904.逆恨みの告口
礼拝堂の大扉が司祭の手で閉められ、誰も入れなくなった。
老いた尼僧が説教壇の中央で声を張り上げる。
「身重の方と乳幼児をお連れの方は、奥の集会室へ移動して下さい」
奥に近い該当者から順に移動が始まる。
押されて流産しては大変だ。ここでおむつを替えられても困る。集会室には、子連れで針仕事などをする者用に予備のおむつが置いてある。
誰からも異論が出ず、礼拝堂に残る者は身を横にして彼らを通した。
人が減って隙間ができ、空気が僅かに緩む。
ラゾールニクのタブレット端末は、説教壇の上で何度も同じ曲を繰り返す。カリンドゥラの歌声が、締め切られた礼拝堂に響き渡り、荘厳な雰囲気に包まれた。
尼僧とクフシーンカ、ラゾールニクは画用紙に歌詞を書き写し続ける。
一枚完成させたラゾールニクが、クフシーンカの耳元で囁く。
「店長さん、汚れたおむつ、ゴミ袋に詰めて人が来ない部屋に運んでくれないかな? 後で俺が洗うから」
魔法で洗ってくれるらしい。
有難いが、教会の中で魔法を使うことに反対する者は多いだろう。そもそも、彼が魔法使いであると知られればパニックが起きるかもしれない。
クフシーンカが反応に迷っていると、魔法使いの青年は更に言った。
「穢れをそのままにしたら、夜に魔が涌くかもよ? 外からは入れなくても、内から涌くのは止められないから」
彼は、おむつかぶれから皮膚病になることを心配したのではなかった。
クフシーンカはふと、あの日のアシーナを思い出した。
忌まわしい記憶を振り払い、魔法使いの青年に感謝を示す。
「ありがとうございます。では」
「私の休憩室に置きましょう。何か必要なものはありますか?」
尼僧も、彼が何者か薄々気付いているのだろう。声を潜めて聞いた。
「えーっと、水と、段ボール箱にゴミ袋被せたのがあれば便利かな」
尼僧が頷き、書き上がった歌詞を手に奥へ行く。
「あちらは御寮人様にお任せしましょう」
クフシーンカは、歌詞の紙をベンチの右手側の壁に貼った。前方の歌詞が見えなかった人々が右を向く。
間を空けてもう一枚。
かなりの人数が、旋律を憶えようとハミングで歌をなぞり、調子外れの声が重なり合ってカリンドゥラの声を追う。
全員が見られるようにするには、もっと必要だ。
説教壇を振り向くと、読み書きできる者が手伝ってくれていた。
……若い人の方が速く書けるわね。
クフシーンカは、壇を離れたついでに外の物音を窺おうと、大扉に近付いた。
付近の人々が、何とも言えない顔で扉を見ている。数人は扉に耳を当てて苦い顔だ。扉越しに、憶えのある声が聞こえた。
「司祭様、こんな時まで私が半視力だからって差別なさるんですか?」
「違います。ここはもういっぱいで、一人も入れないのです。アシーナも早く山へお逃げなさい」
「そんな……魔物や魔獣がいっぱい居るのに……酷い。司祭様は私に化け物の餌になれっておっしゃるんですね」
啜り泣きに司祭の溜め息が重なる。
「アシーナは去年、あの事業を手伝わなかったから知らないだけで、山の中にも安全な道があります。今なら大丈夫です。道を知っている人の後に続いてお逃げなさい」
啜り泣きに揺れる声が、批難に尖る。
「じゃあどうして、教会に人を押しこんでるんですか? ホントに大丈夫なら、みんなで山に行けばいいじゃないですか」
「教会に身を寄せるのは、お年寄りや足が不自由な方など、山に登れない方々です。アシーナは、早くお逃げなさい」
「私だって山なんかムリです。入れて下さい! 一生のお願いです! 何でもしますから!」
クフシーンカは、あの豪雨の日を思い出し、把手に掛けた手を離した。
恐怖と不安に囚われた人々の中に、口から雑妖を吐き出すと知れ渡った少女を入れればどうなるか。
……教会で犠牲者を出すなんてとんでもない。
