき、少し驚く。
そんなやり取りの後も、村田は特に何いう訳でもなく。また2人で少し体を動かし、村田は朝飯を済ませると自宅へ戻り、俺は身の回りの整理を済ませると仕舞い込んでいた一眼レフカメラを取り出す。
写真は、入隊前から続いている数少ない娯楽というか、唯一長年続けられている趣味だ。とは言っても、専門の広報の様な腕はなく、下手の横好き程度なのだが。
最近は、写真を撮るというよりも、そのものを捉えるという、その行為自体にハマっている。
自分では上手く捉えたと思っても、いざ再生すると大抵は満足のいく出来ではなく。如何にして、自分の目に飛び込んだ、そのままの景色を捉えるか。呼び出しさえなければ時を忘れ、数時間撮り続けるなんてザラだ。
カメラをチェックし、今日、明日は陸でゆっくり楽しもうとリュックを担ぎ艦を後にした。
* ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ *
いつも通り、外泊届を出してあった俺は、基地から少し離れた場所にある、山の頂に久々に訪れ、刻々と移り変わる雄大な景色を思う存分堪能した。
満足して帰路に着いたのは空が白み始めた頃だった。途中、ふと思いった俺は、自販機で買ったコーヒーを片手に防波堤に腰掛け、目の前の海を眺めていた。
身体の隅々まで染み付いたこの波音、そして頬を撫でる潮風が心地いい。道の先へ視線を流せば、朝靄の中に浮かび上がる、我が家である艦が目に止まる。
美しいが、どこか他者の介入を許さないような厳かさを備えており。何度見ても見飽きることがない。
――え?――
艦へ目を向けたその視界の端に、違和感を感じて意識を向けると、少し離れた場所に、俺と同じように防波堤に腰掛け艦を見つめる人影が目に止まる。
何となく、彼女だと、確信に近いものがあった。そういえばここは竹下家からさほど遠くない場所だったな、と今更ながら気が付く。
何故だか解らないが、彼女から目を離すことが出来ない。無意識のうちにカメラを取り出していたらしく、恐らく数枚シャッターを切ったであろうタイミングで我に返った。
――ここに居るべきではない――
自然と心にブレーキがかかる。浮かんだその感情に付き従い、データも確認せずカメラを仕舞うと、後ろを振り返らずに今来た道を戻った。
互いの距離や、常にシャッター音をオフに設定しているという安心感、そして波音で気配も消えていると勝手に信じていた俺は、彼女に気付かれる筈がないと思い込み……油断をした。
その場を黙って立ち去る俺の後ろ姿を、彼女が見詰めていた事など、どんな想いで居たのかなど……この時は知る由もなかった。
* ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ *
少し、のんびり更新になるかもしれません・・・。