0943.これから大変
翌日、これまでとは様子の異なる患者が、救護所の列に加わった。
一人ずつ、緑髪の兵に付き添われた男性たちだ。
ネミュス解放軍の兵が、付き添ってきた患者の隣で背筋を伸ばし、呪医セプテントリオーに敬礼する。
「呪医殿、本日の患者は、異端の教えを捨て、星の標を脱退した者が多く居ります。念の為、ご注意下さい」
緑髪の兵士の隣で、金髪の男性が居心地悪そうに身を縮める。呪医と目が合った途端、怯えた顔を下に向けた。粗末な服の裾を握る手が震える。
「怖いのですか? 治療に痛みはありませんから、安心して下さい」
呪医が幼子に対するようにやさしい声音で言うと、元星の標団員は俯いたまま微かに首を横に振った。兵の声が苛立ちにささくれる。
「呪医殿はお忙しい身だ。この期に及んでグズグズするんじゃない」
「彼は、自らの意志でここへ来たのですか? それとも……」
……それとも、本当に星の標の教えを捨てたか、試す為に?
呪医は口に出さなかったが、顔を上げた患者の目が全てを語る。
「自力でここまで歩いて来られたと言うことは、現在、命に別条あるような重傷ではありません」
セプテントリオーは患者にやさしく声を掛け、ネミュス解放軍の兵士に表情を消した顔を向けた。
「頭では、今まで信じてきた教えが『誤りだった』と理解できても、気持ちの上では、なかなか割り切れるものではありません」
兵士は何か言いたそうな目で呪医を見詰め返すが、ウヌク・エルハイア将軍の遠戚であり、湖の女神パニセア・ユニ・フローラの血に連なる者に反論する不敬は犯さなかった。
伝承によれば、湖の女神は呪医だ。
旱魃の龍との戦いに於いては、癒しの術で仲間の命を守ったと言う。
セプテントリオーは、旧王国時代に軍医だった頃も崇敬の的で、打ち解けて話をしてくれる者は、クロエーニィエなど極少数だった。
思いがけず、孤独な記憶が呼び起こされ、言葉に詰まる。
患者の怯えた目が、湖の民の呪医からネミュス解放軍の兵士に移った。
「決心がつく前に無理強いするのは却ってよろしくありません」
「しかし、それでは……」
護衛として呪医の傍らに控える兵が口を挟んだ。この元騎士の顔は、軍医時代に見た憶えがあるが、呼称までは思い出せない。
セプテントリオーは、元騎士の解放軍兵士に患者と同じ説明を繰り返して、付け加えた。
「私は、アミトスチグマの難民キャンプに戻らねばなりません。自治区にはあまり長居できませんが、滞在中に決心がつけば、必ず対応しましょう」
「呪医殿が帰還なさる前に腹を括った方が身の為だぞ。文字通りの意味でな」
付き添い兼監視役の兵が患者をせっつく。
「これは、彼らの心の問題です。周りが急かしてもいいことはありません。彼の心に折り合いがつくまで、そっとしてあげて下さい」
兵士と護衛が困惑した視線を交わし、元星の標の患者が驚きに見開いた目で湖の民の呪医をまじまじと見詰める。
セプテントリオーは患者に微笑で応えた。
「他の方々にも、決心がつかない内は、無理をする必要はないとお伝え下さい」
「は、はい! あの、いっ……今、決心しました!」
患者が頬を上気させて勢い込み、消え入りそうな声で「治して下さい」と付け加えた。兵士と護衛が顔を見合わせて苦笑する。
呪医セプテントリオーは、診察台に横たわるよう患者を促した。
木箱を並べた上に、毛布と清潔なシーツを掛けただけの台だ。
患者は痛む箇所を庇いながら、そろりそろりと身を横たえた。不安げな目が呪医を見上げる。セプテントリオーは傍らにしゃがんで頷き、力ある言葉で【見診】を唱えた。
「ちろちろと 白き鱗の触れる者 ちろちろと 白き鱗の舐める者
白き翼を水に乗せ 明かせ傷 知らせよ病
