0934.突破された壁
本部長の弩から放たれた【祓魔の矢】が、青く染まった【真水の壁】の間をすり抜け、不自然に向きを変えて魔獣の大顎に消える。
四枚目の【真水の壁】が完成し、狩人がライフルを抱えて右翼へ走った。
鱗蜘蛛の口から白い液体が吐き出され、青く染まった一枚目の【壁】を砕き、二枚目と四枚目を青く染めて止まった。
本部長が狩人に続き、走りながら命ずる。
「西部第一隊、【操水】で除染! 正面隊、五歩ずつ後退し、第五壁と第六壁展開!」
……動き、少しは鈍くなったのかな?
灰色の鱗蜘蛛は、跳ねて移動すると聞いたが、この個体はまだ一度も地を離れていない。
薬師アウェッラーナは、【空に舞う鱗】学派の術を使うのも、麻酔毒を作るのも初めてで、どの程度の時間で効力が現れるかわからなかった。
狩人に脚を千切られて跳ねられなくなったのかもしれないが、元の脚力がわからないので何とも言えない。
調毒師の【空に舞う鱗】学派は、殺鼠剤など暮らしに役立つ毒も作り出すが、多くの人々から忌まれ、堂々と徽章を身に着ける術者は居ない。
アウェッラーナは、大学で初めて存在を知ったが、呪文や必要な素材など、具体的なことは何も教わらなかった。
今回、資材調達課長から【空に舞う鱗】学派の魔道書の写しを一ページだけ渡され、何故この学派が忌まれるのか、わかった気がした。
麻酔毒の素材は、人間用の麻酔薬と共通の房蛇根草と、異界由来でこの世に定着した毒草カーリナ、それに胎児の髄液だ。脊椎動物の胎児なら何でもいいらしい。
後者ふたつは【思考する梟】学派では使わない。少なくとも、アウェッラーナが作れる薬の素材では覚えがなかった。
資材調達課長たちが何の動物の胎児を用意したか知らないが、この麻酔毒を作る為に、幾つかの命がこの世に生まれる前に摘み取られた。その申し訳なさで、初めてだからと言う甘い気持ちを抱くことなどできなかった。
薬師アウェッラーナが先日の憂鬱な作業を思い返す間にも、戦いは続く。
水塊が【真水の壁】に付着した毒を濯ぎ、牧草地の中心に捨てる。そのまま【壁】が破壊されたら、飛び散ってしまう。
正面は隙間なく【真水の壁】を建てたので、ここからはもう狙撃できない。
狩人が右翼に移動して弾丸に魔力を籠め、本部長はその傍らで指揮を執る。
「後方隊、【光の槍】の【祓魔の矢】、射撃用意!」
本部長の指示で、牧場奥に配置された警官隊が弩を構える。
ジャーニトルが急降下し、東の警官隊に気を取られる鱗蜘蛛の背後に回った。
金属光沢のある鱗の隙間に刃を突き入れ、剣を抉る。盾と同じくらいの鱗が一枚剥がれ、緑色の体液が流れた。ジャーニトルは体液を避け、再び【飛翔】で宙を舞って【光の槍】で穿った胸部背面の穴に剣を突き立てた。
体液が傷口で盛り上がり、背に緑の玉ができる。
警備員ジャーニトルが背を蹴り、再び上空へ逃れた。
狩人のライフルが火を噴き、三本目の脚が千切れる。
「撃て!」
警官隊が【祓魔の矢】を一斉に放った。奥と東の二方向から【矢】が曲線を描き、魔獣の身を離れてゆっくり傾ぐ脚を躱す。数十の【矢】が光の尾を引き、鱗の剥がれた腹部に突き立った。
警官隊が二の矢を番え、狩人が次の弾丸を握って魔力を籠める。魔獣の脚が地に倒れ、重機のような鉤爪が土を抉った。
「東部第二隊、【光の槍】の【祓魔の矢】、射撃用意!」
鱗蜘蛛が前脚を上げ、東を向いた。
「東部第二隊、射撃中断、第二壁展開!」
警官隊が弩を降ろし、早口に呪文を唱える。
「自分も鱗蜘蛛を見るのは初めてなんですが、手を上げるのが、毒を吐く準備動作なんですね」
アウェッラーナたちの傍らで、盾を構えた若い警官が言う。そう言うものなのかと思ったが、【壁】が間に合うのか気が気でなく、返事もできない。
鱗蜘蛛の腹部が少し膨らみ、緑色の体液が噴き出した。同時に大顎から毒液が放たれる。
薬師アウェッラーナは、トレーから【無尽の瓶】を取って蓋を外した。
……水で洗滌できるから、渡されたのよね?
