902.捨てた家名で
諦めて、タブレット端末を白衣のポケットに仕舞い、フードを深く被り直して薪を一本手に取る。
新聞屋が不安な声を出した。
「今の、何だったんです?」
すっかり暗くなった広場では焚火が赤々と燃え、陰影を濃くする。広場の外を漂う雑妖の輪郭がはっきりしてきた。
「返事がきました。明日の朝一番にすぐ近くのノージ市まで、救援物資を持って来てくれるそうです」
「ノージ市ってどこ?」
菓子屋の息子が聞く。この広場で小学生は彼一人だ。学校に居た他の子供たちがどうなったのか、恐ろしくて聞けなかった。
「この山を越えたすぐ南、ラクリマリス王国の街です」
「でも、南行きの道は掘ってませんよ」
後から来た男性の一人が泣きそうな顔をする。
「それは、私が知っていますから大丈夫ですよ。術で移動すればすぐですから」
「でも、その間に解放軍が来たら……」
女性たちが怯えた目で、登ってきた道を見る。
微かに足音が聞こえ、一同は息を詰めて街道の先を凝視した。
木の間を光がちらちら動き、大勢の靴音が夜道を登って来る。
人々は広場のもう一方の端に身を寄せた。
「優しき水よ、我が声に我が意に依り、起ち上がれ……」
呪医は薪を捨て、白衣のポケットから【無尽の瓶】を出して【操水】を唱える。
力なき民が日没後に山中を移動するとは考え難い。
……襲われてやむを得ず来たにしては、足音が落ち着いている。
「漂う力、流す者、分かつ者、清めの力、炎の敵よ。
起ち上がり、我が意に依りて」
結びの言葉の手前で止めた。マントの下で口を空けた【無尽の瓶】を握り、足音の主たちを待つ。
自治区民たちが広場の隅で毛布を被り、息を詰めて固まった。
月光のように淡い光が【魔除け】の敷石を照らし、木々の間に影を落とす。形を成した雑妖たちが、次々と木立の奥へ逃げてゆく。
呪医と同じ色の髪が見えた瞬間、結びの言葉が決まった。
「漂う水よ、厚く強固な壁となれ」
力ある言葉の囁きに応じ、小さな瓶から大量の水が流れ出る。石畳の上に積み上がり、東側の道を塞ぎ、西への道を残して広場を囲む。
上は敢えて空けた。
実力のわからない魔法使い相手に【飛翔】や【跳躍】を使ってまで水壁のこちら側へ侵入する者とは、会話が成立する気がしない。
……その時は。
気は進まないが、戦う他あるまい。
セプテントリオーの魔力ならば、初歩的な【操水】でも、並の魔力の持ち主には恐るべき脅威になる。強固な【鎧】で守られない限り、生きた人体からでも水分を抜くのは、理論上、難しくない筈だ。
護る力を戦う力に変える。
必要なのは、発想の転換と力を揮う思い切りだけだ。
……できるのか? 私に。
クブルム街道を東から上がってきた者たちは、水壁の十メートル程手前で進軍を停めた。十一人。いずれも湖の民で、服装は不揃いだが、全員が白っぽい腕章を巻いている。
焚火を背に立つセプテントリオーには【灯】の光が届かず、向こうからはこちらの顔貌がわからないだろう。
こちらからも、向こうの徽章までは見えない。目につく大きさの武器は持っていないようだが、刃物や拳銃などを携帯していても、この距離ではわからない。
前から二番目の男が【灯】の輪から抜け、単独で前に出る。水壁の一歩手前まで来た。腕章は影になってよく見えない。
広場の者たちの怯えが空気を震わせる。
「こんばんは。ちょっと通らせてもらえませんか?」
呪医セプテントリオーの影の先に立つ男は、柔和な笑みを浮かべ、登山者のような口調で言った。
外見は五十代後半くらいだが、長命人種ならその限りではない。徽章は【飛翔する鷹】学派。自らも戦い得る武器職人の証だ。
「湖の民が何故、こんな所に? 夜の山をどこへ行く?」
呪医セプテントリオーは水壁を動かさず、男を観察しながら聞いた。
武器職人が、笑みを貼り付けた顔で聞き返す。
「あなたこそ、何故こんな山の中で野宿して、通せんぼするんです? まさか、通行料を取ったりしないでしょうね?」
後ろで待つ男たちは動かない。
不審者同士で睨みあう。
呪医セプテントリオーは、慎重に言葉を選んで事実を並べた。
「グリャージ港が復旧したと聞いた。空襲で街が様変わりしたせいで【跳躍】できん」
武器職人は、マントの不審者の背後に女子供を見留め、同情を口にした。
「西から遙々ここまで逃げて来られたのですか。大変だったでしょうに」
騙されてくれたのか、嘘だと見抜いた上で話を合わせているのか。愛想笑いに変化はなく、無表情に等しかった。
