906.魔獣の犠牲者
振り向くと、山の端を朝の気配が這い上がろうとしていた。
どうやら、ネミュス解放軍は出直して来る気はないようだ。
呪医セプテントリオーは、まだ星々が瞬く方へ向き直り、リストヴァー自治区から逃れる人の群の殿を守る。
クブルム街道を守る【魔除け】の敷石から、土砂や落ち葉が取り除かれていたお陰で、一行は道に迷うことなく歩みを進められた。
疲れ切った一行を前へ前へ、西へと追い立てたのは、自治区を襲ったネミュス解放軍の恐怖だ。武器も魔力も持たぬ彼らには、魔法使いの軍勢に対抗し得る手段がない。
呪医セプテントリオーが確認できただけでも、昨夜、クブルム街道の東端で遭遇した部隊は、魔法戦士の【急降下する鷲】学派の隊長と、自ら戦い得る武器職人【飛翔する鷹】学派の交渉役が居た。
彼らが本気で戦う気なら、傷を癒す【青き片翼】学派を修めたセプテントリオーでは、強い魔力を持つとは言え、己の身を守ることさえ覚束なかっただろう。
道々思い返し、危うい賭けだったと冷や汗を拭う。
街道に蹲る人影が見えてきた。
毛布など、まともな寝具や防寒具を持ち出せた者は居ない。古新聞に包まり、身を寄せ合って微睡む男性たちが、忍ばせた足音に目を覚ましてこちらを見た。誰も何も言わず、膝の上に顔を乗せて寝直す。
新聞屋の夫婦を先頭にしたのは正解だった。
呪医セプテントリオーはフードを深く被り直し、街道に点々と横たわる人の群にソルニャーク隊長を探した。
林業組合の朽ちた小屋には、ブルーシートが掛かっている。ロープでコンクリートブロックに固定され、半分近く落ちた屋根と壁の代わりに風を防いでいた。
小屋が建つ作業場は、孫生が伸び放題だった切り株が取り除かれ、すっきりしていた。中央にはコンクリートブロックを積んだ竈があるが、火を入れておらず、雑妖がうろつく。クブルム街道に近い端で、数人の男性たちが焚火を囲んでいた。
「あの、ソルニャークさんは……」
「そっちで寝てるよ」
「さっき見張りを代わったとこだ」
「起こしちゃ悪いよ」
「そうですか。ありがとうございます」
呪医セプテントリオーは、見張りたちと囁きを交わして、作業場に足を踏み入れた。雑妖の群が白衣の【魔除け】に蹴散らされ、木立の間に逃げ込む。
ここ数日は天気がよかったらしく、地面は乾いていた。
見張り以外の者たちは、焚火ができる作業用の広場ではなく、【魔除け】の敷石に守られた街道の上で眠っていた。
「小屋は女子供専用だ。おっさん、こっちで火に当たれよ」
ぶっきらぼうな声が呪医を呼び止める。
「私は、市民病院の呪医です。この広場全体に【簡易結界】を施せば、焚火を増やして安全に暖かく過ごせますよ。……魔法を使ってもよければ」
焚火の炎が作る濃い陰影が、迷いと困惑を深く見せる。
共に逃れて来た者たちが、先程拾った薪を広場の端に置いた。
……隊長が寝ている時に解放軍の件を話せば、パニックが起きるな。
呪医セプテントリオーが、新聞屋たちに釘を刺す。
「状況の説明は、みなさんが目を覚ましてからにしましょう」
「そうですね。何回もおんなじハナシすんのは面倒でございましょう」
新聞屋が呪医に向ける表情は、まだぎこちない。
賛成の声はなかったが、反対の声も出なかった。
呪医は薪を一本拾い、土の地面に内と外を隔てる線を引き始めた。
……ネミュス解放軍……クリュークウァ市の支部長が物の道理を解する人物なら、クブルム街道には上がって来ないだろう。
