922.待つ者の不安
レノは、朝からずっと歌詞を書き写し続けて、ペン胼胝が潰れそうだ。
ネモラリス島北部の小都市での放送から二日経った。
今日も朝から、臨時放送局のトラックを置く公園にヤーブラカ市民がひっきりなしに訪れる。放送した全曲の歌詞と鱗蜘蛛退治費用の振込先口座番号は、協力店にも貼り出してもらったが、物見高い人々が絶えなかった。
荷台にも貼り出したが、メモを取る人と欲しがる人は半々だ。
……レーフさん、どこ行ったんだろうな。
レノは、あの時どんな手を使ってでもDJレーフを止めておけばよかった、と後悔に手が止まりそうになった。
「それでは、店長さん、今日も大変だとは思いますが、よろしくお願いします」
「警備会社会社の連中に頼んで、番号だけでも印刷させてやっからよ」
「よろしくお願いします。二人とも、お気を付けて」
仕度を終え、国営放送のジョールチと葬儀屋アゴーニが荷台を降りる。
「ヤーブラカ市のみなさん、おはようございます。アナウンサーのジョールチです」
詰めかけた市民が、口々に彼の呼称を呼び、朝の挨拶を返す。
荷台の壁が軽く叩かれ、レノは思わず顔を上げた。
叩かれた箇所の向こうから、アナウンサーの声がくぐもって聞こえた。
「こちらに、放送に使用した曲の歌詞と、鱗蜘蛛駆除費用の振込先を貼り出してあります。臨時放送局の人手と紙には限りがございますので、お手数ですが、各自メモのご用意をお願いします」
葬儀屋アゴーニの声が続く。
「今からレーチカに跳んで、警備会社に放送の反響を報告してくっからよ」
「歌詞と口座番号は、ヤーブラカ市内の協力店様にも掲出していただいております。今回の放送エリア外のみなさんにも、よろしくお伝え下さい」
「ジョールチさーん、サイン下さい!」
おばちゃんらしき声に若者の声が続く。
「国営放送の本局って言うか、クレーヴェルって、今どうなってんですか?」
サインをねだる声と情報を求める声が怒濤となって押し寄せ、トラック周辺が一気に騒然とした。
荷台の面々が手を止め、半分閉まった扉の向こうを見る。
人々の意識は、荷台の側面に立つ二人へ向けられ、内部を気にする者は居なかった。
……えっ? でも、これ止めないと二人とも出らんないよな?
レノが腰を浮かすと、運転手のメドヴェージも口座番号を書く手を止めて腰を上げた。
「坊主、おめーは鉛筆削ってろ」
立ち上がろうとする少年兵モーフの頭をガシガシ撫で回し、メドヴェージがレノに並んだ。ピナとアマナが、書き上がった紙束を寄越す。二人は決意の籠もった笑顔で受取って荷台を降りた。
ソルニャーク隊長とDJレーフが居ない分、レノが、この移動販売店プラエテルミッサの店長として、しっかりしなければならない。だが、放送時とは異質な熱気を帯びた群衆を前にすると、足が情けない程に震えた。
メドヴェージの大きな手が、レノの肩をポンと叩く。その掌のあたたかさに肩の力がふっと抜けた。紙束を頭上で振って、声の限り呼び掛ける。
「みなさーん、聞いて下さーい! ジョールチさんたちを通して下さーい!」
「さっさと出ねぇと、今日中に戻って来るどころか、あっちの情報、調べらんなくなるぞー!」
近くの人々が、しゃしゃり出た二人に訝しげな目を向ける。
ジョールチの声が、その隙を縫うように人々の間を渡った。
「レーチカには臨時政府もございます。首都の情報も可能な限り集めて参りますので、ここはひとまず、お引き取りいただけましたら、助かります」
人々の熱気が一気に冷え、近くの者たちと気マズそうに顔を見合わせる。
レノはここぞとばかりに声を張り上げた。
「口座番号と歌詞、お友達やご近所さんと一緒に書き写して配って下さい。数に限りがあるので、みなさんで増やしていただけると助かりまーす!」
人垣を掻き分け、おばさんがレノの前に出てきた。
「婦人会で声掛けてみるわ」
「ありがとうございます」
差し出された手に紙束をひとつ渡すと、似たような声があちこちから掛かり、瞬く間に歌詞と口座番号のセットがなくなった。
手に入らなかった者たちが、手に入れた誰かと連れ立って公園を出て行く。人垣が薄くなり、葬儀屋アゴーニが道を切り拓いて港へ向かった。
残ったのが自分でメモを取る者だけになるまで見守り、レノとメドヴェージは荷台に戻った。
「お疲れさん」
クルィーロがホッとして声を掛ける。ピナとティス、アマナも泣きそうだった顔に微笑を浮かべた。
……みんなもドーシチ市のあれ思い出して、怖かったんだろうな。
そう言えば、あの時もソルニャーク隊長がトラックに居なかった。レノは、隊長とドーシチ市警の警官隊と一緒に群衆を鎮めに行ったが、彼らの助けがあっても怖かった。
広場で追い回された妹たちの恐怖を改めて思い、ティスを抱きしめる。妹の手はじっとり汗をかき、冷たくなっていた。
「街の人に書くの頼んだし、ちょっと休憩しよっか」
「じゃあ、お茶淹れよう」
「お湯沸かすよ」
パドールリクとクルィーロの父子がいそいそお茶の準備を始め、アマナも鉛筆を置いて手伝う。
少年兵モーフは、メドヴェージに言われた通り、せっせと鉛筆を削っていた。
戦い以外でのナイフの使い方もかなり上達し、危なげのない手つきで芯を尖らせる。昨日は朝から何度も手を切っては、薬師アウェッラーナに治してもらっていたが、メドヴェージとパドールリクにコツを教わり、昼過ぎには怪我をしなくなっていた。
まだ、字を書くのは苦手で、急いで書き写す作業はできないが、できることで彼なりに手伝ってくれている。
薬師アウェッラーナは、昨日から薬作りを中断して、歌詞を書き写す作業に加わっていた。
老漁師アビエースは、日の出の少し前から地元漁師の手伝いに行って、まだ戻らない。ここ数日は、彼がアルバイト代として持ち帰る干し魚をみんなの昼食にしていた。
香草茶の香気が荷台に行き渡り、みんなの顔色がさっきよりマシになった。
「レーフさん、どこでどうしてるんだろうな」
レノが、胸に溜まった不安を思い切って吐き出す。みんなはレノに気を遣い、その件にはなるべく触れないようにしてくれていた。
「あの兄ちゃんのこったから、浮草暮らしに嫌気が差して逃げたってこたぁねぇだろうけどな」
メドヴェージが顎を撫でながら言う。
本当にすぐ戻るつもりで出掛けて、何かトラブルに巻き込まれた可能性が高い。だが、流石に誰もその可能性は口に出さなかった。
☆あの時どんな手を使ってでもDJレーフを止めておけば……「884.レーフの不在」参照
☆あの時もソルニャーク隊長がトラックに居なかった……「235.薬師は居ない」~「237.豪華な朝食会」参照
☆レノは隊長とドーシチ市警の警官隊と一緒に群衆を鎮めに行った……「236.迫りくる群衆」参照




