896.聖者のご加護
「逃げてー! 山へ、山へ逃げてー! 軍隊がーッ!」
おばさんのただならぬ叫びで、仮設住宅の戸が次々と開く。出てきた人々がおばさんを囲んで説明を求める。
クフシーンカ店長が教会の扉を開く。
「私たちは司祭様に説明を」
礼拝堂は、隅で老いた尼僧が数人の相手をするだけで、閑散としていた。
諜報員ラゾールニクが、物珍しげにキルクルス教会の礼拝堂内部を見回す。流石の彼も、教会に足を踏み入れるのは初めてらしい。
クフシーンカ店長が大声で呼ばわる。
「司祭様はどちらにいらっしゃるの?」
「あ、店長さん、執務室にいらっしゃいますけど、いかがなさいました?」
聞くなり、六人は挨拶もなしにズカズカ奥へ向かう。尼僧はただならぬ様子に咎めだてせず聞いた。ウィオラが尼僧に縋りついて泣きだす。
「たっ大変なんです! 解放軍が! 魔法使いが!」
夫のプラエソーが、取り乱した若妻の肩を抱いて詳細を伝える。
「湖の民の軍隊が検問所ふっ飛ばして自治区に入って来たんです! マレーニ染業の星の標が応戦してて」
「しかし、時間稼ぎにもなりません。避難の呼掛けを行って下さい」
「ソルニャークさん、ご無事だったんですね」
「はい。それで、自力で逃げられる者は、クブルム街道、そうでない者は、ここで守っていただきたいのですが」
老いた尼僧は、星の道義勇軍の小隊長ソルニャークの落ち着き払った要請に頷いて、居合わせた信者に指示を出した。
「みなさん、『身ひとつでクブルム街道へ逃げて下さい』と、ご近所の方々に伝えながらお逃げ下さい。時間がありません」
「御寮人様も、どうか、ご無事で!」
信者たちが口々に別れを告げて飛び出した。
尼僧は、泣き崩れたウィオラを落ち着かせようとあれこれ声を掛ける。
「あ、そうだ。店長さーん、司祭様にプロ用の全部載ってる聖典借りて来てー!」
「わかったわー!」
ラゾールニクが廊下の奥へ声を掛け、呪医セプテントリオーの手を引く。
「呪医はこっちで俺に力貸して」
「何をすれば?」
「これ握って、後で魔力貸してくれるだけでいいよ」
諜報員ラゾールニクが、ポケットから出した【魔力の水晶】を寄越す。
引っ張って行かれたのは、説教壇の脇だ。
「見て」
振り向いて指差す。扉のすぐ上の壁に文字のような模様が彫られていた。
……いや、あれは、力ある言葉! “この屋組む”……何の呪文だ?
どうやら、【巣懸ける懸巣】学派の術らしいが、その方面の知識がない為、呪医セプテントリオーには、今、わざわざそれを見ることに何の意味があるのかわからない。
開け放たれた扉から、次々と乳幼児を抱えた女性や身重の女性、杖に縋る老人や足を引きずる男性などが入って来る。
「呪医はそこで待ってて」
「えっ? あ、あの……」
ラゾールニクは、ウェストポーチから呪符の束を引っ張り出して、窓辺に駆け寄る。
下手に動いて湖の民だと知られるのは危険だ。呪医セプテントリオーは、説教壇の傍らにしゃがんで待つことにした。
ソルニャーク隊長が、その横にラゾールニクのリュックサックを置く。
諜報員は、窓辺の床に呪符を置いて何かしていた。人が増えたせいで見えなくなり、声も届かない。
そうする間にも、礼拝堂にどんどん人が押し寄せる。何がどう伝わったのか、自力で山へ行けそうな男性たちもかなり混じっていた。
銃声はまだ聞こえない。
……ネミュス解放軍が、星の標を全滅させて来るなら、銃声などある筈がない。
「司祭様!」
ソルニャーク隊長の声に振り向くと、クフシーンカ店長のものより数倍厚みのある聖典が目に入った。
重い音を立てて説教台に置き、司祭が一息つく。
「司祭様、大工さん用の教会建てるマニュアルのページ開いて」
いつの間にかラゾールニクが戻っていた。
司祭は理由も聞かず、並の辞書よりずっと分厚い聖典を捲る。
「ここです」
「呪医、力を貸して下さい。教会の【頑強】を発動させます!」
