0935.命懸けの治療
六人の解毒を終え、アウェッラーナが顔を上げる。
鱗蜘蛛が欠けた脚をでたらめに動かし、牧場内を走り回る。腹部に警備員ジャーニトルが取り付き、魔法の剣で金属の鱗を剥がす。頭胸部を覆った【紫電の網】で前が見えないらしく、【真水の壁】にぶつかっては向きを変えた。
……あれだけ剥がせば、【光の槍】が内臓に届くんじゃないの?
緑色の体液に塗れて何枚剥がせたのかわからないが、ジャーニトルは背中に乗っているのだから、傷口に直接撃てる筈だ。
だが、先程、本部長が口の中に【光の槍】の効果を持つ【祓魔の矢】を三本も撃ち込んだにも関わらず、鱗蜘蛛は平気で動いている。
あれだけ育ってしまえば、ちょっとやそっと鱗を外したくらいでは、内臓に達する傷を負わせられないのかもしれなかった。
牧場を囲む【真水の壁】の色が変わる度に本部長の命令が飛び、新たな【壁】が建てられる。
鱗蜘蛛の脚がまた一本、狩人の狙撃で吹き飛ぶ。右側の三本がなくなり、逃れようとする巨体がその場で回転した。
牧草の上に魔装警官の盾と同じくらいの鱗が点々と散らばる。
電柱十本分くらいの巨大な脚が西側の【真水の壁】に倒れ込んだ。
衝撃を受け、青く色付いた【壁】は重量を支えられず、あっけなく消滅する。【壁】を展開した魔装警官三人が逃げ遅れ、灰色の塊に覆われた。
救護所の空気が凍る。
毒の影響から解放された警官たちは、時が止まったように動かない。
……早く助けに……!
だが、薬師アウェッラーナは足が竦んで全く動けない。助手としてついて来てくれたクルィーロも、顔色を失ってへたり込んだ。
強い毛が密生した巨大な蜘蛛の脚が邪魔で、悲鳴を上げる間もなく姿が見えなくなった彼らの様子は全くわからなかった。
鱗蜘蛛の本体は、狂ったようにその場で回転し、ジャーニトルは振り落とされないよう、腹部に剣を突きたててしがみつくだけで精いっぱいのようだ。
「正面隊、西へ回って脚に【重力遮断】! 西の畑へ投げろ!」
我に返った本部長の命令で、正面に【壁】を建てた部隊が走り、鱗蜘蛛の脚に手を掛ける。
「束の間の自由受け取れ 風を受け 羽の如くに地を離れ 漂え軽く その身浮かせよ」
詠唱に続いて息を合わせた掛け声が起こり、警官たちが下から上に腕を振り上げる。相当な重量がある筈の脚が【重力遮断】の術で羽毛のようにふわりと舞い、風に流されて麦畑に落下した。大人の背丈程もある鉤爪がやわらかな土に刺さる。
「薬師さん! お願いします!」
傍らの警官に手首を掴まれ、アウェッラーナは強引に立たされた。
「あ、あの、薬が……」
別の警官が身を屈めて安全地帯に入り、濃縮傷薬のトレーを抱えて走る。
薬師アウェッラーナも警官に腕を引かれ、転びそうになりながら牧場へ走った。
誰もが、走るより【跳躍】した方が速いと気付かない程、動転している。【真水の壁】を欠いた状態で手負いの魔獣に近付く危険も、頭から吹き飛んでいた。
狩人がライフルを置き、腰に吊るした鉈を外して叫ぶ。
「本部長! これ以上はもう無理だ! 糸は諦めろ!」
本部長は、何を考えることがあるのか、狩人の声に応じない。
呪文を唱えた狩人の身が空に舞う。彼も、魔法戦士のジャーニトル同様、【飛翔】の術を使えたのだ。
「兄ちゃん、加勢する! トドメを!」
ジャーニトルも、しがみつくのに必死なのか、狩人の声に応じない。
また一枚、鱗が剥がれ落ちた。
狩人が鷲のように急降下し、頭胸部と腹部を繋ぐくびれに鉈を振り下ろす。
激しい金属音が牧場の大気を震わせ、アウェッラーナたちの頭を貫いて響いた。
火花が散り、反動で体勢を崩した狩人が牧草地に落下する。でたらめに回転する鱗蜘蛛の脚を転がって避け、【真水の壁】の隙間から牧柵を乗り越えて逃れる。
鉈を受け止めたのは、ジャーニトルの剣だった。
……どうして? ジャーニトルさん?