セプテントリオーは、指揮官が戦略の素人ではないことを祈り、【簡易結界】の準備を続ける。
視界の端、小屋の西側の木立で何かが動いた。
呪医の足が止まる。
異変を察した見張りたちが、フードの顔を向ける方を見遣る。新しい焚火を作っていた菓子屋たちの手が止まった。
空の色は薄くなってきたが、木立の間はまだ見通せない。人々の目が、小枝を踏み折る音を追う。人間の三倍くらいの何かが、木々の間を這っていた。
「ッ! てっ、敵襲ー! 起きろーッ!」
「ば、化け物だーッ!」
雑妖ではない。この世の肉体を備えたモノが、下生えや落ち枝をヘシ折りながら近付いて来る。
人々が飛び起き、辺りを見回す。
女性たちがブルーシートを捲って顔を出した。
「出るな! 引っ込め!」
燃える枝を手にした男性が小屋に叫ぶ。
セプテントリオーは【操水】の術で【無尽の瓶】の水を引き出した。水塊を宙に漂わせたものの、どんな魔獣かわからなければ、次の動きを決められない。
昇り始めた朝日に恐怖と焦燥が露わになる。
ソルニャーク隊長が、拳銃を手に作業用の広場に駆け込む。
「隊長!」
「掩護を頼む」
「掩護……どうすれば?」
「あれの動きを止められるか?」
「水で浮かせてみます」
寝起きとは思えない指示に従い、呪医は木立に水塊を突入させた。軽トラの荷台一杯分くらいの水が、芋虫のようなモノと地面の間に滑り込む。力ある言葉で更に命じ、水そのものを地面から引き離す。
梢の上に朝の光が射し、若葉を透かして降り注ぐ。
老人の上半身に巨大な芋虫が続き、その背には老婆の半身が背泳ぎの浮彫のようにくっついていた。
でたらめに生えた人の腕が宙を掻く。頭部を成す老人に表情はない。口がぐにょりと広がり、人間を丸呑みできそうな虫の口吻が突き出た。
「あいつに食われたら、婆さんみたいになっちまうのか?」
工員プラエソーが、火の点いた枝を手に後退る。
芋虫の胴が蠢く度に老婆がぐにゃりと捻じれる。
魔獣の移動は阻止できたが、動きまでは止められない。水中でのた打ち、身をくねらせて術から逃れようと足掻く。セプテントリオーは水に命じ、中心へ向かう流れを作って逃がすまいとする。
魔獣が流れに抗い、老人の頭と腕一本、体節の一部が脱した。ソルニャーク隊長が撃鉄を起こし、両手で拳銃を構える。
誰のものかわからない腕が太い枝を掴み、魔獣の半身がずるりと水を抜ける。
夜明けの山に銃声が響いた。
銀の弾丸が老人の額を撃ち抜いたが、一滴の血も流れない。貫通した弾が幹に食い込んだ。虚ろに空いた穴から白い線虫のようなモノが無数に這い出し、水に混じる。
……まさか、幼体? あれがこの世の生き物に侵入してはマズい。
「水よ、熱く滾れ!」
セプテントリオーは力ある言葉で命じ、魔獣を包む水を沸かした。熱湯程度でどうにかできるとは思えないが、呪医であるセプテントリオーには、咄嗟に他の攻撃手段を思いつけなかった。
「人間の部分は、捕食された犠牲者で、魔獣の本体ではありません」
「芋虫の部分に当てねばならんのか」
老人の胴に連なる芋虫の体節からは、成虫のような脚と幼虫の吸盤のような脚が不規則に生えていた。幼虫の吸盤が幹に取りつき、水流に抗う。
熱湯程度では、何の痛痒も感じないらしい。
二発目は、熱湯からはみ出した芋虫の胴に当たったが、銀の弾丸は柔らかそうに見えた身に弾かれ、地面にめり込んだ。
