0944.聖典の取寄せ
「リストヴァー自治区のことなのに、ラクエウス先生へのご連絡が遅くなってしまって、すみませんでした」
若手のクラピーフニク議員が、老国会議員の渋面を前にして、叱られた子犬のようにしょげ返る。
自治区選出の老議員ラクエウスは、気持ちを落ち着かせようと、ひとつ大きく深呼吸した。溜め息に見えたのか、秦皮の枝党の国会議員がますます身を縮める。ラクエウスは白い眉を下げた。
「腹を立ててなどおらんよ。君たちの気遣いだとわかっておる」
顔を上げたクラピーフニク議員にすかさず釘を刺す。
「ただ、今後は、そのような気遣いは無用に願うよ。そんなに年寄り扱いされたのでは、気持ちまで老け込みそうだからな」
口の端で笑ってみせると、若手は泣きそうな顔で笑った。
アミトスチグマ王国の夏の都は、春の花が咲き乱れ、白壁の家々が画布のように彩られる。
支援者のマリャーナ宅も例に漏れず、花壇や庭木の花々が競うように咲き揃い、窓の外が随分、賑やかになった。
二人はコンピュータを何台も用意してもらった部屋に居る。
いつもはファーキル少年が詰めているが、今日は街へ出て留守だ。
気を取り直したクラピーフニク議員が、すっかり慣れた手つきでキーボードを操作し、コンピュータの大きな画面に写真を表示させた。
「ラゾールニクさんとフィアールカさんが送ってくれた現地の現在の様子です。他にも映像と音声があります」
「自治区の……どこだね?」
リストヴァー自治区を隅々まで知り尽くしたラクエウス議員が、全く知らない真新しい街並だ。
「東教区と言う所だそうです。えーっと……これかな? 大火後のインフラ整備が完了。教会や学校は再建済みで、現在は、仮設住宅や建設途中の物件がまだ多いが、住宅の復興もそこそこ進んでいる……とのことです」
タブレット端末で報告者のコメントを確認しながら解説し、次の写真に切り替える。
「これが、再建された東教区の教会で、フィアールカさんが届けてくれた救援物資を配布する様子です。こっちのテントは救護所で、セプテントリオー呪医が治療を担当して下さいました」
呪医は昨日、アミトスチグマに戻ったばかりで、今は別室で休んでいる。
一緒に戻った星の道義勇軍のソルニャーク隊長とFMクレーヴェルのDJレーフは、諜報員ラゾールニクが、ネモラリス島北部のヤーブラカ市に【跳躍】で送り届けた。
運び屋フィアールカは、クブルム街道の再整備で法面の土留め工を行う【穿つ啄木鳥】学派の職人の手配で忙しい。
ラクエウス議員は写真に目を凝らしたが、治療を待つ人々の顔に恐れや怯えの色はなかった。
「ふむ。まずは、教会で堂々と呪医の治療を受けられるようになっただけでも、よしとしようか」
ネミュス解放軍を率いるウヌク・エルハイア将軍と、区長と東西の司祭、ラクエウスの姉クフシーンカが、リストヴァー自治区の代表として、今後の対応を交代で協議したと言う。
立会人として呪医セプテントリオーと、FMクレーヴェルの局員、記録係としてラゾールニクも加わった。
湖の民セプテントリオーは、リストヴァー自治区と救急協定を締結したゼルノー市立中央市民病院の外科部所属で、自治区の内情を知る唯一の呪医だ。ラクエウス議員も、協定の会議で何度か言葉を交わしたことがあった。
その彼は、ウヌク・エルハイア将軍の遠戚でもあると言う。
確かに驚きはしたが、立会人としては申し分ない人物で、初回だけとは言え、彼が同席してくれたことは幸運だったと言えよう。
FMクレーヴェルの局員DJレーフは、ネミュス解放軍の一部が将軍に無断で兵を動かし、自治区へ進攻したとの情報を掴んだ。
ネミュス解放軍ペルシーク支部長のコンボイールと旧知だった為、彼に知らせたところ、将軍に直接、報告させられた上、停戦の立会人として自治区へ連れて行かれたと言う。
……見覚えのある名だと思ったら、国営放送のアナウンサーと共に臨時放送していると言う彼ではないか。
広いようでいて狭い世間というものを思い、ラクエウス議員は嘆息した。
かつてバラック街であった東教区は、全く知らない街に生まれ変わった。