頭の中が、言葉にならない疑問で満ちる。
いきなり肩を掴まれ、激しく揺すられた。
「薬師さん、早く!」
「まだ息があるんだ」
同僚の命を乞い、警官たちが懇願する。
ヘルメットがひしゃげた一人は、どう見ても即死だ。
次の警官も胸部が極端に薄く、一目で無理とわかる。
三人目は腿が関節ではない部分で折れ、顔が蒼白だ。
手を握り、【見診】で状態を確認する。
「ちろちろと 白き鱗の触れる者 ちろちろと 白き鱗の舐める者
白き翼を水に乗せ 明かせ傷 知らせよ病
命の解れ 詳らか 綻び塞ぐ その為に」
大腿部の骨折の他、内臓が損傷し、腹腔内で大出血を起こしていた。
防禦の術が掛かった制服は、普通の鋏では切れない。アウェッラーナはなるべく患者を動かさないよう、慎重にベルトを緩め、制服をめくり上げた。
筋肉が程よく発達した腹部で、皮下出血が急速に広がる。
「剣、貸して下さい。切って、止血して、内臓に直接塗ります」
患者の意識がないのは幸いだった。
アウェッラーナは薬師で、主に学んだ系統は薬を作る【思考する梟】学派だ。強い魔力と高度な操作を必要とする【飛翔する梟】学派や【白き片翼】学派の【麻酔】の術は使えない。
抜き身の剣を受け取り、魔力を籠めて一息に切る。
「身のほつれ 漏れだす命 内に留め
澪標 流れる血潮 身の水脈巡り 固く閉じ 内に流れよ」
出血は止めたが、内部は血だらけだ。【操水】で傷を覆う血液を取り除き、別の手が差し出した濃縮傷薬を受け取る。
消毒の用意も時間もない。粘度の高い緑色の軟膏を指にたっぷり取って【見診】で確認した内臓の傷に塗る。
「星々巡り時刻む天 時流る空
音なく翔ける智の翼 羽ばたきに立つ風受けて 時早め
薬の力 身の内巡り 疾く顕れん」
一箇所ずつ、術で魔法薬の効果を促進する。
魔獣対策本部の剣は、前に何を斬ったか知れたものではなく、どんな菌やウイルスが付着しているか、警官の血液を介してアウェッラーナにもどんな病気が感染るか、想像するのも怖かった。
……感染は、後で内科か【白き片翼】の呪医になんとかしてもらおう。
その為には、病院まで命を持たせなければならない。
最後に剣で開いた部位に塗って三本目が空になった。
クルィーロが、そっと包帯などのトレーを差し出す。
ガーゼをテープで貼って傷を保護したが、包帯を巻こうとすれば傷が開く恐れがあり、それ以上はできなかった。
「患者さんをなるべく動かさないように、できるだけ早く病院で【青き片翼】と【白き片翼】の呪医に治療してもらって下さい」
「ダメなのか?」
「私は【思考する梟】学派の薬師なんです。怪我が大き過ぎて応急処置くらいしか……」
そこまで言って、今、自分がどこに居るか気が付いた。
警官の肩越しに牧場を見る。
灰色の巨大な蜘蛛は、動きを止めていた。
大顎がじわりと動くが、【紫電の網】が火花を散らして食い込み、魔獣の頭胸部に焼印を刻む。
アウェッラーナの実家より大きな鱗蜘蛛は、腹部の鱗を粗方剥がされ、牧場に横たわっていた。
☆術で魔法薬の効果を促進=【薬即】の術……「0010.病室の負傷者」参照




