898.山路の逃避行
礼拝堂の外で、見覚えのある顔が待っていた。
「センセイ!」
「まさか、センセイが助けに来てくれるなんて……」
あの日、クブルム街道で最初に出会った薪拾いたちと、工場内の交通事故で骨折した少年だ。恐怖とは別の涙を浮かべ、マントの不審者を囲む。
呪医セプテントリオーは、フードを取らずに言った。
「旧交をあたためる時間はありません。早く山へ」
男性たちが、教会へ走って来る群衆に両手を振って叫ぶ。
「ここはもういっぱいだ!」
「山へ逃げろ! 山ーッ!」
工場群がある東岸から黒煙が上がり、風に乗って焦げ臭さと、何とも言い難い薬品臭が流れてくる。鼻と口を袖やタオルで覆った人々が真新しい道を駆けてくる。列の終わりは見えない。
ソルニャーク隊長は、既にかなり先まで進んでいた。
「センセイも、早く!」
元患者の少年にマントを引かれ、呪医セプテントリオーも人の流れに乗った。
車は大半が団地地区へ流れ、それにつられたのか、徒歩で緑地を登る者も少なくない。
「山ー! クブルム街道だー!」
「山へ逃げろーッ!」
声が届き、草地を滑り下りる者も居るが、坂を駆け上がる者は何倍も多い。
……彼らも星の標なのか?
戦えそうな男性だけでなく、坂を駆け上がる中には女性の姿もあった。力なき民の女性に戦えるとは思えないが、声が届かない以上どうしようもない。団地地区へ向かう人々を止めようにも、間には車道と分厚い人の流れがあった。
団地地区を降りる車線は車が殆ど走っていない。僅かな車が、はみ出した人の流れをクラクションで押し戻し、カーブを曲がって南のクブルム山脈方面へ向かう。
菓子屋の店名入りワゴンが坂を下ってきた。
エプロンの上からコートを羽織った女性が、助手席の窓から身を乗り出して、金切声で山へ行くよう呼び掛けるが、人々はまるで聞こえないかのように続々と団地地区へ向かう。
「畑まで行きゃ、区長さんたちが守ってくれる!」
「あの塀の中じゃ魔法使えねぇって聞いたんだ!」
「化け物が居る山なんか行けるワケねぇだろッ!」
何人かが怒鳴り返す声を聞きつけ、人の流れが変わる。
菓子屋の女性は、負けじと金切声で怒鳴り返す。
「道は去年、みんなでキレイにしたじゃない! そっち行ったら戦いに巻き込まれるわよ!」
「巻き込まれるんじゃねぇ! 信仰の為に戦うんだ!」
「山にゃ食いモンねぇだろ!」
「化けモンに食われなくても、飢え死にすらぁ!」
ワゴン車が坂を下り切り、女性は説得を諦めて、クブルム山脈へ逃げるよう呼掛けながら走り去った。
呪医は人の流れに押され、フードが外れないように片手で押さえながら俯いて進む。元患者がマントの端を握って誘導してくれるのが有難かった。
足下が、緩やかな上り坂に変わる。
人々の口数が減り、速度が上がる。
視界に入る靴はどれも粗末だが、出会った頃のモーフら星の道義勇兵たち程、ボロボロの靴は一組もなかった。
緑色の眉が見えないようにフードを押さえながら振り返る。
教会はもう見えず、湖の風に煽られた黒煙が自治区に倒れていた。
薄曇りの空の下、人の群が絨緞のように広がり、プレハブの仮設住宅や真新しい木造モルタルのアパートの間を縫って、西と南へ流れる。
セプテントリオーは、再び前を向いて人の流れに乗った。
どのくらい進んだのか、不意に拓けた場所に出た。
ちょっとした広場の端に数台の車が停まり、石畳の道がその先にも続く。道の両側に人工物はなく、木々が疎らに生えていた。
人々はどんどん坂道を登って行く。
……ここは、あの時の広場か。
クブルム街道で数えきれない負傷者を癒した後、新聞屋のワゴンに乗せられた場所だ。この林の奥まで行けば、クブルム街道の【魔除け】の敷石で守られた区画に出る。
「私はここで待機して、みなさんの背後を守ります」
「センセイ、一人で大丈夫ですか?」
元患者の少年が呪医を案じる。
力なき民の彼が残ってくれても、却って足手纏いになる。だが、その気持ちはこの上もなく嬉しかった。
「何とかしてみせます。私はずっと昔、軍に居ましたから」
「ホントに、ホントに大丈夫なんですね? センセイ、大丈夫ですよね?」
「大丈夫です。後ろは気にせず、ソルニャーク隊長に続いて前に進んで下さい。彼は魔獣に対抗できる武器をお持ちです」
元患者は、湖の民の緑色の瞳を見詰め、袖で涙を拭った。
「センセイ、俺らなんかの為に死なないで、ヤバくなったら、魔法で逃げて下さい」
マントの端を離して一礼すると、人の流れに紛れる。幾つもの呼称を叫びながら進むのは、兄たちとはぐれたからだろう。
