895.逃げ惑う群衆
正午のサイレンではない。
運転席の時計は、まだ十時を過ぎたばかりだ。
幾つの工場が鳴らすのか、低く高く、混じり合い、重なり合って、サイレンがリストヴァー自治区に響き渡る。
道行く人々が、東岸の工場群へ不安な眼差しを注ぐ。
新聞屋のワゴンが大して行かない内に、大量の社用車が対向車線を流れ始めた。
どの車も定員以上に工員を乗せ、幌も何もないトラックの荷台にまで人を満載し、一様に恐怖を貼りつかせた顔が無数に運ばれてゆく。
「遅かったようだな」
ソルニャーク隊長の視線の先に人の群がある。
歩道から溢れ、空き地や仮設住宅の敷地を突っ切って押し寄せる。ワゴンの前を走る軽トラが停まり、新聞屋が急ブレーキを掛けた。
クフシーンカ店長が助手席の窓を開けて叫ぶ。
「クブルム街道へ! 山へ逃げて!」
恐怖に凍った人々の口からは悲鳴さえ出ず、誰かが「邪魔だ」「退け」などと叫ぶ声がヤケに耳につく。
クフシーンカ店長は群衆に向かって何度も叫ぶ。
その声は耳と心に届いたのか、届かないのか、人の動きは変わらなかった。
逃げ惑う人の群に子供の姿はない。
「学校、どうしやす?」
「もう対策を協議するなんて、のんきなこと言ってる場合じゃないよね」
新聞屋の引き攣った顔が振り向き、諜報員ラゾールニクが現況を確認するように応えた。
「店長さん、店長さーん!」
女性の高い声が近付いて来る。
クフシーンカ店長が助手席の窓から身を乗り出して叫ぶ。
「ウィオラー!」
ウィオラと呼ばれた若い女性が、押し寄せる人波を半ば溺れながら掻き分け、連れの男性に手を引かれてワゴンに近付く。
新聞屋がエンジンを掛け直し、クラクションを鳴らした。
「おい、兄ちゃん、乗せてやってくれ! そのコ、おめでたなんだ」
ラゾールニクが後部扉を開け、まだ腹が目立たない妊婦を引っ張り上げる。
呪医セプテントリオーは、ソルニャーク隊長の足下にしゃがんで座席を空けた。
「プラエソーも、とっとと乗って閉めろ!」
新聞屋の怒鳴り声に続いて、乱暴に扉が閉まる音がした。
クフシーンカ店長が叫ぶ。
「教会へ!」
新聞屋がクラクションを鳴らしながらワゴンを旋回させる。
「大きい道、塞がってるんで、横道から行きやす!」
「急いで!」
のろのろ動いていた車がタイヤを軋ませ、急に速度を上げた。群衆の怒声にクラクションで応じ、強引に走りだす。
知らない男の声が、堰を切ったように状況を語る。
「み、湖の民の軍隊が! 軍隊が、悪しき業で検問所ふっ飛ばして! 悪しき業で、あっという間に門が壊れて! それで、俺、社宅に戻ってウィオラ連れて、とにかく湖の民から逃げねぇと! 新聞屋さん、これ、もっとスピード出ねぇのか? 工場がどうなったかなんて知らねぇ。何せ、湖の民の奴らが攻めて来たんだ!」
ソルニャーク隊長が、ずれたフードをそっと直してくれた。
「ネミュス解放軍の規模や指揮官などは?」
「わかんねぇ! 何もわかんねぇけど、とにかく、湖の民の奴らが攻めて来たんだ! 早く! 早くどっか逃げねぇと!」
「て、店長さん……これから、どうすれば……」
細い声が震える。
新聞屋にプラエソーと呼ばれた青年の声が、懸念を語る。
「ウィオラは、悪阻が酷くて寝込んでたのに、山なんて逃げらんねぇよ。悪しき業で殺されるより、化け物に食われた方がマシってんなら別だけどさ、俺は、俺はウィオラも、俺の子も、化け物の餌になんかしたくないんだ! 助けて……助けてくれよ!」
取り乱した男性は、むやみに口数が多かった。
「噂程度で、まだウラが取れてないんだけど、今回来たネミュス解放軍は……」
ラゾールニクが落ち着いた声で話し始めると、プラエソーは息を呑んで黙った。