毒液が不可視の【真水の壁】に当たり、吸収した衝撃の分、【壁】が青く染まる。白い液が半透明の障壁に広がり、汚染の範囲がはっきり目視できた。
毒液の汚染は【壁】一枚分、切り取られたようにぽっかり空いていた。
汚染域の端から二番目、正面隊との境を守る警官が盾を取り落とした。
「えっ?」
「あッ……!」
アウェッラーナたちは息を呑み、寸の間、思考が停止した。両隣の二人も膝から崩れ、大盾が倒れる。救護所からも苦悶の表情がわかった。
「あ、えっえっと、水! 水で洗って、運んで!」
傍らの警官がしどろもどろに叫ぶ。
牧柵を囲む警官隊は【真水の壁】の維持で動けない。鱗蜘蛛が倒れた警官たちに直進する。
「二番隊四名、東部第一隊へ移動後、直ちに【真水の壁】を展開!」
本部長の声が牧場に轟き、倒れた警官の代わりが【跳躍】で配置に就く。
他に気を取られて気付かなかったが、アウェッラーナたちとは牧場を挟んで対角線上の休耕地にも、マイクロバスが見えた。
「西部第一隊、【操水】で除染!」
続く命令で、牧柵の外を回って水流が伸びる。最初に倒れた一人が嘔吐した。
交代要員が立て続けに二枚の【壁】を建てる傍らで、倒れた警官たちが洗滌を受ける。
「優しき水よ、我が声に我が意に依り、起ち上がれ。
漂う力、流す者、分かつ者、清めの力、炎の敵よ。
起ち上がり、我が意に依りて、人運ぶ道となれ」
アウェッラーナも【操水】を唱え、倒れた警官を水に乗せて手繰り寄せる。
三人の魔装警官は呼吸困難の苦悶に顔を歪め、呻き声すら発せなくなっていた。
「クルィーロさん、そっちの人に心臓マッサージ、お巡りさんは、こっちの人、お願いします」
工員クルィーロが安全地帯を飛び出し、お手本のようにキレイな動作で胸骨圧迫を始めた。警官も盾を置いて同僚の救命に掛かる。薬師アウェッラーナは、水の不純物を捨てて【無尽の瓶】に収めた。
……落ち着いて。薬はたくさんあるのよ。
自分に言い聞かせ、解毒薬の蓋を取る。【操水】で最初に倒れた警官の半開きになった口に薬液を流し込み、安全地帯を出て患者の首筋に手を触れた。
神経毒用の魔法薬は、飲んだだけでは効果を発揮しない。ひとつ深呼吸して発動の【律動の鍵】を唱える。
「命成す 正しき歩み 律動す 今開く 偽の鍵以て 塞がれし 時刻む門」
結びの言葉と同時に呼吸が戻り、蒼白だった唇に赤みが差す。
別の言葉を使う【飛翔する梟】学派の同名の呪文なら、薬なしでも速やかに神経毒の影響を取り除けるが、薬師アウェッラーナが修めたのは【思考する梟】学派で、強い魔力を必要とする【飛翔する梟】学派の術は、あまり使えなかった。
解毒薬を飲ませる分、【飛翔する梟】学派の呪医より時間が掛かり、焦りが募る。
アウェッラーナは安全地帯に戻り、解毒薬を二本掴んで振り向いた。
正面から【真水の壁】が失われ、幾人もの警官が毒に塗れて倒れる。
「アウェッラーナさん、早く!」
クルィーロの悲鳴のような声で我に返り、彼の患者に薬を与える。首に触れ、呪文を唱える内にやや冷静さを取り戻し、指示を出す。
「クルィーロさん、【操水】で患者さん洗ってこっちに運んで」
クルィーロが【無尽の瓶】取って立ち上がる。アウェッラーナは三人目に薬を投与した。
西第一隊が正面に回って【壁】を建て直し、クルィーロが警官を回収する時間を稼ぐ。
先に解毒した三人が身を起し、戦線の惨状に沈黙する。
警備員ジャーニトルが呪符で【紫電の網】を打ち、鱗蜘蛛の頭部を覆った。大顎が網の【放電】を受けて火花を散らす。
銃声の直後、鱗蜘蛛の後ろ脚がもげ、巨体が傾いだ。
水が運んだ警官は六人。
「お巡りさんたち、動けます? 来た人に心臓マッサージして下さい」
アウェッラーナはこの場の五人に応急処置を頼み、解毒薬をトレーごと安全地帯の外に出す。
……短い呪文だから大丈夫。一人ずつ、確実に。
焦らないよう自分に言い聞かせ、目の前の患者に意識を集中した。
☆灰色の鱗蜘蛛は、跳ねて移動する……「850.鱗蜘蛛の餌場」「864.隠された勝利」参照




