914.生き延びた朝
一夜を生き延びた安堵や喜びより、疲労の色が濃い。
ステンドグラスから射し込む朝の光が、礼拝堂の床で寝具もなしに蹲って眠る人々の背や肩を彩った。
クフシーンカは耳を澄ましたが、寝息と雀の囀りの他は何も聞こえない。
木製のベンチの座面にもたれ、床に座って眠る者たちは、きっと足腰が痛むことだろう。
説教壇では、ラゾールニクが半身を起こし、せっせとタブレット端末をつついていた。クフシーンカに気付いて立ち上がる。手振りで示され、先程まで寝ていた廊下に戻った。
応接室のソファと司祭の休憩室のベッドは、赤ん坊とその母親たちで塞がる。集会室は乳幼児連れの女性で埋まっていた。ベッドはないが、毛布が行き渡った分、幾分か礼拝堂よりマシだ。
尼僧の休憩室には、昨夜遅くに生まれた子と産婦が居た。尼僧とクフシーンカが交代で、出産を終えたばかりの女性の世話をしている。
今は母子ともに眠っていて静かだ。
金髪の青年が、執務室の扉をそっと開けた。
司祭は、机に突っ伏して寝息を立てている。
ラゾールニクが後ろ手で扉を閉めた。執務室は、ポリタンクとゴミ袋で埋まっている。
昨日は、この魔法使いの青年が、大量のおむつを【操水】の術で洗ってくれた。彼が休んだほんの数時間で、袋がふたつも増えている。
人の気配で司祭が顔を上げた。無精髭に覆われ、疲労の色が濃い。
「おはようございます。何かありましたか?」
「おはようっス。今んとこ特にないけど、言っときたいことがあって」
司祭同様、疲れ切ったラゾールニクが言う。自治区民二人の顔が曇った。
「あぁ、いや、悪いハナシじゃないよ。昨日、呪医に予備の端末渡して外部に連絡してもらったんだ」
「外部のどちら様宛てですか?」
「ラクエウス議員の仲間。俺もそうだけど、武力を使わずに平和を目指す活動してる人なんだ。救援物資頼んだから、多分、呪医が受取って戻って来ると思う」
司祭が充血した眼を見開く。
「そんなことまでして下さったのですか。何のお礼もできなくて大変、心苦しいのですが……物資の代金などはどうしましょう?」
「その辺は気にしないでくれ。同じネモラリス人同士で殺し合うのって馬鹿らしいし」
クフシーンカも有難く思ったが、懸念を口にせずには居られなかった。
「あの呪医が一人で持てる量では、却って諍いになりませんか?」
「頼んだ物は、レトルトの離乳食と介護食、粉ミルク、哺乳瓶、おむつ、堅パンとドライフルーツと缶詰、それに毛布。【無尽袋】って言う魔法の袋に入れてもらうから、一人でも大丈夫だ」
ラゾールニクが指折り数える。袋の名称には、クフシーンカもうっすら聞き覚えがあった。
クフシーンカが納得して頷くと、ラゾールニクは頷き返して説明を続ける。
「それで、夜は流石にどっちも戦闘を休止してたけど、ひょっとしたら、もうすぐ再開するかもしれない。自宅や学校、工場とかの様子を見に行かないように止めて欲しいんだ」
「勿論です。あ、既に起床なさった方々が?」
司祭が慌てて立ち上がるのをラゾールニクは手振りで止めた。
「その前にもう一個! 万が一、呪医が山道で解放軍と鉢合わせしたら、止めて欲しいとも頼んでたんだ。それで」
「……それで?」
何故か言い澱んだラゾールニクに二人の声が重なる。
金髪の青年は躊躇いがちに答えた。
「他の誰にも言わないで欲しいんだけど……えーっと、アレで。あの呪医は、ウヌク・エルハイア将軍の遠縁の親戚なんだ」
クフシーンカは息が止まりそうになった。
「ほぼ他人レベルの遠縁だけどね。でも、呪医がここで救援物資配ってる時に、また解放軍が来たら、どんな反応するかわかんないって気が付いたんだ。俺はいい方に……遠縁でも将軍の身内だから、奴らも大人しくしてくれるかもって思って連れて来たんだけど、例えば、奴らを説得すんのを自治区の人に聞かれるとパニックになるかもしれないかなって」
ラゾールニクは説明する内に早口になり、クフシーンカは途中から理解が追い付かなくなってしまった。
司祭が眉間を揉んで目を閉じ、数秒考えてラゾールニクを見る。
「つまり、市民病院のあの呪医は、女神の遠縁の親戚で、湖の民に少なからず影響力を持っている……と言うことですか?」
「大体合ってるけど、影響力はどうかな? 昔、軍医だったから、旧王国時代にそこそこ身分のある騎士だった人は知ってるかもだけど、若い一般人はあの人のこと全然知らないからね。ネーニア家の名を騙る不届き者として成敗されちゃうかもよ」
陸の民の魔法使いは、本気なのか冗談なのか判然としない口振りでニヤリと笑った。
クフシーンカは、自治区民だけでなく、ネミュス解放軍にも、あの呪医が何者か知られない方が無難だと思った。
「でも、もし、解放軍に呪医の知り合いが居たら?」
クフシーンカは、いっそこちらからクブルム街道へ出向いて救援物資を受け取った方がマシな気がしてきた。だが、途中で星の標や解放軍にみつかれば、殺されて奪われるかもしれず、喉元まで出掛かった言葉を言い出せずに飲み込む。
ラゾールニクが芝居掛かった仕草で腕を組み、眉間に皺を寄せた。
「うーん、その時の状況によっては、どうにか頑張って本人に誤魔化してもらうしかないだろうね。司祭様と店長さんも何か考えといてくれないかな?」
昨日、教会を訪れたネミュス解放軍――少なくともこの作戦の副官は、どうやら長命人種で、元騎士のように見受けられた。もし、彼が、呪医が物資を配る最中に再訪したら、どう誤魔化せばいいのか。
あの副官ではない呪医の知人が鉢合わせしたら、などと心配が後から後から湧いて出る。
……こちらの話に耳を傾ける気があることだけが救いね。
「で、呪医が来てくれたら、俺はちょっと出掛けるよ。後はヨロシク」
「えぇ、それはもう……寧ろ、こんな状況でここまでしていただいて、何とお礼を申し上げればよろしいやら」
司祭が恐縮すると、ラゾールニクは片手をひらひら振って笑った。
「昨日も言ったけど、戦略上、ここを解放軍に陥とされんのはマズいんだ……教会って、ここだけ?」
「いえ、西教区……団地地区にもあります」
思い出したように聞かれ、司祭が眉を曇らせる。クフシーンカは土地勘のない魔法使いの青年に説明を付け加えた。
「昨日は通らなかったんですけど、リストヴァー大学の北隣なんです。警察署や農村地区からは離れているのですけれど」
「あっちの司祭様も、上手いこと解放軍をあしらってくれたって信じとくよ」
ラゾールニクは、大量のおむつを魔法で一気に洗い、執務室を出た。
☆昨日、呪医に予備の端末渡して外部に連絡してもらった……「901.外部との通信」参照
☆ラクエウス議員の仲間/救援物資頼んだ……「912.運び屋の仕事」「913.分配と心配と」参照




