0099.山中の魔除け
早朝の街は、静かだった。
雀の囀りの他、何も聞こえない。
新聞配達の少年が、二人に軽く会釈して駆けて行った。
……戦争になっても、新聞は毎日あるのね。
針子のアミエーラは、ぼんやり考えながら、黙って店長について歩く。東側……坂の下を振り返ると、視界一面が焼け野原だ。黒い焼け跡に建物はひとつもない。
ずっと遠く、湖岸の工場がよく見えた。
その向こうの湖は、平和な頃と何も変わらず、穏やかに輝く。
自治区のバラック街が焼けたのは、戦争のせいではない。
それでも、結果は同じことだ。多くの人が命と住居と、なけなしの財産と仕事を失った。
アミエーラも父を諦めた。
リストヴァー自治区の団地地区は今のところ無事だが、ここもいつまでこの状態が続くかわからない。
仕立屋を出て、しばらく坂を登って西へ進み、酒屋の角を曲がって南へ行く。
アミエーラの遠縁が居るらしいネモラリス島は、ネーニア島の北東にある。
昨日の新聞は、ゼルノー市やマスリーナ市の港が空襲で壊滅したと報じた。
紙とインクを節約する為か、娯楽系のページをやめてページ数を大幅に減らし、当面必要な情報だけが掲載された。
自治区東部バラック地帯の火事の件も、生存者向けの救援情報や、死者の身元発表などが載る。
身元の分かる死者は、逃れたものの火傷が元で亡くなった人々だ。
逃げ遅れた人たちは、骨も残ったかどうか定かではない。
アミエーラは、いつも親切にしてくれた近所のおばさんを思い出した。
おばさんには、アミエーラよりひとつ上の娘と、みっつ下の息子が居た。
母が亡くなってから、何くれとなく世話を焼いてくれた。
アミエーラは仕立屋で働くようになってから、店長にもらった端切れでリボンや巾着袋などを拵えては、おばさんや近所の女の子たちに渡した。
子供の頃の恩返しに、おばさんの姉娘が拵えた蔓草細工を団地地区で紹介し、客を増やす手伝いもした。
リボンを渡した時、姉娘は白薔薇が咲きこぼれるような笑顔を見せてくれた。婚礼衣裳の余り布で作ったリボンは、色白の姉娘によく似合うと思った。
あの混乱の中、足の不自由な姉娘が無事に逃げられたとは思えない。
あの笑顔は、もう見られない。
アミエーラは涙を堪えてクブルム山脈への道を急いだ。
住宅街の道は、南に行くにつれて細くなり、人家が減ってゆく。代わりに、ちょっとした畑や倉庫が増え、一時間程行くと、それもなくなった。
アスファルトの舗装道路が途切れ、草地を貫いて石畳の小道が通る。
敷き石の隙間に冬枯れの草が密生し、荒れ果てた石畳が山に続いた。
「これをご覧なさい」
店長が、敷き石のひとつを指差した。文字のような模様が刻まれている。
アミエーラの返事を待たず、店長は小声で続けた。
「これは【魔除け】の印。十二個置きにこれがあって、この道を雑妖や弱い魔物から守ってくれるのよ」
アミエーラは驚いて店長を見た。老女はそれ以上言わず、再び歩き始めた。
すっかり葉を落とした森に入っても、石畳の小道は続いた。
店長は杖とは別に枝を一本拾い、降り積もった落ち葉を掻き分けながら進む。アミエーラもそれに倣い、肩を並べて歩いた。
「この道は、山に入ってから少し行くと、ラクリマリス王国へ抜ける道と、ピスチャーニク区へ行く道に分かれるの」
店長は皺だらけの手で南を指差し、そのまま西へ手を動かした。
冬枯れの木立と斜面に遮られ、隣国もピスチャーニク区も見えない。
「この【魔除け】は、地脈の力を使ってるそうよ。魔力を持つ人が踏めば、効力は強くなるけど、その人はその分、疲れるそうだから、なるべく踏まない方がいいかしらね」
「……そうですね」
慣れない山歩きで、ただでさえ疲れるのだ。それに【魔除け】なら、お守りとリュックサック、肌着、コートにもある。
木々の枝を抜け、森に射しこむ光は弱い。
それでも、雑妖を除けるには充分らしい。視える範囲には居なかった。
葉が生い茂る季節なら、昼でも居ただろうと思うと、今が冬でよかったような気がする。
店長が用意してくれたコートは、【耐寒】の術で寒さからもアミエーラを守ってくれた。
「このまま真っ直ぐ、山の方へ行くと、分かれ道に出るわ。ピスチャーニク区の方へ曲がって、ずーっと西へ行けば、また分かれ道。そのまま真っ直ぐ、ゾーラタ区へ行く道と、ピスチャーニク区に降りる道よ」
「どっちへ行けばいいですか?」




