905.対話を試みる
アシーナが息を呑んで目を瞠る。
司祭は落ち着いた声で続けた。
「湖岸沿いの工場は、自治区資本と外部資本が混在しています。本社が自治区外にある工場には、星の標の構成員が居ません」
「何故だ?」
ネミュス解放軍の部隊長が興味を示した。半世紀の内乱中、幾度となく目にした旧王国時代の【鎧】を纏い、魔法戦士の証である猛禽類の徽章を身に着けている。
……司祭様、どうして今、そんな話を?
クフシーンカは訝ったが、口を挟まずに見守る。
リストヴァー自治区に侵攻したネミュス解放軍が、全部で何人なのかわからないが、話を長引かせれば、少なくともここにいる三十人ばかりは足止めできる。逃げる時間を稼げるなら、話題は今夜のおかずでも何でもよかった。
「武器を取らず、何もかも放り出して逃げた方々をどうされましたか?」
「深追いはしておらん。何せ我々には土地勘がありませんからな」
隊長の背後で湖の民たちが頷く。
「外部資本の工場は、ゼルノー市立中央市民病院と協定を結び、重傷の労使事故に限って、呪医の治療を受けさせていました」
「成程な。原理主義を標榜するテロリスト共が、そんな所で働く筈がない、と。では、残りはどこに居る?」
「山です! 山へ逃げました!」
アシーナがクブルム山脈を指差して叫び、教会の敷地を飛び出した。
隊長は動かず、誰も追わない。彼らネミュス解放軍にとって、力なき民の少女一人、居ても居なくても同じ、取るに足りない存在なのだろう。
仮に星の標の主力を呼ばれたとしても、マレーニ染業を殲滅したらしい彼らには、力なき民の武装勢力を迎え撃つのは造作もないことなのかも知れなかった。
「テロリストとは言え、同じ自治区民を我らに売り渡し、己一人で逃れようなどと……大した小娘だな」
ネミュス解放軍の部隊長が嘲りに顔を歪め、司祭に同情を示す。
クフシーンカは、アシーナが車の減った道路を渡ってシーニー緑地を駆け上がるのを苦い思いで見送った。
司祭は、ひとつ溜め息を吐いて事実を説明した。
「クブルム山脈へ逃れたのは、外部資本の工場に勤める工員です。彼らには戦う力も、今夜の水も食糧も何もありません」
「力なき民が、身ひとつで山へ入った? 何故、あの小娘と同じ方へ逃げん」
「あちらには警察署が……機動隊とあなた方の戦闘に巻き込まれるからです」
司祭は、星の標の存在を伏せた。
慎重に言葉を選び、毅然とした態度で情報を小出しにする。
「教団からの救援物資などと共に、僅かながらも外部の情報は届いています。首都クレーヴェルにも、星の標の支部があると聞き及びました。それがもし、事実なら、このリストヴァー自治区を滅ぼしても、星の標による暴力は止みません」
「それは我々も把握している。ウヌク・エルハイア将軍だけでなく、政府軍や警察も対応に苦慮している」
真偽の程は定かではないが、部隊長も情報を提示した。
……話が通じる人でよかったけれど、油断はできないわね。
「ところで、この歌は?」
隊長が急に話題を変えた。
ラゾールニクがするりと外へ出る。
司祭はネミュス解放軍を見回して答えた。
「平和を願う歌『すべて ひとしい ひとつの花』です。かつて、ラキュス・ラクリマリス共和国の百周年を祝賀する為に作られましたが、半世紀の内乱によって作詞が中断したそうです。あなた方もご存知なのではありませんか?」
「知っておるが、七百年あまり前から、ウーガリ山中の村に伝わる里謡としてだ。歌詞はフラクシヌス教の神話で、全く違う」
司祭の横顔から血の気が引いた。
「そう。旋律は『女神の涙』だ。百周年用の作詞は、内乱のせいでポシャった。今回の戦争で、続きを作ろうって運動が起きて、ネモラリス建設業協会とかが募集して、今、ここまでできてる」