「ここに星の標の支部があるって情報を掴んで、ウヌク・エルハイア将軍の命令を待ち切れなくて、勝手に動いた連中らしいよ。ネモラリス島でちょくちょく起きてる爆弾テロを止めたいらしい」
「あんた、何でそんなハナシ……」
プラエソーの声に不信感が滲む。
諜報員ラゾールニクは落ち着いた声で応えた。
「俺、情報屋だから。それで、さっき区長ンとこ行ってたんだけど、星の標のみんなはヤル気満々で、畑ン中で銃持って待ち構えてるから、あっちに逃げるのだけは絶対にダメだ」
プラエソーの声が沈む。
「そっちもか……ウチの隣の工場、星の標の武器庫があるんだ。隣は工員みんな星の標だから、今頃きっと……」
「おめえさんとこは?」
「ウチは、俺が知ってる奴ン中にゃ居ないよ」
「では、最初の戦場は工場と商店街だな」
ソルニャーク隊長の声が、新聞屋とどこかの工員らしきプラエソーの遣り取りに加わる。
「工員の部隊がどの程度の時間を稼げるか不明だが、今の内にできるだけクブルム街道などへ……」
「だからッ! 山はダメだっての!」
「私たちの事業で清めたから、少なくとも日がある内は大丈夫よ」
クフシーンカ店長が、苛立つ工員を宥めに掛かるが、打てば響く勢いで焦りと疑問が返った。
「夜は? 星の標がどんだけ武器持ってっか知らねぇけど、魔法使いの軍隊相手に敵うワケねぇだろ! 大体、あいつらに俺らと星の標の見分けなんざ、つくワケねぇ! 誰彼構わず皆殺しにして回るに決まってんだ! もう……もう、おしまいだ。何もかも……」
「プラエソー……」
ウィオラの労わりを含んだ声が、涙声で捲し立てる夫を窘める。
工員プラエソーが懇願した。
「店長さん、俺、ウィオラたちだけでも助けてやりてぇんだ! 俺はどうなってもいい! なぁ、何かいい知恵出してくれよ! あんた、偉い星道の職人さんなんだろ?」
「取敢えず、今はみんなで教会へ行きましょう」
クフシーンカ店長は、静かな祈りのように行き先を告げた。
ワゴンが停まった。
「お願いします。お二方のお力で、私たちをお救い下さい」
先に降りたクフシーンカ店長が、後部座席の扉を開けて頭を下げる。諜報員ラゾールニクは、鳩が豆鉄砲を喰らったような顔で自分を指差した。
「えっ? 俺?」
「私もですか?」
呪医セプテントリオーはフードを下に引き、顔を半分以上隠して身を起こした。
「お願いします」
クフシーンカ店長とソルニャーク隊長の声が重なり、セプテントリオーは、自分の魔力で一度に何人【跳躍】で運べるか、考えかけてやめた。
……彼らは敬虔なキルクルス教徒だ。自治区外のどこへ連れて行けばいいのだ?
「すんません、すんません! 俺、女房を!」
全員降りた途端、新聞屋がアクセルを踏み込み、団地地区の方へ走り去った。
東地区の教会にはまだ、ネミュス解放軍進攻の報が届いていないらしく、辺りは静かだ。
粗末な箒で歩道を掃くおばさんが、怪訝な顔で一行を見回し、一番話しやすそうなウィオラに声を掛けた。
「ウィオラちゃん、悪阻どう? 少しはマシになった?」
「い、いえ、今、それどころじゃなくって」
「軍隊が、湖の民の奴らが攻めて来たんだッ!」
「えぇッ?」
おばさんは、工員夫婦からクフシーンカ店長に視線を移した。
仕立屋の店長が頷く。
「自力で山を歩ける人は、クブルム街道へ逃げて」
おばさんは箒を放り出し、仮設住宅が並ぶ区画へ走って行った。
※ウィオラと工員プラエソー……結婚式「786.束の間の幸せ」参照
この工員、かなり前から登場している割に、名前は今回が初出。
この夫婦の馴れ初めから結婚までは「294.弱者救済事業」「372.前を向く人々」「373.行方不明の娘」「405.錆びた鎌の傷」「406.工場の向こう」「418.退院した少女」「420.道を清めよう」参照