人々は燃える枝で加勢するどころではなく、作業場の反対側へ後退る。
ソルニャーク隊長が、魔獣から目を放さずにリボルバーを操作し、銀の弾丸を一発だけ取り出す。
「これは、何とかの矢のように魔力を籠めて威力を上げられないのか?」
「なんとかのや……【祓魔の矢】ですか?」
呪医も魔獣を見詰め、水を操りながら摺り足で隊長に近付く。
手を触れた瞬間、弾が魔力を帯びて淡い光に包まれた。刻まれた呪印には、見覚えがあった。
「これは【結籠火輪】! 【急降下する鷲】学派の攻撃魔法です」
ソルニャーク隊長が、魔力を帯びた弾を装填する。
「水よ、二手に分かれよ」
力ある言葉の命令で、魔獣を包む水が頭部と体節の端に移動する。熱湯から解放された芋虫の胴が激しくくねり、取り込まれた老婆が捻じれる。
ソルニャーク隊長が呼吸を止めて照準を合わせる。
どうにかして魔獣の動きを止められないかと、口の中に熱湯を流し込むが、この世ならぬ生き物は相変わらず、でたらめに手と脚が生えた胴を狂おしい激しさで動かし続ける。
銃声が轟いた。
魔力を帯びた弾は、老婆の下にある芋虫の胴にめり込んだ。
貫通せず、虫の胴が膨張を始める。
「なっ……何だ?」
「お、おい、みんな、逃げろ!」
プラエソーが火の点いた枝を落としてへたり込み、新聞屋が叫ぶ。
……まさか、私の魔力を吸収……いや、違う。
魔獣の身が元の数倍に膨れ上がり、破裂するかと身構える。
ソルニャーク隊長が撃鉄を起こしたが、その必要はなかった。唐突に魔獣の色が失われ、灰となって崩れたかと思うと風に消える。
セプテントリオーは、地に落ちた線虫を土ごと【操水】で掻き集めた。灰に濁った水が、透明度を取り戻しつつ木々の根元を這い回り、落下した線虫を一匹残らず捕える。
「日輪の小さき欠片 舞い降りよ 輪の内に 灯熱 火よ熾きよ」
枝を拾い、地面に円を描いて【炉】を熾した。水に呑ませた灰と線虫を即席の焼却炉に焼べる。水の中身を全て円内に捨て、力ある言葉で繰り返し命じ、この術の限界まで火力を上げた。
「熱く 熱く 炎よ踊れ! 熱く 熱く 炎よ踊れ……」
「な、何で急に灰になっちまったんです?」
新聞屋が恐る恐る呪医と隊長の傍へ寄った。
ソルニャーク隊長が答える。星の道義勇軍は、自治区東部のバラック地帯で魔獣狩りも行っていたと言っていた。
「弾が、魔獣の“存在の核”にかすめたのだろう」
「存在の核……?」
「現世、幽界、冥界……三界で肉体と幽体の芯を貫く“存在そのもの”だ。魔物は本来、幽界の住民だ。肉体と幽体を同時に破壊されるか、存在の核を傷付ければ、現世にも幽界にも居られなくなり、冥界に送られる」
「えーっと、死ぬってコトですかい?」
「そう言うことだ。これで当分、この世には出て来られん」
人々に安堵が広がり、女性たちがブルーシートの端を僅かに持ち上げ、小屋から顔を出す。
線虫の形をした魔獣の幼体を全て焼き尽くした時には、完全に夜が明けていた。
☆芋虫のようなモノ/老人の上半身に巨大な芋虫が続き、その背に老婆の半身……「180.老人を見舞う」「537.ゾーラタ区民」参照
☆工員プラエソー……「895.逃げ惑う群衆」参照
☆何とかの矢/【祓魔の矢】……「413.飛び道具の案」「414.修行の厳しさ」「533.身を守る手段」参照
☆【結籠火輪】……使用例「233.消え去る魔獣」参照
☆弾が、魔獣の“存在の核”にかすめた……「233.消え去る魔獣」参照