ここへ逃れてきた人々には、戦う力は勿論、逃げる力さえなく、他にどこにも行き場がないのだ。
肩を叩かれ、振り向く。ラゾールニクが大扉に手を掛けた。
「ここ、もうガッチリ閉めるから、最後にもう一回、司祭様に声掛けてみよう」
止める間もなく扉を開く。
礼拝堂内からカリンドゥラと避難者の歌声が流れ、外の光景が目に飛び込む。
司祭とアシーナは、緑色の髪の集団を前に沈黙していた。
全部で三十人くらいだろうか。服装はまちまちだが、揃いの腕章を左肩に巻いている。白地に描かれるのは、青い花と水滴。クフシーンカの遠い記憶が甦った。
……あれは、湖の女神の花。
水滴は、「涙の湖」とも称されるラキュス湖を表すのだろう。
湖の女神パニセア・ユニ・フローラを信奉する湖の民。初めて目にしたが、あれこそが、クーデータを起こしたネミュス解放軍の旗印に違いない。
解放軍の兵は、誰一人として武器を携えておらず、中には女性の姿もあった。仲間と囁き交わし、今のところ攻撃する気配はない。
最初に気を取り直したのは、ラゾールニクだった。
「遅かったか……司祭様!」
「私に構わず、閉めて下さい」
司祭は振り返らずに言い、一歩前へ出た。
アシーナが蒼白な顔を湖の民の集団に向け、じりじりと道の方へ移動する。教会の敷地から真新しいアスファルトの道までが、遙か彼方に感じられた。
「教会に助けを求めて来られたのは、お年寄りや乳幼児、その母親、身体の不自由な方など、戦うことも遠くへ逃れることも叶わぬ弱い人々ばかりです。お引き取り下さい」
静かな声が堂々と告げる。
部隊長らしき年嵩の男性が前へ出た。彼が口を開くより先にアシーナが駆け寄って捲し立てる。
「そうです! ここには私たち弱者しか居ません! 星の標は山です!」
「山だと?」
「山の中に昔の道が残ってて、そこに武器を置いてるんです! 早く行かないと武器を取って戻ってきます!」
「アシーナ……あなたは何故、そのような嘘を吐くのですか?」
司祭の声には怒りではなく、深い悲しみと、理解の範疇を超える者への恐怖が滲む。咎めたのでもなければ、責めているのでもない。本当に、何故こんなことをするのか質問したのだ。
初対面の湖の民たちも、この二人のただならぬ様子に戸惑う。
「司祭様は、星の標が怖いからって信仰を曲げてまでそうやって庇うんですね! 私、もうこんなのイヤなんです! 解放軍のみなさん! 星の標は今も大勢、山へ向かってます! 異端者をやっつけて私たちを助けて下さい!」
アシーナは目に涙を浮かべ、真摯に誠実にネミュス解放軍の部隊長に訴える。
隊長は、金髪の少女が指差すクブルム山脈へ目を遣り、キルクルス教の聖職者に視線を戻した。仮設住宅の隙間から、山へ向かう人の群がちらちら見える。
「今日の作戦には【明かし水鏡】を持って来ておらんが、一応、どちらの言い分も聞かせてもらおうか」
「先程、あなた方が戦った相手は、恐らく、マレーニ染業の従業員です。同社は社長兼工場長を筆頭に、全従業員が星の標の構成員で、工場内には密輸した武器弾薬を蓄えていました」
「戦闘の前に教えていただきたかった情報ですな」
隊長が薄く笑う。
兵の一部は大扉の隙間から中を窺い、細く流れるカリンドゥラの歌声に耳を傾けていた。
☆外からは入れなくても、内から涌くのは止められない……「716.保存と保護は」参照
☆あの日のアシーナ……「483.惑わされぬ眼」参照
☆子連れで針仕事などをする……「294.弱者救済事業」「311.集まった古着」参照
☆去年、あの事業……「442.未来に続く道」参照
☆あの豪雨の日……「480.最終日の豪雨」~「485.半視力の視界」参照
☆【明かし水鏡】……「564.行き先別分配」「596.安否を確める」「597.父母の安否は」「623.水鏡への問い」参照
☆マレーニ染業……「896.聖者のご加護」参照