ラゾールニクは、扉に貼られた画用紙を示した。
ネミュス解放軍の目は、歌詞ではなく、話に加わった金髪の青年に刺さる。
「何故、そんなことまで知っている?」
「うーん……インターネットって、わかるかな?」
「何の網だ?」
「あー……そこから説明が要るのかー……」
ラゾールニクは、困ったように苦笑を浮かべ、頭を掻いた。咳払いして姿勢を正し、澱みなく、予備知識のない者にもわかりやすく説明する。
「科学文明国の最先端の通信技術なんだ。コンピュータや持ち運びできる小型の端末機を使って、無線とかで通信する。音声だけじゃなくて、文字や写真、映像、図面なんかも瞬時に世界中と遣り取りできる」
「それが、自治区に?」
解放軍の兵たちが薄気味悪そうに辺りを見回す。
「ラクリマリス王国でも、巡礼者用に整備を進めてて、自治区はその電波を使わせてもらってるんだ。でも、端末機が高価だから、偉い人や大金持ちの人しか持ってないよ」
隊長が少し考え、質問を発する。
「金持ち……先程戦った染料工場の社長もそうか」
「多分ね。俺は社長と直接喋ったコトないけど、端末で得た情報は、新聞屋さんとかを通じて、庶民にもちょっとは教えてもらえる。それが、さっき司祭様がおっしゃってたコトだ」
「我々には、情報の全体像や確度などは伝わっておりません」
司祭が言い添えると、隊長は小さく頷いた。
「教会に身を寄せているのは、力なき民の中でも特に弱い人ばかりです。ここには星の標の戦闘員など居りません」
「奴らに加担する者もか?」
隊長の緑の瞳が、キルクルス教徒の聖職者を鋭く刺す。
「星の標は、異端の教えと暴力によって、弱い人々を無理に従わせています。強制も加担と看做すなら、私も含めてみんながそうです」
湖の民の部隊長が笑った。如何にも面白そうだが、彼の部下は、工場群、シーニー緑地、クブルム山脈、教会をそれぞれ油断なく見張って笑わない。
ひとしきり笑い、隊長は表情を改めた。
「成程、その点に関しては、あの小娘と同じなのだな」
「星の標は、呪医の治療を受けた方や、その家族をも“穢れた者”として殺害しています。市民病院との協定に信仰上の許しを与えた身として、己の無力が嘆かわしく……」
「魔法を使っても構わんのか?」
隊長と教会を注視する兵たちが、一様に驚いた目を向ける。
司祭がはっきり頷いてみせる。
「聖典では、三界の魔物の再来を招くような“悪しき業”の使用は禁じています。しかし、魔術の全てを禁じている訳ではありません。現に……」
司祭は聖職者の衣の裾をつまんだ。
白地に白糸で複雑な模様が刺繍してある。隊長が司祭を頭のてっぺんから爪先までじろじろ眺めた。緑の目を瞠る湖の民たちに、司祭が付け加える。
「祭衣裳もそうですし、この教会もそうです」
「司祭殿は、魔法使いであったか」
隊長が驚きに微かな皮肉を混ぜた。
司祭はきっぱり否定する。
「違います。私は力なき民です。信者の大半も力なき民で、星の標を恐れ、聖典で使用を許された術は、失われつつあります」
「では、今はまだ、自治区民の中にも魔法使いが居ると言うのだな?」
「あなた方のように、自前の魔力を用い、呪文の詠唱によって、自力で術を行使し得る者は居りません。力なき民でも可能な【編む葦切】や【巣懸ける懸巣】学派などです」
「教義云々を抜きにしても、そう言う人たちを魔法使いって呼ぶのは、何かヘンな感じだよな」
ラゾールニクが口を挟むと、数人の兵士が頷いた。
隊長が表情の読めない声で問う。
「星の標はそれを知っているのか?」
「わかりません」
「連中が不信心で、聖典の隅々まで目を通していないなら、正しい教義を知らせるのは……危険だな」
