924.後ろ暗い同士
獅子屋は、地下街チェルノクニージニクに数ある飲食店の中でも、美味しいと評判の老舗だ。
今夜も大勢の客で賑う。力なき民の客の何組かは、夕飯を兼ねたおつまみに舌鼓を打ち、仕事上がりの一杯で盛り上がる。
獅子屋の給仕係は、すっかり常連になったロークにいつもの笑顔を向けた。
「こんばんは。……あら、いつもの子じゃないんだね?」
エプロンドレス姿のおばさんが、四人掛けの席に着いたロークに首を傾げる。
ロークは愛想笑いを返して注文した。
「後から来ますよ。二人はいつものムニエルで。ヂオリート君、どうします?」
「えっと……」
黒髪の神学生は、深い緑色の目を卓上メニューに走らせ、一番上のオムレツセットを注文した。
ロークは香草茶も三人前頼み、給仕のおばさんが厨房へ退がるのを待って口火を切った。
「俺は、アーテルとネモラリスに平和を取り戻す為、ここに居ます」
「平和? 神学を修めて人々の心に平安を与えるのでは、いけないのですか?」
ヂオリートの深緑の瞳が、心を覗き込もうとするように底光りする。ロークは彼の目から視線を外さず、ゆっくり頷いた。
神学生の目が眇められる。
「どうしてですか? 何の為にわざわざルフス神学校に留学したか、わからないじゃありませんか。ロークさんは、この戦乱の中、万難を排して命懸けでルフスに辿り着いたって、司祭様がおっしゃったのに」
「確かに、司祭様のお話に嘘はありません」
肯定してみせると、ヂオリートは食いついた。
「では、何故、そんなに苦労してやっとルフス神学校に入学できたのに、聖職者の前途を擲つようなことを? もう、ルフスには戻らないつもりなんですか?」
「聖職者になれば、ネモラリスで闇に閉ざされて苦しむ信徒の魂だけは救えるでしょう。でも、それだけではダメだって気付いんたんです」
「他に何が必要なんですか? だって、私たちのルフス神学校は、このラキュス地方では、キルクルス教の最高学府なんですよ? ラニスタの神学校はあまりレベルが高くないそうで、聖職者志望者はみんな、バルバツム連邦に留学しているそうですし、大聖堂の……バンクシア共和国の神学校はどこもレベル高過ぎて、ラキュス地方出身者で合格できた人って、まだ一人も居ないんですよ?」
ロークは、学歴にこだわるヂオリートを内心、冷やかに見下したが、一切表情に出すことなく答えた。
「この地で信仰を守るには相互理解が不可欠です。星の標が異端者で、大聖堂のお膝元、バンクシア政府から国際テロ組織に指定されてるの、ご存知ですよね?」
「えぇ。でも、それと聖職者の途を諦めるのにどんな関係が?」
「お連れさん来たら、もう一杯もお持ちしますね」
香草茶が二人前運ばれ、話が中断した。
スキーヌムはまだ来ない。ロークは好都合とばかりに押した。
「ヂオリート君こそ、こんな所で外泊したのがバレたら、それこそ退学させられるんじゃないんですか? ご家族が悲しみますよ?」
「いとこが、行方不明になったんです。……お心当たりありませんか?」
ヂオリートは、春物のコートのポケットから手帳大のファイルを取り出した。
クリアポケットには、女性の顔写真と手書きのメモが、きっちり整理して収納してある。ヂオリートと同じ艶やかな黒髪と、知性の光を宿した深緑の瞳。二十代半ばくらいだろうか。儚げな微笑は、散り際の花を思わせた。
……わざわざ紙に印刷して来たってことは、GPSで追跡されないように端末を置いて来たのか。
「従姉が小さい頃、伯父夫婦が魔獣に襲われて……従姉は、私が生まれる前からウチに居て、姉弟同然に育てられたんです」
「お待ち遠さま」
白身魚のムニエルとオムレツが来た。ヂオリートが、卓上に広げたファイルを片付ける。
ドアベルの音で扉に目を遣った。
スキーヌムが、新規の客と一緒に店内を見回す。ロークが手を振ると、小走りにやってきた。
「お連れさんも丁度いいとこに。すぐお茶とお料理お持ちしますね」
