0973.聖典を見たい
広場の隅に乗用車が数台あった。端のワゴンは、演台付きのワゴンと同じ、国会議員イーヴァのポスターが貼ってある。
少年兵モーフは思わず身震いした。
車の陰に公衆トイレがある。取敢えず用を足して考えた。
……国会議員のババァのアジトを突き止めて、葬儀屋のおっさんにアミトスチグマに跳んでもらって、ラクエウス議員やスパイの兄ちゃんたちに知らせねぇとな。
このイーヴァとか言う国会議員のババァを放置すればどうなるのか。
少年兵モーフには、具体的なことは全く想像がつかないが、ソルニャーク隊長やDJレーフがディケア共和国の現状について話す様子は、タダゴトではなかった。
レノ店長に教えられた通り、しっかり手を洗って、交換品でもらったキレイなハンカチで拭きながら公衆トイレを出た。
ハンカチを持ったまま、チラリと人集りを窺う。
みんなワゴン車の屋根で演説するババァに夢中で、誰もこちらを見ていない。
モーフはそっと乗用車とワゴン車の間に入り、ハンカチ越しにワゴンの扉に手を掛けた。鍵が掛かっている。運転席と助手席も同じだ。
……アーテル軍が囮の銃に仕掛けた発信機ってヤツがありゃ、楽にアジトを突き止められんのにな。
ネモラリス人有志ゲリラがアーテル本土に作ったアジトは、それで突き止められてアーテル軍の急襲を受けて壊滅したらしい。
……ないモンはしょうがねぇ。
少年兵モーフは後部の荷台扉に手を掛けた。カチリと音がして扉が浮く。
素早く左右を見回した。近くには誰も居ない。目の高さまで扉を上げた。
段ボール箱が積んであるが、モーフが乗る余地はある。
隅にブルーシートが畳んで置いてあるのをみつけた。広げて段ボール全体を覆い、乗り込んだ。扉を閉めてブルーシートの下に潜って身を縮める。
どのくらい時間が経ったのか。
待ちくたびれて欠伸が出掛かった頃、足音が近付いて来た。
少年兵モーフが息を止めて身を固くする。
運転席と後部座席のスライドドアが同時に開き、おっさんたちが喋りながら乗り込んだ。ドアが閉まった途端、エンジンが掛かり、ワゴン車が動きだす。
鼓動でバレるのではないかと心配になり、思わず息を止めた。
「イーヴァ先生の演説、今日も最高だったな」
「周辺国との友好関係の構築や、経済協力に信仰の垣根はありませんって、イイコト言うよなぁ」
「湖水の光党の妨害さえなければ、今頃はもっと湖東地方の国々と友好関係を築けたでしょうに」
「もう連立を解消する頃合いなのかもなぁ」
「極右のネミュス解放軍に与する議員もいるようですし、臨時政府内でも意見の対立が深まるばかりで、政策の決定がなかなか進みません」
おっさんたちが何屋なのかわからないが、どうやらイーヴァ議員の仲間で間違いないらしい。
話が難しくて、モーフには半分以上わからなかった。
信号で止まる度に、いよいよかと心臓が跳ね上がる。
モーフは、今度から香草を持ち歩こうと心に決めた。
ついにエンジンが停止し、おっさんたちが難しい話をしながらワゴンを降りる。足音が離れ、チャラチャラした金属音に続いて扉が開閉する音が聞こえた。
少年兵モーフは、そこから更に百数えるまで待って、そっとブルーシートをずらした。
真っ暗だ。
段ボールに乗り、後部座席に這い上がる。手探りでロックを外し、車外に出た。なるべく音を立てないようにスライドドアを閉める。
灯がなく、広さも全くわからないが、室内らしい。
演説を聞いたのは午前中、店が昼メシの仕込みをする時間だった。
……日が暮れるくらいの長話じゃなかったよな。
開閉音が聞こえた方向に目を向けると、うっすら四角い光が見えた。扉の外は明るいらしい。
摺り足でゆっくり光の枠に近付き、細い光の傍に手を這わせる。ドアノブを探り当て、慎重に動かしてみた。
鍵は掛かっていない。
細く開け、隙間から覗く。
眩しさに思わず目を細め、慣れるのを待った。
大きな窓がある廊下だ。
タイル貼りの床が、突き当たりの扉まで続く。タイルはキレイな幾何学模様だが、ランテルナ島の建物のように呪文が仕込んであるようには見えなかった。
