916.解放軍の将軍
市民病院の呪医が、マントから小瓶を取り出した。
「まず、一人ずつ傷を洗います。その後、軽傷の方はこちらへ移動。命に別条ないので後でまとめて癒します。少し傷が深い方はそちらへ」
「私が傷薬を塗ります」
老いた尼僧と若い母親たちが、紙袋を提げて礼拝堂から出てきた。クフシーンカは尼僧の傍へ行く。
「私も包帯を巻くお手伝いをしましょう」
老人と女性、若い男性でも足が利かない者が多く、救援物資の整理は遅々として進まない。
呪医の説明が続く。
「骨折や、銃弾が残っている方は、私が個別に癒します」
呪医が何事か言うと、小さな瓶から大量の水が流れ出て宙を漂った。浴槽一杯分はあろうか。
キルクルス教徒が呆然と見守る中、水塊は呪医の近くに居た工員を包んだ。軟らかな生き物のように動き、こびり付いた血液や微細なガラス片、機械油や化学物質などを作業服から引き剥がす。
司祭が礼拝堂に声を掛け、ゴミ袋を持って来させた。
……あぁ、おむつと同じで、汚れを捨てるのね。
持って来た男性が松葉杖を脇に挟み、ゴミ袋の口を広げて持った。クフシーンカの想像通り、一人の洗滌を終えた水が、袋に汚れを吐き出して沸き立つ。
「あなたはそちらへ」
負傷者は素直に従い、軽傷者の待機場所に腰を落ち着ける。傷を洗われた者たちが次々と振り分けられ、クフシーンカたちは治療に忙しくなった。
呪医が長い呪文を唱え、腕が見慣れない部分で曲がった者をその場で癒す。
段ボールの仕分けが終わった。
「哺乳瓶と粉ミルク、離乳食は一箱ずつ集会室へ。残りは北側の倉庫へ運びましょう」
司祭の指示で人々が動き、呪医は二つ目の【無尽袋】を開けた。缶詰、堅パン、ドライフルーツの段ボールが次々に飛び出す。
そこそこ重傷だった者たちは、すぐ動けるようになり、物資の仕分けに加わった。
物資を彼らに任せ、洗滌と治療を再開する。
傷薬を塗られた者がすっかりよくなるのは、明日の今頃だろう。プランターの縁に腰掛け、包帯をさすりながら、申し訳なさそうに作業を見守る。
広場が片付く度に魔法の袋が開けられ、手伝いの者が増えていった。
粗方片付け終え、呪医は、後回しにされた軽傷者十数名に向き直る。水が生き物のように動いて小瓶に収まった。
「お待たせしました。これから呪歌で癒します」
あの日のクブルム街道と同じで、呪医の目は疲れ切っていたが、マスクを外してひとつ大きく息を吸うと、朗々と歌い始めた。呪医の顎に貼り付いた黴のような無精髭に息を呑む。だが、誰も何も言わなかった。
団地地区からは、銃声だけでなく、爆発音も聞こえ、黒煙が幾筋も上がる。
呪医の口から童歌に似た暢気な調子の歌が紡ぎ出される。歌詞は何と言っているか全くわからないが、その心地よい調べにいつまでも身を委ねていたくなった。
北側から男性が二人、走ってきた。緑色の髪だ。
負傷者も気付いたのか、数人が不安な面持ちで呪医を見る。だが、魔法の歌が終わる前に声を掛けるのは憚られた。
……解放軍? どうして?