給仕のおばさんがにっこり笑って去り、息切れしたスキーヌムは何も言えずにお冷を呷った。
「今、ヂオリート君が捜してる人の話をしてたんですよ」
「姉弟同然に育った従姉が、大司教殺害事件の後、行方不明になったんです」
隣に座ったスキーヌムが、ロークに困り切った顔を向けた。
香草茶と料理が揃い、給仕が「冷めない内にどうぞ」と勧めて退がる。ロークがパンを千切って口に放り込むと、二人もフォークを手に取った。
サラダを口に運ぶヂオリートの手と顔には、傷ひとつない。あの時、礼拝堂に居たなら、力なき民の彼が無傷で瓦礫の下から救出される可能性は、限りなくゼロに近い。
ロークは何食わぬ顔で聞いてみた。
「従姉さんって、ここに来る可能性がある人なんですか? カクタケアのファンで、光の導き教会に行ってみたりとか?」
「そうだったらどんなにいいか……スキーヌム君は、どうしてここに? もしかして、冬休み明けからずっと、この島に居るんですか?」
スキーヌムの手が止まった。フォークを皿に置き、香草茶のカップを手に取る。胸いっぱい香気を吸い込み、血の気の失せた唇で答えた。
「僕に……穢れた力があるからです」
店内は夕飯と晩酌の客でにぎわうが、ここだけ切り離されたように空気が重く冷たい。ロークは正面のヂオリートに視線を向け、ギョッとした。
一瞬前までの理知的な顔が歪み、ニタリと猥雑な笑みに変わる。
「なぁんだ。だったら、俺と同じじゃないか。後ろ暗いとこがある者同士、仲良くしようよ」
如何にも可笑しくて堪らないと言いたげな下卑た声だ。
……「俺」って?
ロークは、礼儀正しく上品だった神学生の豹変ぶりに面食らった。
「ヂオリート君にも……力が?」
「生憎、俺にはそんな穢れた力はない。でも、教団の薄汚い部分なら、イヤと言う程よく知ってる」
スキーヌムが期待と怖れに震える声で聞くと、ニタニタ嗤いながら吐き捨てた。魔に憑かれでもしたのかと思ったが、どうやら、神学生ヂオリートは彼のままであるらしい。
「なぁ、スキーヌム君。居場所を奪った教団に復讐したいと思わないか? ロークさんだってホントは故郷を焼かれて怒ってるから、神学校に居るのがイヤになったんじゃないのか?」
スキーヌムが提案者に怯えた顔を向け、横目でロークを窺う。
……教団の薄汚い面、行方不明の従姉……シルヴァさん……復讐?
ロークの中で幾つもの情報が繋がり、ひとつの仮説を導き出す。
「従姉さんの行方不明とルフス教区の大司教が殺されたこと、それに、神学校の礼拝堂が高等部の礼拝中、爆弾テロに遭ったのに、ヂオリート君が無傷でここに居ることって、全部、関係あるんですね?」
ヂオリートの顔から粘つくような笑いが消え、スキーヌムが息を呑む。
一瞬の間を置いて神学生の笑いが爆発した。
けたたましい声に周囲の客が一斉にこちらを見たが、少年の笑いは止まらない。人々が関わりを避けようと、殊更に自分たちの会話を盛り上げ、発作のような笑い声を打ち消して食事を再開する。
唐突に笑いが止んだ。
ヂオリートは、笑いが痙攣になって残る目尻を拭い、ニタリと口許を歪めた。深緑の瞳に不吉な光が宿り、見詰められたロークの背筋を冷たいものが伝う。
「やっぱり、シルヴァさんの言った通りだ。ロークさんは、聡明で実行力があって、頼りになるって」
スキーヌムが、武闘派ゲリラの老婆の名に身を竦ませる。
「じゃあ、ヂオリート君が、ネモラリス憂撃隊を礼拝堂に案内したんですね?」
「よくわかったね。建築家と元軍人って人が居て、どこにどう仕掛けたら効率よく爆破できるか、下見してもらったんだ」
「えっ? えぇっ?」
礼拝堂爆破と大司教殺害。ふたつの事件に初めて接したスキーヌムが、嬉しそうに語るヂオリートに戸惑う。
「まさか、あんなに上手くいくとは思わなかったよ。ねぇ、シルヴァさんの仲間になって、一緒に教団を潰そうよ」
神学生がニタリと笑った。