だが、少なくとも、リストヴァー自治区のキルクルス教徒が、魔法使いと行動を共にしているとは思うまい。
呪医が改めて聞く。
「何故、湖の民が自治区の方から来た? 夜の山を野宿の準備もなしにどこへ行く? 【無尽袋】を持っているのか?」
「そう言われてみれば、確かに怪しいですね。失礼しました。警戒されるのも仕方ありません。我々はネミュス解放軍です」
武器職人は堂々と名乗り、腕章を向けた。
ひとつの花の御紋の下に水が一滴。以前、運び屋フィアールカにタブレット端末で見せられたネミュス解放軍の旗印だ。
……今のところ、私と戦ってまで押し通る気はないのだな。
だが、ここを通せば、先に逃れた自治区民と鉢合わせしてしまう。
呪医セプテントリオーはフードを取り、マントの前を開けた。
交渉役の武器職人が目を瞠る。
「これはこれは……お医者様でしたか。何故、【青き片翼】の呪医が、わざわざ陸の民の保護を? 政府軍が信用ならないと言うお気持ちは、痛いほどわかりますが、しかし」
仲間に聞かせる為のわざとらしい言葉だ。
「しかし、適材適所と言う言葉もあります。実は今、我々はリストヴァー自治区の星の標と戦っているんですよ。どこから手に入れたのか、大量の武器弾薬で応戦し、思わぬ負傷者が出ました」
「私に自治区まで降りて治療せよと言うのか?」
「そちらのみなさんの保護は、我々にお任せ下さい。無事に安全な場所までお届けしますよ。ここの星の標を潰せば、ネモラリス全土で発生している爆弾テロがなくなります。我々にご協力いただけませんか?」
笑いの仮面を外さず、同族の呪医に媚びた視線を送る。
「星の標と戦っている? それが何故こんな場所に居る? 奴らはキルクルス教徒。テロリストとは言え、力なき民が夜の山に居る筈がなかろう」
呪医セプテントリオーは高圧的な態度を崩さず、問いで突き放す。
後ろの者たちが振り返ったが、最後尾で見守る者は手振りで抑えた。
……この部隊の隊長はあちらか。
愛想笑いを浮かべた【飛翔する鷹】学派の戦う武器職人は、動揺を面に出さず、落ち着いた声で切り返した。交渉役としてそれなりに場数を踏んできたらしい。
「テロリストではない自治区民から、情報提供がありました。星の標の一部が山の武器庫へ向かったとのことで、我々が追跡に派遣されたのです」
「武器庫? 朽ちた小屋で一泊したが、錆びた鋸が武器になるのか?」
交渉役の愛想笑いが僅かに引き攣る。
「誰も来ませんでしたか?」
「贋情報に踊らされおって! 戦力を分散させる古典的な手口だ。力なき民が魔物の多いこの山を登れると思うのか。ウヌク・エルハイア将軍はこんな稚拙な罠に引っ掛からん。この作戦の指揮官は誰だ?」
教会や学校がどうなったのか、山へ行くように言ったのが何者なのか気になったが、流石にそれは聞けなかった。今は、彼らを山から降ろすことに専念する。
交渉役が、片手を小さく動かす。
隊長らしき者が水壁の手前まで上がってきた。
「医者がそれを知ってどうする?」
「自治区民相手に勝利を手にすることなど、容易かろう。だが、その小さな勝利は、却ってネミュス解放軍を不利に陥らせ、ネモラリス共和国を国際社会から孤立させる。指揮官に兵を退けと」
「知った風な口を! 何様のつもりだ!」
隊長の胸で、魔法戦士の証【急降下する鷲】学派の徽章が揺れる。
呪医はそっと息を吐き、改めて覚悟を固めた。
「私の呼称は、セプテントリオー・ラキュス・ネーニア。共和制への移行の際、野に下ったが、旧王国時代には軍医として、ウヌク・エルハイア将軍の許で共に民を守った。将軍が何故、自治区へ撃って出ないか、わからんのか」
湖の女神パニセア・ユニ・フローラの遠戚を名乗る声が、夜の山に吸い込まれて消えた。
二人の顔が強張る。
一呼吸置いて、隊長は皮肉な笑みに口を歪め、交渉役は卑屈な愛想笑いを浮かべて半歩退がった。
☆人体からでも水分を抜くのは難しくない……死体の水抜き「013.星の道義勇軍」参照
☆グリャージ港が復旧した……「527.あの街の現在」「789.臨時FM放送」参照
☆朽ちた小屋……「134.山道に降る雨」、(セプテントリオーは昨秋)一泊した「538.クブルム街道」参照
☆セプテントリオー・ラキュス・ネーニア/湖の女神パニセア・ユニ・フローラの遠戚……「684.ラキュスの核」「685.分家の端くれ」参照