命の解れ 詳らか 綻び塞ぐ その為に」
彼の左前方で爆発があったらしく、傷はそちらに多い。破片は全て取り除かれ、左腿の大きな傷は科学の医師が治療したらしく、縫合済みだ。左の鼓膜に損傷があり、かなり聞こえ難いようだが、失聴には到っていない。脇腹にも複数の傷があるが、どれも浅い。腿の傷を癒す余波で塞がるだろう。
衛生担当の兵たちが、目顔で指示を仰ぐ。
「ズボンを脱がせて下さい。【麻酔】を掛けて抜糸して、術で傷を塞ぎ、鼓膜も復元します」
身を起そうとする患者を衛生兵の一人が押さえ、もう一人がベルトを緩めてするりとズボンを抜き取る。
呪医は、縫合された傷にそっと手を置き、その部分を対象に【白き片翼】学派の【麻酔】を唱えた。
「今閉ざす 偽の鍵以て 時刻む 門戸を塞げ
痺れゆけ 命の水脈よ ゆるゆる眠れ」
患者は大人しく、されるがままだ。呪医は術が発動した手応えの直後、手渡された鋏で縫合糸を切り、そっと抜き取った。
「命繕う狭間の糸よ
魔力を針に この身繕い 流れる血潮 現世に留め
黄泉路の扉 固く閉じ 明日に繋げよ この命」
糸を節約する為か粗く縫われた傷が、術の【縫合】で見る見る内に塞がり、拭い去ったかのように消えた。
念の為、上着を捲る。衛生兵が患者を抱え起こし、手際良く包帯を解く。キレイな肌が現れ、セプテントリオーは【麻酔】を解除して上着を下ろした。
「左耳はいかがですか?」
「は、はい! ちゃんと聴こえます!」
患者は足首に引っ掛かったズボンを上げる手を止め、少し言い澱んだ後、呪医の目を見て言った。
「……ありがとうございます。あの……センセイにさっきあぁ言ってもらえて、胸の痞えが取れたみたいにハラ決められました。ありがとうございます」
「そう言うコトは、パンツ丸見えじゃなくて、ちゃんとした恰好で言えよ」
「女神様の血に連なるお方に無礼な」
そう言う兵たちの顔は笑っている。
患者は診察台を降り、急いで身形を整えてペコリと頭を下げた。
「し、失礼しました! でも、ホントに、ホントにありがとうございます!」
「どういたしまして。それでは、他の皆さんにも先程のお話をお伝え下さい」
防音も何もないテントで、順番が近い者たちには筒抜けだ。
元星の標の団員は身体のあちこちを撫で、どこも痛まないのを確認すると、何度も礼を言いながら救護所を出て行った。
……本当に大変なのは、これからだ。
星の標は、協定に基づいて呪医の治療を受けた患者やその家族を「穢れた者」として殺害してきた。
掌を返して自身が治療を受けたと知られれば、遺族や友人知人からどんな仕打ちを受けるか。
直接には何もされなかったとしても、星の標ではない自治区民の目は鋭く冷たいことだろう。
両者のわだかまりが解ける日は、いつになるのか。
湖の民であり、女神パニセア・ユニ・フローラの血に連なる者としては、遠くから見守ることしかできなかった。
☆湖の女神パニセア・ユニ・フローラの血に連なる者……「684.ラキュスの核」「685.分家の端くれ」参照
☆伝承によれば、湖の女神は呪医だ……「671.読み聞かせる」参照
☆打ち解けて話をしてくれる者は、クロエーニィエなど極少数……「291.歌を広める者」「423.食堂の獅子屋」参照
☆協定に基づいて呪医の治療……「369.歴史の教え方」「529.引継ぎがない」「551.癒しを望む者」「552.古新聞を乞う」参照
☆治療を受けた患者やその家族を「穢れた者」として殺害……「591.生の声を発信」「629.自治区の号外」「859.自治区民の話」「905.対話を試みる」参照
☆星の標ではない自治区民の目は鋭く冷たい……「900.謳えこの歌を」参照




