929.慕われた人物
不意にオラトリックスが歩みを止めた。呪歌は、まだ止まない。足を止め、その場で声高く朗々と最後まで謳い上げる。
「言に乗せ 道を清め 行く手守る 光仰げよ」
謳い終えると同時にオラトリックスが枝で三度、地を打った。不可視の壁が閉じ、その内なる家々が護られる。
……ここ、さっきの。最初の家だ。
いつの間に戻ったのかわからない。
これでは魔物に襲われても、自分が食べられたことにも気付けないだろう。だからと言って周囲に気を配りながら謳ったのでは、術への集中が逸れてしまう。アミエーラのところだけ壁に穴が開いてしまうかもしれない。
「これが……【道守り】……」
「そうよ。初めてにしては上出来よ。さあ、次の区画へ急ぎましょう」
どっと疲れが押し寄せたが、もう動きたくなくなるようなものではない。不思議と心地よい疲れだった。
移動の係と手を繋ぎ、休む間もなく【跳躍】で第二十区画に跳んだ。
こちらは、完成した丸木小屋がずっと多く、先程より護る範囲が広いらしい。
「お待ちしておりました」
第二十区画の自治会長に案内され、診療所のある場所に向かう。
移動係の【巣懸ける懸巣】学派の職人が道々、新顔の歌い手に説明する。
「大体、どこも最初に井戸を掘って、その傍に診療所を建てて、それから住むとこ作ってるんだよ」
「どうして?」
アルキオーネが興味津々で聞く。
「定住した医療関係者は全然足りてないけど、ボランティアで巡回してるし、薬の備蓄があるから、まぁ……それと、伝染病が出た時の隔離場所も必要だからね」
後半を早口で囁き、係が少し離れる。
丸木小屋の戸が開き、年配の男性が出てきた。
中は、小屋の大きさそのままの部屋がひとつあるきりで、仕切りも何もない。潰した段ボールの上で毛布に包まって、老人が寝ていた。家具はなく、救援物資の段ボールや木箱、瓶などに囲まれて暮らしている。
男性は力なき民なのか、手桶を持って水汲みに行った。
「野生動物に襲われる心配はありませんし、家の中なら一応、呪符とかで魔物の類もどうにか……」
別の移動係が、アミエーラの視線に気付いて取り繕った。
……バラックよりマシだけど、ぎゅうぎゅう詰めで窮屈よね。
今は用事で留守のようだが、毛布の数から、二十人近くがひとつの小屋で暮らしているのが窺えた。
こんな状態でずっと暮らすのは大変だ。
だが、帰国する為には、ネモラリス共和国が平和にならなければならない。
どうすれば平和になるのか。この活動に参加してしばらく経った今も、アミエーラにはまだ、わからなかった。
第二十キャンプの【道守り】を無事に終え、他の組が行う第十六から第十九区画は飛ばす。
次に【跳躍】した第十五区画には小さな畑が作られ、丸木小屋の他に薪小屋や共同の竈もあって、生活感が増していた。昼前で、あちこちから炊事の煙とスープが煮える美味しそうな匂いが漂う。
「お昼はここの【道守り】を終えて、解散してからになります。私も腹ペコですが、今日最後の一箇所、頑張りましょう」
オラトリックスの声に苦笑が返る。
昼食の直後に、あの呪歌を何度も謳うのは大変だ。
それに、ここの食糧を食べてしまうのは気の毒だ。
森に住んでいても、狩りをできる人や、食べられる野草を見分けられる人は、殆ど居ないだろう。小さな畑では到底、ここのみんなを養うには足りない。救援物資が命綱なのだ。
護衛が、診療所前で待つ五人に引継して交代する。
「俺らは二十一番に戻るから、後ヨロシク」
「ジャーニトルさんが抜けた分、俺らが頑張ンなきゃな」
「えっ?」
アミエーラは、聞き覚えのある名に思わず声の方を見た。
自警団の男性たちが頬を緩める。
「ん? 知り合い?」
「えっ、あ、私の知ってるジャーニトルさんかどうかわからないんですけど、湖の民の警備員さんで」
「あぁ、そうそう! そのジャーニトルさんだよ」
「ついこの間、会社に戻っちゃったんだよな」
「やっぱ、ちゃんと戦える人は引く手数多で」
「つーか、あの人って、他の人たちを連れて来ただけじゃなかったか?」
「俺らが魔獣の倒し方教えて欲しいって頼んだから、居てくれただけで」
自警団がアミエーラそっちのけでお喋りを始めた。ジャーニトルが難民キャンプで仕留めた魔獣の数や、彼らが同行した魔獣退治の武勇伝で盛り上がる。
アルキオーネが眉を顰めた。
「え? なぁに? 彼ってオトコに人気あったワケ?」
「そう言う意味じゃないと思うよ」
診療所の畑で作業していた金髪の男性が、手に付いた土を払って笑いながら立ち上がった。
「俺、クルブニーカの製薬会社で働いてたんだけど、ジャーニトルさんは、ウチの薬師さんの護衛を担当してたんだ。強くてやさしくて、何て言うかこう……居てくれるだけで安心できる人だったからだよ」
まさか、こんな所でジャーニトルが武闘派ゲリラに身を投じる前の姿を知る者に会えるとは思わなかった。
そう言われてみれば、あの湖の民はランテルナ島の拠点に居た頃、静かに本を読んでいることが多かった。
アミエーラは、彼もあのゲリラの一味だと思い、怖くて近付けなかったが、思い返してみれば、他のゲリラたちとはかなり雰囲気が違っていた。実際、彼に酷いことをされた覚えはない。
だからこそ、ネモラリスの正規軍がアーテル本土で活動を始めたのを機にゲリラを抜けたのだろう。
「俺も、また会えて嬉しかったし、安心してたんだけど、残念だよ」
……アーテル領でゲリラ活動してたなんて言えないし、政府軍のことは、ここで言っちゃダメだから、教えてあげられないし。
「私は少し話したことがあるだけなんで、よく知らなくて……」
「サフロールさーん、薬師さんが呼んでるー!」
駆けて来た少年に手を引かれ、畑仕事をしていた男性は軽く会釈して、行ってしまった。
そんな人物までゲリラ活動に身を投じる程、医療産業都市クルブニーカは酷いことになっていたのだと思うと、遣る瀬なくなった。
☆第十五区画には小さな畑……「738.前線の診療所」「739.医薬品もなく」参照
☆クルブニーカの製薬会社……「191.針子への疑念」「192.医療産業都市」「216.説得を重ねる」参照
☆ジャーニトルさんは、ウチの薬師さんの護衛を担当……「877.本社との交渉」参照