呪医は道路を背に歌い、腕章を巻いた二人に気付かない。ネミュス解放軍の兵は踵を返して駆け戻った。
地面に落ちる影がとても短い。
北側から重い足音が近付いて来る。かなりの人数のようだが、ぴったり揃ってひとつに聞こえた。
工員たちが、老人と女性の背を押し、礼拝堂へ促す。包帯姿の者たちは泣きそうな顔で腰を浮かした。
教会の前に昨日の副官――ネミュス解放軍ヴィナグラート支部長グレムーチニクと名乗った湖の民が姿を現した。隣を歩く男性も旧王国時代の【鎧】姿だ。湖の民は整然と行軍し、歩道に整列して止まった。
呪医も気付いたようだが、魔法の歌は途中で止められないらしい。
「店長さんも早く」
司祭が大扉の片側を閉め、小声で呼ぶ。尼僧と手伝いの女性が戸口で手招きした。クフシーンカはゆっくり首を横に振り、開け放たれた教会の門へ向かう。
副官もクフシーンカを憶えていたようだ。
「お婆さん、こんにちは。星の標に襲われなかったようで、なによりだ」
工員たちは解放軍から目を離さず、じりじり礼拝堂の方へ移動する。
司祭が扉を閉め、小走りでクフシーンカに並んだ。
居並ぶ緑髪の兵の後ろから、三人の男が進み出る。
一人は初老の湖の民。髪は緑より白が多いが、立派な【鎧】を纏い、他を圧する貫禄がある。
壮年の湖の民も【鎧】姿だが、初老の彼を見た後では、弱そうに見えた。
三人目は金髪の若い男性。【鎧】と呼べる程ではないが、ズボンとジャケットに呪印などの刺繍が施されている。明らかに場違いで、居心地悪そうに周囲を窺っていた。
歌い終えた呪医が、門前に並ぶ五十人余りの軍勢に向き直る。
「久しいな、セプテントリオー。顔をもっとよく見せてくれぬか?」
初老の男性は、懐かしげに目を細めた。大声ではないのにずっしりと腹に響く。
クフシーンカは内乱中の記憶がまざまざと甦った。
「ウヌク……エルハイア将軍」
思わず漏らした呟きに、初老の男性が緑の目を丸くする。呪医が肩越しに振り向き、諦めたようにフードを取って将軍に向き直った。
……まさか、将軍自身が出てくるだなんて。
身内では、呪医を人違いだと誤魔化しようがない。この進攻は、将軍の不動に痺れを切らした一部の暴走だと言った、ラゾールニクの情報は誤りだったのか。
幾つもの不安が渦を巻き、クフシーンカは杖に身を預けて立っているのもやっとだ。
「あなたが、この作戦の指揮官だったのですか。見損ないました」
呪医が棘のある声で吐き捨てる。
居並ぶ兵は表情を変えず、微動だにしなかった。
力ある陸の民一人がオロオロと両者を見比べる。
「ここを潰せばどうなるか、重々承知しておる。だから、動かなかった。だが、一部の兵を抑え切れなかったことは、儂の不徳の致すところ」
ウヌク・エルハイア将軍は、包帯姿の工員たちに目を向け、呪医の治療を受けていた軽傷の工員たちに視線を移した。
「無用の苦痛を与えてすまなかった」
将軍は申し訳なさそうに詫びたが、当の工員たちは震えあがった。
淋しげな微笑が、司祭に向けられる。
ウヌク・エルハイア将軍は、表情を改めて言った。
「今からこの無益な戦いを止めに行く。司祭殿と儂を知るあなた、道案内と話し合いの立会いをして下さらぬか? セプテントリオーも」
「えっ? えぇッ? あのお婆ちゃんを、ドンパチやってるとこに連れて行くんですか?」
力ある陸の民が声を裏返らせる。
将軍は青年の無礼な物言いに頓着せず、笑って応じた。少なくとも、軍人やネミュス解放軍の指揮下にある者ではないらしい。
「まさか。先にこのコンボイールを遣って、戦いを止めさせてからだ。兵はここに残し、教会を守らせる」
「しかし、それでは却ってここが戦いに……」
「術で壁を建て、一発の銃弾も中には入れん」
将軍は司祭の懸念を力強く打ち消した。
壮年の男性が、直立不動の姿勢で命令を待つ。
「コンボイール、兵に作戦の中止を言い渡し、先程の駐車場に退かせよ。星の標の兵は伝令を残して捕縛。このウヌク・エルハイアが、星の標の指揮官と直々に話をしたいと申しておったと伝達せよ」
「はッ!」
コンボイールと呼ばれた壮年の男性が、軽快な足取りで団地地区へ走り、直属の部下らしき兵が一人だけついて行く。
「自治区のお二方、立会いをお引き受け下さるなら、こちらへ……セプテントリオーも、儂らと異なる立場を変えぬなら、来てくれぬか?」
「店長さんは、ご無理をなさいませんよう」
司祭がしっかりとした足取りへ門へ向かった。 クフシーンカは歳のせいで思うに任せぬ足で追いかける。
呪医は負傷者らを振り返ったが、何も言わず、二人に続いた。
☆あの日のクブルム街道……「556.治療を終えて」参照