やっと合点がゆき、呪医セプテントリオーは掌に【魔力の水晶】を乗せて立ち上がった。ラゾールニクが掌を重ね、【水晶】ごと呪医の手を握る。
「司祭様、そのリュック全部、傷薬。使い方わかる?」
「……傷を洗ってから塗るのでしたね?」
「正解。じゃ、誤魔化しよろしく」
「それでは、ひとまず奥へ」
尼僧がリュックを抱えて廊下へ退がる。
諜報員ラゾールニクが聖典を指でなぞり、ゆっくりと力ある言葉を唱えた。
「この屋組む 力を芯に 三角を 結び構えよ……」
恐怖に駆られて逃げ込んだ人々が、耳慣れぬ言語にギョッとして説教壇を仰ぐ。
驚愕と困惑、不審が恐怖と混じり合い、漣となって声の届かない後方へ広がる。
「隠れたる 瑕と疵とを 綴りて 補い閉じよ……」
呪医の手から【魔力の水晶】を介し、術者の手に魔力が渡る。
一言、魔力の制御符号が紡がれる度に力の流れが増した。足下から説教壇へ、壇から周囲の床へ、床から柱を伝って壁へ、壁に刻まれた呪文と呪印を辿り、礼拝堂から教会全体へと行き渡る。
「混凝土 締めよ固めよ 罅らずに 堅く固まれ……」
若者たちが、壇上の不審者を指差す。
「何だオマエら!」
「そこへ上がっていいのは、司祭様と御寮人様だけなんだぞ!」
司祭が声を張り上げた。
「お静かに! このお二方は不勉強な私に代わって、星道記の一節、建築職人の章を読んで下さっています」
よく通る声が、高い天井にぶつかって降り注ぎ、群衆のざわめきが静まった。固唾を飲んで壇上の不審者を見詰める。その目に宿るのは疑問と困惑だ。
「古い言葉で記された祈りの詞で、聖者様の“正しき業”のお力を高めて下さっているのです」
司祭の澱みなく自信に満ちた説明で、人々の目が希望を宿す。
「全き屋 いかなるものも 損なわず 常保ちあれ!」
力ある民ならば、作用力がなくとも感じる筈だ。
教会に刻まれた呪印が帯びた魔力の高まりを。
行き渡った力が最後に天井で閉じ、【巣懸ける懸巣】学派の【頑強】の術が完成した。二人分の魔力と、あの大火の焼け跡から回収された【魔道士の涙】の魔力で守られ、並大抵の攻撃では破壊できなくなっただろう。
「窓には【真水の壁】を建てたから、【光の槍】一発くらいは防げるんじゃないかな」
「ありがとうございます、何とお礼を申し上げてよろしいやら……」
司祭が恐縮し、魔法使いの青年に深々と頭を下げる。
「俺だってまだ死にたくないし、ステンドグラスは届かなかったから、【飛翔】しながら【光の槍】とか撃ち込まれたらイチコロだし、いつ扉を閉めんのかっていうのは、司祭様の判断次第だ」
五人は説教壇から礼拝堂の大扉を見た。
信徒が助けを求めて殺到し、荷物から手を離しても落ちない程に混み合うが、恐怖に駆られた人々が後から後から押し寄せる。
赤子や幼子の泣く声、聖者の名を連呼する悲鳴のような声、共通語混じりの湖南語で祈りの詞を唱える叫び、足を踏んだ踏まないの怒声が混じり合い、固定された長椅子に押しつけられた苦痛の声があちこちから上がった。
「この礼拝堂ってコンセントある?」
「えっ? いえ、夜は閉めますので……奥から延長コードを繋いでくれば、何とかなるかもしれません」
何をする気か問う目が、ラゾールニクに集まる。
「いえ、それより、みなさんは早くお逃げ下さい。ここは私たちが」
「おいおい、お婆ちゃん。無茶言っちゃいけないよ。戦略上、ここをネミュス解放軍に陥とされンのは、すっげーマズいから。何言われたって俺は残るよ」
おどけた調子で口許に笑みを浮かべたが、諜報員ラゾールニクの目は笑っていなかった。
☆あの大火の焼け跡から回収された【魔道士の涙】……「560.分断の皺寄せ」「890.かつての共存」参照
※ 御寮人=尼僧の敬称。「ごりょうにん」と読むと人妻の敬称。「ごりょんさん(人妻の敬称)」が関西弁だったと今頃知りました。