写り込んだ人の中に見知った顔をみつけ、その無事に何とも言い表し難い喜びと安堵、寂しさの入り混じる感慨を抱く。
クラピーフニク議員は解説を加えながら、ゆっくり写真を切り替えた。
「先程もご説明しましたが、現地へ跳んだ支援者のみなさんは、無事です。それで、今日の夕方には、先生のお姉さんのお手紙と、司祭様の報告書、自治区民の要望を取りまとめたものが届く予定です」
ラクエウス議員は、ひとつ気になったことを思い切って聞いた。
「星の標はどうなったのだね? 教会で治療を受けられるようになったと言うことは、解放軍が区長だけを残して……」
「いえ、戦闘で死亡した人は居るそうですが、負傷者は救護済みで、現在は少人数のグループ単位で再教育を行っているそうです」
「再教育?」
「西教区と東教区の司祭が交代で、聖職者用の聖典を見せながら、読み聞かせるそうです。会議の後、将軍もその勉強会に加わっているそうで……」
「ウヌク・エルハイア将軍が? 彼は絶対に改宗せんだろう」
ラクエウス議員は苦笑した。
ウヌク・エルハイア将軍は、湖の女神パニセア・ユニ・フローラの血に連なるラキュス・ネーニア家の有力な分家筋の者だ。旧王国時代にもラキュス・ラクリマリス王国軍の要職に就いていた。
フラクシヌス教の神々を否定する教えに傾くなど、考えられない。
「前回の和平では道を誤ったが、キルクルス教の教義をよく知れば、今度こそ正しい道を選べるだろう……とのことだそうです。フィアールカさんからも、フラクシヌス教の神話の絵本を自治区へ送る手配を頼まれました」
「そうか……相互理解……か」
ラクエウス議員は、何を成すべきか目紛しく頭を働かせた。齢九十を越える頭脳には、これまでの知識や失敗や成功の経験をたっぷり蓄えてある。
ややあって、老いても尚しっかり働く頭が、ひとつの案を捻り出した。
「大聖堂に連絡して、聖職者用の聖典を取寄せよう。なるべくたくさんだ」
「自治区に送るんですね?」
「それもあるが、支部だ。ローク君が、所在地を割り出してくれたろう。ネモラリス共和国内にある星の標の支部に送り付けるのだよ」
「えぇッ?」
クラピーフニク議員が肝を潰す。
「流石に、差出人は誤魔化すがね。中身は聖典だ。彼らも無下には扱うまいよ」
「えっ、あの、でも、そんな、敵に塩を送るような真似……」
「星の標は異端の教えだ。聖典の全文を読み、正しい教えを知れば、間違いに気付く者も出るだろう」
「彼らが正しく解釈することに賭けるんですね?」
クラピーフニク議員が彼なりに解釈して頷く。
「一般信者向けの部分だけを読んでも、『魔法使いを殺せ』などとは、一行たりとも書いておらんとわかるよ」
自治区外のネモラリス共和国民は識字率こそ高いが、キルクルス教の聖典が手に入らない。ローク少年の報告によれば、信者たちは聖者キルクルス・ラクテウスの教えを口伝していたと言う。
教える側の解釈や記憶違いで、この三十年の間に随分、変質してしまったことだろう。
リストヴァー自治区では、聖典は手に入るが、貧しい人々は学校に通う暇さえなく働き、学問を奨励するキルクルス教徒ばかりの割に識字率が低かった。
彼らが聖典を曲解する懸念もあるが、その時はまた、別の手を打てばいい。
ラクエウス議員は早速、大聖堂への依頼文を考えた。
▼キルクルス教の聖印
☆君たちの気遣い……「927.捨てた故郷が」参照
☆一緒に戻った星の道義勇軍のソルニャーク隊長(中略)【跳躍】で送り届けた……「0937.帰れない理由」~「0939.諜報員の報告」参照
☆ネミュス解放軍ペルシーク支部長のコンボイールと旧知……「833.支部長と交渉」参照
☆ローク君が、所在地を割り出してくれた……個人名のリスト「624.隠れ教徒一覧」「625.自治区の内情」「650.グロム市の宿」「654.父からの情報」、拠点リスト「694.質問を考える」~「696.情報を集める」「721.リャビーナ市」~「724.利用するもの」「808.散らばる拠点」参照