突き当たりに木製の扉、右手には大きなガラス窓が並び、左は白い壁だ。
……外に誰か居たらマズいな。
窓側の壁に身を寄せ、腰を屈めて突き当りまで走った。
木製の扉も無施錠だ。不用心だと思うが、今は有難い。
細く開けた正面は壁で、モーフは顔だけ出して辺りを窺った。磨き込まれた木の廊下が左右に続き、正面の壁はぽつぽつ木製の扉が並ぶ。
人影がないのにホッとして廊下に出た。
美味そうな匂いに腹が鳴る。
……誰も居なくてよかった。
ドーシチ市のお屋敷程の立派さではないが、ここもかなり広い家らしい。足音を忍ばせ、壁伝いに右の方へ行ってみた。
突き当りの角を曲がったところで、背広姿のおっさんにみつかってしまった。逃げようにも隠れられる場所はない。諦めて、駆け寄るおっさんを待った。
「坊や、どこの子? どうしてここに居るのかな?」
黒髪に白い物が混じるおっさんが、膝を曲げて小柄なモーフに目線を合わせた。徽章はない。細く筋張った首に一発かませば倒せそうな気がしたが、後が面倒だ。
こんな急にローク兄ちゃんのような巧い嘘が思い浮かばず、正直に言った。
「港の広場でイーヴァ先生のお話聞いて、カンドーしてついて来たんだ」
「どうやって?」
「車」
「一緒に乗って来たのかい? おじさん、お客さんが来たって聞いてないんだけど?」
背広のおっさんは、ラジオのおっちゃんと同じくらいの歳に見えた。わざとらしく驚かれ、モーフはムッとして答えた。
「こっそりついて来たんだ」
「おうちはどこ? おじさんが車で送ってあげよう」
「ないよ」
「ない?」
おっさんは本当に驚いたらしい。
「焼けたから、もうない」
「おうちの人は?」
「ねーちゃん、足悪かったし、多分みんな死んだんじゃぇねか? みつかんなかったし」
モーフが暗い声を出すと、おっさんは泣きそうな顔で俯いた。
……こんな奴いっぱい居んのに。チョロいおっさんだな。
「イーヴァ先生が言ってたの、キルクルス教の聖句だよな。“聖者キルクルス・ラクテウス様。闇に呑まれ塞がれた目に知の灯点し、一条の光により闇を拓き、我らと彼らを聖き星の道へお導き下さい”って奴」
「坊や、どこでそれを?」
「近所のおっちゃんに聞いたんだ。みんなには内緒だけど、聖者様は俺たち力なき民の味方なんだって」
「坊やが元々住んでたのはどこかな?」
おっさんがやさしい声で聞く。
モーフは余計なことを言わないよう、慎重に言葉を選んだ。
「ネーニア島。イーヴァ先生はホンモノ見んの初めてだけど、ポスターとかで見たことある」
「ゼルノー市民か……大変だったね。今のおうちはどこの仮設住宅だい? 送ってあげよう」
気の毒そうにモーフを見る目に涙が滲む。本当に同情したらしい。
「その前に、聖典持ってたら見せてくんないかな? 俺、ハナシ聞いただけで、ホンモノの聖典って見たコトないんだ。折角ホンモノのイーヴァ先生見られたんだし、ついでにちょっとくらいいいだろ?」
近くの部屋からイーヴァ議員本人と仲間、合わせて十人がぞろぞろ出て来た。
☆ソルニャーク隊長やDJレーフがディケア共和国の現状について話す様子……「0937.帰れない理由」~「0939.諜報員の報告」参照
☆アーテル軍が囮の銃に仕掛けた発信機/突き止められてアーテル軍の急襲を受けて壊滅……「269.失われた拠点」「367.廃墟の拠点で」「389.発信機を発見」参照
☆湖水の光党の妨害……渡航制限がある「728.空港での決心」参照
☆連立/臨時政府内でも意見の対立……「684.ラキュスの核」「693.各勢力の情報」参照
☆ランテルナ島の建物のように呪文が仕込んである……「445.予期せぬ訪問」「491.安らげない街」「492.後悔と復讐と」「493.地下街の食堂」参照
☆ローク兄ちゃんのような巧い嘘……「808.散らばる拠点」参照
☆ねーちゃん、足悪かった……「0037.母の心配の種」「062.輪の外の視線」「313.南の門番たち」参照