呪医セプテントリオーは、荷台のワゴン車の間に入り、人の流れを避けた。
白衣のポケットから、ラゾールニクに託されたタブレット端末を取り出す。真っ黒な板を教えられた手順で撫でると、画面が明るくなった。
右下のアンテナ記号は「一本」だ。
……二本以上立ってから「送信ボタン」とやらを押すのだったな。
もっと南、ラクリマリス領側に近付かなければならないらしい。
区長たちがいつもどの辺りで通信しているか、聞き出してもらえばよかった、と後悔が頭をかすめたが、すぐに意識を今に向けた。
運転席を覗く。
ダッシュボードのデジタル時計は、昼時をとっくに過ぎていたが、どこからも食事を用意する匂いは流れて来ない。風向きによって、時折、微かに焦げ臭さを感じるだけだ。
クブルム街道へ向かう人の流れは途切れない。
大半が着の身着のままで何ひとつ持たず、足早に通り過ぎてゆく。
水はあるが、食糧は全くと言っていい程ない。草は生えているが、食べられる種類となれば、限られていた。
春とは言え、山の夜は冷える。
これだけの人数をどこへ連れて行けばいいのか。
この先どれだけの日数、逃げ続ければいいのか。
……落ち着け。水は充分ある。僅かでも食べられる山野草がある。もう真冬ではない。少なくとも、交戦中の場所を離れ、戦闘に巻き込まれる惧れはない。ひとまずの安全は得られた。ネミュス解放軍がこちらへ来なければ、明日の朝までは生き延びられる可能性が高い。
ひとつひとつ、安心材料を探しては自らに言い聞かせる。
解放軍と星の標がどう動き、戦況と戦線がどう変化するかわからないのだ。何の情報もない今、明日以降の不安をあれこれ思い悩んでも仕方がない。
そもそも、今回、ウヌク・エルハイア将軍に無断で動いたネミュス解放軍の規模や戦力、指揮官も何もわからないのだ。
……今の私にできることは、解放軍が来たら【操水】で壁を建てて進軍を止めるくらいか。
車の間を抜け、雑木林を通ってクブルム街道へ近付く。
端末のアンテナは不安定だ。一本目はしっかりしているが、二本目は明滅を繰り返し、三本目は全く点かなかった。
あまり先に進んでは、最後尾の住民を守れない。付かず離れずの距離を保って雑木林の緩やかな斜面を登る。
充電に限りがあることを思い出し、電源を切って白衣のポケットに仕舞った。
若葉が萌える梢の間からは、思い出したように薄日が射すだけで、空全体を雲が覆う。上空の風はかなり強いらしく、雲の塊はどんどん流れた。
太陽光発電の充電器も渡されたが、これでは充分な光を得られまい。
……雨が降らないだけでも、よしとせねば。
各種防護の術が掛かった白衣の上からマントを羽織ったセプテントリオーはともかく、自治区民たちは力なき民で、誰もが何の術も掛かっていない粗末な服を着ている。
麓から見える位置で焚火をすれば、山に逃れたことがネミュス解放軍に知られてしまう。
相変わらず、山道を急ぐ人の群に子供の姿はない。学校長らの判断で、鉄筋コンクリート造の校舎に留まることに決めたのだろう。
赤子の声が聞こえるのは、親が抱えて逃げるからだ。
逃げることもできず、或いは教会に入り切れず、自宅で息を潜めるしかない人々が一体どれだけ居るのか。
団地地区と農村地帯の住民や、区長ら星の標に助けを求め、そちらへ逃れた人々はどうなるのか。
セプテントリオーが習得した術では、山へ逃れた人々を魔物や魔獣から守り切れるかさえ、怪しいものだ。
……戦う力もないのに自治区民全てを守ろうなど、烏滸がましいにも程がある。
自嘲して前を向く。
安全な【魔除け】の敷石の道幅は、二人分くらいしかない。後方から焦りと怒号がせっつくが、列は思うように進まない。それでも、道の外を行かないのは、雑妖が汚い霧のように漂うのが視えるからだ。
白衣の【魔除け】に守られ、雑木林の中で呪医セプテントリオーの周囲だけが明るく視えた。
人々は、唯一人クブルム街道を離れて歩くマントの不審者を横目でチラチラ窺うが、誰一人として声を掛けない。
お茶の時間を過ぎ、日が傾き始める頃、最後尾の一人が呪医セプテントリオーの前を通過した。
☆あの日、クブルム街道で最初に出会った薪拾いたち……「550.山道の出会い」「551.癒しを望む者」参照
☆あの時の広場/新聞屋のワゴンに乗せられた場所……「556.治療を終えて」参照
☆彼は魔獣に対抗できる武器をお持ちです……「897.ふたつの道へ」参照
☆水はある……「897.ふたつの道へ」参照