隊長が何事か納得した顔で言い、部下に向き直った。
「合流地点へ急げ」
十人前後の三小隊に別れ、周囲を警戒しながら北へ移動する。
最後の一人が教会の敷地を出るまで見送り、隊長は司祭の目を見て聞いた。
「我らネミュス解放軍の目的は、ご存知かな? 昨年、ラジオで繰り返し放送したのだが」
「魔哮砲を用いるクリペウス政権を倒し、ラキュス・ネーニア家による神政に復古させる……と新聞の号外で知りました」
「では、魔哮砲が何であるかはどうですかな?」
「悪しき業によって生み出された魔法生物を兵器化したモノ……キルクルス教の教義だけでなく、国際法上も存在を許してはならないモノです」
司祭の答えをじっくり吟味する沈黙を、カリンドゥラと教会に身を寄せた弱者の歌声が埋める。かなりの人数がハミングから歌詞に切替え、まだ調子外れではあるが、ひとつの歌を成しつつあった。
「我らの目的は、信仰などで他を排除せず、ラキュス湖の畔に住まう者として、かつてのようにすべての民がひとしく共存することなのだ」
ここだけを聞けば、先程、司祭と尼僧が教会に身を寄せた人々にした説得とほぼ同じだ。
「キルクルス教は、ほんの数百年前にこの地に移入された新しい宗教だ」
クフシーンカは、二千年以上の歴史を誇るキルクルス教を新興宗教呼ばわりされてムッとしたが、喉元まで出掛かった声をどうにか飲み込んで見守った。
「ラキュス湖の恩恵に与りながら、パニセア・ユニ・フローラ様方の存在を否定し、フラクシヌス教の神々を貶めないならば、我々がキルクルス教を排除することはない。すべてひとしい水の同胞として、かつてのように共存できる」
「はい。私はまだ、内乱前のことも憶えております」
クフシーンカは、大扉の隙間から声だけを出した。
隊長が目を細めて頷く。
「ならば、知っていよう。星の標が、内乱の揺籃期に組織されたばかりの“新しい思想集団”だと」
クフシーンカが無言で顎を引くと、隊長は司祭に目を転じた。
「俺は本作戦の副官、ネミュス解放軍ヴィナグラート支部長グレムーチニクだ。教会が星の標の襲撃を受けた場合、守ってやらぬでもないが、どうする?」
「ご厚意は大変有難く存じますが、あなた方がここを守ろうとすれば、却って彼らの攻撃に晒されます」
隊長が口角を僅かに上げて頷く。
「指揮官のカピヨーにも、そう伝えよう」
呪医とラゾールニクが唱えたのと同じ呪文を唱え、グレムーチニク副官は姿を消した。
☆外部資本の工場は、ゼルノー市立中央市民病院と協定……「017.かつての患者」「369.歴史の教え方」「529.引継ぎがない」参照
☆平和を願う歌『すべて ひとしい ひとつの花』……「275.みつかった歌」「774.詩人が加わる」参照
☆ウーガリ山中の村に伝わる里謡/『女神の涙』……「577.別の詞で歌う」~「579.湖の女神の名」、歌詞全文「531.その歌を心に」参照
☆ネモラリス建設業協会とかが募集……「348.詩の募集開始」「659.広場での昼食」「771.平和の旗印を」参照
☆市民病院との協定に信仰上の許しを与えた……「888.信仰心を語る」参照
☆ネミュス解放軍の目的/昨年、ラジオで繰り返し放送した……「600.放送局の占拠」「601.解放軍の声明」参照
☆魔哮砲を用いる用いるクリペウス政権を倒し(中略)新聞の号外で知りました……「629.自治区の号外」「630.外部との連絡」参照
☆先程、司祭と尼僧が教会に身を寄せた人々にした説得……「900.謳えこの歌を」参照
☆星の標が、内乱の揺籃期に組織されたばかりの“新しい思想集団”……「858.正しい教えを」「625.自治区の内情」参照
▼「女神の涙」の歌詞




